第3話 スポーツドクター誕生


ケビン父さんとミミ母さんはケビンのセルティックス引退後、シカゴに戻ってきました。理由はいろいろありましたが、両方の多くの親族がまだシカゴに郊外にいる事とケビンの事務所を開く場所としては最適であったからでした。アメリカNo.2の経済、金融拠点で、五大湖工業地帯の中心であり、鉄道、航空、また海運の拠点として発展してきたシカゴには商業的にニューヨークと並び、プロスポーツも盛んな土地でもありました。それに、子供の頃からの友人も多く、皆は既に何らかの職に就いていましたので、人脈のネットワークが出来ていました。例えば、ミミの出産は友人の勤める産婦人科でしたし、ケビンの事務所も友人の不動産屋からの斡旋でした。

ケビン父さんは引越し後、直ぐに二つの事を始めました。まず、AAHPER(American Association for Health, Physical Education and Recreation)に連絡を通り、主にプロのスポーツドクターとしての自分の仕事の「開業」と連絡と告知でした。同時に、各プロスポーツ団体(野球、アメリカンフットボール、バスケットボール、ホッケーなど)とアマチュア(特に大学く)のスポーツクラブに連絡を通りました。当時、スポーツ医学はあまり知られてはいなかった為、苦労はしましたが、いくつかの団体が興味をしめしてくれました。特に、地元のシカゴ・カブスがドラフトで獲得したリック・ラッシェルと云う新人にケビン父さんのプログラムを検討してくれた。リックは身長190cm、体重107kgの巨漢の投手でスピードボールがとにかく速い投手ではありますが、コントロールが悪く制球も定まらない選手でした。身体能力は優れているが、体を持て余しているといえる選手でした。

ケビン父さんは早速、カブス(小熊と云う意味)の本拠地であるリグリーフィールド球場に出かけて行った。リグリーフィールドは世界一美しい球場と呼ばれ、また、近隣住民の夜間の騒音反対が理由とされていますが、デイゲームしか行われない球場として有名です。(1988年までナイターゲームは行われていません。球団オーナーであったフィリップ・リグリーは「野球は太陽の下でやるものだ!」、と云う名言も残っています。また、外野の壁に蔦が絡まっている球場としても有名です。さらに、フェンエーパークーボストンのレッドソックスの球場の次に古い球場です。)ケビン父さんは住んでいるアーリントンハイツからミシガン湖の畔にあるリグリーフィールドまで、半分ワクワクしながら、また一方では始めての仕事に不安を覚えながら愛車のグランド・チェロキーを走らせました。

1970年代の中頃に普及し始めた8ビットマイクロプロセッサを用いた、ごく限定された機能・性能ながら個人の計算やデータ処理を行うことができ、価格的にも手が届くコンピュータと、ようやく家庭用の使用で価格的に手が届く様になったビデオカメラを乗せてリグリーフィールドに着きました。ゲートの保安ガードマンに捕まり、スポーツドクターと云う肩書きが知られていない時代でしたので、説明に苦慮しました。ちょっとずるいのですが、結局、セルティックスのケビン・マクドナルドを名乗ってようやく、ゲートをくぐり事務所前のパーキングに駐車出来ました。事務所ではチームのドクター通りック・ラッシェル本人が待っていてくれました。ケビン父さんもNBAの有名な選手であった事もあって、敬意を持って接してくれました。

「リック、今日は君の良いところと悪いところを見せてもらって、記録に取らせてもらう。一週間後に監督と一緒に研究結果を持ってくる予定だ」。

「マクドナルドさん、スポーツドクターってなにをするのですか?」。

「そうだな、今までのスポーツの世界では、根性と身体能力だけでそのプレーヤーの能力を判断してきたが、これからは、それぞれのスポーツの内容、及び、そのプレーヤーの体調、プレーに対する知識、トレーニングのやり方、精神的な強さトレーニング、などを科学的に分析し、食生活や睡眠時間などをコントロールする事で、その選手が持っている最大の能力を発揮させる。と云う医療活動をしているんだよ」。

「むつかしい事はわかりませんが、何をすればいいのですか?」。

「いや、簡単な事ばかりさ。いつものトレーニングと身体検査が主な検査だよ。まず、体重や身長、その他にも、手の長さを含む君の体の測定をさせてもらう。機材はトレーニングルームにあるものを使うので、やり方は君も良く知っているものばかりだよ」。

「わかりました。では何から始めますか?」。

「ウォームアップ。まず、スポーツ選手なのだからプレー出来る状態にしてくれ」。

それから、 リック・ラッシェル選手はいつも行っているアップをしました。スローペースのランニング、ミニコーンを使ったスラロームランニング、タイヤチューブを使った柔軟体操を行いました。その後、身長や体重測定、握力、ウェイ通りフティング、肺活量などをトレーニングで行い、その後、30ヤード(約27m)ダッシュを3本と反復飛び、ベースランニング、などはグランドで行いました。最後に、ケビン父さんと30球位、キャッチボールをしました。その時、キャッチャーが到着したので後は任せました。(正直言って、父さんの左手は真っ赤に腫れ、殆ど感覚はありませんでした。)その間を利用して、ビデオとカメラ、それとパソコンをセットしました。

約一週間後、再びリグリーフィールドに出向いたケビン父さんを今度は守衛から保安官まで皆が出迎えてくれました。監督であるレオ・ドローチャー氏も待っていてくれました。レオ・ドローチャー監督といえば、ヤンキースの選手時代にベーブ・ルースと仲が悪くお互いに毛嫌いをしていました事で有名でした。時計を盗んだとベーブ・ルースに因縁をつけられ大喧嘩した事でも有名です。さらに、現役時代守りの選手だったドローチャーの特筆すべきプレーは、レッズ在籍時の1931年9月6日、セントルイス・カージナルス戦でのとある試合の6回表、無死一・三塁でカージナルスの打者がレフトにフライを打ち上げ、これを左翼選手が捕球、タッチアップした三塁走者は本塁で封殺され、この間に一塁ランナーは二塁を陥れ、捕手から遊撃手だったドローチャーに送球されるも走者はセーフとなります。ドローチャーはこの後捕球したボールを投手に返さず、二塁手のトニー・クッチネロにこっそりと手渡し、気づかなかったランナーが離塁したところを二塁手がタッチしアウトにした。変則ですが、隠し球を使ったとは言え通りプルプレーという記録となりました。

ドローチャー監督は、「いやー、ケビン、会うのを楽しみにしていたよ。君のセルティックス時代の活躍はよく知っているし、君のスポーツドクターっていう仕事を始めた事は雑誌で読んだよ。うちのドクターが『これからのドクターはみんな、ドクター・マクドナルドの様になる』と、ベタ褒めなんだ。今日は、リックの検査結果を教えてくれるそうだね。リックは、玉は速いが制球力がない。どうすればいいか、教えてくれるんだろう?」。

「はい、結論から言いますと、まず、メガネをかける事をお勧めします」。リック・ラッシェル選手は、ビクビクしています。「今のリックの視力では、キャッチャーミットがはっきり見えないはずです」。 ドローチャー監督はリックをみて「おい、そうなのか?」、と聞いています。リックは弱々しく頷きました。「目が悪い事がバレルとクビになると思いまして.…」。ケビン父さんは薄笑いです。

「次に、 爪を手入れする事です。投球後に時々、指を見る仕草が見られますが多分、爪が伸びているのを気にしているのでしょう。爪が割れた事も有ると思います」。そばにいたチームドクターが頷いています。「さらに、ボールをリリースする時の右ひじをもう少し前に出すべきです。腕力が強いので力任せで投げている為、制球が定まらないのです。あと、直球の他にスライダーを投げる様ですが、ツーシームで投げ、スリークオータ気味に投げると、ボールは変速気味にスライドするし、スライドの幅をおおきくし、ストライクを通りやすくなります。ちなみに、リックに必要だと思われる、分析結果からデザインしたトレーニング内容をまとめておきましたので、検討してください」。

ケビン父さんが帰った後で、本人とピッチングコーチ、チームドクター、そして ドローチャー監督で内容を検討した結果、ケビン父さんの提案を受け入れる事になりました。その後、19年間、MLBで通算214勝(19年間)を達成した大投手となりました。ケビン父さんのリックに対する功績があっという間に広がり、色々なプロスポーツから依頼が殺到するようになりました。

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