Layer_2/ Adolescence(8)

「旅行ですか?」

 僕は、本当の答えをわかっていながら、そう問うたのだった。

 裾の町の片隅に位置する、サイコロを重ねたような、今にも崩れてしまいそうな不思議な形の集合住宅。そこの二階がシスルさんの住処だった。扉の前に荷物を詰め込んだ大きなトランクを置いたシスルさんは、「うるさいな」と無い眉を寄せて吐き捨てるように言った。

「何しに来た、   」

 かつての僕の名前は、やっぱりノイズの向こう側。けれど、邪険にしているようでいて、シスルさんはいつだって僕を真っ直ぐに見つめてくれていた。唯一、生身のままの目を守っているはずの、分厚いミラーシェード越しに。

 だから、僕は、その視線に応えて、単刀直入に話を切り出した。

「……もうすぐ、止まるのだと聞きました」

「ああ。元から、長くはなかった。この身体を根本から保守できるウィンも消えて久しい以上、わかりきってはいたしな」

 シスルさんの身体は、当時唯一と言ってもいい、精巧すぎる義体であって。その仕組みのほとんどはブラックボックスだった。それを作った天才は既に誰の手も届かない場所に消えてしまって、正しくシスルさんを「救える」人間はその頃には誰もいなかった。その事実を理解していてもなお、僕は、納得できずにいた。

「しかし、何故、わざわざ裾の町を離れるのです? 死ぬのは、ここでも構わないのではないですか? あなたが生きて守ってきた、この場所でも」

 そう、どうしても僕にはわからなかった。シスルさんが死ぬということ以上に、シスルさんが、今まで生きてきたこの街を離れるということが。シスルさんがこの街を愛してきたことは、他の誰よりも僕が一番よく知っているという、根拠のない自信がある。

 けれど、シスルさんは僕の問いに動じることなくトランクを片手に提げて、ほとんど癖のようになっている、歌うような独特のアクセントで言う。

「アンタにはきっとわからないさ」

「それでも、聞かせて欲しいのです」

「何、そう難しいことじゃあない。私は、この街が好きだ。だからこそ、死に場所には相応しくない。この土地に、この街に生きる誰かに、私の死に伴う負の思いを刻み込みたくはないのさ」

 それは、確かに僕にはよく理解できないことだった。ただ、誰かの「悲しみ」や「痛み」になりたくなかったのだ、という意味だということだけはわかった。感情としては、やっぱり納得できなかったけれど。

 僕なら、誰かに悲しまれるかもしれないけれど、この街に生きて死にたかった。その悲しみや痛みは、僕がこの街に生きていた証であるとすら、思っていた。シスルさんも僕のそういう考え方を知っていて、「わからない」と言ったのだろう。

 シスルさんと僕はどこか似ていたけれど、その辺りの感覚は、全く異なっていた。それも嫌われていた理由の一つだろうな、と今なら冷静に分析できる。

 分析できたところで、シスルさんとの関係は、もう、取り戻せないけれど。

「じゃ、私は行くよ。もう、二度と会わないことを祈るよ」

 シスルさんは、黒いコートを翻し、僕に背を向ける。

 決別。

 いつか、この時が来るとは思っていたけれど、それでも。それでも、僕は覚悟なんてできちゃいなかった。だから、思わず、身を乗り出して叫んでいた。

「最後に! 僕に出来ることは、ありませんか!」

 僕は、シスルさんを愛していた。焦がれるような恋情を伴う愛とは違う、温かく心を癒す灯火のような愛。強いて言えば家族に対する愛に一番近かったのだと思う。実の家族であるガーデニアさんには恋をして、他人であるシスルさんを家族として愛していたなんて、酷くあべこべだけれども。

 けれど、愛していたのは、本当だ。

 だから、せめて。最後くらい、シスルさんに報いたかった。

 立ち止まってこちらを振り返ったシスルさんは、少しだけ考えるように白い顎を撫ぜて。やがて、ほんの少しだけ笑って、言った。

「今までと変わらずにいてくれないか。私は二度と帰らないが、それでも、アンタは今までどおりこの街を守り続けてくれ。私が愛した、この街を。それが――」

 ――アンタへの、最初で最後の『願い事』だ。

 そう言って、シスルさんは僕の頭を乱暴に撫ぜた。僕の方が少しだけ背が高いから、少しだけ背伸びをして。

 僕は、目の前で笑うシスルさんを前に、胸の中に渦巻く思いを、喉の奥に飲み下して。

「お任せください、シスルさん」

 無理やりに、笑ってみせたのだと、思い出す。

 シスルさんには、涙を見せてはならなかった。シスルさんが僕にそうしたように、僕もまた、シスルさんにだけは、弱みを見せたくなかったのだ。だから、笑う。晴れやかに、すがすがしく、終わりの旅に出るシスルさんを送り出す。

 ――本当の感情は、まるで、正反対だったというのに。

 

 

 光が収まる頃には、幻視も既に遥か遠くへと消えていて。

 もちろん、シスルさんの姿も、影すら残さず消え去っていて。

 音もなく。

 僕の頬に、熱いものが、伝った。

 涙を堪える理由なんて、なかった。

 それは、今の僕にしかできないこと――シスルさんが、耳元で囁いた、そんな気がした。

 

 

『ユークリッド、大丈夫か』

「……はい。行きましょう」

 袖で涙を拭って、歩き出す。ダリアさんは、何かを言おうとしているようだったけれど、それは言葉にはならないまま、第三層へと繋がる扉の前にたどり着いた。

 僕の部屋があった施設と塔を繋ぐ扉、そして第一層と第二層を繋いでいた扉とも同じ、細かな装飾が施された扉。僕が前に立つと、体の内側が熱く燃え上がるような感覚と共に、かちりと音を立てる。きっと、今触れれば扉は開かれて、僕はもう一つ上の層――第三層へと到達するのだろう。

 この、懐かしい街にも、別れを告げなければならない。

 僕は、振り返ってそこに広がる記憶の街を見渡す。

 僕は確かにこの街に生きていた。世界の中心に聳える『鳥の塔』の内側、穢れ一つない研究室で生を受けた「選ばれし子供」であった僕は、周囲の反対を振り切って、この街に降り立ったのだと思い出す。そして、僕の人生を定義付けることになる人たちと、共に過ごしたのだと思い出す。

 そう、今なら思い出せる。この街が僕に与えてくれたものを。僕が出会ってきた人たちが抱いていた、あらゆる感情を。

『なあ、ユークリッド』

 一瞬、どきりとした。

 その声が、もう、どこにもいないはずの、シスルさんのものに聞こえたから。ただ、落ち着いて考えてみれば、雲の上から聞こえてくるその声は、ダリアさんのものだ。

 そう、ダリアさんの声――というよりも、話し方、だろうか――は、不思議なことに、シスルさんとよく似ていた。少しばかり抑揚の強い声の調子も、言葉の選び方も。最初に、ダリアさんの声を聞いて安心したのは、もしかすると脳味噌の片隅に残っていたシスルさんの記憶と、無意識に照らし合わせていたからかもしれない。

 ――そのくらい、シスルさんの存在は、僕の中では大きなものだったのだと、思い知る。

 ダリアさんも、僕の態度からそれを察していたのだろう。嘆息交じりの声を投げかけてくる。

『シスルは、君にとって、本当に大切な人だったのだな』

 僕は、小さく頷く。かつての僕とシスルさんとの関係を正しく示す言葉は思いつかなかったけれど、僕にとって、確かにシスルさんは「大切な人」だった。

 ダリアさんは、一拍置いて、ほとんど囁くように言う。

『……不謹慎かもしれないが、うらやましいと思ったよ。君と、シスルが』

「そう、ですか?」

『ああ。君たちは、見えない何かで繋がっているように見えた。言葉にはならない部分で、お互いのことを、深く、どこまでも深く理解している。それが、私にはうらやましくてたまらないんだ』

 私は、言葉を通してしか君と繋がることができないから、と。

 言ったダリアさんの声は、どこか、寂しげで。

 僕は、胸にかっと湧き上がる感情に任せて、ほとんど反射的に声を上げていた。

「そんなこと、ありませんよ!」

『……ユークリッド?』

「確かに、僕はまだ、ダリアさんのことを理解しているとは言えません。ダリアさんの顔や姿も知らなければ、ダリアさんがどんな思いで僕と一緒にいてくれるのかも、わかりません。それでも、これからわかることは、出来ると思うんです」

 僕とシスルさんだって、最初からそうだったわけじゃない。ところどころ記憶は曖昧だけど、シスルさんに近づきたいと望んで――それは僕の一方的な感情ではあったけれど――何度も何度もぶつかっていって、その結果として手に入れた、絆なのだ。

「僕は……、ダリアさんのことも、もっと、知りたい。理解したい。わからないことを、一つずつ、減らしていきたい」

 本当は、今すぐにでも、ダリアさんの側に走っていって、向き合って話をしたい。そうしなければわからないことだって、たくさんあると、知っているから。

 なのに、ダリアさんは、心細げな声で、ぽつりと呟くのだ。

『……本当に、そう、思ってくれているのか?』

 その言葉に、僕は、ついむっとしてしまう。もしかすると、表情にも出てしまったかもしれない。

「信じて、もらえませんか?」

『そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ、私は君に信じてもらえるだけのことをしてきただろうかと。そう、思ってしまうんだ』

 私には、言えないことも多い。君に伝えきれないことも、たくさんあるのだと。そう言って、ダリアさんはそっと、息をつく。

 ……ダリアさんも、不安に思っているのだ。僕の抱いている不安とはまた違うものではあるけれど、決して、迷うことなく、僕を導いてくれているわけではない。

 でも、それは。

「……だからって、僕がダリアさんを信じられないことにはなりませんよ」

『何故だ?』

「そうやって、伝えられないという事実を伝えてくれているじゃないですか。それがわかるだけでも、安心できます。それに」

 ダリアさんから僕の顔が見えることを祈りながら、帽子の鍔を少しだけ上げる。僕がどんな顔でダリアさんを見ているのか、少しでも伝わるようにして。

「僕と一緒に悩んだり、迷ったりしてくれる。そういうダリアさんが、僕は、好きです」

『す……っ!』

 ダリアさんは突然言葉を詰まらせてようだった。もしかして、僕は、変なことを言ってしまっただろうか。知らずのうちに、ダリアさんを傷つけるようなことを、言ってしまっただろうか。言い知れない不安を覚えて、そっと、声を投げかけてみる。

「あの……、ダリアさん?」

『す、すまない。少し、驚いただけだ』

 意外と、はっきりとした声が返ってきて、安堵する。一体どこにそんな驚く要素があったのかは、やっぱりわからなかったけれど――、

『ありがとう、ユークリッド。その言葉は、嬉しい』

 その言葉の温かさに、僕はつい、つられて笑っていた。

 シスルさんを失った、心の痛みは消えない。消えないでいて欲しい、とも思う。ただ、僕の中には痛みだけがあるわけではない。新しく生まれる、温かな感情だってあるのだということを、ダリアさんが教えてくれる。

 本当にこの感情が「新しく生まれた」ものなのかは、まだ、わからないけれど。

『しかし、シスルは、君に、何を伝えようとしていたのだろう』

 ふと、ダリアさんが言葉をこぼしたことで、僕の意識はもう一度、シスルさんとの対峙に引き戻される。大丈夫、さっきはただ辛かったけれど、今は客観的に、シスルさんの言葉を思い出すことができる。

『私には、彼の望みの全てがわかったわけではない。唯一、ハッピーエンドを望んでいることくらいしか』

「それは、僕も同じですよ。僕だって、シスルさんの全てがわかるわけじゃありません」

 わからなかったからこそ、ずっと、シスルさんの背中を追いかけていたのだ。そうすることで、シスルさんがその手の中に握り締めているものを、僕には足らないものを、理解できると信じて。

 それが「何」だったのかは、今もなお、思い出せないままだったけれど。きっと、僕の胸にぽっかりと開いた穴、欠落、喪失感と何らかの関係があるのだということは、何となく察することができるのだけれど。それ以上のことは、まだ、何も。

 とにかく、僕もダリアさんも、シスルさんが仕掛けてきた全ての謎を解き明かしたわけではないのだ。ダリアさんの言うとおり、シスルさんの目的が「めでたし、めでたし」で終わる物語である、ということくらいしかわからない。

 ……それはそれで、シスルさんらしいとは思う。シスルさんは、遠い日の御伽話を愛していた。僕も嫌いではなかったし、他の人よりずっと詳しかったはずだ。それでも、シスルさんはいつだって僕の知らない話を知っていて、あの、歌うような調子で物語っていたのだと、思い出す。

 そのシスルさんが、御伽話の決まり文句「めでたし、めでたし」を求めているというのは、当然とも言えた。

 ただ、これは単なる御伽話ではない。今、ここにいる僕の、全く先の見えない物語。

 シスルさんは、一体何を知っていて。何を、僕らに伝えようとしていたのだろう。

「死を思え。そう、シスルさんは言っていましたね」

 死を思え――。その言葉を思い出すたびに、僕の内側で何かが鈍く痛みを訴える。それが何であるのかわからないままの僕に対し、ダリアさんは思わぬ言葉を投げかけてくる。

『ユークリッド。もし、君がこの塔を上りきって、抜け出せたとして。そこに、何も残っていなかったとしたら、どう思う』

「……え?」

『君が死を認識したシスルだけじゃない。ガーデニアも、君の前に「お化け」として顕現していた記憶の人物たちも、誰もが。君の前から姿を消していたとしたら、君はどう思うだろう』

「それは、ダリアさんも、ですか?」

 ダリアさんは、ただ、沈黙で僕の問いに答えて。十秒くらいの間を置いて、付け加える。

『……これは、単なるたとえ話だ。だが、君がどう思うのかは、知っておきたい』

「わからない。まだ、わからないです」

 ――ただ、この質問が、単なる「たとえ話」でないことだけは、わかる。

 僕は、覚悟をしなければならないのかもしれない。記憶を全て取り戻しても、大切なものはもう、二度と戻ってこないという覚悟を。

 けれど、覚悟とは何だろう。僕はまだ、何が一番僕にとって大切なのかも、思い出せない。思い出すために、この塔に挑んでいるのだ。だから、今の僕は「わからない」と答えるしかない。

 けれど、ダリアさんは、この塔の外側を知っている。僕がこの塔を抜け出した後の物語を――シスルさんが言う「物語の結末」を知っている、はずなのだ。

「ダリアさん、あなたの目に映る塔の外は、一体、どんな風景なのですか?」

 ダリアさんは、僕の問いに対して、少しだけ考えてから、答えてくれた。

『それは、まだ、言えない。けれど』

「けれど?」

『君がただ悲しむだけではなく、少しでも、喜んでくれればいいと、思っている』

「答えになってませんよ」

『答えていないからな。すまない』

 僕は、もしかしてからかわれているのだろうか。

 一瞬はそう思ったけれど、ダリアさんの声はふざけている風ではなくて。本当に、僕には言えないことなのだろうと思う。きっと、この塔のシステムに、観測者としてのルールに、反してしまうから。

 それでも、ダリアさんは、こう、続けるのだ。

『シスルが言っていたとおり、君が何を望むのか、何を選び取るのかは自由だ。それでも私は、この塔の外で君を待っているよ』

 どこかシスルさんに似た、だけど、今までの僕の記憶にはない、微かに掠れの混ざったいい声で。

『いつまでも、何度でも。君を、ここで待っていると、約束しよう』

 その声は、僕の胸に、温かく響く。待っている、というささやかな、けれど大切な約束が、先の見えない道を歩む、勇気を与えてくれる。

「……ありがとうございます、ダリアさん」

 僕は、思い出の街に背を向けて、扉に向き直る。

 前に、進むために。全ての記憶を取り戻して、この塔の外を知るために。

 その時、ふと、扉の模様が目に入った。今まで単なる不思議な紋様だと思われていたそれは、眺めているうちに文字のようにも見えてきた。極めて複雑に意匠化された、三つのアルファベット。

「R、I、P」

 その三文字を認識した途端、ぞくりと背筋に冷たいものが走る。

 ――死を思え。

 声が。僕の知らない誰かの声が、僕の脳裏で囁く。

『……? どういう、意味だ』

 ダリアさんが、困惑したような声を上げる。その反応が不思議ではあったけれど、頭の中の声を振り払うためにも、意識をそちらに向けて、言葉を搾り出す。

「ご存知ありませんか? ラテン語で『Requiescat in Pace』、意味は『安らかに眠れ』」

 ――死を思え。

 この塔は、僕の記憶を封じた場所。失った記憶を取り戻すための場所。そのはずだ。

 なのに、どうして。

 

「死者に手向ける、言葉ですよ」

 

 こうも、「死」がつきまとうのだろう?

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