Layer_3/ Senescence(5)

 再び、金属質の音が響き渡る。二つの影は黒い暴風のように、ぶつかり合っては離れる。ナイフを手にしたホリィはユークリッドの急所を穿つべく鋭い攻撃を繰り出すが、ユークリッドは的確に受け止め、時に受け流し、致命的な一撃を避け続けている。

 だが、根本的な実力の差は埋めがたいのだろう。無傷のホリィに対して、ユークリッドは少しずつ浅い傷を負い始めている。血ではなく、情報の薄片である花びらを散らしながら、ユークリッドは一旦ホリィと間合いを取る。

 音もなく床に降り立った漆黒の少年は、ぽつりと、呟く。

『……らしくないな、そんな曖昧な理由で抵抗するなんて』

『でしょうね。僕もそう思っています』

 ユークリッドは左手で帽子を被りなおしながら、口元だけで苦笑してみせる。もちろん、警棒を握る手は緩めないままに。

『でも』

『でも?』

『それが「君」の選択なんだな、ユークリッド』

 初めて、ホリィは君のことを「君」でもなく「ヒース」でもなく、「ユークリッド」という名で呼んだ。その違和感に、他でもない君自身も気づいたのだろう、一瞬目を見開いた。しかし、次の瞬間には、一息でユークリッドの懐に飛び込んだホリィが、君の首筋にナイフを突きつけていた。

『……っ!』

 ユークリッドが息を詰め、硬直する。決して、ユークリッドがホリィの動きを見逃した、ということではない。ホリィが速過ぎるのだ。

 先ほどまでは、まだ全力ではなかったということか。

 それでも、なお、ユークリッドは諦めない。片手を腰の銃に添えて、どうにかこの状況から逃れようとホリィの隙を探る。隙を見せるような相手ではないとわかっていても、決して諦めないのだ。

 そんなユークリッドの顔に、あたかも口付けするかごとく顔を近づけたホリィは、そっと、口を開く。

 

『――君たちの選択は、確かに聞き届けた』

 

 何故か、ホリィの声と、もう一人よく似た誰かの声が重なって聞こえた。きっと、ユークリッドもそうだったのだろう、微かな疑問の色が見開いた薄赤の目によぎった、その時だった。

『何をしているの、早く初期化して……っ!?』

 目の前に無数の光の窓のようなものを広げながら、その中を流れていく数字を指先で弾くような動作をしていたクロウリー博士の動きが、不意に止まる。クロウリー博士が見つめていた窓が揺らぎ、歪み、崩れていく。それと同時に、クロウリー博士自身の指先もまた、花びらと化して崩れ始める。

『どうして私の制御を外れているの!? 一体何が介入しているの!?』

 ゆっくりと崩壊を始める己の手を見つめながら、クロウリー博士は明らかな狼狽をあらわにして叫ぶ。だが、崩壊はクロウリー博士に限ったものではない。今までは何とか保っていた透明な床も、徐々に崩れ始めている。

 そんな中、ユークリッドの喉にナイフを突きつけたままのホリィが、視線こそそのままに、しかし明らかにクロウリー博士に向けて言い放つ。

『……あなたは気づかなかった。彼の記録を再構築することだけに執心して、彼の思想について考えようともしなかった』

『私が?』

『わかっていない。わかっていないんだ。彼がどうしてこのプログラムを拒むのか。あなたの思い通りにならないのか。だって』

 ホリィの唇から紡がれたのは、

『僕の知るヒースは、再誕なんて望むはずがないんだ』

 このプログラムの、根本的な否定だった。

 クロウリー博士は一瞬、呆気に取られたように、長い睫毛に縁取られた瞼を持ち上げて、ホリィを見たようだった。だが、それもごく刹那の出来事に過ぎなかった。すぐにその驚きの表情は狂おしいまでの感情の渦に飲み込まれる。

『そんなはずはない! そんなはずはないわ! 彼は死を恐れていたはずじゃない!』

 私はヒース・ガーランドをよく知らないが、最低でもユークリッドという人物は、何度死を経験してもそれを恐れることは変わらなかった。超然と死を受け入れるような人間ではなかった。

 だから、クロウリー博士の認識は、それはそれで正しいのだろう。問題は、きっと、その先にある。

 だが、己の正しさを疑おうともしないクロウリー博士は、失われつつある手で頭を押さえて、掠れた声を絞り出す。

『そう、私は私と彼の望みを叶えるの。だから、邪魔をしないで――』

『そうじゃない……。そうじゃないんです。あなたは、ヒース・ガーランドの望みを履き違えている』

 その声は、ホリィに命を握られたままである、ユークリッドの喉から放たれたものだった。ホリィの手首を掴み、何とか喉元のナイフを引き剥がそうとしながら、一言一言を告げる。

『記憶を、いえ「記録」を得てわかりました。ヒースは、確かに死を恐れていた。けれど、死後の「僕」ならば、絶対にこう言いますよ』

 一つ、息をついて。ほんの少しだけ口の端を歪めて。

『僕の死は僕一人のものであって、他の誰にも渡さない』

 そう、言い放つのだ。

 ここに至って、私もやっと、ヒースの思想の一端を理解することができた。

 ヒースという人物は、それこそ狂気的なまでに記録を残した。こうして、他の人間の手で彼と彼に深くまつわる人物の「影」を再現できる程度には膨大かつ仔細な記録。

 だが、本当の彼自身は、ここにはいない。ヒースはあくまで死者であり、ここにいる影は彼ら自身ではなく、ゆえに記録から再現されたヒースは言うのだ。『これは僕ではない』のだと。

 そして「本物のヒース」以外のヒース・ガーランドを、決して認めない。全ては、彼から見ればまがい物でしかないのだから。

 だからかつての試行は失敗した。彼が彼である以上、決して成功するはずの無いプログラムであることを、クロウリー博士だけが理解していなかった。

 ――唯一、計算外があったとすれば。

『それでも、それでも、僕は生きたいんです。そう、思っちゃったんですよ!』

 ヒース・ガーランドの遺した記録から――「ヒース・ガーランドを再生する」というプログラムの命題から、逸脱する個体が現れたこと。

『どれだけ「早く死ね」って言われても、僕の消滅を望むのが僕を造ったあなたでも、僕の記録から形作られたホリィでも、あるいは「僕」自身であっても、生きることを諦めるわけにはいかないんです!』

 ユークリッドは、吠えると同時に力任せにホリィの体を突き放した。ホリィは獣のような柔軟さで崩れつつある床に降り立ちながら「ふむ」と崩れ始めた己の手をしげしげと眺める。

 そう、ホリィもまた、世界の崩壊に飲み込まれ始めていたのだ。それにやっと気づいたのだろう、ユークリッドは警棒を構えなおしながらも、息を呑む。しかし、ホリィは特に驚くことも狼狽することもなく、落ち着き払った様子でクロウリー博士を振り向く。

『クロウリー博士。崩壊の深度が上がっている。今の僕では、彼を消滅させるには不足だろう。仮に消滅させたとしても、次の試行を開始するまでに、当プログラムの核も崩壊している可能性が高いと分析する。それでも、続行するのか?』

『続けて。崩壊なんかさせない。私が求めているのは、あの頃の彼。そこの失敗作じゃない。完全な彼を再誕させるまで、試行は終わらない』

『完全なヒースなんてありえない。できたとして、彼は再誕を望まない。――でも、何度言っても、あなたは納得しないのだろうな、クロウリー博士』

 ホリィは諦めたように、同じ言葉を繰り返し続けるクロウリー博士を眺めやる。クロウリー博士はノイズの走る光の窓――おそらくこの塔を制御するための制御盤のようなものなのだろろう――を前にしながら、鬼気迫る表情で頷く。

『納得などできない。彼のため、彼のために私はこのプログラムを造った。彼のために私はここにいる。彼を一番理解しているのはこの私。この私だもの』

「……彼のため、か」

 彼女の言うところの「彼」であるヒース、その記録から形作られたホリィにも、その記録全てを握ったユークリッドにも否定されてなお、クロウリー博士は諦めようとしない。「彼のため」という言葉を呟き続けるのだ。その体を半ば崩壊させながら。明らかに理性のタガが外れた、歪んだ笑みを浮かべながら。

『なのに、何故、何故、否定するの? 否定など許さない。このプログラムは彼のため。否定するなんて彼だって許さない。許さないの』

 ――仮に「僕」自身であっても。

 同じようなことを、つい先ほどユークリッドが言ったことを思い出す。根本的に違うのは、ユークリッドの言葉が自分自身に対する決意の表明であることに対して、クロウリー博士のその思いはヒース・ガーランドという他者への執着であったということか。

 そこにヒース自身の意志や思想など何一つ関係ないのだ。彼女自身が、ただただ、「自分の夢見た」ヒースの再誕を望んでいる。その事実に気づいて、つい、身震いする。

 私はどうなのだろうと、思ってしまったから。

 恋心ゆえに本来の君が望まぬ試行を押し進め、今ここにいる君に「生きて欲しい」と望み続ける私は、それこそ、己の価値観を押し付けようとしたクロウリー博士と何も変わらないのではないのかと。

 だが、そう思っている間にも、ホリィはナイフを握りなおしてユークリッドに向き直っていた。まだ、終わってなどいないのだと、その凛とした立ち姿が生み出す圧迫感で判断する。

「まだ、やる気なのか――?」

 つい口をついて出てしまった言葉を、ホリィは浅い頷きで肯定する。それを追ってユークリッドが言葉を付け加える。

『……ホリィは、そういう人なんです。好き勝手に生きた「僕」とは違い、己に与えられた「役割」をどこまでも忠実に遂行します。そうすることで、己の価値を証明してきました。だから、決して命令には逆らわないし、命令を確実に果たすだけの能力もある』

 その声は、ホリィの脅威を最もよく知る者としての緊張と畏怖に満ちていた。だが、何故か、その表情は――。

「笑っているな、ユークリッド」

『笑っていますか、僕』

「ああ。……高揚しているのか?」

 感情の昂ぶりを隠し切れなかったのだろう、唇を歪めていたユークリッドは『そうですね』と深く頷く。

『生前の「僕」は、こういう形でホリィと向き合うことはありませんでしたから。だから、嬉しいんです。これが記録から形作られた幻であっても――僕の「憧れ」でもあったホリィと、同じ場所に立っている、この瞬間が』

 ホリィとの関係性を知らない以上、片割れを「憧れ」と呼ぶユークリッドの心持ちは、私にはよくわからない。わからないけれど、君が心から嬉しそうな笑顔を浮かべている以上、私が止める理由は無い。それが仮に命のやり取りであろうとも、君にとっては何よりも大切な儀式なのだろうから。

 ――そうだ、私は、そんな笑顔を浮かべる君が好きなんだ。

「なら、全力でぶつかればいい。君自身の憧れに、追いついて、追い越すために」

『……はい!』

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