Layer_2/ Adolescence(7)

 その瞬間、目の前に立っていたシスルさんの姿が、ふっと、空気に溶けて消える。

 それと同時に、背後から、乾いた音が聞こえてきた。そちらを振り向けば、ナイフを収めたシスルさんが、手袋を嵌めた両手をゆっくりと打ち鳴らしていた。先ほどまでの鋭さはもうそこにはなくて、ただ、寂しげな笑みだけが、口元に浮かべられていて。

「正解だ、ユークリッド」

「……シスル、さん」

「私は、この街を去った後に、無様に死んだ。あの男は、それがどうしても、納得ならなかった。奴の、私に対する『未練』の形が今の私さ」

 未練。僕がシスルさんに抱いた、思いの形。まだ、教えてもらいたいことがたくさんあった。伝えたいことがたくさんあった。なのに、僕に理解のできない形で、この世から消えてしまったシスルさん。

「どうして、そんな顔をするんだ、ユークリッド?」

 僕は、シスルさんに言われて初めて、唇を強く噛み締めていたことに気づいた。

「最初に言ったはずだ、私は、あの男の記憶から生み出されたものでしかない。かつて、この街に生きたシスルという人物そのものではない」

「はい。それは、わかっていた、つもりです。でも」

 でも、それでも。

 気づきたくなかった。シスルさんが、もう、どこにもいないなんて。いつも側にいたはずのその人が、永遠に触れられない場所に去っていたなんて。

「もし、僕が、記憶を取り戻して、目が覚めても。シスルさんは、そこには、いないんですよね」

 言葉にして確かめてしまった瞬間、目から、熱いものがこぼれていた。一度こぼれてしまったものを、元に戻すことなんてできるはずもなくて。次から次へと、涙が溢れてくる。

 シスルさんは、きっと、そんな僕を見てびっくりしたのだろう。呆然とした声で、僕の名を呼ぶ。

「……ユークリッド」

「ご、ごめんなさい、こんなこと、言うつもりじゃなかったんですけど、でもっ」

 それ以上は、言葉にできなかった。この場にいるシスルさんに言っても仕方ない。言ったところで、本当に伝えたい、かつての僕の背中を守ってくれた憧れの人には、届かないのだ。永遠に。

 そうだ、僕は、シスルさんを愛していたんだ。

 ただ一人の、僕を理解してくれる隣人として。

 ただ一人の、僕の欠落を埋められる、大切な人として。

 その欠落の正体は思い出せないけれど、胸を締め付ける悲しみだけが僕の目から、涙の形で零れ落ちてゆく。悲しい。ただただ、永遠に取り戻すことの出来ない喪失が、悲しくて。

 格好悪い。そうは思いながらも、涙を止めることなんて、できなかった。

 すると、そっと。シスルさんの手が、僕の頭に触れた。シスルさんの行方を暴いたからだろうか、その機械仕掛けの掌は、確かに僕の帽子を撫ぜていた。

「アンタは、本当に奴とは似ても似つかないな、ユークリッド」

 奴、あの男――かつての、僕のこと。未だに名前も思い出せない、遠い日の僕。

 貶されているのだろうか、と思ったが、シスルさんの声を聞く限り、どうも、そういうわけでもなさそうだ、と涙でぼやけた視界で思う。

 少しだけ背伸びして、乱暴に、帽子の上からごしごしと僕の頭を撫でたシスルさんに目を合わせるのも気恥ずかしくて、つい、そのつま先の辺りに視線を落としてしまう。そんな僕に投げかけられる声は、どこまでも、優しい。

「だけど、アンタはそれでいい。それでいいんだ、ユークリッド。喪失を認めて泣くことは、かつての奴にはできなかったことだ。それが出来るアンタのことを、心底、好ましく思ってるんだ」

「それは……」

 僕が、ただ、昔の僕を思い出せていないからでしかない。

 もし、全てを思い出せていたなら、シスルさんが言うように、強がることだって出来たと思うのに。僕自身の心を守る殻を持たないまま、ただ、悲しいからって子供みたいに泣いてしまう自分が恥ずかしい。

 恥ずかしいけれど、「それでいい」というシスルさんの言葉につられるように、更に涙がこぼれてしまう。シスルさんの優しさが、余計に、今はもういないのだという事実を突きつけてきて。

 ダリアさんが、空の上から僕の名前を呼んでいる。ダリアさんにも心配させてしまっているのだから、早く泣き止まないといけないのに。自分で、自分が上手く制御できない。

 そんな僕をしばらく黙って見守っていてくれたシスルさんが、やがて、ぽつりと言った。

「なあ、ユークリッド。そんなに悲しいなら、もう、全てやめにしないか」

「……え?」

 胸の奥からこみ上げていた悲しみが、ぴたりとせき止められる。

 やめにする。一体、何を?

 ――本当は、考えるまでもないのだけれど。

 シスルさんは、僕の頭に載せていた手を離し、何かを虚空から取り出す。目を上げた僕が見たそれは、光り輝く輪。シスルさんが守る、最後の鍵だった。

「アンタがここで立ち止まれば、この世界がアンタの記憶から形作られた模造品とはいえ、これ以上、何もかもを失わないで済むし、痛みを受けることもない」

『シスル! それは何の解決にもならない。ユークリッドのためにはならないだろう!』

「確かに、解決にはならないよ、ミス・バロウズ。だが、そもそも『解決』という名のピリオドは、本当に存在するのだろうか?」

 ダリアさんの言葉を受け止めたシスルさんの口元が、どこかシニカルに、歪められる。

「悲嘆、辛苦、その全てを受け入れて、前に進んで。その先にユークリッドが望むような答えが示されるとも限らない。それこそ、こいつが思い出せていないだけで、この塔の外では私を含めた何かが永遠に失われているかもしれない」

 ――シスルさん。

「それを思えば、立ち止まることも、立派な選択肢だろう。何も変わらない? 結構なことじゃあないか。変わらない平穏、それを守ることの何が悪いっていうんだ」

 ――シスルさんは、やっぱり、どこまでも優しい。

『確かに、そうなのかもしれない。私の思いは、単なるエゴなのかもしれない。それでも、それでも! 私は、ユークリッドに……』

「ダリアさん、大丈夫です」

 ダリアさんの、ほとんど悲鳴のような響きを、遮る。そんな、苦しげなダリアさんの声を聞いていると、こっちまで辛かったから。

『ユークリッド、しかし、君は』

「大丈夫。シスルさんは、本気で僕を引き止めてはいませんから」

『何?』

 僕は、もう、泣いてはいない。確かにまだ、悲しみは胸の中に渦巻いていたけれど、それでも、きちんと、向き合わなければならない。

「だって、きっと、僕がここでシスルさんの言葉を認めたら、僕は殺されていました。そして、二度と目覚めなかった。立ち止まることは、諦めることと何も変わりませんから」

「……よく、本気でないとわかったな」

 シスルさんは、いつの間にかコートの内側に差し入れていた手を抜いた。多分、僕の死角でナイフの柄を握っていたのだろう。本当に、油断も隙もあったもんじゃない。ただ、そういうシスルさんだからこそ、僕も信頼できるのだ。

「わかります。シスルさんのことですから。シスルさんは、あくまで、僕を試すためにここにいる。与えられた役目を、果たそうとする。そういう人だって、信じています」

 すると、シスルさんは相好を崩して、満面の笑みを浮かべた。表情の作り方は少しばかりぎこちないけれど、心から笑っているのだとわかる、笑い方で。

「はは、こいつは参ったな。アンタは、奴よりずっと私のことを理解していると見える」

 そんなことはない、と思うのだけれど。だって、本物のシスルさんはどうかわからないけれど、ここにいるシスルさんは、僕の記憶から生み出されたもので。つまりかつての僕がイメージするシスルさん以上のものではない、はずなのだから。

 それでも、不思議だな。シスルさんにそう言われると、妙に誇らしい。

 ただ、僕よりもダリアさんの方が、心細そうな声を上げる。

『だが、いいのか、ユークリッド。君は、それでも前に進もうと、思えるのか』

「そりゃあ、ガーデニアさんの時も辛かったですし、それ以上に、今は悲しいです。けれど、どうしても、確かめたいんです」

 最初は、ただ、何もかもわからないという状況に、呆然とするばかりで。ダリアさんの声にすがるようにして、前に進むしかなかった。けれど、第一層と第二層を経て、記憶を取り戻していくうちに、「取り戻されていないもの」を意識せずにはいられない。

 その一つは、未だにノイズとしてしか聞こえない僕の名前であって。

 もう一つは――。

「僕には、決して忘れてはならない人がいたはずなんです。僕そのもので、それでいて僕とは別の誰か。気づけばずっと側にいて、シスルさんと僕とを結びつけたはずの誰か」

 自分で言いながら、まるで謎かけのようだと思う。思い出せば思い出すほどに、取り戻された記憶が輝くほどに深まる欠落の影に隠されてしまう誰かの記憶が、胸の中で熱をもって疼くのだ。

「それを思い出せないことが、何よりもどかしいんです。辛さも悲しみも、受け入れるのは辛いけれど。この欠落を抱えているほうが、苦しいんです」

『欠落……?』

 ダリアさんにも、僕が失っているものはわからないか、不思議そうな声を投げかけてくる。それに対し――シスルさんだけは、片手の上で鍵をもてあそびながら、ふっと息をついた。

「それはそうだろう。あの男は、いつだって『二人で一人』だった」

「……二人で、一人?」

 二人で一人。その言葉の意味を、誰を指しているのかを、僕は思い出せない。思い出せないというのに、するりと胸の中に入り込んで、僕の内側に穿たれた空洞に木霊する、言葉。

 背中に感じられる、誰かの気配。ダリアさんが僕の側に寄り添う気配とはまた違う、研ぎ澄まされて、酷く冷たい、それでいて僕を安心させてくれる、気配。

「だがな、ユークリッド。仮に全ての記憶を手にしたとしても、アンタが何を思うのかは、どこまでも自由だ。それを忘れるな」

「……どういう意味、ですか?」

「何、言葉通りさ。アンタは、アンタの思うがままに、自分が進みたい道を選び取ればいい。誰も、アンタの選択を非難はしない。私も、それにきっと、ミス・バロウズも」

 小さく、頷く。

 そんなことは、言われなくてもわかっている、つもりだ。

 ただ、いくら選択が自由だからといって、僕の進む道は定められている。強いて言えば、シスルさんが突きつけてきたように、「進む」か「立ち止まる」かの二択だろう。だから、僕は進むことを選ぶ。その選択に、後悔はしない。したくない。

 そんな僕の思いを、シスルさんはどう受け止めたのだろう。どこか寂しげな微笑を浮かべて、僕の目の前に、煌く鍵を差し出す。シスルさんの手の上で、僕の記憶の鍵はゆっくりと回り続けている。

「死人に口はない。だから、私はこれ以上何も言うべきではないのかもしれない」

 死人。その言葉を認めるだけで、僕の心には鈍い痛みが走る。それでも、僕は真っ直ぐにシスルさんを見つめ続ける。そのくらいしか、今の僕に出来ることはなかったから。

 そんな僕の視線を受け止めて、口元の笑みを深めたシスルさんは、淡々と続ける。

「それでも、おしゃべりな死人として、最後にこれだけは言わせてくれ」

 そうだ、これが、きっとシスルさんとの最後の対話になる。記憶を失う前から、今まで、そしてこれから生きていく僕にとっての、最後の対話。

 シスルさんは、もう一度、片方の手で僕の頭を撫ぜて。

「悲しんでいい。泣き喚いてもいい。それは、アンタにしかできないことだ。そのままでいい。奴の記憶を取り戻したとしても、そのままでいいんだ。ただ一つ、忘れないでくれれば、それでいい」

 ――ただ一つ。

 口の中で、そっと繰り返した言葉は、まるで、呪文のよう。

「死を思え、ユークリッド」

 ――死を。

「私の死を、あの男が経験した全ての生と死を思え。この塔は、アンタが『死』を理解することで、はじめて意味を持つ」

 ――死を、思え。

 それは、初めて聞く言葉ではない。ずっと、僕の頭の中に焼きついている、知らない声が囁いた言葉。死を思え。僕が経験してきた人の生き様、そしてコインの裏側である死を思う。

 その両面を併せ持つシスルさんの姿は、僕にとっての憧れであり、喪失の象徴である。

 だけど、僕が死を理解することで、この塔が意味を持つとはどういう意味だろう。

 僕の疑問を受け止めたのか、シスルさんはぐしゃりと乱暴に僕の頭を撫でて言う。

「これ以上は、私が言うべきことじゃあない。アンタがこの塔から感じ取ることだ。ヒントとしては十分だと思うがな」

「……シスルさんのヒントは意地悪ですから、信用なりません。その度に殺される身としては、たまったものじゃないですもん」

 つい頬を膨らませてしまう。何しろ、僕がシスルさんの死を理解するヒントとして何度も殺されたのだ。僕の察しの悪さはもちろん否定できないけれど、それにしたって乱暴にすぎるヒントだったと思う。

 そんな僕の抗議もどこ吹く風といった様子で、シスルさんは僕の鼻先に鍵を突き出す。

「さあ、そろそろ、おしゃべりも終わりにしようか。灰は灰へ、死者は土へ。私もそろそろ眠る時間だ」

 ノイズ交じりの弾むような声音は、死に向かう悲壮感をこれっぽっちも感じさせない。それはそうだろう。僕の記憶が確かなら、シスルさんはいつだってそうだった。仮にどれだけの悲しみをその胸に抱えていたとしても、決して、それを僕には見せてくれなかった。

 だから、今だって、そうだ。

 シスルさんは最後まで、僕の前では笑ってみせるだろう。

 僕は、しばらく、突き出された鍵とシスルさんを交互に見ることしかできなかった。けれど、前に進むと決めた以上、ここでずっと立ち止まっているわけにはいかない。

「シスルさん」

「何だ」

「……おやすみなさい」

「ああ、おやすみ、ユークリッド」

 最後の最後まで、シスルさんはかつての僕の名を呼ぶことはなく。

 伸ばした指先が鍵に触れた途端、まばゆい光が僕の視界を焼いて――。

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