Layer_3/ Senescence(7)
――落ちてゆく。
気づけば、スノー・ノイズに満ちた空間で落下していた。
夢? いや、これこそが僕の記憶そのものなのか。閃いては消え、見出しては飛び去るように流れていく記憶の中を、落下して、落下して、落下して。
そして、僕は、今まで失われていた「僕」を見つける。
「……っ」
僕自身と向き合ったその瞬間、僕はこのシステムそのものを、実感として理解する。「僕」を定義する膨大な情報が意識を浸食し、単なる情報から記憶へと変換されていく。
それ自体は何もおかしなことではない。記憶を取り戻すことが、僕の望みだったはずなのだから。
そうだ、何もおかしくない、はずなのに。
どうして、僕の意識の片隅で、それを拒絶しようとしたのだろう。
わからない。わからないままに、僕の短い記憶は「僕」の記憶に押し流されていく。
〈これが、仮想化輪廻の終わり。滑稽な後日談に、幕を引く時です〉
――そうだ。
かつてのシスルさんが、口癖のように言っていたではないか。
あの人の人生がそうであったように、僕の物語も、結局のところは長すぎる後日談であって。
そんな物語を――「僕」、否、僕は、
――誰よりも、憎悪していたのだ。
「ああ」
自然と、声が漏れていた。
目を開けば、そこには巨大な扉が立ちはだかっていて、前に白衣の女性が立っている。カメリア・クロウリー博士。大丈夫、今ならはっきりと思い出せる。彼女が僕に対して望んだことも、このシステムについても、全て。
クロウリー博士は、期待と不安がない交ぜになった表情を浮かべている。きっとモニタ越しに僕を見ているであろうダリアさんの、押し殺した息遣いが聞こえてくる。
その全てを認めた上で、僕は全身に篭っていた力を抜いた。これ以上、何に悩まされることもなく、緊張を続けている意味もなかったから。
「……気分はどうかしら?」
クロウリー博士が、真正面から僕を見つめて問いかけてくる。今なら、そこに篭められた、探るような光とその意図も、理解できる。
僕は、そんな彼女に応えるために、精一杯の笑みを向ける。
「最高の、気分ですね」
その答えを聞いて、クロウリー博士はぱっと笑みを深めて、大きく手を広げる。きっと、僕を抱擁しようと思ったのだろう。だから、僕も博士に向かって一歩を踏み出して、
抜き放った銃で、その胸を撃ち抜いた。
「な……っ」
ふらり、と。博士の身体が傾ぐ。僕が放った銃弾は、きっちり心臓に当たる部分を穿っていたようだ。いくら僕がノーコンだからって、この至近距離なら外す方が難しい。
胸元から、血ではなく仮想の花びらが散る。クロウリー博士の、くっきりと紅を引いた唇が、震えた声を吐き出す。
「どう、して」
「どうして? ははっ、はは、あははははっ」
いや全く、最高の気分だ。最悪の最底辺を振り切った醜悪な茶番劇、これを笑わずして何としようか。悲劇のヒロインを気取って、涙目で僕を見上げる博士に同情することなど、僕にはできない。できるはずもないのだ。
「何て顔してるんですか、クロウリー博士? 別に、痛みなんて感じていないでしょう? 僕と違って、痛覚を保持している意味もないんですから!」
「そう……、また、失敗してしまったのね」
やっと、博士も実情を理解したのだろう。研究員として、その物分りの悪さはどうかと思うけれど、そうでもなければ、こんな悪趣味なシステムを作ることも無かったかもしれない。
『鳥の塔』の研究員というのは、それこそ僕の父も含めて、どこまでも、他人には理解できない世界を持つものだから。
「成功すると思っている方がおかしいんですよ」
「いいえ、いいえ。私はあなたを見捨てたりしない! あなたの本当の望みが叶うまで、何度でも繰り返してみせるわ。だって」
――私は、あなたを、愛しているのだから。
クロウリー博士の唇が、鳥肌ものの言葉を並べ立てたその瞬間。
世界が、ばらばらに崩れ始めた。
煉瓦の道も、おそらくは「出口」であろう扉も、子供返りした僕が見つめていた御伽話の世界も、そして、クロウリー博士の姿も。何もかも、何もかもが崩れ落ちて、零と一に還元されていく。僕の意識も、やがては崩壊に飲み込まれて、初期化される。
そして、また、再構築されるのだろう。
クロウリー博士が諦めない限り、永遠に。
けれど、そもそもこのシナリオ自体が破綻していることに、博士は気づいているのだろうか。僕を「蘇らせる」という目的に目がくらんでいるのだから、気づいていなくてもおかしくないか。
ともあれ、今回の試行は、これで終わりだ。
博士の思い通りに初期化される前に、無駄な足掻きだとはわかっていても、こめかみに銃口を当てる。何もかもが仮想でしかないこの空間において、銃弾がどれだけの力を持っているのか、プログラムに依存する存在である僕が理解できるはずもなかったけれど。
その時。
『ユークリッド!』
どきり、として、銃を握る手から一瞬だけ力が抜ける。
ユークリッド。それは、僕の名前ではない。
ただ、僕の名前ではないけれど、誰でもなかった、ある意味では「誰でもよかった」僕を個体として定義する名前。
僕を、たった一人の僕として認めてくれた、証拠であって。
反射的に、僕はそちらを――見えもしないくせに、ダリアさんの声が聞こえる方向を、見てしまった。もちろん、そこには誰の姿も見えなくて、ただ崩れゆく世界だけがあった。
本当は、何も言わずに幕を引くべきなのだ。僕の物語に、ダリアさんは存在しない。介入を許したつもりはない。
ただ、ここまで歩んできた僕の片隅に残っている「ユークリッド」としての記憶が、このまま幕を引くことを、許してくれそうにない。
それはそうか、という思いが、ふと、苦笑となって唇から漏れ出した。
「……このまま何も言わずにお別れなんて、不義理もいいところですよね」
義理、というのも何となく違う気はするけれど。僕の記録の限り、縁もゆかりもない「僕」のためにオペレーションを続けてくれたダリアさんに対して、何も感じなかったかといえば、嘘だ。
記憶が無かったとはいえ、僕が永遠に欠いた感情を抱きかけたことを、否定することは、できない。
だから、せめて、僕が僕である間に、一つだけでも知っていてもらいたいと思った。
――僕の、ことを。
「そうだ、まだ、ダリアさんには、名乗っていませんでしたね」
今までの試行の「僕」の記憶は、今の僕にはない。それでも、ダリアさんには名乗っていなかったはずだという確信を篭めて、虚空に、仮想空間の向こう側に、言葉を投げかける。
「僕の名はヒース・ガーランド。環境適応型人造人間ガーランドの正規第四番です」
『……ヒース・ガーランド』
ヒース。
その名自体が「荒れ野」を示すように、荒野に咲くちいさな花の名前だ。
片割れやガーディ――ガーデニア兄さんの言葉を借りれば「ただの個体識別記号」でしかない名を、けれど、僕は誇りに思っている。
それを、ダリアさんが理解したかどうかはわからない。ただ、鈴を思わせる響きの声が、そっと、僕のすぐ真上で囁いた。
『いい名前だな』
「ありがとうございます」
困ったな。僕には何の意味もないやり取りのはずなのに、不覚にも「嬉しい」と思ってしまった。本当に、ダリアさんと喋っていると調子が狂う。何のてらいもなく、真っ直ぐに、僕の懐に踏み込んでくる。
ダリアさんは、一拍置いてから、静かな声で囁いた。
『最後に一つだけ聞かせてくれ、ヒース』
タイムリミットは、すぐそこだった。爪先の感覚は既に無く、銃を握る指先も分解を始めている。それをわかっていて、ダリアさんも「一つ」と言い置いたのだろう。僕は小さな頷きだけで、それに応える。
『君は、どうして、このプログラムを否定するんだ。私は、ずっとそれがわからずにいた』
過去二回の試行において、僕はきっと、何も言わなかったのだろう。言う理由すら感じなかったに違いない。
ただ、今ここにいる僕は、せめて一つだけでも、ダリアさんに報いたいと思った。それが、「ユークリッド」でもある僕の、単なる自己満足であろうとも。
だから。
「僕は、誰かの手で整えられた、都合のいい奇跡なんて望みません」
きっとモニタの向こうで僕を見つめるダリアさんに、微笑みかけて。
「僕の幸せは、未来にはないんですから」
そして、引鉄を。
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