Layer_3/ Senescence(6)

 かち、こち、かち、こち。

 音が聞こえる。真っ白い部屋、いや、これは箱。箱? 箱の中にいるなんて、変な感じ。何だか息が苦しい。誰か来てくれないかな、寂しい、寂しいよ。僕はひとりじゃ生きていけない、そういう風につくられたんだって、みんな言ってたじゃないか。苦しい、気持ち悪い、なのに体が動かない。

 かち、こち、かち、こち。

 何で、こんなところにいるんだっけ。誰かが、ここにいろって言っていた気がするけれど、それはいつのことだっけ。これは僕の手だっけ、僕はこんな手をしていたっけ、思い出せない。どうして? どうして、思い出せないんだ? 嫌だ、怖い、どうして? どうして――。

 かち、こち、かち、こち。

 うるさい。うるさい。僕が何をしたっていうんだ、僕は、何も、何を、何をしていた。何もかも、何もかも思い出せない。どうして僕がここにいるのか、僕がしてきたこと、僕が大切に思っていたもの。

 それに、僕、僕は――?

 

 

「――っ!」

 僕は、気づけばその場に膝をついていた。酷い吐き気がするけれど、胃に何も入っていないのだから、吐き出すものもなかったのは、幸いだったのかもしれない。

 まだ、これは、断片。前後の繋がりを持たない、意味の通らない「欠片」。欠片だからこそ、僕は今、「僕」としての意識を取り戻すことができた。そうでなければ――。

〈大丈夫、怖くない〉

 くねり、と。視界の中で花が揺れる。ただ呆然とすることしかできない僕を包み込む、歌。花畑から、透き通った羽を持つ、掌くらいの大きさの女の子が飛び出してきて、僕の耳元で囁く。

〈それが、あなたの望んだこと〉

「僕、が……?」

〈追われることに疲れていたのでしょう?〉

〈もう、怖くない。何もあなたを縛るものはない〉

 風が、吹く。生ぬるい風は歌を乗せて吹き渡っていく。どこまでも、どこまでも。

〈あなたは、やっと願った場所にたどり着いたのよ、   〉

 耳元で囁く声は、どこまでも優しい。その優しさを嬉しいと思う心と、どうしても「おかしい」と感じる理性とが噛みあわない。そんな僕の前で、御伽話の中から飛び出した妖精の少女は、僕の指を取って笑いかける。

〈そう、永遠にして不変の理想郷、ネヴァー・ネヴァー・ランドに〉

 ネヴァー・ネヴァー・ランド。永遠に大人になることのない少年を抱く、不思議と妖精の国。現実にはありえない「不変」を約束された場所。そんな御伽話の国に、僕は迷い込んでしまっていたというのか――?

 その瞬間、妖精に導かれるようにして、僕の身体がふわりと重力を無視して宙に浮く。驚きより不安で声を上げる僕に向かって、妖精は歌声で答える。

〈恐れないで。さあ、行きましょう。この世界の果て、あなたを待つ人の場所へ〉

〈世界の果てであなたを待つ、大切な人の場所へ〉

〈あなたが帰る日を待っている、あの人の場所へ〉

 花の大合唱に背を押されるようにして、僕の身体は、僕の意思とは関係なしに空を舞う。

 軽々と持ち上げられた僕の体は、いつしかどこまでも広がる森をはるか眼下に、色のない空の上にあった。空中にいながら、水に浮かんでいるような、足元に何も無いというのに、体は沈むこともなく漂い続けている。

 見渡してみれば、まさしく僕を取り巻いていたのは「御伽の国」であった。鬱蒼と茂った森の向こう側には草原を貫く煉瓦の道、その向こうには薔薇の花に囲まれた城、海には僕の知らない生物が泳いでいるのが見える。あそこに浮かんでいるのは海賊船、だろうか?

 僕が知りうる御伽話の世界をつぎはぎにした、美しいけれどいびつな風景。

 かつての僕が夢見ていた、理想郷――?

「でも、夢は夢に過ぎない! 僕は現実に生きていました、生きようと、していたはずです!」

 僕は、強く強く、目の前に広がる景色を否定する。不完全な僕の声は、決してこの世界に何の影響を与えることもできないとわかっていても、声を上げずにはいられない。

 そうしなければ、僕という存在が、ばらばらになってしまいそうな気がして――。

 なのに、僕を先導する妖精の少女は、不気味な微笑を湛えたまま、機械的に言葉を吐き出す。

〈そう、あなたが、あなたであるうちは、そうだった〉

 ――僕が、僕であるうちは。

 その言葉が意味するところを、僕は、もう、認めなければならないのだと、知る。

 生ぬるく、体に絡みつく風を感じながら、僕はこの風景と、先ほど取り戻した記憶から想定できる結論を、告げる。

 

「僕は――、狂ってしまったのですね」

 

 本当は、この階層に入ったその瞬間から、何となく感じてはいた。

 これは「僕」ではないと。最低でも、第二層までを形作っていた「僕」とは別の存在であると。

 ただ、それでもこの風景も連続した「僕」の一部なのであるとすれば、結局のところ、導き出せる答えは一つしかなかった。認めたくはなかったけれど、この風景を見ていた僕は、既に、正気ではなかったのだ。

 妖精は、こくりと小さく頷いて、言葉を紡ぎだす。

〈あなたは、理性を手放すことで、何にも悩まされない世界を手に入れたの。それは、とても、幸せなことだわ〉

「幸福を認識すらできない状態を、どうして『幸せ』と言えるんです」

 無意識に、唇から零れ落ちた言葉は、ほとんど吐き捨てるような響きをしていた。

 僕が狂ってしまったという事実は、理解した。納得はできていないけれど、理解せざるを得ない。ただ、そうだとすると、まだ、わからないことはある。

「何故、僕は正気を手放したのです? それだけの理由がないと、おかしいです」

 わからないのだ。僕が現実を諦めてしまったこと。それは、生きてゆくのを諦めたことと、何も変わらないではないか。あの時、シスルさんと約束したはずじゃないか。裾の町を守り続けるのだと。なのに、どうして。

〈その理由は、もう、あなたの手の中にあるわ〉

 かち、こち、かち、こち。

 頭の中で、時計が針を進めていく。誰も止めることのできない、無慈悲な針の音。

 時間。そうだ、断片的にではあるけれど、繋がってきた。僕は時間の経過を何よりも恐れていた。未来に希望を持つことなど、できるはずもなかった。

「ああ……、そう、でした」

 白い部屋、急速に衰えていく肉体、ばらばらに零れ落ちた記憶、崩れゆく認識。

「僕は、結局のところ、不完全なつくりものだったのでしたね」

 成功作、と呼ばれたのはただ、家族の中で優れていただけで。僕らガーランド・ファミリーは、どこまでも、どこまでも、完全ではなかったのだと、思い出す。

『一体、どういうことだ?』

 ダリアさんの、困惑した声が響いてくる。僕は、その問いに答える言葉を選びかねていた。考えれば考えるほど、答えに近づけば近づくほど、「おかしい」という思いが深まっていたから。

 だって、おかしいじゃないか。もし、僕の想像が正しいのだとすれば、僕は、もう――、

〈つくりものの宿命、人よりも短い時間。あなたは死を前にして、理性を、手放すしかなかったの〉

 そう、死んでいる、はずなのに。

 つくりものの肉体は、人より優れた能力を僕に与えてくれた代わりに、人と同じ時間を生きることを許してはくれなかった。僕はただ、ベッドの上で「自分」を失う恐怖に怯えながら、その時を待っていることしか、できなかったのだ。

 妖精は僕の想像を認めた上で、僕を真っ直ぐに見据えている。白目のない、明らかに人のそれではない大きな目で、僕を、笑っている。

 全身の血液が――今の僕に血液が通っているのかもよくわからなかったけれど――冷える感覚。僕は既に、死んでいる、ということか。

 なら、僕はどうしてここにいる? 本当にあの時に死んでいるのだとすれば、ここに立っている僕は、一体何だというのだ。この身体は、この意識は、僕のものではないのか?

 僕の混乱を受け止めたらしい妖精が、ふわりと半透明に煌くワンピースを翻して囁く。

〈いいえ、いいえ。あなたは、あなた。ただ、このままでは枯れた棒切れのような肉体のまま、「己」を認識することもできない自壊した精神のまま、消滅を迎えることになる〉

「い、嫌だ!」

 思わず、喉から声が零れ落ちていた。僅かに残っている理性は、冷静になれと僕自身に呼びかけてみせるけれど、それだけでは到底、落ち着けるはずもない。

「消えたくない、壊れたまま消えていくなんて、嫌です」

 まだ不完全な記憶しか取り戻せていない今の僕でも、そう、言い切ることはできる。

 脳裏に蘇るのは、かつて僕が抱いていた、そしてこの塔で取り戻してきたいくつもの記憶。『鳥の塔』に生まれたつくりものの僕を、本当の子供のように愛してくれた父さんのこと。今もまだ思い出せないままでいる、僕と背中合わせに存在していた誰かのこと。ガーデニアさんに抱いた恋心を捨てられなかったこと。周囲の静止を振り切って、裾の町に下りたこと。僕をガーランドの子供ではなく、ただ一人の「僕」として見てくれる人たちとの日々。僕を誰よりも理解していたシスルさんと出会えたこと、それは同時に、別れを理解することでもあったのだけれど。

 それに――ダリアさんの、こと。

 今まで取り戻した記憶の中に、ダリアさんの姿はなかった。だから、ダリアさんが何故僕を助けてくれるのかも、今なおわからずにいる。ダリアさんにとっては、僕と出会えたこと、それ自体に意味があると言っていたけれど。

 ただ、理由はどうあれ、僕をここまで見守って、時に助けてくれていたことは、疑いようもない。僕を見守っている人の存在に、救われていたことも間違いない。この、塔を上るという儀式の中で、僕がこの手の中に得たものの一つなのだ。

 けれど、僕がただ死に行くだけだとすれば、取り戻した大切なものも、新しく得たダリアさんとの思い出だって、崩れて消えてしまう。消えて、しまうのだ。

「失いたくない! ここまで、取り戻したというのに、また失うなんて嫌です!」

 それは、どうしようもないわがまま。死までの過程は異なれど、「死」という事象だけはどこまでも平等に訪れるもの。それでも僕は、小さな子供のように、喚かずにはいられない。

「まだ、終われないんです! 僕はこの記憶と共に、生きてゆきたい!」

 僕の悲鳴を聞き届けた妖精は、両腕を広げて僕に向き合う。機械的だった声は、いつしか聞き覚えのある女性の声に変化していて――。

〈そう、あなたはきっと、生きたいと願ったのでしょう。だから〉

「私は、あなたを救うためにこの塔を作ったのよ、   」

 こつり、とヒールが煉瓦の道を叩く。僕は、いつの間にか地面の上に降りていて、目の前に立つ白衣の女性を見つめていた。

 一際巨大な扉の前に立つカメリアさんは、温かな微笑みをもって僕を迎えてくれる。その笑顔を見た瞬間、僕の内側で燃え盛っていた感情も、ふっと収まった。今まで、何に対して感情を爆発させていたのかも、一拍置かなければ思い出せないくらい、僕の意識は凪いでいた。

 カメリアさんの、白くしなやかそうな指先が、僕の頬に触れる。触れられる、ということに慣れていないせいだろうか、一瞬ぞくりと背筋に嫌な感覚が走ったけれど、それもすぐに収まり、ただ、カメリアさんの温度だけを感じる。

「記憶を巡る旅路はどうだったかしら?」

「……正直に言えば、少し、辛かったです」

 中には優しい記憶もあったけれど、僕の前に示されたものは、ほとんどが苦痛と表裏一体の記憶だった。それは、かつての僕が経験してきた痛み、そのものだった。かつては厭うたものでも、あったはずだ。

 ただ、それでも、手の中に取り戻したものを、新しく得たものを、失いたくないという思いは本当だ。痛みも、苦しみも、何もかも僕のものだ。ここに立つ僕を、形作ってきたものなのだと、信じている。

 信じては、いるけれど。

「けれど、僕を救うとは、どういうことです? そもそも……、この塔は、一体何なのです?」

 今なら、聞けると思った。カメリアさんが、ここにいる僕を見てくれている、今なら。

 カメリアさんは、僕の頬から手を離し、一歩下がる。そして、大げさに両手を広げて空を仰いでみせる。

「あなたも薄々気づいているとは思うけれど、この塔は、現実に存在する場所ではないわ。あなたは今、長い、長い眠りについている。そのあなたの脳と電脳とを接続することで、『あなたの記憶』を投影させた、それでいてあなたの主観としては限りなく現実に近い世界を作り出したの」

「仮想現実、ということですか」

 ゲームみたい、という感覚は、何一つ間違っていなかったということだ。それならば、この世界において物理法則がところどころ無視されてきたことも、それに、今まで生理的欲求が起こらなかったことも理解できる。本物の肉体はあくまで眠っている状態なのだ、肉体を維持するために必要な欲求というのはこの空間上では意図して切り捨てられていたのだろう。

「そう。随分回りくどい真似に見えるかもしれないけれど、これが、今のあなたのためには必要な行為だったの。一度は崩れ落ちてしまったあなたの記憶を蘇らせるためには、その記憶が植えつけられるのと同等の刺激が必要だったから」

「……それにしては随分、悪趣味だったと思いますが」

 同等、どころの話ではないだろう。いくら何度か修羅場を潜り抜けた経験があるとはいえ、そうそう何度も死ぬことはない。というか、人間、一度死んだらそれっきりだ。

 それに対しては、カメリアさんも自覚があったらしく、眉を下げて申し訳なさそうに首をすくめてみせる。

「短時間であなたの二十七年分の記憶を取り戻させるには、ところどころ、記憶を圧縮しなければならなかったの。不愉快な思いをさせてしまってごめんなさい」

「……二十七年分、ですか……」

 人並みというには、あまりにも短すぎる生涯。それでも、一歩一歩、足元を確かめながら進んでいった時間。今は駆け足で進んでしまったけれど、それだけの時間、僕は、僕であり続けたのだと、思い出しつつある。

「でも、もう、それもおしまい。あなたは全てを取り戻して、目覚めるの」

 カメリアさんは、指を鳴らす。すると、僕とカメリアさんの間に、天球儀を思わせる僕の記憶の集合体が生まれる。ゆるやかに回る環を指先で弾き、カメリアさんは紅を引いた唇を笑みの形に歪める。

「ここに全てのあなたの記憶と、記憶同士を繋ぐ鍵が含まれているわ」

 きぃん、と。カメリアさんの指先に触れた環たちが共鳴の音色を響かせる。その、澄んだ響きに導かれるようにして、僕の記憶の一部も蘇ってくる。

 それは、カメリアさんと向き合っている瞬間の記憶。ゆるやかに壊れつつあった僕が、かろうじて、理性の切れ端を握り締めていた頃の話。

〈不安なのね。震えている〉

 真っ白な部屋の壁を背にしたカメリアさんは、やせ衰えた僕の手を握り締めて、そっと、囁きかけてくる。

〈大丈夫。私が、きっと、あなたの不安を全て取り除いてあげるから。それは、私の願いでもあるのだから――〉

 僕は、その言葉に、何と答えたのか。思い出せないけれど、カメリアさんの声は僕の胸の奥深くに沁みて、絶望に塗りつぶされていた内側に、仄かな明かりが灯される心地がした。

 一瞬の幻視はすぐに消えて、今のカメリアさんが、僕の記憶を差し出している。そう、取り戻してしまえばいいのだ。一度は壊れてしまった「僕」を取り戻す試行は、それで終わる。

 ただ、もう一つ。どうしても気になることがあった。

「しかし、記憶が戻って目覚めたところで、僕の、肉体は」

 肉体も、生命維持を続けられないほどに弱っていたはずだ。仮に目覚められたとしても、結局脳を含めた肉体が生命活動を停止してしまえば意味が無い。けれど、そのくらいはカメリアさんだって十分承知しているのだろう。すらすらと答えを述べる。

「それは、心配しなくても大丈夫。記憶を取り戻したあなたが生きていくために、肉体にも手を加えているから。それも、目覚めればすぐにわかると思うわ」

 ――あとは、あなたが、記憶を取り戻すだけ。

 カメリアさんが、僕を見据える。

 もう、躊躇う理由は何も無い。

 なのに、すぐに手を伸ばせないのは、何故だろう。

 ――記憶を取り戻すのが、怖いと感じているのは、何故だろう。

『ユークリッド』

 ダリアさんの声が、聞こえてくる。

『緊張しているのか?』

「そう、みたいですね。はは、最後の最後まで、かっこ悪いです」

『いや、緊張するのは当然だろう。かっこ悪くなんて、ないさ』

「ダリアさんにそう言ってもらえると、ほっとします」

 こんな時にまで足踏みをしてしまう僕を、ダリアさんは笑いもせずに見守ってくれている。仮に、記憶を取り戻して混乱をきたしても、きっと、今までのようにダリアさんが声をかけてくれる。僕の心を、落ち着かせてくれる。

『……覚えているか。私が君に、覚えておいてほしいと言ったことを』

「ダリアさんの望み、ですか?」

 ダリアさんの望みは、僕が僕自身で幸せを掴み取ること。そうすることで、ダリアさんも幸せになれる。そう、言っていたはずだ。

「忘れてません。この記憶を手に取ったその時には、僕の幸せというものを、考えてみたいと思います」

『そうか。ならば、全てを取り戻そうじゃないか。君の未来のために』

 ダリアさんの声に導かれるように、恐る恐る、手を伸ばし、指先で廻る記憶の外縁に触れる。

 その瞬間、僕の意識は爆発的に広がる白い光の中に、飲み込まれて。

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