Layer_3/ Senescence(5)
かち、こち。
頭の奥の奥まで響く、針の音。
かち、こち。
大切な記憶を隠した、針の音。
僕は、警棒を握り締めたまま、音の聞こえてくる方向を確かめる。一度は殺されてしまったけれど、二度はない。先ほどのように追い詰められないよう、最初からダリアさんのナビゲートに従って広い場所に陣取り、不気味な時計の音を待ち構える。
そこは一面の花畑だった。先ほどまで、狼と語らう頭巾の少女がいたけれど、今はその姿も見えない。そっと、足元の花を摘んでみると、指の中で茎が粉のように崩れ、花も霧散してしまう。あまりにも儚い、つくりものの花。
「御伽話の、世界」
シスルさんは御伽話を愛していたはずだ、と思い返す。あの人は、酷く現実的でシビアなものの見方をする割に、一方では誰よりもロマンチストで、当時、誰もが忘れ去っていた御伽話を諳んじてみせたのだ。他でもない、僕に対して。
――では、僕は?
この夢を見ている僕は、どうだっただろう?
〈さあ、始めましょう、パーティを〉
足元の花が、歌い出す。その歌声に導かれるように、時計の音が近づいてくる。
〈歌いましょう、踊りましょう、だって今日はお祝いだもの。あなたのための、お祝いだもの〉
視線の先、こんもりとした絵に描いたような森を突き抜けて、空飛ぶ鰐が躍り出る。これのどこがお祝いなんだか。
「サプライズで人を殺しに来るパーティとか、勘弁してほしいんですけど、ねっ!」
空中で身をくねらせた鰐が、尻尾で僕の体をなぎ払おうとするのを、バックステップで避けて。踏み散らした花びらが宙に舞う中、空中で僅かに体勢を崩した横っ腹に警棒を叩き込む。だが、予測はしていたが鰐の外皮は鋼のように硬く、こちらの手を痛めてしまう方が早そうだ。
じろり、とこちらを見据える隻眼、片目からは今もなお花びらがはらはらと散っている。僕はその視線を受け止めながら、どう動くべきか考える。
今の交錯から判断するに、瞬間的な速度なら、ほぼ同等。ただ逃げるだけならば僕が不利だろうけれど、もう少しなら持ちこたえられる、と思う。
かち、こち、かち、こち。
思考を阻害する針の音。何故ここまで耳に障るのかわからない。いや、さっき、何かを思い出せそうな気がしていたのだけど――。
〈思い出せない? これは、あなたが望んだ世界なのに〉
かち、こち、かち、こち。
花は歌う。針は進む。
僕はこんな世界、望んだ覚えはない。
歯を食いしばり、流されそうになる意識を、目の前の鰐に引き戻す。考えるのは後だ、まずはこの怪物を倒さないことには、前には進めない。
〈だって、あなたはいつも夢見てた。御伽話の世界、永遠に変わらない場所〉
〈だって、あなたはいつも恐れてた。流れる時間、変わってしまうもの〉
心の奥底にまで沁みこんでくる歌を振り切るように、強く踏み切って。その時には、鰐も僕の真正面から飛び掛ってこようとしていた。
脳裏に蘇る、胴を噛み千切られるイメージを振り払い、更に踏み込んで加速。猛烈な速度で距離が縮まっていくのがわかるけれど、まだ、もう少し接近しなければ。衝突する寸前までは、足を止められない。
かち、と。鰐の腹の中、時計のからくりが音を立てる。
――思い出せ。僕がかつて持っていたはずの、能力を。
第一層、第二層と越えてきた今の僕なら、できるはずだ。全身の筋肉の動きと血の流れ、そしていやに研ぎ澄まされた脳の働きを意識する。
そして、限界と思われていた一線を、勢いをつけて踏み超える。
――次の針の音は、いつまで経っても、聞こえない。
目の前の鰐は、今度こそ、僕を頭ごと噛み砕かんと口を開きかけた姿勢のまま、ぴたりと空中に固まっている――いや、よくよく見れば、ゆっくりと、ゆっくりとではあるが口が開かれてゆき、前脚が空を切るのが見て取れる。
脳内のスイッチが切り替わり、引き伸ばされた時間の中、身体にまとわりつく空気が重さを増して僕を押しつぶそうとするけれど、両の足を強く踏みしめ、無理やりに振り切って、左手を腰に。指に触れるのは冷たく、僕が最後まで好きになれなかった鋼の武器。
〈下手だな、 〉
引き抜いた銃を構えたその瞬間、頭の奥で、誰かが囁く。低く囁くような声音はともかくとして、強勢の置き方はシスルさんのそれとよく似ていて。それでいて、シスルさんのそれよりもずっと、胸を締め付ける、懐かしい声。
いいんです。僕は頭の中で、それに答える。
僕らはただ戦うために作られたのではない。戦うことはあなたに任せて、僕は、あなたにできないことをする。そうすることで、僕らが生まれたことに、意味を示す。僕が生きていく、理由を作る。
〈それでも、理不尽に抗う力は必要だ。君は、今のままではあまりにも弱い〉
そう、僕は弱い。だから、あなたがいなくなってしまってから、僕は、せめて己の身と、僕の大切なものを守れるだけの力を求めた。そのために、今まであれだけ嫌っていた銃だって握った。今の僕にその頃の力が残っているかはわからなかったけれど、せめて、あなたに笑われないように、意識と身体の感覚を研ぎ澄ませる。
――でも、あなた、とは誰だっただろう?
微かな疑念、けれどそれもすぐに呼吸すらも許さない空気の中に溶け出して。僕はほとんど無心のまま、最後の一歩を踏み込んで、ほとんど静止しているようにしか見えない鰐の口の中に、銃ごと左手を押し込む。
そして、引鉄に、力を篭める。
銃弾が飛び出す、乾いた音と同時に僕の体を絡め取ろうとしていた重たい空気は消え去り、鰐の体が大きくのけぞる。その際に引っ込めようとした腕が牙に掛かって激痛が走ったけれど、何とか、腕を噛み切られずには済んだ。
正常に流れ始めた時間の中で、鰐は空中でもんどりうったかと思うと、そのまま花畑の上に墜落した。咥内で放った銃弾は、脳に当たるであろう部分を貫通して、後ろ頭に穴を穿っていた。
恐る恐る、尖った鼻っ面を蹴飛ばしてみても、鰐はぴくりとも動かない。
時計の針の音も、花の大合唱も、もう、聞こえない。
その時、ざあ、と風が花畑を吹き渡って鰐の体を花びらへと変換し、僕の腕からも痛みと共に花びらが舞う。止血しようにも包帯やそれに類するものは見当たらない。そもそも、この花びらを失うことで血を失うのと同じような症状になるのかも、わからないのだけれど。
視界一面を花びらに覆われながら、僕は、銃と警棒を収める。激しい頭痛に加えて酷い倦怠感が全身を襲っているけれど、それでも、やり方を思い出せてよかったと心から思う。このままこの巨大鰐と追いかけっこを続けていたら、きっと、僕の方が先に心が折れていた。
『……すごいな、ユークリッド』
今まで、僕を信じて見守っていてくれていたダリアさんが、ぽつりと感想を漏らす。
「そう、ですか?」
『一瞬、君が消えたように見えた。一体、どんな手品を使ったんだ』
「手品、というわけでもないのですが」
いや、ある意味では手品なのかもしれない。タネは、僕の体の内側にあるのだけれど。今もなお痛みを訴えるこめかみに触れながら、先ほどの感覚を思い出す。世界を回している時計の針を握る、確かな手ごたえ。
「緊急危機回避能力。僕ら、ガーランドの子供に与えられた力の一つです。ほんの一瞬だけ、脳と神経の働きを強化して、爆発的な加速を行う能力です」
僕の主観としては世界が止まったように感じられたけれど、客観的には、ダリアさんが言ったとおり、ほとんど視認できない速度で動いたように見えるはずだ。
「本来は、名前の通り目前に迫った危険を回避するための能力ですが、こうして、攻撃に転じる時にも有用です。ただ、脳への負担があまりに大きいのでそうそう使えませんし、一回使うとクールダウンが必要です」
その間、酷い頭痛によって判断力が鈍ることも、欠点の一つ。本当に、一度限りの切り札、というやつだ。
『そんな能力を隠し持っていたとは、知らなかったな』
「隠してたつもりはありませんけどね」
第二層で無意識に能力を発動させてから、同じ感覚をもう一度再現できないかと思っていたが、今になってやっと、思い出すことができたのだ。
とはいえ、もう少し早く思い出していれば、と思いもするのだが。それこそ、ガーデニアさんと出会った時に思い出せていれば、出会い頭に殺されるということも、なかったというのに。
――いや、今でなければ、思い出せなかったのかもしれない。
この警棒と銃が、僕と共にあり続けていたことを思い出したのが、シスルさんとの別れを経験した後であったように。僕が戦いの中にあったこと、その中で扱っていた能力の知識を思い出すのが今であるのは、当然だったという思いもある。
もう一度、鰐、否、一瞬前までは鰐の姿をしていた花びらの固まりに視線を落とす。
足元には、鰐の腹から零れ落ちたのだろう、光り輝く僕の記憶の欠片が転がっていた。それは、歯車を組み合わせ、捻じ曲がった針を持つ、壊れた時計のような形をしている。もう針の音は聞こえないけれど、僕は、欠片に触れることをつい、躊躇ってしまう。
――思い出したくない。
初めて、はっきりとそう思ったのだ。
それは警鐘のようでもあった。痛む頭の中で、がんがんと、何かが鳴り響いている。それを手にとってはならない。思い出してはならない。声にならない声で、誰かが叫んでいる。
同時に、手に取らなければ僕は僕を思い出せない、という確信もある。何のためにここまで来たんだ、そう僕の中の冷静な僕が語りかけてくる。あと少しなのだ、全てを取り戻し、この探索行を終わらせるために前に進み続けてきたのだろう、と。痛みと警鐘に埋め尽くされつつある意識を、何とか現実に引き戻そうとする。
『ユークリッド? どうした、能力の反動なのか?』
「いえ、そうでは、ないのですが……」
頭痛は間違いなく能力の反動だ。ただ、僕の視界がぐらぐら揺らぐのは、それが理由ではない。この階層に足を踏み入れてからずっと感じていた、足元のあやふやさ。そんな眩暈にも似た感覚の中で、決して目を離すことができないままでいる、時計の形をした欠片。
かち、こち――。
止まったはずの針の音が、耳の奥に響く。
「僕は、一体、何を見たのでしょう」
僕の呟きには、誰も答えてくれない。それはそうだ。本来的に、僕自身しか、答えられない問いなのだから。
意識して唇を引き締めて、意を、決する。
今までだって、示してきたではないか。何が待っていようと、僕は前に進んでいくのだと。欠けたものを全て埋めて、元の僕を取り戻してこの塔を出るのだと。そして、ダリアさんにもお礼を言いたい。きちんと、向き合って。
だから。
手を伸ばし、花びらの間から覗く、記憶の欠片に手を触れて――。
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