Layer_3/ Senescence(1)
――死を思え。
僕は、本当の意味での「死」を知らない。それが喪失を意味する言葉であることは知っているけれど。擬似的にこの身体が動かなくなる体験も何度かしているけれど。それでも、僕は死という概念を正しく理解しているとは言いがたい。
そんな僕が思うべき「死」とは、一体何なのだろうか。
わからないまま、僕は、次の階層に続く扉を、開ける。
ざあ、と。
途端、聴覚を支配したそれは、今までの階層では聞こえなかった音色。
その音が一体何であるのか、僕は目の前に広がる光景が目に入っていながら、すぐには理解することができなかった。呆然としているうちに、やっと、目に見えているものが何なのか、認識できた。
――そこにあったものは、森だった。
僕の前に立ち並ぶのは、見渡す限りの木々。ねじれた形をした巨木は、無数の枝に丸い葉をつけ、それらが触れ合うことで生まれるさざめきが、この世界の全てを支配していた。
一歩、踏み出した地面は一面柔らかな草に覆われていて、足首を包み込んでいる。舗装されてもいなければ、固く踏みしめられてもいない地面の上に立っていると、妙に不安になってしまう。足元がふわふわして、今にも僕が立っている場所が崩れ落ちてしまいそうな、そんな悪い想像ばかり広がってしまうから。
それに――。
「……何だか、無性に不安になる、景色ですね」
『そうか? 私は、綺麗な場所だと思うが』
「何と言えばいいのでしょう、無視できない違和感があるというか」
その違和感の正体が、どうにもわからないまま視線を走らせる。一面の木々、その足元に咲く可憐な花、そして柔らかな草と苔。ダリアさんの言うとおり、美しい風景だとは思う。殺風景な研究室を再現した第一層、混沌とした街を模した第二層とは一線を画している。
だけど、否、だからこそ。
「そう、そうです。何だか、現実味がないんです」
確かに今までも物理法則を無視していたり、突然目に見えていたものが異形のお化けに変貌したりと、現実からかけ離れた出来事ばかりだった。ただ、階層の風景それ自体はあくまで僕の記憶に裏打ちされたもので、そこに現れるお化けだって、僕が忘れていた「恐怖」や「痛み」を体現した姿をしていた、はずだ。
けれど、ここはただ綺麗なだけだ。第二層のような懐かしさを感じることもなく、どこかよそよそしい、僕を拒むような気配を湛えた、森。
「それに、ダリアさんにはわからないかもしれませんけど、ここ……、匂いが、ないんです」
無菌室特有の清浄に整えられた空気の匂いでもなく、裾の町外周の時に悪臭も伴いながらもどこか懐かしい匂いでもなく。木々の匂いも土の匂いも感じられないことに、戸惑いを覚えずにはいられない。
『匂いがない、か。それは確かに私にはわからなかったな』
ダリアさんは、やっぱり視覚と聴覚だけでしか、この世界を捉えることができないようだ。僕が抱いている違和感は、あくまで、この場に立っている僕にしか理解されないものなのだろう。
「ダリアさん、この階層は、僕の、何についての記憶が形になったものなのでしょうか? この場所に、僕は何を置き忘れてきてしまったんでしょう」
そもそも、こんな場所は現実に存在したのだろうか? かつての僕は、ここに立っていたことがあるのだろうか。
ダリアさんは、数拍沈黙した後に、低く唸るように言う。
『この階層は――』
その時、ダリアさんの声を遮るように、ざわりと僕の側の藪が音を鳴らし、何かが飛び出してくる。反射的に警棒のグリップを握り締めてそちらを見て、思わず、「えっ」と間抜けな声を出してしまった。
ころりと僕の足元に転がったのは、服を着た兎だった。ふわふわの白い毛並みをした兎は、長い耳をぴくぴくさせて、どうやって握っているのかもわからない前脚の時計をつぶらな瞳で見つめる。
〈ああ、急がなきゃ、急がなきゃ〉
つくりものじみた甲高い音声が、木立の音色に混ざって僕の鼓膜を震わせる。
〈今日は大事なパーティなのに。このままじゃあ、遅れちゃう〉
呆然とする僕に気づいた様子もなく、兎はぴょこりと立ち上がって、二足でとたとた走っていく。そんな兎の行く手に咲いた、一際大きな花たちが、その瞬間に首をもたげて歌い出す。
〈今日はパーティ、大事なパーティ〉
〈あちらでは狂ったお茶会、こちらでは魔女たちの宴、お城では楽しい舞踏会、あの靴落としたのはだあれ?〉
高く、低く。花だけじゃない、木々もまた、声を上げて歌っている。ざわざわと音を立てながら、視界に移る全てがおかしなミュージカルを始めてしまう。
僕は激しい頭痛を覚えて、思わずこめかみを押さえていた。楽しげな歌は続く、けれど僕の頭はそれを言葉として認識してくれない。認識したくもない。だって、何もかもがおかしい。今まで見てきたものと、何もかもが違う。
――これは、僕の記憶? 本当に?
痛みと強烈な違和感に、頭がかき乱される。この世界がおかしいのか、逆に僕自身の認識が狂ってしまっているのか。とにかく、何もかもを認めたくなくて、頭を抱えたまま声を上げる。
「こんなの、僕の記憶じゃ――」
「いいえ、これもまた、あなたの記憶」
刹那、投げ込まれた声を中心に、澱んでいた意識に冷たい波紋が広がる。その声は、僕の聞き覚えのある声だった。
はっと顔を上げると、今まで誰もいなかったはずの、一際大きな木にもたれかかるように、白衣の女性が立っていた。相変わらず、今にも胸がこぼれてしまいそうな、きわどい下着のような服を着ているその人は、もう一度、ぽってりとした唇を開く。
「これは、確かに、あなたの記憶なの」
この塔を作り出したという女性は、苦痛を堪える僕を優しい目で見つめていた。
「……僕の、記憶」
「ただ、今までの記憶とは全く違った意味を持つ記憶なのは、確か」
そう言って、その人はふわりと白衣を翻す。すると、裾から光の粒が零れ落ちて、木漏れ日に煌く。何もかも、何もかも。現実からかけ離れたこの世界で、その人は僕を手招くのだ。
「さあ、あなたの全てが、この先に待っている。恐れないで、あとほんの少しだから」
――僕の、全て。
混乱していた意識が、少しずつ輪郭を取り戻していく。何もかもわからない状態でこんな場所に放り出されてはたまらないけれど、指針を与えられれば、別だ。
「この階層が、最後の階層なのですか?」
「そうよ。ここまで諦めないでくれてありがとう、 。辛かったでしょう」
こんな時でも、取り戻されていない僕の名前は、ノイズに隠されて。それでも、この白衣の女性が、僕を待っていたことだけは、わかる。取り戻すと同時に失うものも多かったここまでの道程を思うと、僕を待つ人がいてくれた、というだけで心が少しだけ軽くなる。この、酷く不安を誘う世界においては、なおさら。
だから、せめて。待っていてくれたその人には、報いたいと思うのだ。
「辛くないといったら、嘘です。でも、失ったものを取り戻すまでは、前に進む。そう、決めたんです。絶対に、最後まで記憶を取り戻して見せますよ」
その思いは、果たしてその人に届いたのか。垂れ気味の、優しげな目を細めたその人は、嬉しそうに笑った。
「ふふ、嬉しい。不安だったの、途中で諦められてしまわないか。でも、きっと、あなたなら大丈夫ね」
その人は腕を挙げ、森の一点を指差す。それは、時計を持った兎が消えていった方向。花や木々が歌う、空想の世界。
「私は、この記憶の終わりであなたを待っているわ。最後の鍵と一緒に」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ふっと、白衣の女性は消えてしまった。けれど、確かにその人がそこにいた証拠に、僕の鼻腔は華やかな花の香りを記憶していた。
「ここが……、僕の記憶の、終着点なのか……」
一体、僕はどのような道を歩んで、この不思議な世界にたどり着いてしまったのだろう。それも、この道の先に進めばわかってくるのだろうか。最後には僕を待っていてくれる人がいる、わかっていても、心細さは拭えない。あの人には虚勢を張ってみせたけれど、実際には不安で仕方ない。
頭上を見上げてみても、木の葉に覆われていて、その向こう側の空は見えない。見えたところで何も変わらないとわかっていても、つい、声を上げてしまう。
「ダリアさん、そこにいますか?」
『ああ、ここにいる。不安なのか、ユークリッド』
「……はい」
格好悪いとは思うけれど、この風景を前にして背筋に走るぞわぞわとした不快感や、足元が崩れていくイメージは、そう簡単には拭えそうにない。それに、ダリアさんには色々と格好悪いところを見せてしまっているのだ、今更虚勢を張っても仕方ない。
そんな僕の不安が伝染してしまったのか、ダリアさんの声も、聞いてわかるほどの緊張を帯びていた。
『大丈夫だ、と、言ってやれればいいのだが。正直に言えば、ここから先に進んで、君の不安を解消できるという保証はない。もしかすると、君が見たくないものを、認識したくないものを、突きつけられることになるかもしれない』
「……覚悟の上です。覚悟は、しているつもりなんです」
それでも、戸惑わずにはいられない。もう、何が用意されていても驚かない、と自分に言い聞かせていながら、結局のところ僕は今、途方にくれて立ち尽くしている。前に進まなければならない、と理性でわかっていても、感覚が、目の前に広がるものを拒絶する。
しばし、何かを考えるように沈黙していたダリアさんが、ぽつり、と口を開く。
『私は、君の記憶を把握しているわけではない。だから、これは私の想像に過ぎないが、この場所は、かつて君が見た「夢」なのではないかと思っている』
「夢、ですか?」
『そうだ。夜眠るときに見る、あの夢だ』
夢。確かにこの現実味のなさや、脈絡のなさは、夢と近しいところがある。ただ、夢というものは、覚めてしまえばその断片だけが頭の隅にこびりついているだけで、ここまで確固としたイメージが残ることなど、めったにない、はずだ。
……かろうじて脳味噌にこびりつく、断片だけの記憶で形作られている僕が言うのも、変な話ではあるけれども。
「それでも、ただの夢であるとは、考えづらいです」
『だろうな。それは私も同感だ。ここまで明確な風景として映し出されているということは、この光景が君の経験した現実ではないにせよ、君にとっては大切なイメージであったはずだ』
今まで見てきた風景や、そこにいた人たちと、同じように。
意味がない、ということはない。それはわかる。ただ――。
「何故でしょう。それこそ夢のような、幸せそうな風景なのに、僕は、不安と嫌悪感しか感じられない」
『不安と、嫌悪感――か』
ダリアさんは僕の言葉を鸚鵡返しにして、小さく唸った。木立のざわめきと僕を招く歌声を聞き流しながら、僕は、僕をこの場に繋ぎとめてくれる唯一の声、ダリアさんの声を待つ。
やがて、ダリアさんは僕の頭上で、そっと囁いた。
『その感情こそが、君が失った記憶の、ヒントなのかもしれないな。第二層で、君が街並みに懐かしさを覚えたように、その感情にこそ、意味があるのだろう』
「僕の、感情に……」
思わず、胸に手を当ててみる。この階層に来てからというもの、妙に息苦しさを感じているせいだろうか、心臓がいつもよりずっと早く鼓動している。この、落ち着きのない感情の正体を、今から探らなければならない。
口の中に溜まっていた唾を飲み下して。深呼吸して、真っ直ぐに前を見据える。
僕の足に絡みつく、ねっとりとした負の感情は消えない。それでも、前に進まなければ、始まらない。
『無理はするなよ、ユークリッド。辛ければ、一旦この階層から退避したっていいんだ』
「……はい。一つ一つ、確実に。解き明かしてみせます」
焦ることはない、一歩ずつ、確実に。そうすれば、きっと、この森の向こうで待つ人にも届くと信じる。僕自身がこの塔を受け入れなければ、僕の記憶は戻ってはこないのだから。
『ユークリッド』
「はい?」
『仮に、君が、どんな選択をしても、私は君の側にいる。この手が届かなくても、絶対に、側にいるから』
何故だろう。
最初は僕の不安が伝染したのかと思っていたけれど、どうも、そういうわけでもない気がする。
ダリアさんの声に満ちた緊張は、僕が抱いている不快感とはまた別の、焦燥に似た何かであるような、気がしてならない。焦燥。一体、何に焦っているいうのだろう。
「ダリア、さん? どうかしましたか?」
『いや、変なことを言ったな、すまない。ただ、君が不安に思うことがあっても、私はここにいると、伝えたかったんだ。ただ、それだけなんだ』
ただ、それだけ。
――本当に?
「それだけですか? もしかして、ダリアさんも、何か辛く感じていることが、あるんじゃないですか? もしそうなら、教えてください。僕にできることがあれば、何でもします」
何でも。そう、僕をここまで支えて導いてくれたダリアさんのためなら、何だってできる。ただ、この塔から出られない限り、手の届かない場所にいるダリアさんのためにできることなんて、たかが知れているけれど。
ダリアさんは、一瞬息を呑んだようだった。ただ、すぐにいつもの調子で小さく息を吐き出して、微かな笑いすらも含んだ声で言った。
『ありがとう、ユークリッド。その言葉だけで、救われた気分だ』
「本当に、大丈夫なんですか? ダリアさんは、いつだって僕に優しい言葉をかけてくれるけれど……、ダリアさんの方が、無理をしているんじゃないですか?」
『いや。私は、無理なんてしていないよ。ただ、そうだな』
ダリアさんの声が、少しだけ低くなる。僕は反射的に背筋を伸ばして、次の言葉を待つ。
そして、天上からの声は。
『一つだけ、覚えておいてもらいたいことがあるんだ』
「僕が覚えておくこと、ですか?」
ああ、と。いつになく、静かで、穏やかで、なのにこちらの胸が苦しくなるような声音で、告げる。
『私は、君と出会うために、今まで生きてきた。きっと、これからも』
「ダリア、さん?」
『だから、もはや多くは望まない。唯一望むのは、君が自分自身の幸せを選び取ること。それこそが、私の幸せなんだ、ユークリッド』
僕の、僕自身の幸せ。
そうだ、シスルさんも言っていた。「めでたし、めでたし」の物語。ハッピーエンド。ダリアさんが望むのは、僕のハッピーエンド。けれど――。
「幸せ、なんて……、僕には、わからないです」
『まだ、わからないだろうな。何しろ君は、全てを取り戻してはいない』
――だから、もう少しだけ、共に進もう。
ダリアさんは、明るい声で僕の背を押す。僕も、小さく頷いて、ダリアさんを不安にさせないように、無理やり笑ってみせたけれど。
いやだな、ダリアさん。
これじゃあ――もうすぐ、お別れみたいじゃないですか。
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