第8話 トラウマ

「おはよう御座います」

2日空けて水神商事東京支社の秘書室に出勤すると珍しい事に早乙女支社長が坂上さんと井上さんの3人で談笑していた。

そして3人の視線が俺の顔に集中している。

「おはよう、未来君」

「何か新鮮ですね。支社長が秘書室で皆と話をしているのって」

「あらそうかしら」

すると坂上さんと井上さんが顔を見合せて坂上さんがチラッと支社長の顔を見た。

「未来さんが居なかった2日間、どれだけ早乙女支社長が寂しい思いをしていたか」

「待ち遠しかったんですよね。支社長」

「坂上さんも井上さんも冗談を言うのも程ほどにしなさい。独身の未来君に失礼でしょ。それよりも顔の怪我はどうしたのかしら?」

坂上さんと井上さんにからかわれた支社長が少し赤くなったかと思ったら矛先を俺に向けて、口元の傷の事を聞いてきた。

こんな時は本当の事を織り交ぜて誤魔化すのが得策だろう。

「若い奴に絡まれて殴られたんです。お蔭で口の中が切れて腫れるし青たんになって昨日は社長命令で外出禁止にされて仕事にも行けなかったんです」

「災難だったわね」

これで切り抜けたと思った瞬間に今度は坂上さんが突っ込んできた。

「温厚そうな未来さんなのに絡まれたりするのね」

「そうですか。昔からよく喧嘩は売られますね。買いはしませんけど。眼鏡を掛けて無かったからかもしれませんね」

「コンタクトでもしていたの?」

「いえ、視力は両方とも1.5ですよ」

再び3人の視線が俺に集まり、今度は3人とも怪訝そうな顔で俺の事を見ている。

仕方なく眼鏡を外して今日のスケジュールを読み上げてみた。

「伊達眼鏡なの、未来君?」

「そうですね。無愛想なので姉に未来の専門はサービス関係なのだから眼鏡でも掛けていろと言われて掛けているんです。それに眼鏡を掛けているとあまり絡まれないし視線も読まれませんからね」

「呆れた人ね」

「多分、オフの時に僕に会ったら幻滅しますよ」

普段着はラフな格好が多く年相応かと言われれば微妙かも知れない。

それでもバイクで動く事が多いので自然と動きやすい格好になってしまうのも事実だ。


最近は外回りの無い時間に坂上さんと井上さんから秘書の仕事をおしえてもらっている。

そしてスケジュールを見ながら電話の受け答えも何とか出来る様になってきていた。

「支社長、そろそろお昼にしませんか?」

「そうね、今日は社食にしましょう」

水神商事は大きな企業だけあって東京支社の社食も安くそして栄養価もきちんと考えられている料理が多い。

その中でも日替わりランチが俺は好きだった。

「未来君は日替わりランチが好きなのね」

「そうですね、煮物とか焼き魚が好きですね」

「未来君は一人暮らしよね」

「ええ、でもブラコンの姉2人が入り浸っていますからね」

考えてみればあまり一人で晩飯を食べた事が無い。

姉達が俺の部屋に来て俺の手料理を食べるか姉達に呼び出されて外で食事をご馳走になるかで、食材も姉達が支払っていくれるので俺のエンゲル係数は限りなく低い。

「そう言えば未来さんはサービスが専門よね。どんな資格を持っているの?」

「サービス技能士にソムリエとバーテンダーの認定資格を2種類ですね」

「凄い、そんなに持っているのね」

「サービス技能士は国家資格ですけどソムリエとバーテンダーは協会の認定ですからね」

サービス技能士の試験は1級から3級まであり学科試験と実技試験に別れていて学科試験に合格しないと実技試験が受けられない。

その学科試験は食品衛生に関する問題が6割程度で残りがサービスに関するドリンクや食材それに調理法などの問題になっている。

実技の方はサイドテーブルにサービスに必要なお皿やグラスにナイフフォークなどが用意されていてテーブルセットが用意され、試験官をお客様に見立てて指定の手順に沿ってロールぷれーイング形式で試験が行われる。

結婚記念日の夫婦などと設定が前もって決められていてお客様をテーブルに案内して女性のお客様の椅子を引いてエスコートする。

そしてドリンクと料理のオーダーを聞いて必要なグラスやメイン皿にパン皿そしてナイフフォークをテーブルにセットをしてワインを抜栓してサービスをすると、お客様に扮した試験から質問され受け答えする。

その後でロシアンスタイルのプラッターサービスでセットしたメイン皿に料理を綺麗に盛りパンをサービスする。

そして食事が終わった設定になりお皿やナイフフォークを下げてテーブルの上を綺麗にしてお客様を見送りし忘れ物などがないか確認して試験官に終了を合図すると実技試験が終わる。

ソムリエの試験も一次試験で衛生に関する知識やワインを含むドリンクの問題が出題され合格すると二次試験で利き酒と実技のテストが行われる。

バーテンダーの認定試験も筆記と実技が行われるがサービス技能士の筆記試験と重複する内容が多い。

実技の方はシェーカーかステアで作る予め決められた数種類のカクテルの中からランダムで一つを作る。

「未来さん、一番難しいのはどの試験ですか?」

「ソムリエ。サービス技能士・バーテンダーの順かな」

「国家試験じゃないのにソムリエなんですか?」

「サービス技能士の実技は今ではワインの抜栓も無いと聞きますし。バーテンダーは本当に認定試験だから。僕は一番簡単だと思います。ソムリエの試験も認定だけソムリエは国際的な物で試験自体も厳しいものですからね」

坂上さんや井上さんとそんな事を話しながら食事をしているとあっという間に昼休みが終わっていた。


午後からは早乙女支社長と外回りに出ていた。

「大分、未来君も板について来たわね」

「そうですか? まだ慣れないですけど」

「嘘を言わないの」

大きな企業での営業を終えて玄関ロビーに下りると他社の営業マンらしき男が早乙女支社長に声を掛けてきた。

すると男の顔を見た瞬間に早乙女支社長の顔から余裕が消えた。

「汐、久しぶりじゃないか。元気だったか?」

「ええ、元気よ。あの子達もね」

「そうだ、今度のパーティーに汐も出るんだろ。俺も楽しみにしているからな」

いけ好かないと言えば良いのだろうか。

纏わり付くような視線で早乙女支社長を見てから支社長の少し後ろに立っている俺に鋭く冷徹な視線を向けた。

「新しい男か」

「こんな場所でふざけた事を言わないで秘書に決まっているでしょ」

軽く俺が会釈すると鼻で笑われた。

完全に見下されているが秘書ではないのは確かで別段気にもならない。

水商売を悪く言う訳ではないがホテルなどのサービスの仕事をしていた時に『こんな水商売みたいな事をして』と言われた事もある。

それに沖縄や北海道に地方のホテルで仕事をしていれば地元の人間だと勘違いして田舎者だとあからさまに見下すお客すらいる。

長らくサービスの仕事をしてきたので色々なお客さんと出会い、沢山のスタッフと仕事もしてきてえる事が出来た貴重で大切な経験だ。

そして男は俺の事を一瞥してエレベーターホールに消えて行った。


「早乙女支社長?」

玄関ホールを出て駐車場に向かおうとすると支社長の体が崩れ落ち、思わず抱きかかえて体を支えると支社長の体が小刻みに震えていた。

慌てて支社長を抱きかかえ車の助手席のドアを開けて支社長をシートに座らせドアを閉め、運転席に乗り込んで支社長に声を掛けたけど反応が無かった。

この場ではまずいと判断して急いで車を出した。

坂上さんや井上さんに受けた秘書としてのレクチャーがこんな時に役に立つとは思わなかった。

この後に向かう予定の数社に連絡を入れ少し遅れる事を告げると早乙女支社長の人柄なのだろうかどの会社も快く了承してくれた。

何とか時間を作りだし人目が無く車を停められる場所を探すと大型スーパーが目に飛び込んだ。

迷わず屋上駐車場に向かうと平日という事もあり駐車してある車は殆どなかった。

「早乙女支社長、大丈夫ですか?」

俺の問いかけにも支社長の瞳は泳いだままで頭を抱える様にしてガタガタと震えている。

そんな支社長の姿を見て悪夢がよみがえりそうになった。

「支社長、失礼します」

大きく深呼吸をして拒絶されるのを覚悟で早乙女支社長の体を抱きしめた。

普段は堂々として東京支社を引っ張っている支社長がまるで何かに怯える子どもの様に小さく感じる。

こちらから遅れる事を告げ了承してもらった会社からの信用を失う事になってしまう事だけは絶対に避けなければならない。

だけどいくら考えても答えは出てこないし、いくら力強く抱きしめても支社長の震えは止まる事はなかった。

このままだと俺自身が追い込まれ耐えられなくなってしまう。

そう思った瞬間に体が動いていた。

早乙女支社長の頬に微かに震えている手を当てて支社長の唇に自分の唇を押し当てる。

するとパニックになり小刻みに揺れていた支社長の瞳に力が戻り、驚いたように俺を見つめて体の震えが止まった。

そして俺自身の震えも停まり悪夢から逃れる事が出来た。

静かに支社長の体から離れ頭を下げる。

「すいませんでした」

「未来君が謝る事じゃないでしょ。次の予定はどうなっているのかしら」

頭を上げ少し遅れる事を告げ了承してもらった会社名を告げると支社長が俺の顔を見て噴き出したて笑い始めた。

「未来君、口紅が付いているわよ」

「すいません」

バックミラーを見ながら指で拭き取ろうとすると支社長が腕をつかんだ。

「こっちを見なさい。拭き取ってあげるから」

「自分で」

そこまで言うと早乙女支社長が自分のハンカチで少し強引に俺の唇に着いた口紅をふき取った。

「私がナビをするから車を出しなさい」

「判りました、お願いします」

車を出すと支社長は前を向いたまま的確に向かうべく方向を指示してくれた。

俺が独断で遅れる事を了承してもらった会社には支社長と共に頭を下げ。

そして最後の取引先との話が終わり駐車場に行くと支社長が運転席に乗り込んだ。

「未来君、この後の予定はあるのかしら」

「いえ、特にありません」

「そう、それじゃ少し付き合いなさい」

「判りました」

深海に沈みこんでいき大きな水圧に今にも押し潰されそうな缶になった気分だ。

支社長が携帯で何処かに電話し始めた。

会話の内容から社に戻るのが少し遅くなるので坂上さんに先に帰る様に指示しているようだった。


支社長の運転で有明の埠頭に来ていた。

目の前には夕闇が迫る紫色の海が広がり海の向こうには点々と灯りが見える。

あれは工場か何かの灯りだろうか。

この辺は関係者以外立ち入り禁止だったはずだ。そんな事が頭を過るがそんな事はどうでもいい事で。

支社長はハンドルに体を預け何も言わずに海を見ていた。

車内を何とも言えない空気に包みこまれ時間が永遠の様に感じる。

「あの男が誰だか判っているんでしょ」

早乙女支社長が海を見たままぽつりと呟いて体をシートに預け俺を見た。

「支社長の旦那さんだった人ですね」

「そう、名前は蛇淵 中(じゃぶち あたる)。大学を卒業して入社した商社で出会ってしまったの。若かったのね、凄腕の営業マンだった彼に憧れて必死に彼から何かを学び取ろうと追いかけていたわ。そして彼にプロポーズされた時は本当に信じられなかった。でも人間としては最低最悪の男だった」

その後の早乙女支社長の言葉は聞くに堪えない物でそれを話している本人はもっと辛いはずだろう。

奴隷的な扱いを受け続け病院に搬送されDVが発覚し知人の力添えがあって保護してもらったらしい。

我が身の保身からDVが公にされる事を隠ぺいする為に元旦那は離婚届にサインをし、口止め料として僅かな金を支払ったと話してくれた。

「あいつは貿易会社に移った今でも営業の手腕は健在で事業を拡大しているけれど、裏では何をしているのか判ったものじゃないわ。現に黒い噂が絶えないから」

「何で俺に話したんですか?」

「なんでかしら」

支社長に両親の事やその後の事を話した事を思い出してしまい何だか恥ずかしくなった。

どん底から大手の支社長になるにはどうすればいい?

その力は何処から湧いてくるのか?

子どもの為?それとも見返す為だろうか?

支社長が辛い思いをしていた時に、全てのモノから逃げ回っていた俺には想像すらつかない。

自分自身がどれだけ小さい人間か思い知らされた気がする。

微力ながら、か……

「未来君、話を聞いて私の事が嫌いになったかしら」

「尊敬こそすれ嫌いになるなんて事は無いですよ。そうだ一つ聞いて良いですか、彼が言っていたパーティーって何ですか?」

「スケジュールを調べれば判ってしまう事だけど来週末に三友グループ主催の懇親パーティーがあるの。でもラッキーだったわ、前もってあいつが出席する事が判って」

「大丈夫なんですか?」

「心配してくれてありがとう。これは私自身が乗り越えないといけない問題だから」

三友グループの懇親パーティーは姉達から聞いた覚えがある。

大手のトップが出席するパーティーでノルンに登録しているコンパニオンも大勢派遣される盛大なパーティーだったはずだ。


東京支社に支社長と戻りその後でノルンの事務所に向かう。

事務所に戻ると遅番のスタッフが仕事をしていた。

「ご苦労様」

「お疲れ様です」

スタッフに声を掛けて社長室に入りパソコンを立ち上げ、コーヒーメーカーでコーヒーを落とし始めると香ばしい香りが立ち込める。

カップにコーヒーを淹れてパソコンの脇に置いて管理画面にログインし三友グループの懇親パーティーの派遣コンパニオンの画面に移動する。

「やっぱりコンパニオンの派遣のみか……」

大きなパーティーなのでウエイターの派遣もあるかと思ったけれど当てが外れてしまった。

一旦ログアウトして他社の派遣会社も探してみると一件だけヒットした。

各企業のトップが参加する大きなパーティーだけあって確かな身元や技量を確認する為に三次審査まであり既に応募は終了していた。

応募が終了していなくても姉達を裏切る様な行為は出来るはずが無い。

パソコンをシャットダウンしてため息を付き、コーヒーを飲もうとカップに手を伸ばすと手が空を切った。

「あら、未来は隠れて何をしているのかしら」

「別に。調べ物をしていただけだ」

背後からヒメ姉の声がして後ろを見ると俺のカップを持ってコーヒーを飲んでいた。

水神商事東京支社に派遣されてからは少なくなったが、俺が派遣先からノルンに顔を出す事は珍しい事ではなく。

サービス関係の派遣先を調整するのは本来俺の仕事で他社の状況も知っておく事も欠かせない。

立ち上がりコーヒーを入れに行く。

「三友グループの懇親パーティーには私と美鈴も出るわよ」

「今まで出た事なんてあったのか?」

「無いわよ、でも今回は知り合いにどうしても出てくれって頼まれたの」

何とか平静を装っているが見透かされていそうな気がして心拍数が少し上がった。

それでも現状況では選択肢は一つしか残されていない。


「今回の貸は大きいわよ」

「覚悟してるよ、煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

微力なら微力なりに出来る限りの力を発揮するしかない。

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