第23話 ダスティン達の成長
一軍登録された3人は必死でトレーニングに励みました。この時期は、殆どの大リーガーが肥満との戦いでしたが、3人は、ほぼ完ぺきなコンディションで練習に臨みました。ダスティンとホルヘは文字通りバッタバッタとバッターを三振に追い込みました。バーニーも仕上がっていないとはいえ大リーグのピッチャーから数多くの快音を響かせました。ロベルト・ケリーというセンターフィールダーとの守備争いでいつも優位とは言えませんが、ケリーの代役を務めることも多く、多数のいわゆる「ストーブリーグ」で出場しました。この頃の試合では、できるだけ選手の余計な負担をかけず、監督、コーチは根気よく選手を使うため、どんどん交代させながら最終的に誰を残すか決めるものです。
このスプリングキャンプではダスティンの球を受けるホルヘはキャッチャーにポジションを変え、ダスティンは変化球を打てないチームの際にリリーフ、そしてバーニーはケリーの故障や調子が出ないときの代役係な扱いとなりました。そんなに簡単に大リーガーのスターティングラインアップを手にできるわけではありません。しかし、仲のいい3人はポジティブに考え、また、年も若いため、虎視眈々とチャンスをうかがうことにしました。それに、大改造としたチームではなく、低迷期のチームは若手の成長を気長に待つことになるものです。案の定、1991年度のヤンキースの成績は東部地区5位という、パットしない成績でした。メディアも「お手上げヤンキース!」と揶揄するほどでした。
シーズン中、三人はメジャーの試合のほか、時間的に余裕があればマイナーリーグの試合にも出場しました。そこでは、圧倒的な活躍をし、メディアでも「メジャーリーガーをマイナーに、マイナーの選手をメジャーに総取替え引替え!」という見出しが出るくらいでした。事実、ダスティンの多彩な変化球を打てるマイナーリーガーはほとんどいませんし、バーニーにしても、マイナーリーガーの投げる球は直球が多く、ミートバティングでヒットは稼げましたし、感よく次の球を余禄できれば特大のホームランも打てました。ホルヘはダスティンのキャッチャー役が多かったのですが、時々代打で出場し、シュア―なバッティングで比較的、好いバッターとマイナーでは評判を取りました。
1992年になり一軍のスプリングキャンプに参加した三人は、1991年シーズンより多めの出場機会を得ましたが、長年活躍していたメジャーリーガーには高給を支払っており、優先的に先発しましたし、ルーキーに座を奪われることを嫌う彼らは、コーチたちに取り入り、なかなか座を譲りませんでした。しかし、バーニーはほぼ、センターの外野のポジションを獲得し、徐々にですが三人の出場を求めるファン層が確立していきました。この年は、それでも、東部地区4位レベルで、徐々に良くなっているのですが、ファンからの圧力は伝統のチームにはかなりきついものでした。1992年にはバック・ショーウォルターに監督が交代したばかりで、チーム自体もまだしっくりしていないことも大きな要因でした。
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