第4話 講習会と接待


早乙女支社長が外出する予定の日に派遣され、それ以外の日はノルンで事務処理をしているか他にスポット派遣されていた。

そして週末の金曜日に早乙女支社長に頼まれたコーヒーや紅茶の淹れ方をレクチャーするために午後から水神商事に出向くと会議室に案内される。

そこにはティーセットやコーヒーのドリッパーなどが数組用意されて既に女性社員に混じり男性社員が集まっていた。

坂上さんの司会で日本茶の淹れ方から指導を始める。

講習を受ける社員には前もってこちらが用意したプリントが配られていて実演しながら講習を進めていく。

「日本茶の場合は茶葉によってお湯の温度も抽出時間も変わってきますのでその点に注意して淹れてください。日本茶に関して何か質問はありますか?」

「すいません、一度で人数分淹れきらない時はどうしたら良いですか?」

「継ぎ足す場合にはやや熱めのお湯を使用して少し早めに注いでください。なるべく人数分に振り分けて淹れて頂くのがベストです」

日本茶の後に紅茶の淹れ方をレクチャーする。

初めに紅茶のゴールデンルールを説明していく。

「新鮮な茶葉を使う事。ポットは必ず温める事。茶葉の量は正確に。沸かしたてのお湯を使う事。そしてしっかり蒸らす事が5つのポイントになります。それでは実演に入ります」

一つ一つポイントを押さえながら説明していく。

講習を受けている社員がメモを取りながら説明を真剣に聞いている。

なるべくゆっくり判り易い様に実演しながら説明を進めていく。

「ここまでで判らない事や質問はありますか?」

「アイスティーの淹れ方も教えて頂けますか?」

「そうですね。ホットの時より1.5倍から2倍弱の茶葉を使って濃いめの紅茶を落とします。そして多めの氷で急冷します。冷やし方が悪いと白濁するクリームダウンが起きてしまいますので気を付けてください」

クリームダウンした時の対処法に味や品質に変わりない事を説明してえアイスミルクティーとして飲む事など殆どないと思うが付け加える。

そしてコーヒーを落とす方法を一通り話してからペーパードリップを使ってのコーヒーの淹れ方をレクチャーする。

「フィルターを濡らすか濡らさないかは人それぞれです。それでは落とし始めます」

いつも通りにコーヒーを落とし始めると会場に良い香りが立ち込め始めると、坂上さんや井上さんが息を飲むと言うより唾を飲み込んでいる。

日本茶、紅茶、コーヒーの順に実演したあとは各ブースに別れて社員の人たちが実際にポイントを押さえながら実際に淹れている。

数か所で集まってコーヒーや紅茶を淹れている場所を周りながら指導し質問に答え講習が終わった。


どんな仕事もそうだろうが自分達の仕事は特に人の繋がりから仕事が広がっていく。

今日の講習会もそうでお礼を兼ねて支社長に挨拶をしようと秘書室のドアをノックした。

「あれ、神流さん」

「井上さん、今日はどうも有り難う御座いました。支社長に挨拶をと思いまして」

「それが今はちょっと」

出迎えてくれた井上さんの表情が冴えない、何かトラブルでもあったのだろうか。

すると支社長室から早乙女支社長と坂上さんが丁度出てきた。

「早乙女支社長、今日は有難う御座いました」

「あら、挨拶なんて今度で良いのに。未来君は真面目なのね」

「僕の唯一の取り柄ですから」

「支社長、あの」

坂上さんが支社長に何かを提案しようとすると今まで一度も見た事も無い厳しい視線で坂上さんを見ている。

すると直ぐに坂上さんが視線を落としてしまった。

俺が踏み込んで良い話ではないのが良く判るが坂上さんの行動から俺を必要としている事が感じられる。

それでも俺から口を出せる雰囲気じゃないしこの場はすべきではないだろう。

派遣社員と言う立場がもどかしく感じる。

支社長の厳しい態度に下唇を噛みしめて様子を窺っていた井上さんが大きく深呼吸をして覚悟を決めたかのように支社長を真っ直ぐに見た。

「支社長、神流さんに頼みましょう」

「井上さんは立場を弁えなさい。今日は講師として未来君に来て頂いたの。私の補佐として着てもらった訳ではないし。例え補佐として来てもらっていても頼めるような問題じゃないでしょ」

早乙女支社長に叱責されて井上さんは目に涙を溜めている。

坂上さんですら社長に意見を言おうとして視線だけ瞬殺されてしまった事を井上さんが言うという事は余程の覚悟だったのだろう。

井上さんの姿を見て坂上さんが堪らずに支社長に意見した。

「支社長。私が神流さんに事情を説明して宜しいですね」

「判りました。坂上さんに任せます。好きにしなさい」

流石に支社長も根負けしたようだ。


坂上さんの説明によると良い関係を築きたい大きな商社の傘下になっている会社の代表が急に一席を設けたからどうかと連絡してきたとの事だった。

「何か問題でもあるのですか?」

「とても言いづらい事なのですが。その取引先の代表に問題があって支社長を気に入って」

「酒の力を借りてアタックを仕掛けてくるという事ですか?」

申し訳なさそうに坂上さんが頷いた。

何故、早乙女支社長が俺に話す事を拒んだのか良く判る。

下心がある人間が酒の力を手にするとどんな事になるのか散々見てきた。

そしてそれが得意先だとすれば下手を打てないのだから相手は付け上がる一方で手に負えない。

「先方は誰かが支社長と同伴する事は了承しているのですか?」

「ええ、今までは私か井上が同伴していたのですが今日は急でどうしても都合が付かなくて。場所も相手が良く利用している『たぬき』と言う居酒屋なんです」

「大手の藍花商事の近くにある居酒屋ですね」

「神流さんは流石に詳しいですね」

何となく取引相手の代表が判ると支社長を1人で行かせたがらない坂上さんと井上さんの気持ちが良く判る。

2人も今までは支社長や会社の為を思って我慢してきたことがあるのだろう。

「未来君には友長物産で助けてもらっただけで十分です」

「あれはうちの派遣社員を守る為です。あの時にお茶を運んで来てくれたのはノルンからの派遣社員なんです。その彼女からノルンにセクハラを受けていると連絡があったそうです。多分、彼女を面接した俺の顔を見て思い出したんだと思います」

「あの時の電話がそうなのね」

「はい。問題は即解決、派遣であっても人権遵守がノルンのモットーですから」

早乙女支社長が呆れた顔をして坂上さんと井上さんが顔を見合せている。

あまり詳しい話は知らないみたいなので後から話を聞かれるのが確定しそうだ。

「神流さんを敵に回すと怖そうね。そんな事があったから友長物産の窓口が変わったのね」

「それは僕じゃなく社長か副社長だと思いますよ。2人は鬼神みたいな人ですから」

早乙女支社長と連れ立って先方が指定した居酒屋にタクシーで向かう。

タクシーの中で直帰する事を姉達に告げもう一か所に連絡を入れておく。


「行きましょうか」

「そうね」

居酒屋たぬきに着き社長を促すと何かを吹っ切る様に暖簾を潜り引き戸を開けて居酒屋に入り奥に進んでいく。

どうやら奥の座敷がいつも呼ばれる場所なのだろう。

「遅れてすいませんでした。上田さん」

「いや、丁度良い所ですよ。そちらは新人さんですか?」

「秘書課に派遣された神流と申します。初めてお目に掛かれて光栄です」

「新人君、君はラッキーだよ。人生は常に勉強だからね、私が色々と教えて差し上げよう」

俺が下手に出ると上田さんが直ぐに乗ってきて一席と言う名の宴会が始まった。

更に相手を乗せる為に太鼓持ちに徹する。

相手は絵に描いたような女性社員に嫌われ度ナンバーワン中年オヤジと2人の部下だった。

飲めと言われれば笑顔でグラスを空ける。

そして返杯も欠かさない。


ビールから焼酎のボトルに変わりほろ酔い加減になってきた。

「新人君はいける方だね」

「沖縄仕込みですから」

「ほう、沖縄仕込みか。道理で強い訳だ」

「ええ、『オトーリ』で鍛えられましたから」

オトーリは元々沖縄県の宮古島特有の泡盛の飲み方で文化と言っても過言ではないかもしれない。

しかし俺自身は宮古島ではなく石垣島で『オトーリ』を体験したので本式ではないかもしれない。

やり方としては誰かが『オトーリを回します』と親が宣言して集まっている宴会の事や時事問題などについて思った事を行ってから一気にグラスを開ける。

そして新たに酒を注いで次の人にグラスを回しグラスを受け取った人が今度は挨拶をしグラスを空ける。

一巡すると親の人が〆てグラスを空ける。

そして一度始まるとエンドレスで繰り返されるから酒が弱い人にとっては地獄かも知れない。

「それじゃ我々も新人君に教わりながらやってみようじゃないか」

「すいません。空のピッチャーをください」

店員さんに声を掛けると直ぐに空のピッチャーに氷だけ入れて持ってきてくれた。

そのピッチャーに焼酎を注ぎ、水を入れて水割りを作り濃さを見ながら加減する。

「未来君、飲み過ぎよ」

「すいません、支社長。上田さんと飲む酒が美味しすぎて」

「新人君の将来は明るいよ。我が社がヘッドハンティングしたいくらいだ」

早乙女支社長は笑っているが瞳には怒気に似た物が潜んでいる。

焼酎の水割りを注いだグラスを上田さんに渡すと意気揚々としゃべり始めた。

部下の2人が相槌を打ちながら上田さんと共にグラスを空けた。

上田さんからグラスを受け取りピッチャーの水割りを注ぎ、部下の1人に渡すと一言だけ喋り一気飲み干すと上田さんともう1人もグラスを空けている。

尽かさずグラスに焼酎の水割りを注ぐ。

「それじゃ、今度は早乙女君の番だな」

「そうですね、支社長。お願いいたします」

「未来君のお願いなら断れないわね」

俺を一瞥して立ち上がり簡単な挨拶をして一気に飲み干した早乙女支社長が俺を見下ろしている。

気にせずにグラスを支社長から受け取り水割りを注いで立ち上がった。

「僕は上田さんの様な素晴らしい方に出会えた事を光栄に思います。今日は本当に有難う御座いました」

「良いぞ、新人!」

焼酎の4合瓶が2本空になる頃には上田さんは酩酊状態になっていて、トイレに行くにも部下が付き添っていた。


「上田さん、2次会に連れて行ってくださいよ」

「新人君、沖縄仕込みの君には敵わんよ。今日はここで勘弁してくれ」

「それじゃ約束ですよ。今日はご馳走様でした」

部下の1人が上田さんを両脇から抱えながら表に出ると会計を済ませ領収書を切ってもらっていたもう1人の部下が慌ててタクシーを止めた。

上田さんと部下の2人が乗ったタクシーを見送ると早乙女支社長の声が飛んできた。

「未来君、あなた」

「すいません。ちょっとトイレに」

「もう、早く行ってきなさい」

フラフラしながらトイレを借りる為にたぬきに戻ろうとすると早乙女支社長が俺の腰に手を回して体を支えてくれた。


トイレを借りて出てくるとカウンター席に座っている早乙女支社長の冷たい視線が突き刺さる。

「こうなる予感がしていたからあなたに頼みたくなかったの。私には薄い水割りばかり飲ませて」

「すいません」

「本当に無茶をするんだから。冷たい水でも飲んで少し休みましょう」

どうやら支社長は大将に少し休ませてくれるように頼んでくれたようだ。

しばらくカウンターで休ませて貰っていると上田さん達と飲んで騒いでいた隣の座敷からロマンスグレーの紳士が出てきて俺の顔を見て声を掛けてきた。

「未来君じゃないか、隣で盛り上がっていたのは君達か」

「専務、ご無沙汰しております。先程まで住倉商事の上田さんにご馳走になっていました」

「私の誘いを断るのは彼女が原因かな?」

「僕は相変わらずフリーですよ。僕の派遣先の水神商事東京支社の早乙女支社長です」

俺が支社長を紹介すると早乙女支社長が名刺を取り出して挨拶をして名刺を交換している。

そして専務の名刺を見て早乙女支社長の顔色が変わった。

「改めて後日ご挨拶に伺っても宜しいでしょうか?」

「神流君の所の未来君が直々にサポートしているのなら大歓迎ですよ。いつでもいらしてください」

「有難う御座います」

「未来君、今度は断れないぞ」

専務は大将に片手で挨拶をし連れの男性を従えてたぬきを後にするのを頭を下げて見送る。

引き戸が閉まった瞬間に早乙女支社長が俺の腕をつかんだ。

「未来君、説明してもらえるかしら」

「大将、ゴメン。熱いお茶を貰えるかな」

「胃の中を空にしたのにまだすっきりしないのか。飲み過ぎだぞ、未来」

俺と大将の会話を聞いて俺の腕を掴んでいる早乙女支社長の手が解け支社長はため息を付いた。

俺と支社長の前には大将が置いてくれた湯呑から湯気が立っている。

火傷しない様にゆっくりと口に運ぶと胃がほんのり温まった。

「まったく、未来君が仕組んだのね」

「偶々ですよ。大将とは古い馴染で専務が来ているか確認はしましたけどね」

「まさか藍花商事の専務と飲みに行く仲だったなんて」

「専務と飲みに行くのは姉達ですよ。俺はおまけの様な物です。次は逃げられませんけどね」

早乙女支社長が呆れた顔をしてお茶を飲んでいる。大将が余計な事を言い出さないうちに退散する事にした。


支社長はタクシーで帰るのかと思っていたのに電車で帰ると言うので最寄りの駅まで歩くことになった。

「本当に未来君は食えない人ね」

「まぁ、虎の威を借る狐みたいなものですよ。今の俺があるのは姉達のお蔭ですし、心配ばかり掛けていましたからね」

「沖縄に居たと言うのがそうなのね」

「沖縄だけじゃないですよ。高校を卒業と同時に家を飛び出してリゾートバイトをしながら全国を転々としていました。夏は海、冬は雪。だから全国に世話になった人がいます」

久しぶりに飲み過ぎた所為か言わなくていい事まで喋ってしまいそうになって言葉を飲み込んだ。

それに支社長に対して俺なんて言っている時点で完全に酔っ払っている。

「ここで本当に大丈夫なのね」

「有難う御座います。大丈夫です」

駅の改札で支社長と別れて駅のロータリーに戻り携帯を取り出してコールする。

「ヒメ姉、ゴメン。動けないかも」

「そこを動かないのよ。いい事」

しばらく夜風に当たってベンチに座っていると駅前のロータリーに真っ赤なロードスターが滑り込んできてモデルの様なヒメ姉が下りてきて迎えに来てくれた。

「珍しいわね、未来が飲み過ぎて連絡してくるなんて。支社長さんの為かしら?」

「違うよ、気に入らない奴と飲み勝負しただけだよ」

「で、負けたと」

「負けるか。負けたら迎えなんて頼まないよ。うっ、気持ち悪い」

「車を汚したら殺すわよ」

この時ほどヒメ姉の愛車がオープンで良かったと思った事はない。






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