Layer_3/ Senescence(2)

『……ここ、は?』

 ユークリッドが足を踏み入れたのは、小さな部屋だった。モニタの端に映る索敵網に、鰐の姿が引っかかっていないことを確かめ、ほっと息をついてから、改めて部屋の様子を観察する。

 先ほどまでの夢のような森とはうって変わって、いたって普通の部屋だ。白い壁に囲まれたそこは、ユークリッドが目覚めを迎える場所に似ている。違うのは、ユークリッドがくぐった「扉」が存在していること。

 そして、ベッドの横に、小さな椅子が置いてあることだ。

 ――今までの試行では、この椅子にカメリア・クロウリー博士が座っていて、誰もいないベッドに向かって何かを一方的に語りかけていたのを思い出す。

 それは、君、ヒース・ガーランドの過去の記憶であったのだろう。

 ただ、今、この空間にはユークリッドが一人で佇んでいて、あたりをきょろきょろと見渡している。帽子のつばを上げたユークリッドは、改めてベッドに視線を落として、小声で呟く。

『僕は、この部屋を、知っている気がします』

「そうなのか?」

 はい、と答えて、ユークリッドはこめかみの辺りを押さえる。己の内側に浮かんでは沈む、あやふやな記憶を手繰り寄せるように。

『僕はここで、誰かと話していたんです。内容は思い出せないけれど、確か、相手は白衣の女性でした』

 そこまで言ったところで、ユークリッドははっと顔を上げた。言葉にしたことで、自分でも気づいていなかったことに思い当たった。そんな風に見えた。

『そう、そうでした。どうして思い出せなかったんだろう。僕は、地階でその人に会っている。カメリア・クロウリー博士。この塔の、設計者』

「……名前まで、覚えていたのか」

 確かにユークリッドが目覚めた直後に、クロウリー博士はユークリッドの前に姿を現している。だが、その時は今までどおり、一方的に話をするばかりでユークリッドとの対話は成立していなかった。そして、ユークリッドも彼女については何も覚えていなかったはずだ。

 ユークリッド自身も、自分の記憶が不思議なのか、首を傾げながら言う。

『はい。僕の頭に残されている記憶が、彼女の名前を繰り返しているんです。でも、どうして今になって思い出したのでしょう……?』

 どうして。もう一度繰り返したところで、不意に、声が聞こえてきた。

『待っていたわ』

 ユークリッドは、反射的に振り返る。

 いつの間にか扉の前に立っていたのは、一人の女性だった。細く柔らかな金髪に、肉感的な体を白衣で覆い隠した妙齢の女性。

 カメリア・クロウリー博士。この塔の設計者にして、塔の全てを管理する者。

 クロウリー博士は、誰が見ても温かみを感じさせる笑顔を浮かべて、一歩、ユークリッドに迫る。

『クロウリー、博士』

 ユークリッドは、どこか痛みを堪えるような表情を浮かべる。そういえば、私はユークリッドがクロウリー博士に対してどんな感情を抱いているのか知らない。ガーデニアには恋情と畏怖を。シスルには友情と敬意を。

 では、クロウリー博士は君にとってどのような存在なのだろう?

 クロウリー博士はユークリッドのすぐ目の前で足を止めて、綺麗に整えられた眉を少しばかり下げる。

『怖い思いをさせてごめんなさい。不測の事態が起こってしまって』

「先ほどの鰐、ですか?」

 ええ、と答えながら、クロウリー博士はしなやかな白い手をユークリッドに伸ばす。指先がユークリッドの形のよい顎に触れ、壊れやすいものを扱うようにそっと撫ぜる。羨ましい、と思わずにはいられないが何とかその言葉を喉の奥に呑み込む。

『でも、あなたは、何も心配することはないわ。この塔はあなたのためのもの。あなたの望みを叶えるためのもの。そのために邪魔になるものは、私が全て退けてあげるから』

 だから心配はしなくていい。まるで、小さな子供をあやすように、クロウリー博士は言う。

 当然、この塔の製作者であり管理者でもあるクロウリー博士にはそれだけの力と権限があって、実際に、そうするつもりなのだろう。私の目から見る限り、彼女はユークリッド――ヒース・ガーランドに対して執着にも似た感情、もしくは強い「好意」を抱いているように見えていたから。

『……いえ』

 しかし、ユークリッドはクロウリー博士の手首を握って、頬からその手を引き剥がしながら、真っ直ぐに彼女の目を見つめる。

『僕は、聞かせてほしいんです。この塔に起こっていること、何かが違うと感じていること。その理由を、あなたの口から聞かせていただきたい』

 淡々と。それはどこか、案内人の少年に似た、抑揚の無い喋り方であった。ともすれば噴き出しそうになる感情を、何とか抑えこんでいるようにも聞こえた。

 クロウリー博士はそんな君の目をじっと見つめてから、ふわりと、花がほころぶように微笑んで、両手で君の手を取る。

『そう。それなら、歩きながら喋りましょう。あなたの目的地は、もうすぐそこなのだから』

『目的地、とは?』

『この塔の出口。あなたの旅の終わり』

 そう告げたクロウリー博士は、ユークリッドの手を取ったまま部屋の扉を開ける。虚を突かれたユークリッドは、つんのめりながらも、クロウリー博士のペースに合わせて部屋から一歩を踏み出した。

 先ほどまで、この部屋に繋がっていたのは空想の森だったはずだが、いつの間にか、長い硝子細工の階段が天に向かって伸びていた。

 この世界に、空間の繋がりなど意味を成さない。特に、管理者であるクロウリー博士だから、空間を捻じ曲げるくらいはお手の物なのだろう。

 この長い階段の先に、君の目的地がある。私の目指した「終わり」がある。そう思うと、自然と喉が渇いてくる。ユークリッドもそうなのだろう、ごくりと唾を飲み下したのが、白い喉の動きでわかる。

『足元に気をつけてね』

 言いながら、クロウリー博士は一歩、一歩、ゆっくりと階段を上っていく。君が一歩遅れてそれに続く。透明な階段は、一歩踏むたびに淡く輝き、君の到着を歓迎する。

 最初はその幻想的な光景に気を取られていた君だったが、やがて顔を上げてクロウリー博士の背中にむけて問いかける。

『……先ほどの鰐や、壊れてゆく世界のことについて、聞かせてください』

 クロウリー博士は、ゆっくりと君を振り返る。ユークリッドを前にして絶やすことの無かった笑顔が、ほんの刹那、その美しい面から剥がれ落ちるような、錯覚。しかし、すぐに慈愛に満ちた笑顔を取り戻して続ける。

『ええ、そうだったわね。あれは、本来この塔では起こりえない現象なの。あなたの記憶とは、全く関係の無い現象』

 やはり、そうだったのか。案内人の少年の反応からしてそうではないかと思っていたが、これらの現象は、管理者のクロウリー博士からしても完全なイレギュラーだった。

『そもそも、あなたももう理解しているとは思うけれど、この塔は現実には存在しないの』

 クロウリー博士は、一つずつ、この塔の仕組みを説明していく。

 この塔は、遠い日に君が残した記録を元に形作られた仮想世界であること。

 君の肉体は今、長い眠りについているということ。

 この塔で起こった出来事は全て、かつて君から失われた記憶を取り戻すための、一種の儀式であったということ。

 今までの試行では少なからず驚きを見せていたユークリッドだったが、今の君はただ、静かにクロウリー博士の言葉を聞いていた。眉間に僅かに皺を浮かべて、それでも、突きつけられる「現実」を重たい沈黙をもって受け止めている。

『ただ、あなたが見た世界の崩壊は、私が設計したものではないわ』

『何故、そんなことが起こったのですか?』

『それは今、確認をしているところ。でも、あなたがここまでたどり着いてくれたから、何も問題はないわ。もう、この試行は終わる。あなたはすべての記憶を取り戻して、長い夢から目覚めるの』

 クロウリー博士の言葉と表情を一言で表現するならば、恍惚、という言葉が相応しいだろう。彼女の内心はあくまで想像することしかできないが、ユークリッドがこの場にたどり着いた喜びに満ち満ちていることだけは、はっきりとわかる。

 そして、クロウリー博士に手を引かれたユークリッドは、塔の最上階に辿りつく。

 そこはがらんとした空間だった。空は白く、ユークリッドの靴が踏み閉める床は硝子のように透き通り、足元に広がる夢想の森が見て取れる。

 そして、彼らの目の前に立ちはだかるのは、巨大な扉だった。この塔にあるどの扉よりも大きく、重く、ぴたりと閉ざされた扉。

『これが、外の世界へと続く扉。あなたが記憶を全て取り戻した時に開くもの』

 クロウリー博士はふわり、と白衣を翻してユークリッドに向き直る。その手の上には、天球儀を思わせる虹色の物体――最後の記憶の鍵が浮かび上がっていた。

『本当は、もう少しゆっくり記憶を取り戻してもらいたかった。一度は崩れ落ちた記憶を「自分のもの」として再構成するには、適切な刺激と定着させるだけの時間が必要だから。でも、そうも言っていられない状況なの』

 見て、と。クロウリー博士は足元に視線を落とす。硝子張りの床越しに見える景色は、徐々に、徐々に、森という姿を失い始めている。木々の梢は砂でできた作り物のように崩れ去り、色の無い花びらを撒き散らして虚空へと還っていく。

 ユークリッドは、その様子を、唇を噛んで見つめていた。自分の記憶そのものともいえる空間が、正体不明の「崩壊」に巻き込まれて消えていく様子を見せ付けられるのは、気分のよいものではないはずだ。クロウリー博士も、今まで浮かべていた笑顔を少しばかり曇らせて、ユークリッドを見つめている。

『あなたには、この状況をどうにかできないのですか?』

 ユークリッドの問いに、クロウリー博士は重々しく首を横に振った。

『仮に原因を突き止められても、即座に修復するのは難しいわ。わかるでしょう? 硝子玉を割るのは簡単だけど、復元するのは難しい』

『……なるほど』

 ユークリッドは苦々しさを噛み締めるように呟いた。納得はしていないだろうが、納得の如何に関わらず、終わりはすぐそこにある。眼下に広がる崩壊の波が、この場所にまで追いついてくるのが先か、ユークリッドが記憶を取り戻すのが先か。そういうことだ。

『さあ、ヒース』

 クロウリー博士が、君の名を呼ぶ。まだ、君の耳には届かないだろう、本来の名前を。

『記憶を取り戻したいと望むなら、あなた自身を取り戻したいと望むなら、この鍵を手にとって。そして』

 ――「あなた」の目で、私を見て。

 そのクロウリー博士の言葉に、私は猛烈な違和感を覚える。

 クロウリー博士の言う「あなた」とは、一体誰なんだ?

 ヒース・ガーランド。そうだろう、その通りだ。この塔に満ちる記憶は他でもないヒース・ガーランドのものなのだから。

 そこまで考えて、やっと腑に落ちた気がした。クロウリー博士の言葉に感じる違和感。ユークリッドが記憶を取り戻すというプログラムの意味。

 クロウリー博士は、今ここにいる不完全な記憶しか持たない「君」を見ているのではない。遠い過去に死を迎えた、ヒース・ガーランドしか見えていない。当然だ、これは彼を再誕させるためのプログラムに他ならないのだから。

 だが、それならば、君はどうなるんだ。ここにいる、まだ「ヒース」とは言えない君は。

「ユークリッド!」

 待て、と。言いたかった。だが、その言葉は喉に引っかかって外には出ない。

 選択肢は二つに一つなのだ。記憶の鍵を手に入れて、クロウリー博士の思惑通り、ヒース・ガーランドとしての記憶を受け入れるか。それとも、その手を跳ね除けて、塔の崩壊に巻き込まれるか。

 記憶の鍵に手を伸ばしかけていたユークリッドが、ぱっと顔を上げる。

『ダリアさん?』

「…………っ!」

 何も言えない。言えるはずもない。どちらも選ばないという選択肢は存在しない以上、今更私にできることは何一つとしてないと、理解してしまったから。

『そう、最初からあなたには何もできないんですよ、ダリアさん』

 耳元で囁く声。ノイズ交じりのそれは、深い諦観と否定とを孕んでいた。

『そして、僕は――都合のいい奇跡なんて、望まない主義なんです』

 うるさい。うるさいんだよ、ヒース・ガーランド!

 私は奇跡を信じている。『君』の言う「都合のいい奇跡」なんかじゃない、自分たちの手で勝ち取る、本物の奇跡を信じているんだ。だから。

「立ち止まらなくていい。前に進め、ユークリッド」

 私を見上げるユークリッドに、今の私に言える唯一の言葉を、投げかける。

「君は、君の手で、未来を勝ち取ってくれ。それが私の唯一の願いだ」

 ユークリッドは、しばし、じっと虚空を――私がいるはずの方向を見つめて、やがて、一つ、きっぱりと頷いてみせた。

『ありがとうございます、ダリアさん』

 そして、記憶の鍵に、手を伸ばす。

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