Layer_2/ Adolescence(6)
光が収まった時、いつの間にかユークリッドは街の入り口に立っていた。「崩壊」の波によって、街のほとんどは壊れ、ただ闇の広がる空間と化していた。唯一残された入り口も、石畳の道がそこにあるだけで、しかも徐々に崩壊を始めている。
青年期の記憶を取り戻したのであろうユークリッドは、ぼんやりとその場に立ち尽くしていた。記憶の鍵を手に入れた結果だろうか、左腕や体に負っていた傷は癒えていたが、心ここにあらず、という状態だった。このまま放置していれば、本人も気づかぬうちに「崩壊」の波に飲み込まれてしまうのではないか――そんな不安すら感じながら、声をかける。
「ユークリッド」
はっと、ユークリッドが顔を上げる。私の声は、今度こそ、ユークリッドに届いたようだった。
『ダリアさん! よかった……。ダリアさんの方は特に問題ありませんか?』
「ああ。私は、大丈夫だ」
何しろ、私がシスルに何かをされたわけではなかったから。強いて言えば、少しばかり話をしたくらいだ。
だが、いくつか、考えるべきことはある。シスルは決して多くを語ることはなかったが、彼とのやり取りで確信した。
――このまま、闇雲に試行を続けても、結末は変わらない。
最低でも、シスルはそう確信していた。その上で、今までと少しだけ違う今回の試行に――今のユークリッドに、望みをかけてくれたのだ。
そして、もう一つ。
ガーデニアも、シスルも。今回の試行が最後であると知っていた。私が「最後」と決めて試行に挑んでいるのとは無関係に、この試行は今回で確実に終わってしまうのだ。
その理由は今まで全くわかっていなかったが、今、はっきりとそれが私の目にも見える形で示された。第二層の「崩壊」という形で。
今までの試行で一度も起こらなかった現象ということは、この「崩壊」自体は試行とは無関係の在り得ざる現象ということだろう。それは、シスルの反応からも間違いないと思っている。そもそも、試行、と呼ばれている以上、基本的にいつでも条件は一致していなければならないのだから。
条件を一致させる、という点から考えるならば、ユークリッドの記憶が少しでも残っているという現象も、この崩壊と無関係ではないのかもしれないが――。
ユークリッドは、不安げな顔で崩れていく周囲を見渡している。記憶を取り戻した今、君にとってこの場所は確かな思い出の風景だったのだろう。それが花びらと化して散っていく風景は、複雑な感情を呼び起こすのかもしれない。唇を噛み、何かを堪えるような表情をしている。
「ひとまず、ここから一旦抜けよう。崩壊に巻き込まれたらたまらない」
『はい、そうですね』
ユークリッドは素直に頷いて、いつの間にかそこに生まれていた第三層への扉を開く。その先には、次の階層に続く螺旋階段とが伸びていた。ユークリッドは、迷わず階段に足をかける。
ゆっくりと、一歩一歩を確かめるように、石造りに見える階段を上っていく。その足音を聞きながら、私はユークリッドに語りかける。
「ユークリッド、君の記憶はどれだけ戻った?」
『そう、ですね。シスルさんや、かけがえのない仲間と一緒に過ごした日々。辛いこともいろいろありましたが、きっと、幸せなことの方が多かった。そんな懐かしい記憶でした』
ただ、と。変わらぬペースで歩きながらも、ユークリッドの表情が少しだけ曇る。
『いくつか、僕の記憶には虫食いがあるみたいでして。ガーデニアさんから取り戻した記憶でも感じていましたが、今、記憶の半分以上を取り戻して、余計にそれが確信に至った感じです』
「何が抜けていると感じているんだ?」
『僕の名前。あと……、僕には、何よりも大切に思っている人がいたはずなのに、それが今も思い出せないんです』
そういえば、以前の試行でもユークリッドは同じ反応をしていた。
――それが、きっと、あの案内人の少年なのだ。
ガーデニアも、シスルもその存在を知っていた、ガーランドの名を持つらしい少年。あの二人が知っているということは、本来はユークリッドの幼年期の記憶にも、青年期の記憶にも関わる存在であるはずだ。だが、その記憶だけが今もなおユークリッドからは抜け落ちたままだ。
何故そういう仕組みになっているのかはわからないが、ユークリッドにとって、それだけあの少年が記憶の重要な要素を占めていることだけは、はっきりしている。
『その人のことを思い出すまでは、止まれない。僕は、僕を取り戻すことはできないと、感じているんです』
「そうか。……次が、最後の階層だ。そこを乗り越えれば、君は全てを取り戻せる」
全てを取り戻した時、君がどのような行動を取るか、今の私にはわからない。もし、君が以前と同様の結末を選ぶならば、それで終わり。その選択を私が覆すことはできないし、覆そうと足掻くつもりもない。
だけど、せめて。
「全てを取り戻したら、聞かせてくれないか。君の言葉で、君自身のことを」
希望を言葉にすることくらいは、許してほしいと望む。
まだ結末を知らないユークリッドは、はにかむように微笑んで『はい』と答えてから、長い螺旋階段の先を見据える。
『次で、終わりなんですね。この塔も、僕の記憶も』
ぽつり、唇から零れ落ちた言葉に篭められた感情を、私が判断することはできない。君の――ヒース・ガーランドの人生は、私のものではなくて。君の手に握られた記憶が君にとってどのような意味を伴っているのか、私にはわからないのだ。
……わからないのだ。理解など、できやしないのだ。どれだけ共に過ごしたところで、私と君とはまるで別の世界に生きているのだから。
だからこそ、言葉を交わすことを諦めたくはなかった。せめて、君と交わした言葉が少なかったのだと、後悔だけはしないように。
そう思ったとき、不意に、ユークリッドの姿に、ノイズ交じりの誰かの姿が被さって見えた。モニタの不具合、ではない。そうだ、試行を始めた時にも見えた、ユークリッドによく似た黒髪の青年。一度目は見間違いかと思ったが、今度こそはっきりとわかった。
『そう』
それが、ユークリッドとは別に存在する「誰か」であることが。
『僕は、終わりにしないといけないんですよ』
声音や言葉使いはユークリッドと全く同じ。だが、明らかにこの青年はユークリッドとは何かが違うと私の認識が囁いている。髪の色が違うとか、肌の色が違うとか、そんな単純な違いじゃない。
『この、下らない仮想化輪廻を』
つい、と。ノイズ交じりの青年が顔を上げる。その顔を改めて見た瞬間に、私は、ほとんど無意識にその名を呼んでいた。
「……っ、待ってくれ、ヒース!」
だが、青年は応えず、代わりにユークリッドが不思議そうな顔をこちらに向ける。
『どうしましたか、ダリアさん?』
その声と同時に、青年の姿は消え去っていた。モニタの中にはたった一人、ユークリッドが螺旋階段の只中に立ち尽くしているだけで、他の人間の姿など影も形もない。そして、ユークリッドも、自分の側に誰かが立っていたことには気づいていないようだった。
しかし――私は、何故彼を「ヒース」だと思ったのだろう?
そして、「ユークリッドとは違う」と思ったのだろう……?
顔が似ているといえば、あの案内人の少年だってそうだ。彼はユークリッドと声も似ているし、君をそのまま幼くした姿だと言われれば納得しそうなものだ。だが、私は彼をユークリッド――ヒースだと感じたことはない。それは、他のガーランドの子供たちも同じことだ。
その私がヒースだと思った以上、あれはヒースなのだろう。本来は、全ての記憶を取り戻した時に初めて君が自分自身を「そう」認識するはずのヒース・ガーランド。
つまり、君が記憶を取り戻していないこの瞬間には厳密には存在しないはずの、誰か。
どういうことだ。今の人物がヒース・ガーランドだったとすれば、ここにいるユークリッドは一体何なんだ。それに、終わりにするとはどういうことだ。
ぐるぐると、疑問と不安だけが頭の中に渦巻く。
私を見上げた彼の顔が、酷く、歪んだ――ユークリッドが絶対に見せないような笑顔に見えたことも、いっそう不安を駆り立てる。
『ダリアさん……?』
そんな私の沈黙をどう捉えたのか、ユークリッドが問いを投げかけてくる。私は気を取り直して首を振る。
「すまない、最後の階層だから、私も少々緊張しているらしい」
だが、イレギュラーは今に始まったことではない。そして、私にはそのイレギュラーを解決するだけの能力を持たない。私はあくまで観測者であり、試行を見守ることしかできないのだから。
それに、シスルは言っていたはずだ。
『彼女は、彼女だけは、最後まで君の味方だろうから。おそらく、この塔では唯一、な』
『立ち止まるな、前に進め。ダリアと手を取り、結末の向こう側へ』
立ち止まっている場合ではない。シスルは私とユークリッドの可能性を信じてくれた。それならば、私は私自身の持つ可能性を信じる。今この瞬間、私を見つめていてくれるユークリッドの可能性を、信じるだけだ。
ユークリッドは、私の言葉に一瞬きょとんと目を丸くしてから、己の胸に手を置く。
『よかったです』
「何がだ?」
『緊張しているのが、僕だけじゃなくて。一人でドキドキしてるのって、それはそれで、恥ずかしいじゃないですか』
その言葉に、私はつい笑ってしまった。それと同時に、心が温まるのを感じる。ユークリッドの言葉はどこまでも率直で、だからこそ私の心を震わせる。そして、この温もりをここで終わらせたくないとも、思う。
「それは、何というか、お互い様だな」
『はい。お互い様です』
ユークリッドも破顔する。きっと、私が側にいたら、お互いにお互いの顔を見て笑っていたに違いない。そんな柔らかな空気が流れる。
だから、私は思ったよりもずっと軽やかな心持ちで、言葉を投げかけることができた。
「君は今までどおり前に進めばいい。私と君とで、迷いながら、でこぼこ、一歩ずつ進めばいいんだ。そのために、私が一緒にいるんだろう?」
ユークリッドは、私がいる方向を見上げて、きっぱりと一つ頷く。
『はい。少しずつでも、確実に。前に進んでいこうと思います』
一歩。ユークリッドが螺旋階段を踏む。見れば、第三階層の扉はすぐそこまで迫っていた。一歩、二歩、三歩。階段を上りきったユークリッドの手が、扉に触れかけたその時。
『……それでも、あなたは続けるのですね、この無駄な試行を』
ノイズ交じりの声が、唐突にヘッドフォンから流れてきた。だが、今度は驚きはなかった。何となく、彼はまだすぐそこにいるような気がしたから。
ユークリッドには聞こえないように、そっと、マイクに向かって語りかける。
「すまないな、ヒース」
本当は「すまない」なんて全く思っちゃいなかったけれど。この声が君自身であろうとも、この試行を邪魔しようとするならば、私はこう応じるだけだ。
「無駄かどうかは私が決めることだ。文句は、全てが終わった後に聞かせてもらおう」
一瞬、声が途絶えた。それから、小さな含み笑いと共に、囁くような言葉が帰ってきた。
『強情ですね。あなたも、僕も』
そうなのかもな、と応えたところで、ノイズは消えて。
第三階層の扉が、開かれる。
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