第2話 東京支社

仕事用の眼鏡をチョイスする。

いつもより身だしなみに気を付けてマンションから出ると植え込みに植えられている紫陽花の花が朝日を浴びて気持ち良さそうにしていた。

派遣先の水神商事に向かうまでにもう一度資料に目を通しておく。

俺より2つ上で水神商事の支社長でシングルマザーか……

水神商事は水神グループ傘下の会社で支社と言ってもかなり大きい方だ。

そんな大企業が取引先になれば更なる発展が出来るだろう。

そんな会社の人間が求めている人材が派遣できないのはノルンにとって前代未聞の懸案事項だからこそヒメ姉が頭を痛めていたのだろう。

「で、最後の砦が何で俺なんだ?」


梅雨の中休みのお日様に照らされて光っているオフィスビルを見上げてから吸い込まれるように入って行く。

エレベーターで水神商事の支社が入っているフロアー着きエレベーターの扉が開くと正面に受付が見える。

「おはよう御座います。ノルン人材派遣会社から参りました神流と申します」

「おはよう御座います。支社長の件ですね、しばらくお待ちください」

「はい」

受付の女性社員が電話をかけ、少しすると女性社員が現れ頭を下げてから名刺を交換する。

どうやら彼女は支社長の秘書で坂上さんと言う名らしい……

そこで疑問が浮かんでくる、秘書が居るのなら支社長は何を求めているのだろう。

「あの、僕は何をすれば」

「支社長と一緒に行動して頂ければスケジュールや必要書類は私どもが準備いたしますので」

「そうですか」

「本当に申し訳御座いません。私共も困惑しておりまして」

秘書の坂上さんの顔が曇り肩を落としている。

一体、支社長はどんな女性なのだろう。

ワンマンなのか気分屋かそれとも完璧主義者なのだろうか……

色々な事が頭の中を過る。

「こちらです。支社長、お連れしました」

「少し待ってもらって」

ノルンと違い商社だけあって男性社員が多く働いているオフィスから秘書室に案内されその先のドアで坂上さんが声を掛け静かにドアを閉めた。

あまり深入りするのは得策ではないが秘書室の空気が重苦しい。

何度も支社長が派遣されてきた社員にダメ出しをしたせいだろうか?

先に今日のスケジュールや行く先々で必要な書類の説明を受けながらも支社長の人物像を思い描いていた。


「入ってもらいなさい」

「はい、只今。神流さん、こちらへ」

坂上さんの後に続いて支社長室に入る。

大きなガラスからは都内が見渡せ、室内はマホガニーがふんだんに使われ落ち着いた感じになっていて床の絨毯もダークグリーンでとてもシックな感じがする。

そしてシンプルな机の向こうに女性が立っていた。

明るめのスーツにナチュラルなメイクをしブラウン系のロングヘアーは後ろで一纏めにまとめられている。

そして射抜く様に瞳が俺に向けられている。

「初めまして。ノルン人材派遣会社から参りました神流未来と申します」

「支社長の早乙女汐(さおとめ うしお)と申します」

「宜しくお願い致します。早乙女支社長」

「神流さんってもしかして? 秘蔵っ子と言うよりこれで最終警告という事かしら?」

とりあえずヒメ姉やスズ姉に早乙女支社長の真意が判らないので軽く笑ってスルーしておく。

2人の姉はこれで打ち止めくらいにしか思っていないのだろうか?

あわよくば上手く取り入る事が出来ればラッキーくらいしか考えてないのかもしれない。

早乙女支社長の欲するところを見極めるのが俺に与えられた使命くらいに考えておく。

坂上さんが早乙女支社長に今日のスケジュールを説明しているのを聞き漏らさない様にする。

午前中は支社で午後から取引先回りをする予定になっていた。

「坂上さん、午後からの打ち合わせを未来君としておいてもらえるかしら」

「はい、畏まりました」

一瞬、坂上さんが驚いたような顔をして頭を下げ俺を促す様に支社長室を後にする。

秘書室に戻るともう1人スーツ姿の女性が忙しなく電話の受け答えをしていた。

「おはよう、井上さん」

「おはようございます。そちらは?」

「派遣の神流未来さんよ」

「宜しくお願いします」

話し言葉から井上さんは坂上さんの補佐役と言ったところなのだろう事が判る。

坂上さんに午後からの手順を教えてもらいながら取引先の会社の事を簡単に説明を受けた。

その後は自分なりに打ち合わせに必要な書類や資料を確認し相手先の会社の詳しい事を頭の中にインプットしておく。

しばらく資料に落としていた視線を上げると坂上さんと井上さんが電話対応に追われながらしきりに時計を気にしている何かあるのだろうか。


「坂上さん、僕に出来る事があれば指示してくださいね」

「それじゃ、支社長にコーヒーをお願いできますか? 井上さん、神流さんに給湯室を教えてあげて」

「はい、神流さんこちらに」

井上さんに教えてもらった給湯室は給湯室と言うよりちょっとした喫茶店のカウンターの様になっていた。

IHのヒーターがありコーヒーに紅茶や日本茶などがそれぞれ数種類置かれていてコーヒーメーカーやティーポットなどが綺麗に整頓されている。

「へぇ、コーヒーウォーマーまであるんですね」

「えっと、普段はコーヒーメーカーを使っています」

「支社長はミルクと砂糖はお使いですか?」

「その日の気分で使ったりしますので」

ドリップポットにポットのお湯を入れヒーターに掛けてから準備する。

ウォーマーのスイッチを入れ、サーバーにドリップをセットしてペーパーフィルターを入れ。

カップにお湯を注ぎセットしてあるドリッパーにもお湯を注ぎ、サーバーにお湯が落ち切ってサーバーのお湯を捨てる。

ドリップに人数分+αのコーヒー豆を入れて少量のお湯を注ぎ、豆が膨らみだしたらお湯を入れるのを止めて少し蒸らし。

コーヒーが落ちだしたらゆっくりとのの字を描く様にお湯を注いで抽出すると給湯室にコーヒーの香りが漂う。


「失礼します。コーヒーをお持ちしました」

「ありがとう、そこに置いておいて」

「はい」

コーヒーをデスクに置くと早乙女支社長が一息ついてカップに口を付け、少しだけ驚いたような表情をしている。

「お口に合いませんでしたか?」

「これは未来君が淹れたのかしら?」

「ええ、僕の専門はサービス関係ですから」

「そう」

それだけ言うと早乙女支社長は書類に目を落としたので部屋をでて給湯室に戻り、坂上さんと井上さんにもコーヒーを入れ2人のデスクに運ぶ。

「どうぞ」

「有難う御座います」

「うわ、美味しい。このコーヒーっていつもの豆ですよね」

「そうです。今日はマシーンじゃなくドリップで落としましたけど」

坂上さんがカップを鼻に近づけて香りを嗅いで井上さんはカップを口に着けて支社長の様に少し目を見開いている。

「神流さんの専門って何ですか?」

「ホテルやレストランのサービスですよ。本来なら秘書系は専門外なんですけど上司命令で」

「やっぱり最終警告という事ですか?」

「いや、そう言う訳じゃなく今後の事を考えてだと思いますよ。当社とすれば求めてい人材の今後の選定も含めてだと」

「そうですよね。男性でとノルンさんにはお願いしているのに何度もお断りしていますからね。私達も困っていたところなんです」

井上さんの言葉で雰囲気が微妙だったのはその所為なのだと確信できた。

これからその理由を突き止めて報告しなければならない。

「でも、神流さんなら大丈夫かもしれないわよ」

「坂上さん、どうしてですか?」

「確信がある訳じゃないけどね。神流さんを下の名前で呼んでいたから」

ノルンに戻って今までこの会社に派遣された従業員の話を聞いて確認する必要があるかもしれない。

合間を見て会社に連絡を入れておこう。

坂上さんが秘書室と支社長室を行き来して仕事をこなしている、大手の支社だけあってかなりの仕事量らしい。


お昼前になって早乙女支社長が部屋から顔を出した。

「坂上さん、今日は時間に余裕があるから皆で少し早いですけど昼食にしましょう」

「は、はい」

「場所は任せるわ」

「判りました」

坂上さんが井上さんとランチの場所を相談し始めた。

少しバタバタしている所を見ると突発的な事だと言うのが窺える。

「坂上さん、どうしましょう」

「そうね、昨日は洋食だったから今日は和食かしら」

「でも、時間が限られているから」

「僕の知り合いの店が近くにあるんですけど行ってみませんか?」

時間が無いのなら早めに動いた方が良いと思い提案してみると坂上さんと井上さんが顔を見合せている。

何か特別な条件でもあるのだろうか?

「庶民的な店ですけどお勧めですよ。洋食以外に何かあるのですか、値段設定とか個室が無いと駄目とか」

「いえ、特に無いのですけど支社長は気難しい所があるので」

「行くわよ」

「は、はい」

迷っている坂上さんを気にも留めずに支社長室から早乙女支社長が出てきて今にも秘書室を出て行ってしまいそうな勢いだった。

少しせっかちなのかそれとも短気なのか……

坂上さんが思わず俺の顔を見上げているので、携帯を取り出して席が空いているか確認しながら歩きだした。


支社を出て少し大通りを歩いて路地に入って行く。

判りづらい場所にあり隠れ家的な場所にあり口コミで人気があるが、誰に聞いてもあまり教えたくないお店になっているらしい。

『陣』と書かれた暖簾をくぐり引き戸を開けると元気な声がする。

「いらっしゃいませ! って、未来さん?」

「奈央、久しぶり。予約を入れてあるはずだけど」

「ああ、陣は何で教えてくれないの?」

「お前が気も漫ろになるからだ」

真っ黒に日焼けをして藍染の作務衣を着ている店主の陣に促されて小柄な奈央が口を尖らせながら席に案内してくれた。

「神流さん、ここは?」

「夜は創作居酒屋をしている店でランチはうどんがお勧めなんですけど時間がかかるので日替わりランチを注文しておきました」

「落ち着いた感じのお店ですね」

古き日本家屋を模したような黒を基調にした柱や梁があり壁は珪藻土の塗り壁になっていて、それほど広くない店内だがとても落ち着いた雰囲気を醸し出している店内を見渡しながら坂上さんが聞いてきた。

「未来君のチョイスのお店なのね」

「はい、坂上さんの話では昨日は洋食だと聞いたので和食の方が良いかと思いまして。ここなら値段も手ごろで良いんじゃないかと」

「そう」

早乙女支社長の反応が悪く井上さんに落ち着きが無い所を見ると今までに来たことが無いのがくみ取れる。

流石、坂上さんと言うべきか肝は据わっている様に見えるけれど内心はドキドキなのかもしれない。

出すぎた真似をしたかと頭を過るが勧めた以上に俺にはそれなりの確かな物があった。

「お待ちどうさまです」

「表情が硬いぞ、奈央」

久しぶりに会った所為か何かを感じ取ったのか奈央の接客が硬い。

恐らく後者だろうという事は容易に想像が付く。

奈央が運んで来てくれたのは一言で言えばざる豆腐定食だった。

ざる豆腐がメインで五穀米のご飯に味噌汁と香物、それにサラダと日替わりの煮物が付いている。

「いただきます」

手を合わせて微妙な空気の中ランチタイムがスタートすると周りの表情が変わった。

「このお豆腐とお出汁が凄く美味しい」

「豆腐は出来たてで出汁はうどんに使われている出汁と同じものですね」

「うどんがお勧めと言うのも頷けます」

口火を切ったのは緊張の面持ちだった井上さんだった。

若くて物怖じしない性格なのだろう。

「このサラダはもしかして卯の花かしら」

「豆腐を作る時の副産物の様な物ですし食物繊維も多く含まれていますから」

「女の子には有難い限りだしヘルシーね」

坂上さんにも好評のようだけど早乙女支社長は静かに箸を運んでいる。

口に合わないという事はなさそうだ。

沈着冷静で物静かにみえる、それでもシングルマザーで支社長にまでなった人だ内に秘めているモノはとても熱く大きいのかもしれない。

〆のお茶を飲んで終わり坂上さんが伝票を手に取ると早乙女支社長が坂上さんの持っている伝票に手をやった。

「今日は私がご馳走するわ」

「え、はい。有難う御座います」

奈央が俺の方を気にしながら会計をしている、聞きたい事が山ほどあるのだろう。

それでも聞ける雰囲気じゃないのを判っているのでもどかしさを感じとる事が出来る。

陣に目配せをして店を出た。


「ご馳走様でした。早乙女さん」

「気にしなくて良いわ。未来君に美味しいお店を教えて頂いたお礼だから」

あまり表情には出さないけど早乙女支社長も満足してもらえたみたいだ。

「支社長、ご馳走様でした。本当に美味しかったですね、皆にも教えてあげなきゃ」

「井上さん、それは感心しないわね。行列ができるお店になったらこれから行けなくなるわよ」

「あ、そうですね」

「それにあそこなら今度はうどんをご馳走してあげるわ。私も味わってみたいしね」

井上さんと坂上さんが顔を見合せて嬉しそうにしているのを初めてみた。

初めてと言っても今日会ったばかりだからかも知れないが、少しだけ和らいだ感じがするのは確かだった。

午後からは早乙女支社長と取引先周りをする予定になっていた。

早乙女支社長の後を資料の入ったカバンを持って歩く。

駐車場に下りると早乙女支社長はホワイトパールのレクサスの運転席のドアを開けてシートに身を沈めた。

後部座席のドアを開けようとすると助手席のドアを支社長が開けてくれる。

隣に座れという事なのだろう仕方なく助手席に座る。

コンパネは黒で統一され内装は落ち着いたブラウン系になっていて品があり落ち着いた感じになっていた。

早乙女支社長の運転で都内の取引先に向かう。

取引先でも支社長は微笑みを絶やさずに相手と商談していて、俺の仕事と言えば取引相手に資料を提示する程度で誰にでも出来る仕事で殆どする事が無く。

ただ、支社長の後ろに控え口角を上げている事くらいしかない。

車に戻るまでに次のスケジュールを告げようとすると支社長に制されてしまった。

本当に俺の仕事は荷物持ちだけらしい。

車内でも会話など殆どなく午後のスケジュールも滞りなく終わり解放された。

ノルンに連絡を入れて水神商事を後にする。


「いらっしゃいませ」

暖簾をくぐり引き戸を開けると奈央の威勢の良い声がする。

陣を見るとカウンターの奥を目配せしているのでカウンター席に座ると何も言わずに陣がビールの栓を抜いていた。

「お疲れ様」

「久しぶりですね、未来さん」

ビールが注がれたグラスを合わすと陣が一気にビールを流し込み俺も喉を潤す。

奈央がオーダーを通してから俺の顔を覗き込んでいる。

「なんだ、奈央」

「なんで陣とばっかりなんですか?」

「男同士だからかな」

「奈央ちゃん、ビール頂戴」

客に呼ばれて菜緒が明るく返事をしてオーダーを取りに行く。

久しぶりに来ても馴染むと言うか落ち着ける。

ピークが過ぎて店内には静かな時間が流れ始めるといつの間にか奈央が俺の横に座っていた。

「神流さん、お昼に一緒だった綺麗な人達ってどこかのレストランのオーナーさんか何かなの?」

「俺が派遣された水神商事の支社長と秘書2人だ」

「へぇ? 未来さんが冗談言ってるよ、陣」

「ん、悪い冗談だな。神流が秘書なんて」

俺だって冗談だと思いたいけれどそれが真実で今日は脱力するくらい緊張の連続で、本心を言えば明日からは御免こうむりたい。

今まで派遣したスタッフに確認しようと思ったが無駄なような気がする。

確かに補佐なのだけど秘書としてのスキルは全くいらないだろう。

今日一日だけで判ったのはそれだけで支社長が何を求めているのか判らなかった。

「未来さんって秘書までするんだ」

「しないと言うか出来ないよ。俺はサービス専門だ。姉貴の至上命令なのだから仕方がないだろ」

「相変わらずなんだな」

「姉貴達が変わる訳ないだろ。俺も未だにパラサイトだしな」

俺の生活は姉達に完全に依存している。

生活の拠点だって姉達名義のマンションを使わせてもらっているし、仕事着のスーツなんかも姉2人のチョイスで経費として計上されている。

食事ですら姉達と食べる事が多く外食しない時は何故か俺のマンションで食べる事が多い。

そんな生活から抜け出したいと思ってはいるけれど流されて今に至っていた。

仕事ですらフラフラしていた俺を社員として受け入れてもらっている。

そんな事を考えていると携帯が鳴り出るとヒメ姉の口から信じられない事を告げられた。

「はぁ? 判った」

「どうした、神流」

「水神商事との契約の更新だよ。今日だけだと踏んでいたのに……」

思わずカウンターに項垂れてしまうと陣と奈央に肩を叩かれた。

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