Layer_3/ Senescence(1)
扉の向こうに広がっていたのは、森だった。
モノトーンの、森。
私が知る「森」とは、緑を基調として鮮やかな色に包まれているものだが、君の記憶を反映したらしいそこは、白と黒とその中間色でのみ構成されている。その上で、現実的な植物と、絵本に描かれるような空想の植物とが複雑に重なり絡みあう、違和感に満ちた空間となっていた。
ユークリッドも、私と同じような感想を抱いたのだろう、目を細めて眉を寄せる。
『……何だか、奇妙な階層ですね。今までとは違う感じがします』
「ああ、そうだな」
第一階層は迷路じみてこそいたが、無機質さという一点において整合性が取れていた。第二階層は極めて現実に近い街並みであり、想像による要素が極めて少なかった。
その点で、第三階層は他の階層とは一線を画した空間であるといえた。
『いやに現実味がないというか。綺麗だと感じているのに、同時に、酷く嫌なものを見せられているような……、そんな変な気分です』
だろうな、と。私は内心でユークリッドの言葉を肯定する。
この階層に描かれている風景は現実と空想の狭間。君――ヒース・ガーランドが、最期の時を前にして見つめていた世界である。
近づいてくる死。肉体が急激に衰え、ゆるやかにほどけていく自我の中で、君の目に映るのは遠い日に夢見た、絵本や童話に語られる空想の世界だった。それが、この森の正体だ。
ただ、この森に漂う違和感はそれだけではない。
『何か、嫌な音が聞こえませんか?』
ユークリッドが、眉間に微かな皺を刻みながら、警棒の柄に手をかける。私もモニタの上に表示されたレーダーの索敵範囲を広げながら、耳を澄ませる。
ざわめく奇妙な森の中で、何故か断続的に響いているのは、不愉快な雑音だ。これが単純な音声の異常でないことは、ユークリッドにも聞こえていることから明らかだが――。
モニタに映りこむ索敵網を見る限り、いくつかの小さな光点と共に、ひときわ巨大な光点が一つ、こちらに接近している。
「……何か、前方から近づいてきている気配があるな。気をつけろ」
『はい』
ユークリッドは返事と共に警棒を抜き放つ。モノトーンの世界で唯一「赤」という色を持つ双眸が、木々の合間を見つめた、その時だった。
梢を揺らして、ユークリッドの前に飛び出してきたのは、虫を思わせる透き通った羽を背中から生やした小人だった。
〈助けて、助けて!〉
〈こんなのおかしいよ! このままじゃ、みんなみんな、壊れちゃう!〉
鉄板を引っかいたような耳障りな声で叫ぶ小人は、ユークリッドに助けを求めながら行き過ぎる。それも、一人ではなく、何人もの同じような顔をした小人たちが、木々の間から飛び出しては、喚きながら彼方へと飛んでいく。
『おかしい……?』
ユークリッドは前方から目を逸らさないまま、小声で呟く。次の瞬間、雑音に木々をなぎ倒す激しい音が混ざったことに気づいた。
そうだ、この音は、過去の試行で知っている――!
「ユークリッド、その場から離れろ!」
ユークリッドは即座に地面を蹴って、大きく後ろへ下がる。途端、木々の間から言葉通りに「飛び」出してきた巨大な生物が、牙の並んだ顎をユークリッドの鼻先でばくんと閉じた。
体中にまとわりついた枝や葉を落としながら、ゆるり、鱗に覆われた長い尾が音も無く空中に揺れる。その姿を目に焼き付けたユークリッドが、ぽつりと呟く。
『……鰐、ですか?』
かち、こち、かち、こち。
雑音の中に規則正しい音を響かせて。灰色の鱗を持つ空飛ぶ巨大な鰐は、色の無い目でユークリッドに狙いを定める。
『時計を飲んだ鰐……。まるでピーター=パンの世界ですね』
私が言うまでもなく、今回のユークリッドはこの鰐の正体に気づいたようだった。誰もが夢見るような理想郷に住まう、永遠の少年の物語。そこからそっくりそのまま抜け出してきた鰐は、かちこちと止まらない時を刻み続ける。
ユークリッドは、警棒を構え直しながら、再び飛びかかろうと身構える鰐と対峙する。しかし、不意に怪訝な声を上げた。
『ダリアさん、あれは一体何でしょう?』
あれ、とユークリッドが指した内容を、私はすぐには理解できなかったが、彼の視線を追って一拍の後に気づいた。
鰐の体表の一部が、歪んで見える。もっと正確に表現するならば、モニタの画像が乱れ、輪郭がノイズを帯びているように見えた。これが単なる映像の乱れであるならばともかく、ユークリッドにもそう「見える」ということは、明らかな異常現象だ。
それに気づくと同時に、ノイズまみれの鰐が、ユークリッドに飛びかかる。相手の挙動をよく観察していたからだろう、ユークリッドは軽々と鰐の一撃を回避したが、鰐の腕――ノイズに覆われたそこが地面に触れた途端、柔らかく足元を覆っていた草が、その下の地面がばらばらに崩れ、花びらと化して空間に溶ける。
鰐に触れた箇所が、立ちどころに崩壊しているようにしか見えない現象に、ユークリッドが『ひっ』と息を呑む。自分が同じ目に遭うことを考えれば、私だって背筋がぞっとする。
今までの試行では鰐に攻撃を加えて撃退することもできたが、鰐に「触れただけ」で地面が崩れ去ったように見えた以上、警棒で殴れば警棒の方が実体を失う可能性が高いと見ていいだろう。それどころか、ユークリッドの体も危険に晒される。
かち、こち、かち、こち。
口元を引きつらせて後ずさるユークリッドを、無慈悲な時計の音が、包む。
「ダメだ、ユークリッド! 逃げよう!」
『そうですね!』
ユークリッドも私と同じ結論に至ったのだろう、警棒を握ったまま、鰐に背を向けて全力で駆け出した。
鰐はゆったりと身をくねらせて、ユークリッドが飛び込んだ森の中にでかい図体をねじ込ませる。その体表に触れた木々の表面は実体を失い、幹の一部を失った木々が音を立てて倒れるそばから、光の花びらを散らして空気の中に溶けてゆく。そんな美しくも恐ろしい光景を振り返ることなく、ユークリッドは走る。走り続ける。
だが、あくまで物理法則に縛られているユークリッドに対し、鰐は空を泳ぎ、しかも体に触れたものは全て跡形もなく消え去ってしまうのだ。障害物など意味もなさない鰐が、全力で走るユークリッドの背中に迫るのはそう難しいことではない。
「来てるぞ、ユークリッド!」
『……っ!』
ユークリッドは、私の指示を正確に受け止めて、地面を蹴って横に飛ぶ。無様に地面の上を転がりながらも、真っ直ぐに進んでいた鰐を惑わせることには成功したらしく、鰐はユークリッドが一瞬前までいた場所を通過してから、視界から消えた君の姿を探す。
その隙に、君は体についた泥や葉を払うことすらせずに、今まで来た方向とは別の方向に駆け出す。
『ダリアさん、この森に出口はないのですか!』
「そのまま少し進んだところに扉がある、そこをくぐれば別の場所に出るはずだ!」
最低でも、私が見ているモニタはそう告げている。ユークリッドは『わかりました!』と叫び返し、足に力を篭める。空中でゆったりと身をくねらせる鰐の気配を背中で感じながらも、ただ、ひたすらに。
私は、ただ、見ていることしかできない。
見ていることしか、できない……?
否、そんなことはない。私にだって、できることがあるじゃないか。モニタに触れる指先に力を篭めて、叫ぶ。
「案内人! 異常事態だ、対応を願う!」
果たして、変化は一瞬で訪れた。
鰐の動きが空中で唐突に静止する。
――ユークリッドと鰐の間に突如として現れた、黒い少年を前にして。
黒髪に黒い衣を纏った少年は、ユークリッドとよく似たその顔を鰐に向け、小さく溜息をつく。
『……なるほど。これは、完全に壊れているな』
言いながら、腰のナイフを抜く。
その間にも、空中に留まる鰐の体を中心にして、空間が歪み始めていた。もはや、鰐の体に触れなくとも、側にある木々は花びらのような余韻を残してばらばらに崩れていく。第二階層で見た「崩壊」の波によく似た現象だ。もしくは、根は同じものであるのかもしれない。
ユークリッドは鰐の動きが止まったことに気づいていないのだろう、闇雲に走り続けている。それをちらりと目を覆う装置越しに見やった案内人の少年は、ナイフを構えながら言う。
『彼の観測を続けてくれ、観測者。これは僕が処理する』
「……君は、大丈夫なのか?」
世界そのものを崩壊させていく鰐の前には、世界が生み出したものであるこの少年も危険なのではないか。そんな嫌な想像が頭をよぎる。だが、少年は表情一つ変えることなく、鰐に向き直って宣言する。
『さあ。ただ、僕が消えたところで、試行は滞りなく進む。このプログラムの核が壊れない限り、再び「僕」は生成される。問題はない』
「だが、それは……」
今ここにいる少年は消えてしまうということだ。その後に生成された案内人が同じ記憶を預けられていたとしても、こうして、私の声に応えて鰐に対峙してくれた少年ではなくなってしまう。
そういうものだ、と言われてしまえばそれまでだ。試行が終わり、次の試行が始まれば、再びヒースの記録から生成される存在であるのだ、と。それが理解できないわけではない。
だが、私はそんな試行の果てに今まで三人のユークリッドを失っている。それは彼の決断の上でだったが、その度に、酷く胸が痛む。今まで出会ってきたユークリッドは、皆、同じユークリッドではなかったのだから――。
そんな私に対して、少年はどこか突き放すような響きで言う。
『観測者。あなたの躊躇いは、僕には理解できない。だけど』
「……だけど?」
『そんなあなただからこそ、彼らは可能性を見出した。この試行を、本当の意味で終わらせる可能性を。それを、こんな場所で終わらせるわけにはいかない。そうだろう』
だから行くがいい、と。少年は鰐と向き合ったまま言い放つ。
ユークリッドは、既に扉のすぐ近くにまで迫っている。後ろ髪を引かれるのは変わらなかったが、背を押してくれた少年の言葉を無駄にしてはならない。私は、モニタ越しにユークリッドを追いながらも、案内人に言葉をかける。
「ありがとう」
『礼はいらない。僕は与えられた役割を遂行するだけだ』
鰐が動いたのを視界の端に映しながらも、視線を、少年から剥がす。最後に見えたのは、少年がナイフ片手に、無造作に一歩を踏み出したところだった。
『このままどちらかが競り勝つのか。それとも、あなたが』
ぽつり、と。少年が漏らした呟きを聞きながら、私はユークリッドと共に森の只中に浮かぶ扉に飛び込む。
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