Layer_xxx/ Fatal Error(4)

 言いながら、ヒースはまるで散歩に出かけるような気安さで、一歩を踏み出した。そして、僕とすれ違いざまに銃を抜く。

 振り向けば、世界の崩壊と共にクロウリー博士の巨大な影が迫っていた。どうしたって叶いっこないヒースの影を追い求めるその人は、もはやありもしない「次の試行」を求めてただ闇雲に駆け続けている。

 僕の横に立って銃を手にしたヒースは、どこか眩しそうに目を細めて、そちらをじっと見つめていた。そして、色を持たない唇が、「ユークリッド」と僕の名前を紡ぐ。

「何ですか」

「実は、一つだけ、僕にはわからないことがあるんですよ」

 ……ヒースにわからないことが、僕にわかるわけがない。そんな悪態を飲み込んで、ヒースの言葉を待つ。ヒースはあくまで穏やかに、クロウリー博士の影を見つめたまま言う。

「クロウリー博士は、どうして僕なんかを再誕させようと思ったんでしょうね。僕とあの人との間に、そこまでの記録はないはずです」

 最低でも、僕の記録としては。そう、ヒースは言った。

 確かに「記録」そのものであるヒースからしてみれば、このプログラムを造ったクロウリー博士の心境は理解できないだろう。実のところ、同じ記録を持つ僕にも、クロウリー博士がヒースに執着する理由が未だにわからずにいた。

 何しろ、クロウリー博士がヒースとまともに言葉を交わしたのは、ヒースが急激な老衰によって正気を失うほんの直前、たった一度だ。ヒース自身の記録には、その一回の会話しか記録されていない。他愛のない、ヒースにとっては特に深い意味のない出来事として。

 ただ、この仮想空間に息づくクロウリー博士は、ガーデニアさんやシスルさん、ホリィのようにヒースの記録から構築されたものではなく、開発者である彼女自身の人格をそのまま投射したもののようだ。故に、記録であるヒースには、クロウリー博士が理解できない。もちろん、僕にだって。

 すると、不意にダリアさんがぽつりと言った。

『……君の記憶に、残りたかったんじゃないか』

「僕の記憶に?」

 問い返すヒースに『ああ』と声を返したダリアさんは、何故だろう、妙に胸を締め付けるような声音で続ける。

『クロウリー博士は、君という人間に好意を抱いていたようだった。そして、生前の君との間にそれだけの記録が無いからこそ、君に己の存在を刻み込みたいと望んだのではないかな』

 一拍、置いて。

『無機質な記録としてではなく、他でもないヒース・ガーランドの記憶に』

 その声は、静寂に包まれたこの空間に、酷く、よく響いた。

 ヒースはしばしぽかんと虚空を見つめていたが、やがて「はは」と苦笑いしてみせる。

「それはなんとも、物好きですね」

「それ、君にだけは言われたくないと思いますけどね……」

「何をおっしゃるユークリッド。僕のような物好きに好意を抱くのですから、それを物好きと言わずして何と言いますか」

 言いながら、ヒースは一歩大股に踏み込んで僕の横を行き過ぎる。中途半端に伸びた黒髪が、襟足を隠すように揺れた。

「……でも、どうやら、僕は彼女の記憶に残る程度の存在ではあったようですね。表現方法ははた迷惑極まりないですが」

 それでも、と。ヒースは呟くが、その先は声にはならなかった。ただ、眩しそうに、クロウリー博士であったものを見つめるだけで。

 けれど、僕にはわかる。ヒースが偏執的に記録を残したのは、単にガーランドとしての価値を示すだけではなかったのだから。

 ――忘れられたくなかったのだ。

 ヒース・ガーランドという存在が、確かにそこにいたこと。滅び行く世界の片隅に存在したこと。二十七年という短くも濃い生涯を、全力で生きて逝ったこと。

 その生涯について、クロウリー博士が真に何を思っていたのか、僕らが知ることは永遠にないし、仮に知ったところで理解は及ばないだろう。

 それでも、ヒースはこう言いたかったのだと思う。

「記憶に残ることができたなら、光栄だ」

 ――と。

 それこそが、ヒースの、最初で最後の願いだったのだから。

 そんな僕の感慨を打ち切るように、ヒースが声を上げる。

「さて、時間切れです」

 あまりにも軽い言い方ではあったが、僕らの永遠の別れを意味する言葉だった。

 この滅び行く世界に焼きついた記録でしかないヒースと、この世界の外側に向かう僕との、別れ。

 ヒースは僕に背を向けたまま、へらへら笑いながら言う。

「下らない死に方したら許しませんからね。地獄の底で言葉責めにしてやりますから。……まあ、つくりものの僕らが、人と同じ場所に行けるかどうかは知りませんけど」

 ふざけた言い分だが、それは生前のヒースが常に胸に抱えていることでもあった。自分たちは人でありながら人ではなく。その自分たちを、人の神は「人」として見てくれるのだろうか。人として天国や煉獄、地獄に向かうことができるのか。神の存在自体を疑いながら、そんな問いを投げかけ続けていた。

 答えが出ないとわかっていながら……、いや、違うな。

「よくよく考えてみると、この世界が、死後の世界のようなものですけどね」

 つい、思ったことを口にしてしまった。ヒースははっと僕を振り向き、目を真ん丸くして――。

「あはは、そうですね! それはそうでしたね! いやはや酷い死後の世界もあったもんです!」

 膝を叩いて散々笑ってみせたヒースは、背後に迫る崩壊の波に気づいていながらも、ごくごく気楽な調子で続ける。

「そういえば、この外は、一体どうなっているんでしょうね。おそらく、僕らの知る世界ではなくなっているとは思うのですが」

 その言葉にはっとする。ヒースが死んだ後のことは、この塔の内側にいる誰一人として知らないのだ。ゆるやかな滅びに瀕していた、あの終末の国がどうなってしまったのかも。

 唯一、外の世界に生きてるダリアさんは、ヒースの言葉を『ああ』と肯定する。

『君たちが生きた時代は、既に遠い過去だ。私が今生きているのは、君たちの存在を知る者がほとんど失われた、そういう世界だ』

 そうか。ダリアさんは『鳥の塔』を知らなかった。そもそも世界が壊れかけていることすらも、知らなかった。それは、ダリアさんがおかしいのではなく、僕らが時間から取り残されていたのだ。

 にわかに、不安が胸を掠める。全く見覚えのない世界に一人放り出される、そんな未来を想像して……。

『だが、目覚めた先は、そう悪くはない世界だ。約束する』

 けれど、浮かびかけた不安は、ダリアさんの声で吹き消えた。ダリアさんがそう言うならば、信じよう。それに、目覚めた先にいるのは、最低でも僕「一人」ではないのだ。ダリアさんが、そこにいるはずなのだ。僕の手を、握っていてくれるはずなのだ。

 ヒースも、にっと白い歯を見せて笑う。

「それはいいですね。この目で見られないのが残念ですが、この際贅沢は言えませんね。ユークリッドには、僕の分まで楽しんできてもらいましょう」

 そして、僕の肩を、とん、と押す。

「君の生誕に、そして君たちの未来に祝福を」

 その瞬間、まるで糸にでも引っ張られるかのように、僕はヒースの方を向いたまま、後ろ向きに引っ張られる。意思とは無関係に、僕の体はこの世界の出口へと導かれていく――!

 ダリアさんの声が、僕のすぐ背後から聞こえる。

『ヒース! どうか君も、安らかに!』

「はは、ただの記録でしかない僕の安息を願いますか。でもまあ、悪くない気分です」

 ――これが終わったら、今度こそゆっくり眠りたいところですね。

 そう言って、ヒースは僕に背を向けて、右手に握っていた銃を、空を覆うまでに広がったクロウリー博士の影に向ける。

 その顔は既に僕からは見えなかったけれど、きっと、満面の笑みを浮かべているのだろう、それだけは何故かはっきりとわかった。

「さあ、」

 凛、と。ヒースの声が、僕の耳に届く。僕と同じ、けれど決定的に何かが違う声が。

「旅立ちです、ユークリッド」

 たあん。

 どこかで聞いた銃声と同時に、世界が、光り輝く花びらに包まれる。

 前も後ろも、上も下もわからない、無限に広がる花びらの海の中に放り出された僕は、つい、ヒースの背中を探していた。

 僕の中に、かけがえのない記録と記憶を残してくれた、ヒース。その細長い背中はもう見えない。けれど、きっとまだそこにいてくれていると信じて、声を上げる。

「さよなら」

 もう二度と会えない、もう一人の僕に。

 別れの言葉を、告げる。

「さよなら、ヒース!」

 ――さよなら、と。

 歌うような声が、聞こえた気がした。

 

 そして、僕は、

 

 あなたの手を、掴む。

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