Layer_3/ Senescence(6)
声と同時に踏み出したユークリッドは、一呼吸でホリィの目前にまで迫り、右手に握った警棒を振るう。それを軽くナイフで捌いてみせたホリィは、そのままユークリッドの心臓を穿つべく深く踏みこんでくる。だが、ユークリッドもぎりぎりのところでそれをかわし、攻撃に移る。
とはいえ、私が認識できたのはそこまでだ。二人の攻防はモニタで見るにはあまりにも速く、残像すらまともに捉えることができない。造られた人、であるらしい彼らのやり取りは、常人には全く理解を超えたものだ。生前も、そして死して記録となった今もなお。
崩壊を始めた肉体から花びらを散らしながらも、ホリィは速度と力とでユークリッドを圧倒していた。最初こそ積極的に攻めに行ったユークリッドだったが、すぐに防戦一方に追い込まれる。
紙一重でナイフの一撃を弾き返したユークリッドは、間合いを取って乱れた呼吸を整える。ホリィもまた、体を低くしたままユークリッドの出方を伺っているようであった。
『……やはり、強いですね』
『ヒースを基礎とする君が、僕に勝てる要素は何一つ無いからね』
それでも、と。ホリィはほんの少しだけ、唯一見えている口元を歪めた――ように、見えた。
『このプログラムの向こう側に行きたいならば。「ヒースの記録」を超えてみせろ』
その言葉に、ユークリッドは一瞬息を呑み、そして、笑う。どこまでも場違いなようで、それでいて彼の内心を余すところなく表した、晴れやかな笑顔。
『望むところです!』
言葉と同時に、ユークリッドはもう一度踏み切った。その瞬間、彼の姿が完全に掻き消えて見えた。今までの試行でも何度か見た、時間そのものを消し飛ばすような動き。ユークリッド本人に言わせてみれば本来は「緊急危機回避能力」として備わっているらしい、加速能力だ。
だが、掻き消えたのはホリィも同じだった。
次にユークリッドの姿が確認できた時、その左肩が深く切り裂かれて花びらを散らしていた。おそらく、もう、その腕は使い物にならないだろう。それに対して、ホリィは全身を崩壊させながらもまだ、凛と立っている。
なるほど、同じ情報から造られた、ということは備わった能力も同じということか。形作るものは全く同じ。異なるのはその生涯に積み重ねた経験、そして鍛錬の差なのだろう。
「ユークリッド、大丈夫か!?」
問うた私に対して、ユークリッドは左腕をだらりと下げながらも、あくまで、真っ直ぐ前を見据えている。
『大丈夫です。まだ、行けます』
その言葉も、見開かれた目も、君が折れてなどいないことを示していた。だから、私は心からの言葉を君に贈る。
「ああ。信じている」
君がホリィに勝てないというのは、あくまで現実の、かつての「ホリィとヒース」に関する話だ。ここは、全てがある男の記録で形作られた世界。その中で、記録の先へ向かおうとする君は、時に、定義されている限界を超えるのだと信じる。
信じて、いるのだ。
一つ、私の声に頷いたユークリッドは、ホリィから目を離さないまま、重心を低くして徐々に呼吸を深めていく。全身の先の先まで、意識を張り巡らせているのが私にも見て取れる。ホリィの視線は目を隠す装置によって見えなかったが、君が構えたのを確認するのとほとんど同時に、再び音も無く姿を消した。
次の瞬間、激しい音が、鳴り響いた。
それは、ユークリッドが渾身の力で床を割り砕いた音。床を形作っていた硝子質の破片が空中に舞い、加速状態にある君の姿を一瞬だけ捉えることができた。踏み込むべき足場を砕かれ、刹那の間動きを止めた、ホリィの姿も。
煌く破片を切り裂くように、ユークリッドが更に加速する。そして、次の瞬間には、ホリィの手からナイフが弾き飛ばされて、空中で花びらとなって散り始めていた。
先ほどとは逆に、警棒を突きつけられる形になったホリィは、ふ、と息をつく。はらはらと舞い散る花びらの中で、その口元は、やはり、ほんの少しだけ笑っていた。
『確かに、君は「ヒースとは違う」ようだ、ユークリッド』
言いながら、かろうじてまだ形の残っている右手で、目を覆っていた装置を外す。私にとっては初めて見ることになるその素顔は、想像通りユークリッドをそのまま少しばかり幼くしたような顔をしていた。
君よりも少しだけ深い赤色の瞳で、じっと君を見つめて。ホリィは、自分自身が今にも崩れようとしている中、あくまで静かに言葉を吐き出す。
『ヒースの記録を抱えて、なお、君は「外」を望むんだな』
『はい。……どうやら、僕はそう望んでいるみたいです』
まだ、ユークリッドの言葉は多少の迷いを孕んでいた。自分の中に渦巻く感情を持て余しているような、そんな表情をしていた。だが、ホリィは君の迷いの意味すらも真っ直ぐに見抜いていたのだろう、ぽつりと『それはそうだろう』と語りかける。
『だって、ヒース・ガーランドは死者だが、君はまだ、生まれてすらいない』
その言葉に、ユークリッドははっとしたようだった。
生まれてすらいない――。その言葉には、私も胸の中心を打たれたような衝撃を感じた。それでいて、すとんと、腑に落ちたような感覚だった。
ホリィは、ごくごく薄い笑みを口元に浮かべ、そっと、君の胸に触れる。ユークリッドの存在そのものを、祝福するかのように。
『君がヒースであることを否定した以上、君は君だ、ユークリッド。今ここで新たに名づけられ、誕生しようとしている、一つの命だ』
『ホリィ……』
ユークリッドの声は、微かに、湿っているように聞こえた。
ホリィは、じっと君を見上げて、それから、不意に視線を外した。ホリィの視線の先にあるのは、既に人としての形をほとんど失い、影だけをこの空間に焼き付けているクロウリー博士の姿だった。
『と言っても、君が君としての自我を得ることはこのプログラムの目的とは反する。クロウリー博士の中では目的と手段はほぼイコール、もしくは既に入れ違っているようだけど』
それは、奇妙な光景だった。確かにクロウリー博士の姿は消えているというのに、空間に投影されるぼんやりとした輪郭だけが、まだ、彼女が「ここ」に存在していることを示している。
そして、激しい雑音が世界を満たす。世界を壊そうとする何者かの力と、世界を巻き戻そうとするクロウリー博士の意志とがぶつかり合っているのだと、そんな意味のことをホリィが口走った気がするが、ほとんど聞き取れなかった。
ただ、その中で、クロウリー博士の声らしきノイズまみれの断片的な音が、何度も何度も同じ言葉を繰り返し続ける。
『プログラムを』
『やり直す』
『もう一度、最初から』
『あなたのために』
『私が望んだあなたのために』
意識そのものを侵蝕するような無数の声と共に、今度こそ世界がばらばらと崩れ始める。唯一形を残している最後の扉もまた、外から光のようなものが漏れ出し始めていた。
このままでは、世界もろともユークリッドもまた崩壊に巻き込まれる。そんな確信と共に声を上げる。
「ユークリッド、その扉を開けろ!」
『しかし、この扉は、博士が認めなければ開かないのでは……!』
確かに、この階層の守護者はクロウリー博士だ。そして、このプログラムを統括しているのも彼女である以上、最後の扉を開く権限を持つのは彼女に違いない。実際に、扉の向こうから何かが扉を叩いているというのに、扉は依然閉ざされたままなのだから。
だが、今度こそ、はっきりと耳に届いたホリィの声が、私たちの懸念を退けた。
『今なら開く。君がプログラムを否定したお陰だろう、今この時だけは、彼が権限を奪い取っている』
『……え?』
ユークリッドが聞き返すが、ホリィの言葉の意味は、私にもわからなかった。ただ、ホリィはそれ以上を語る気はないようで、口を閉ざしてじっと君を見つめている。
そして、私も、ユークリッドを見つめる。最後の選択を迫られている、君を。
行こう――そう言うのは簡単だ。そして、きっと、ユークリッドは私の言葉に頷いてくれるだろう。だが、その前に、どうしても確かめなければならない。
「君はどうしたい、ユークリッド!」
私が君を導く理由だって、最初から最後まで私のわがままなのはわかっている。わがままという点では、何一つ、クロウリー博士と変わらないのはわかっている。
それでも――否、だからこそ、私は問い続ける。
私は、私の声に誠心誠意「応えてくれた」君を、愛している。私はとんでもなくわがままだから、君の意志を、君の言葉で聞きたくて仕方が無いのだ!
『僕は』
帽子のつばを持ち上げたユークリッドは、崩れゆく空を見上げて、叫ぶ。
『あなたに、会いたい!』
――その、言葉は。
世界を満たすノイズを貫いて、確かに、私の耳に届いた。
君が望んでくれるから、私は最後まで諦めないでいられる。未来を信じることができる。涙に滲みかけた目を擦って、改めてモニタを見据える。君の行くべき道を、真っ直ぐに見据える。
「ならば走れ、ユークリッド! この世界が崩れ落ちる前に、出口まで駆け抜けるんだ!」
『――はい!』
ユークリッドは、扉に手をかける。ユークリッドが触れた途端、扉に無数の光の線が走り、ゆっくりと、振動を始める。目を見開いてその様子を見届けていた君は、不意に、背後を振り向いた。
『ありがとうございます、ホリィ!』
「私からも……、ありがとう」
ホリィは、最後まで己の役割を全うしながら、それでも、ユークリッドを「ユークリッド」であると認めてみせた。ユークリッドが最後まで己では納得できなかった思いに、名前をつけてくれた。
ホリィは確かにヒースの片割れであり、初めて己を「己」として認めたユークリッドの、多分、最初の理解者であったのだと思う。
ユークリッドとよく似た少年は、ほとんど形を失いながらも、柔らかく、微笑んだようだった。
『うん。どうか、君たちは、幸せに』
――それは、僕らにはできなかったことだから。
ホリィの声と同時に、最後の扉が、開かれる。
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