Layer_xxx/ Fatal Error(3)

 この世界をぶち壊すもの。

 世界の内側を少しずつ侵蝕していた、バグ。

 それが、僕の目の前に立っている、ヒースの正体だというのか。

 ダリアさんは、一拍呼吸を置いてから、低い声を漏らす。

『バグ……。本来あってはならない、プログラムの誤りという意味合いだったか』

「ええ。だって、おかしいでしょう? 彼とは別に『僕』がいること自体が」

 ヒースはおかしそうに笑うけれど、その目は笑っていなかった。その内心にある感情を言い表すなら、きっと「怒り」、もしくは「憤り」だ。

 ヒース・ガーランドは、いつだって、その胸の中に強い感情を燻らせていた。その「再現」である彼もまた――その瞳の内側に、熱く燃える感情を揺らして言う。

「僕が生まれたのは、第一の試行を終えた直後。ユークリッドと名づけられた一人目が『僕』を取り戻し再誕を否定した瞬間でした。クロウリー博士によって世界が初期化される寸前に、博士も気づいていなかったプログラムの間隙に滑り込み、初期化を回避したのです」

 だから、僕はある意味では「一人目のユークリッド」でもあるのです。ヒースはそう言って苦笑する。

「僕は再誕を望まない。この、押し付けがましい奇跡をぶち壊してやりたい。ただ、元よりクロウリー博士のプログラムから生み出された僕に、世界を覆す権限はありません。例えば君たちを直接妨害するなどしてクロウリー博士に気づかれれば指一つで潰されかねない、ほんの脆弱な蟲に過ぎませんからね」

「だから、水面下で影響を広げていった。少しずつプログラムを内側から侵蝕しながら、決定的な『崩壊』を起こせるタイミングまで、息を潜めていた……」

「そういうことです。初期化されない領域に身を隠しながら、二度目の試行では少しずつプログラムへの介入範囲を広げ、三度目の試行で守護者に干渉して、プログラムの進行の妨害を図りました。まあ、相手がガーディ兄さんとシスルさんなんで、素直に聞いちゃくれませんでしたけど」

 それこそが多分、ヒースも自覚しているだろう「人望」というやつなのだと思う。

 とはいえ、ガーデニアさんも、シスルさんも、裏側で暗躍する「ヒース」の存在を知っていて、だからこそ本来の役割とは異なる行動を取ったのだ。

 ガーデニアさんは、ヒースの干渉によって得た本来の守護者の権限から外れた能力を振るってでも、僕らを諦めさせようとしていた。

 シスルさんは、ここから先は自分が何をしようとヒースの思惑通りに進むであろうと本来の役割を放棄しながら、僕とダリアさんがヒースとは別の答えを見出す可能性を信じてくれた。

『なるほど。何故、守護者たちは過去の試行を知っていたのか不思議に思っていたが、君が介入した結果なのか』

「ええ。そして、今回。やっと、プログラムそのものに破綻をきたすことに成功しました。あとは、僕の雛型が足掻くのを世界の裏側から眺めつつ、世界が自壊するのを待つだけ――そう、思っていたんです」

「けれど、そうはならなかった」

 ヒースは「その通りです」と両手を挙げて言う。

「君が過去の試行を記憶しているのは、僕としても想定外だったんです。多分、僕がプログラムを弄くった副産物として、君の記憶の初期化行程に何らかの傷がついたのでしょう。君の記憶は完全には初期化されず、ダリアさんや、過去の試行の記憶が断片的に引き継がれた」

 ――単なる記録ではない、君が君として過ごしてきた、大切な記憶が。

 そう言葉を付け加えたヒースは、目を細めてこちらを見やる。その瞳の奥に映る僕は、きっと、楽しげに笑うヒースとはまるで違う顔をしている。

「結果として、君が選んだのは、クロウリー博士が望んだ再誕でもなく、僕が望んだ消滅でもなく。第三の答え――『僕ではない「君」を貫く』こと。それは、僕には絶対に考えられないことだったんです」

『……何故だ?』

 急き込むように問いかけたのはダリアさんだった。その姿はあくまで見えないけれど、僕のイメージの中では、ほとんどこちらに身を乗り出すようにして、泰然と構えるヒースに言葉を投げかける。

『君にはユークリッドと同じ選択ができたんじゃないのか。既に君はこのプログラムからは逸脱しているんだ、ヒース・ガーランドとは別の生き方を目指すということも――』

「いいえ、僕には無理なんです。僕が僕である限りは」

 ヒースは、背筋を伸ばし、胸に手を当てて。真っ直ぐに――きっとダリアさんが見ているだろう方向を見て、笑う。今度こそ、皮肉でも何でもなく、ただただ晴れやかな笑顔で、宣言する。

「ダリアさんにも垣間見ていただけたとは思いますが。造られてから二十七年。それはもう、恥の多い人生でした。しかし、全ては僕自身が一つずつ選び取った結果。反省点こそ多々あれど、何一つ後悔はありません」

 そう、高らかに掲げる「自負」こそが。

「人生を全力で生きて逝った、それこそが僕の誇りなんです! 生も死も、それに伴う思いも、全ての記憶が僕一人のものであって、他の誰のものでもありません。それを、無機質な記録ごときが模倣するなんて、ヒース・ガーランドへの侮辱に他ならない!」

 ヒース・ガーランドが再誕を拒む、たった一つの理由なのだ。

 ただの意地、言われてしまえばそれまでかもしれない。けれど、その生涯を通して「意地を貫いた」という事実こそが、ヒースの誇りなのだ。彼が彼である以上、それは決して覆らない。

 だから、ここから先に待っているのが自身の消滅であろうと、この場に立つ「記録」としてのヒースは胸を張って、どこまでも己の意地を貫き通す。ヒースが僕になれないように、僕もまた、ヒースのようにはなれない。僕とヒースとの間は、既に隔たっているのだと、改めて痛感する。

 ダリアさんは、しばし言葉を失っていたようだったが、やがて長く息をついて、静かな声で言った。

『そうか……。それは、すまなかったな』

「どうして、謝るのです?」

 そう言いながらも、ヒースは多分、わかっているはずだ。そして、ダリアさんも、ヒースが「わかっている」ことをわかっているはずだ。ダリアさんは、この試行が始まってからずっと、観測者として僕らを見つめ続けていたのだから。

 それでも、ダリアさんは、一言一言を噛み締めるように、言葉を続けていく。

『私は、君の墓を暴いただけでなく、君に「再誕」を強いた。私のわがままを押し付けて、君の誇りを汚そうとしたのだ』

「……いいえ、それは違いますよ、ダリアさん」

 かぶりを振るヒースの声は、どこまでも、どこまでも、穏やかだった。

「そう、違うんです。僕の再誕に執着するクロウリー博士と、あなたとは、根本的に違う。そうですよね、ユークリッド?」

 そこでいきなり僕に振るのか。本当にこのオリジナルは性格が悪い。僕はどうもヒースの記録と上手く同期が取れていないからか、ヒースほど上手く言葉が選べないっていうのに。それでも、ダリアさんが気に病む必要はないのだということだけは、きちんと、伝えなきゃならない。

 一つ、頷いて。乾いた――仮想の世界だっていうのに、妙によく再現されている――唇を舐めて言う。

「僕を導いてくれたのがダリアさんじゃなかったら、僕は、ここまで辿りつけなかったと思うんです。きっと、このヒースと、同じ答えを出していました。事実、三回目までは、ヒースとしての結末を選んでしまった」

 僕に過去のユークリッドの記憶は完全には残っていないが、いくつか、思い出せることはある。こめかみに当てた銃口の冷たさ。胸の中で再誕を拒むヒースとしての意識。それでも、諦めることなく僕の名を――ユークリッドの名を呼び続けていたダリアさんの、声。

「でも、今、ここに至って、僕は『後悔する』って思ったんです。ここで、ヒースとしての選択をしたら、後悔するって確信したんです」

 ホリィとの対峙で、消滅を覚悟した瞬間に浮かんだ思い。その時には正体がわからないまま抵抗してしまったけれど、今ならはっきりとわかる。

「僕は、ダリアさんの側に行きたい。目が覚めて、何もわからない状態で最初に何よりも強く感じたその思いを、死にたがりのヒースなんかに明け渡したくない。僕は僕として、ダリアさんが名づけてくれたユークリッドとして、ダリアさんの手を握りたい。そうしなきゃ、絶対に後悔すると思えたんです」

『ユークリッド……』

「ダリアさんの望みは、ヒースの誇りを汚してなんかいませんよ。ダリアさんは、ヒースにもなれずに死ぬはずだった僕の手を握ってくれたんです。だから、そんな悲しそうな顔をしないでください。ダリアさんは、何も悪くないのですから」

 そして、できることなら、笑って欲しい。僕が目を開けた時に、ダリアさんの笑顔が見たいのだ――、と言いたかったけれど、流石に言葉にはならなかった。何だか、やけに気恥ずかしくて。目の前で、ヒースがニヤニヤしているからかもしれないけれど。

 そのヒースは、ニヤニヤ笑顔のまま、歌うように朗々と声を上げる。

「そうです、罪に思うどころか、誇っていいのですよ。あなたは、仮にも『僕』の雛型であった彼の頑固な心を動かして、僕がやろうとしていたのとはまるで違う方法でこのプログラムをぶち壊した。あなたの望みどおり、そして彼の望みどおりに! 誰一人悲しまない方法で、ですよ!」

 そこまで言ったところで、ふと、何かに気づいたように声を落とした。

「ああ、いえ、一人だけ、悲しむ人がいましたか」

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