Fatal Error

Layer_xxx/ Fatal Error(1)

 ――飛び込んだ先に広がっていた光景は、混沌の一言に尽きた。

 いくつもの風景が浮かび上がっては崩れ、混ざり合い、今度は別の風景が浮かび上がる。そんな創造と崩壊が繰り返される空間の中に、一筋だけ、透き通った一本の道が伸びていた。

『走れ、ユークリッド!』

 ダリアさんの声が叫ぶ。ちらりと振り返ってみれば、僕が入ってきた扉も既に粉々に崩れ落ちていて、走り抜けた道も徐々に消滅を始めている。もう、二度とその向こう側に戻ることはできないのだということが、嫌というほど、理解できてしまう。

 その全てが、遠い日の「記録」に基づいたかりそめの世界であったとしても、そこで起こった出来事は全て、今ここにいる僕の記憶に焼きついている。ヒース・ガーランドの記録を抱えながら、それだけは、かつてのヒースではない「僕」ただ一人の記憶であると、確信している。

 だから、僕が「僕」を手に入れてきた世界が、あっけなく壊れゆくさまには、胸の痛みすら覚える、けれど。

『君はまだ、生まれてすらいない』

 ホリィはそう言って、僕を送り出してくれたのだ。

 彼の言うとおり、今までの僕は、この卵のような世界で、まっさらだった僕自身を一個の人間として形作る儀式の只中にいた。けれど、今、その殻が破れようとしている。僕は、まさに今、本当の世界に向けて新しく生まれようとしているのだ。

 ――ただ、それは。

「違う、違う違う違う! 私が求めているのはあなたじゃない、もう一度最初からやり直すの!」

 この世界を形作ったクロウリー博士の想定の外側にある。

 空間のあちこちに浮かび上がるクロウリー博士の影が、僕の足を止めようと腕を伸ばしてくる。足元に刃を投げかけてくる。その一つ一つを避け、あるいは手にした警棒で払いながら、それでも僕は走り続ける。

 今までのこの塔での経験とヒースとの記録を重ね合わせれば、クロウリー博士の狂乱の意味もわからなくはないのだ。

 今ここにいる僕は、いわば精神だけの存在だ。電子演算機の内側で形作られた、仮想の僕だ。そして、このプログラムを完了した時点で、外の世界に存在するヒースの肉体に同期される。そういう仕組みなのだと、今ならわかる。

 つまり、僕がこの塔から抜け出して、外の世界で目覚めるということは、クロウリー博士からすればヒースのために用意した全てが水泡に帰すということだ。僕は、クロウリー博士の望む「ヒース」ではないのだから。

 だから、クロウリー博士は、僕を止めなければならない。このプログラムを一旦初期化して、もう一度「ヒース」を作り直さなければならない。

 本来ならば、それはごくごく一瞬で完了したはずだ。事実、一度はそうなりかけたのだ。しかし、何らかの理由で初期化は妨害され、このプログラムそのものがゆっくりと壊れ始めている。クロウリー博士の意志とは、無関係に。

「ダリアさん、あとどのくらいで抜けられますか!」

『すまない、ありとあらゆる数値が狂っていて、正しい距離が測れない! だが、決して遠くはないことだけは確かだ!』

 ダリアさんの声は、相変わらずノイズに満ちている。外の世界にいるダリアさんとの通信が、いつまで保つのかわからないのも、余計に不安をかきたてる。

 この世界に何があったのか、未だにはっきりしたことはわからない。ただ、クロウリー博士とはまた別の思惑を持つ「何者か」が、この世界に介入しているということは、間違いないはずだ。

 もちろん、それはダリアさんではないはずだ。

 ダリアさんは、真っ直ぐに僕を導いてきた。僕との出会いを信じて疑わなかった。僕が誰であろうと、それこそこのプログラムから見たらとんでもない出来損ないだろうと、ダリアさんは他でもない「僕」と僕が辿った経験こそを認めてくれた。

 そのダリアさんが、僕が歩んできた道をあえて壊す理由などないはずだと信じている。

 ならば、一体、誰が――?

 頭の中に疑問符がよぎるが、実際のところ、そんなことを考えている場合でもなかった。一つ、また一つ、僕を追うクロウリー博士の影は、ヒースの記録を基にした「お化け」に姿を変え、僕の前に、後ろに、立ちはだかりはじめる。

 最初は警棒と銃とで何とか打ち払えていたそれらが、徐々に数を増やし、肉薄してくる。無理やりに振り払って進もうとしても、足が鈍るのは避けられない。お化けの爪が、牙が、それに世界の崩壊が、すぐそこまで迫っているのを冷たい気配として感じ取る。

『ユークリッド!』

 ダリアさんの悲鳴が遠くに聞こえた、その瞬間。

 ごう、と。一陣の風が吹いたかと思うと、今まさに僕に組み付いて命を刈り取ろうとしていたお化けの頭が消し飛んだ。次の瞬間、あれだけ重たく圧し掛かっていた重さが、花びらとなって虚空に散る。

 そして。

「全く、世話の焼ける」

 凛、と。張った声が響き渡る。ヒースの記録の中では痛みと過ちの象徴であったそれが、今この瞬間だけは、福音のように聞こえた。

「……ガーデニア、さん?」

 ヒースならきっと「ガーディ兄さん」と呼んだのだろうが、もはや僕はヒースではなかったから、その名前を、素直に言葉にする。

 僕の前に降り立った検査着姿のガーデニアさんは、長く伸ばした黒髪を揺らして、僕を真っ向から見据えてくる。はっきりとわかる、苛立ちを篭めて。

「何を呆けてるの? 私が、あんたの道を開いてあげるから、さっさと行きなさい」

「しかし……どうして」

 今なら、何故ガーデニアさんがあんなに僕を敵視していたのかだってはっきりとわかる。ヒース・ガーランドの恋はあまりにも一方的で、ガーデニアさんをただ傷つけることしかできなかったし、自分が傷ついたところで、ガーデニアさんの気持ちを本当の意味で理解できたわけでもない。

 なのに、どうして。

 ガーデニアさんは、迫り来る無数の鼠を蹴り飛ばし、視界を埋め尽くしていたお化けの波を切り開く。そして、僕を振り向いて、ほんの少しだけ、笑った。

「私は、あいつが大嫌いだけど、あんたのことは嫌いじゃないから。見届けると言ったでしょう、ユークリッド」

 ……そうか。

 ガーデニアさんもまた、僕を、認めてくれていたのか。あの時はまだ、与えられていた命題をただ飲み込んでいただけで、ガーデニアさんが僕を「ユークリッド」と呼んだ意味すらわかっていなかったけれど。

 ガーデニアさんは、僕が、僕として立つことを、期待してくれていたのだ。

 その期待に応えるために、僕は前に進まなければならない。このプログラムを、終わらせなければならない。だが、僕とガーデニアさんだけでは、どうしてもクロウリー博士の繰り出す無数のお化けを圧倒しきれない――。

 今度こそダメなのか、と思った途端、耳を劈く轟音と共に隊列を組んで迫っていた影の一団が消し飛んだ。否、ただ消し飛んだのではない。無数の銃弾に撃ち抜かれているのだ。

 その銃弾を生み出していたのは、ガーデニアさんとは逆側の道の端に立っていた、黒い影だ。

 いつの間にか現れていたその影は、やはり、見覚えのある漆黒の外套をゆるい空気の流れに靡かせ、その細い体には似合わぬ巨大な機関銃を抱え、白い面の半分ほどを覆うミラーシェード越しに、無数のお化けを見据えていた。

「シスルさん!?」

『君といいガーデニアといい、守護者はその階層から離れられないのでは!?』

 手にした巨大な機関銃をあっけなく放り投げながら、シスルさんはこんな状況にありながらも、なおもおどけた、芝居がかった調子で言う。

「それは、アンタたちの功績さ。ユークリッド、それにダリア。アンタたち二人は、確かに奴の心を動かした。ただでさえ壊れかけた世界だ、こんな『エラー』があってもいいだろう?」

 その言葉にはっとする。今の今まで、シスルさんが「奴」と呼ぶのは、たった一人だけだったのだから。

 けれど。けれど、それは。

 ただその場に立ち尽くして、疑問符を飛ばすことしかできない僕に対して、シスルさんはいたずらっぽく口元だけで笑ってみせる。もちろん、その分厚いミラーシェードの下でも、笑っていたのだろう。

 記録を信じるならば、左右ちぐはぐな色をしているらしい目を、愉快げに細めて。

「不思議かい? まあ、そうだろうな。だが、すぐに答えはわかる。さあ、共同戦線と行こうじゃないか。花冠のお姫様と」

 どこからか一振りのナイフを取り出したシスルさんは、ガーデニアさんに笑いかけ、

「――君と」

 僕の背後に向かって、僕が今まで聞いたことのない、柔らかな響きで呼びかける。

「ああ」

 背中から聞こえてきたのは、刃物のような響きを帯びた声音。

「ユークリッド、君は迷わず前へ。君の背中は、僕が守るから」

 ――ホリィ。

 振り向かずともわかる。僕と背中合わせに、彼が立っていることも。ぴんと背筋を伸ばし、その手に研ぎ澄まされた大降りのナイフが握り締められていることも。

 ガーデニアさんも、シスルさんも、ホリィだって。かつて死んだヒース・ガーランドという人物が遺した記録から形作られた、かりそめの存在に過ぎない。遠い日に姿を消した彼らは、ヒースと同じ時間を歩むことができなかったはずだ。

 そんな彼らが、今、同じ場所に立っている。僕をこの先へと導くために。いくらかりそめであろうとも、一瞬でも彼らが集ったこの光景は、きっと僕の記憶の中に、鮮やかに刻まれ、忘れ去られることはないだろう。決して。

 はは、と。ダリアさんも軽やかに笑う。お化けの数は減らない。それどころか数を増すばかりだ。それでも、きっと。

『行こう、ユークリッド。彼らの期待を裏切るわけにもいくまい?』

「……はい!」

 ここにいる彼らなら大丈夫だという確信がある。それはヒースの記録だけではなく、この塔で彼らと触れ合った僕の経験が、そう告げている。

 信じよう。僕がこの場所で見出した全てを信じて、前へ。世界の先へ。

 お化けの腕をかいくぐり、全てを振り払って、床を蹴る。少しずつ、少しずつ、何かが近づいているようなちりちりとした感覚が僕の内側を支配していく。それは高揚なのか、それとも全く別の感情なのかもわからないまま。

 長かった道が、終わる。

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