Layer_3/ Senescence(3)
モニタが、白に塗りつぶされる。
白。それはすべての光を掛け合わせた色だ。
君の記憶そのものが、いっぱいに溢れて、混ざり合った色だ。
『……私、あなたのことが、知りたいの』
『知って、どうしようというのです?』
声が、聞こえる。何度か聞いたクロウリー博士の声に、硬く張り詰めた、人を突き放すような声が続く。それが、君――かつてのヒース・ガーランドの声であると気づくまでに、一拍の間が必要だった。
そう、意外なことに、かつてのヒースはクロウリー博士に対してどこまでも冷淡であった。
『今更、私に取り入っても無駄ですよ。もう長くもないガーランドに、価値はありません』
『あなたの「記録」を見せてもらったわ』
少しだけ、驚いたように、ヒースが息を呑んだのがわかった。
記録。そういえば、守護者たちは、いつも「記憶」ではなく「記録」という言葉を使っていたことを思い出す。そして、このプログラムは、記録を記憶に還元するための試行なのだということも。
『個人であれほどまでの膨大かつ精密な記録を残したガーランドは、あなた一人と聞いているけど。日々の生体の状態、自身と周囲の行動、思想と信条、それにあなた自身の感情。何もかもを、あなたは、記録してきたのね』
『それは、実験体の一つである私が「父」であるガーランド博士、そして「鳥の塔」に報いる方法に過ぎません。好き勝手生きてきた分、その程度の恩返しは必要でしょう』
『……実際には、自分のため、では?』
クロウリー博士は、ゆっくりと、問いを投げかける。一言一言を、確かめるように。ヒースはそれには答えない。少しばかり不規則な息遣いで、ただ、クロウリー博士の言葉の続きを待っている。
クロウリー博士の声が、白く染まった世界の中に、朗々と響き渡る。
『あなたは、あなた自身の存在を、この世界に残したかったのではなくて? 自分自身の人生を余すところなく記録することで、あなた、という形をいつまでも残したいと願った。そうではないかしら?』
その問いに、ヒースは、答えない。
私はその時のヒースがどんな顔をしていたのか、想像だにできなかった。
その命が終わる直前まで、己の生涯を記録し続けた人物。私は「ユークリッド」としての君しか知らない以上、ヒース・ガーランドという人物が生前に抱えていたものを理解できるわけではないのだ。
もちろん、その記録が、果たして誰のためのものであるのかも。
『ねえ、ヒース』
私の意志とは無関係に、徐々に遠ざかっていくクロウリー博士の声。それでも、最後の一言だけは、いやに、耳に残った。
『――あなたの「記録」を、生かしてみたくはない?』
暗転。
ついにモニタが壊れてしまったのではないか、という不安に駆られたが、それは杞憂に終わった。僅かな画像の乱れと共に、ユークリッドとクロウリー博士が向き合っている、塔の最上階が映し出される。
ユークリッドは、呆然とその場に立ち尽くしていた。目の焦点は虚空を彷徨い、その唇は微かに開いている。帽子から覗いた白い髪が、どこからともなく吹く風に揺れていた。
『……思い出したかしら?』
風に白衣の裾をはためかせながら、靡く髪を押さえたクロウリー博士が問いかける。艶やかな笑みを浮かべる博士にゆっくりと焦点を合わせたユークリッドは、一つ、頷いた。
『はい。何もかも、何もかも』
答えるユークリッドに表情はなく、私は君の内心を伺うことができない。今まで、素直に感情を表現してくれた君だっただけに、その「伺えなさ」がもどかしい。
だが、それが本来の君――ヒース・ガーランドという人物であったのかもしれない。
記憶を取り戻したのだから、歓迎すべきだ。そうは思うのだが、君の無表情を見ていると、不安に駆られて仕方ない。君の手が再び腰の銃に伸ばされて、自分のこめかみを撃ち抜くのではないかと。
しかし、ユークリッドは動かない。ただ、クロウリー博士を眺めるだけで。過去の試行では見られなかった静けさが、いやに不安を誘う。沈黙の中に、押し殺した激しい感情が渦巻いているような、そんな錯覚に囚われる。
博士は更に一歩、ほとんど体が密着するくらいユークリッドに近づくと、その白い顎に指先を滑らせた。あくまで反応の無い君に、それでもクロウリー博士は満足げな表情を見せて。
『おかえりなさい、ヒース』
そう、彼の名を呼ぶのだ。
一つ、ゆっくりと瞬きをする君の前で、紅を引いた、博士の肉感的な唇が、次々と言葉を紡ぎだしてゆく。
『やっとここまで辿りついた。あなたの残した記録を紐解いて、あなたという人間の生涯全てを再構築して。一度は失われてしまったあなたと、もう一度出会うことができた。ねえ、気分はどう?』
君はじっとクロウリー博士の目を見つめ返して、それから、色の薄い唇で、ぽつりと、呟いた。
『……わからないんですよ』
『え?』
『何も感じられないんです。僕はヒース・ガーランドという人間でした。かつて「鳥の塔」で造られた存在であって、塔と、その眼下に広がる「裾の町」で二十七年の生涯を過ごしたということは、はっきりとわかりました。この仮想の塔が、僕の生涯を追体験するためのものであることも』
でも、と。空っぽの表情のまま、ユークリッドは言う。
『そこには何の感慨もない。ただ、過ぎ去ってしまった記録でしかない。僕は、どうして、こんなものに焦がれて、取り戻そうと思っていたのでしょう。全てを取り戻した今は、ただただ、空虚だけしか残っていない』
空虚――。その言葉は、私の心につき刺さった。私が今までしてきたことは、君に空っぽな感情しかもたらせなかったのか。こんなもののために、君に苦痛や苦悩を強いたのか、私は。
「……ユークリッド」
つい、言葉が唇から零れ落ちていた。もう、それは君の名前ではないと、わかっているはずなのに。理性と感情とは、どうしたって、一致しないのだ。
ただ、その名前を言葉にした瞬間、君はぴくりと反応した。それは、記憶を全て取り戻した君が始めて見せた、感情のようなものだった。ただ、こちらをちらりと見上げたその顔は、何故だろう、ほとんど表情なんて浮かんでいなかったのに、今にも泣き出しそうに、見えた。
『無駄なんかじゃない。そう、思いたいんです、僕だって』
淡々としていながら、一言一言に、軋むような響きを混ぜて。
『けれど、僕はそれを選んではならない。僕が僕である限り、この試行に意味を見出してはならないのです。空虚を受け入れなければならないのです。――それが、』
『僕』の、『ヒース・ガーランド』のあり方なのだから。
そう言ったユークリッドの声は、そう、私には、
――助けを求めているように、聞こえた。
しかし、クロウリー博士にはその言葉に秘められた狂おしいまでの感情に気づかないのか、ぽつりと、感想を漏らす。
『そう。また、失敗してしまったのね……』
――違う!
「違う、失敗なんかじゃない!」
ほとんど反射的に声を上げていた。クロウリー博士の、君に向けるのとはまるで異なる、冷たく凍りついた目がモニタ越しに向けられる。だが、構うものか。その手はこちらには届かない。あなたの言葉はどうしたって、私とは相容れない。
「失敗なんかじゃない。それは一連の試行の結果、彼自身が見出した結論だろう?」
『でも、これは私が望んだ彼じゃない』
「……彼、じゃない?」
ああ、ああ。
あなたならそう言うのだろうな。膨大な記録を通してヒース・ガーランドという人物をよく知るカメリア・クロウリー博士であるならば。今ここにいる『君』と、記録上のヒースとは、まるで違う人間なのだと主張してしかるべきなのだろう。ここで発言している博士は、おそらく生前の彼女を限りなく正しく模しているのだろうから。
だが、私はヒース・ガーランドを知らない。この試行の主題を正しく理解していたわけでもない。それでも、一つだけ、私にははっきりわかっていることがある。
「彼は彼だ。本当はユークリッドなんて名前ではないし、私とは縁もゆかりもない人物なのかもしれない。だが、私は確かに見ていた。ここで目を覚まし、ここでいくつもの記録を体感して、痛みを知って、悩みを抱えながら、それでも、ひたむきに前に進んできた彼を。それは、今ここにいる彼だけの経験だ。他の試行の彼でもなく、ましてやヒース・ガーランドでもない、ここにいる彼だけの経験じゃないか」
私は、四回の試行を見届けてきた。その度に、かつての試行の記憶を持たない君と向き合って、試行の過程を見つめてきた。ひとつひとつの試練は似通っていながら、君の反応はどの試行も全く同じではなかったことを、知っている。
知っている。そう、知っているのだ。
私はどの試行の君のこともはっきりと覚えている。
第一試行の、何もわかっていなかった私と一緒に頭を悩ませた君のことも。
第二試行の、試練の中で痛みを堪えきれずに弱音を吐いた君のことも。
第三試行の、一つ一つの試練を己のものとして確かに受け入れた君のことも。
そして、今回の試行で、いくつものイレギュラーに翻弄されながらも、微かに残されていた過去の痕跡を追いながら、一歩ずつ前に進んできた君のことだって。
あくまで冷淡な視線を崩さないクロウリー博士とは対照的に、君は、明らかに動揺していた。赤い目を丸くして、見えないはずの私を呆然と見上げている。
だから、どうか、君に届いて欲しいと願いながら、つたない言葉を紡いでいく。
「失敗なんかじゃない。無駄なんかじゃない。君は君だ、君自身が歩んできた道を、私は絶対に否定なんかしない。結果として『ヒースの記憶』を得た君が、どれだけの空虚を抱えたとしても――」
私は。
「これから、もう一度、新しく歩みなおせばいいだろう!」
何よりも、誰よりも。
「君の、君としての人生を!」
君が、今ここにいてくれたことを、祝福しているのだから。
君は、私に向かって何かを言おうとしたのか、唇を開きかけた。だが、その前にクロウリー博士の宣言が何もかもを切り捨てる。
『本試行を失敗と判定。次の試行に移行する』
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