Layer_2/ Adolescence(6)

『何?』

 ダリアさんが、はっとしたように声を上げる。僕は壁と天井の境目辺りを眺めながら、第二層の地図と風景を頭の中に思い描く。天高く聳える『鳥の塔』を中心にドーナツ状に広がる、隔壁に囲まれた都市『裾の町』。そこを駆けてゆく、黒いコートの裾。僕の記憶から生まれた灰色の街にたった一人、僕を待っていたその人の姿を思い描く。

「最後の鍵は、ずっと移動していたはずです。つまり――シスルさんが、鍵を持って移動しているのではないか、と思うのです」

『そうか、そう考えれば納得できる点も多いな。確かに、最後の鍵の気配があるところには、必ずシスルも現れていた。私が見ていた鍵の位置は、シスルの位置だったということか』

 僕らは、最初のシスルさんの説明で、鍵というのは街のどこかに隠されているものだと考えてしまったが、シスルさんが鍵を持っていたとしてもルールに反しているわけではない。シスルさんは「分割して隠しただけ」としか言っていない。シスルさんの懐に隠されていたとしても、何らおかしいことはないのだ。

『だが、仮に君の想定が正しければ、シスルを捕まえて、鍵を奪わなければならないということか』

「はい。どうにかして、シスルさんを『捕まえる』方法を考える必要があります」

 ダリアさんの言う「実体がない」というのはほとんど間違いではないと思う。この塔は、塔自体の法則には従うけれど、僕の頭の中に残っている「常識」で測れるものではない。姿が見えていても、僕からは触れられないという奇妙な状態すら、「ありえない」と言い切ってしまうことはできないのだ。

『今のままでは埒が明かないが、絶対に捕まえることが不可能、というわけではないはずだ。これは、解けない問いではありえないのだから』

 ダリアさんの言葉に、僕は深く頷く。シスルさんは、何らかの解を用意している。その、すぐにはたどり着くことの出来ない解に到達することを、きっと、望んでいるのだ。そうでなければ、わざわざこんなゲームを課すことはない。それこそ、ガーデニアさんのように真っ向から僕を試せばいいだけなのだから。

『……しかし、まだシスルの狙いがわからないな。我々に何かを考えさせようとしているのは、間違いないようだが』

「そうですね。きっと、今までの中に、考えるヒントはあると思うのですが」

 まだ、僕の頭の中ではシスルさんの問いかけが形にならない。僕の記憶と同じように、ばらばらのピースだけが散らばっていて、それを繋ぐものが見当たらない、そんな状態だ。

『なあ、ユークリッド』

「何ですか?」

『どうして、君はシスルにだけ触れられないのだろうな』

「どういう、意味ですか?」

『いや、これは単なる思い付きに過ぎないが、君は第二層のお化けには触れられるし、シスルの武器を受けることもできる。建物の壁や柱にだって、触れるだろう。だが、シスルにだけ未だ触れることができていないということ、それ自体に意味があるのかもしれないと思ってな』

「触れられない、意味……」

 もう一度、はっきりと思い出すんだ、ユークリッド。

 倒れゆく僕に対して、シスルさんは、何と言っていた?

 寂しげな声で、どんな「謎」を投げかけてきた?

 そこまで考えたところで、ぱちり、と。頭の中のピースが一つ、嵌るような心地がした。

 僕は、それを自覚した瞬間にベッドから飛び降りていた。今すぐにでも、ここから飛び出して、第二層に戻りたかった。

『ユークリッド?』

「シスルさんに……、会いに、いかないと」

『わかったのか、シスルの捕まえ方が』

 ダリアさんの声には、微かな期待。ただ、それには首を横に振る。

「わからない、まだ、それはわからないです。けれど、もし、僕の想像が正しければ」

 僕の脳裏には、ただシスルさんの横顔が浮かんでいる。

 かつての僕の記憶にも引っかかっていた、ささやかな幸せにまつわる、なのにどこか物悲しいメロディ・ラインの歌を歌っていたシスルさんの姿を思い出して。

「シスルさんは、本当は、あの場にいるはずがないんです」

 

 

 ――第二層。

 僕の記憶の鍵を守るシスルさんは、ここを僕の「青年期」の象徴だと言った。

 そして、記憶を失う前の僕の側には、いつだってシスルさんがいた。かつての僕がそうあってほしいと望んだから。僕の憧れの象徴であり、少年の頃の僕が失ってしまった「何か」を埋める存在であったシスルさん。

 そのシスルさんは――否、かつての僕が描いた思い出の形であるシスルさんは、馴染みのカフェのオープンテラスに座っていた。白と灰色の傘の下で、紅茶のカップを傾けるシスルさんは、僕がそこに立っているのに気づいたのか、顔を上げた。目を覆うミラーシェードが、テーブルの上に置かれたランプの明かりを照り返す。

「やあ、ユークリッド。まだ諦めてなかったんだな。そろそろ、諦めてくれるかと思ったんだが」

 どこか呆れたような声音で言って、シスルさんは紅茶を一口。断片的な記憶が正しければ、人間離れした能力を持つ反面、一部の感覚を欠いているシスルさんは紅茶の味もわからなかったはずだ。それでも、ことあるごとに、僕に付き合って一緒に紅茶を飲んでくれていたのだと、思い出す。

 ――嫌われているはずなのに、僕らは、何故かいつも一緒にいた。

 その理由は結局、まだ、思い出せないままだけれど。その理由こそが僕にとっての大切なものだったはずだというもどかしさはあるけれど。

 今は、まず、シスルさんの投げかけてきた謎を、解き明かさなければならない。

 シスルさんは、ソーサーにカップを置くと、ゆらりと立ち上がる。コートの下に仕込まれている、ナイフをはじめとした武装が、椅子に触れて硬質の音を立てる。その瞬間、柔らかな紅茶の香りに包まれていたシスルさんの気配が、一瞬で、鋼の鋭さに変化する。

「このまま闇雲に続けても無駄だっていうことがわからないのか、ユークリッド?」

 視線に、貫かれている。

 僕からシスルさんの目を見ることはできないけれど、シスルさんは、確かに僕を見据えている。シスル――刺草の名前の通りの鋭い視線が、僕の影を縫いとめている。動いた瞬間にもう一度殺すと、言外に宣言している。

 それでも、僕だって、ただ無意味に殺されに来たわけじゃない。喉元に見えない刃を突きつけられているとわかっていても、一歩、前に出て。シスルさんの視線を真っ向から受け止める。

「はい。だから、シスルさんに、確かめに来たのです」

「――何をだ?」

 シスルさんは、挑発的に両手を広げてみせる。大げさな、芝居がかった仕草も、僕の取り戻してきた記憶と何一つ変わらない。その事実が、僕の胸をきゅうと締め付ける。

 本当は、何もわからないままでいたかった。記憶を取り戻すまで、何も考えずにシスルさんと言葉を交わしていられれば、どれだけ幸せだっただろうと思う。

 けれど、当のシスルさんが、それを許してはくれない以上、僕はシスルさんの意図を読み解かなければならない。色々なものを欠いたままの、僕の全力をもって。

 警棒を抜き放つ。それと同時に、シスルさんが地面を蹴る。ナイフを片手に、僕に突進してくる。ただ、その動きははっきりと僕の目に映っている。恐怖を喉の奥に飲み下して一歩踏み込み、突き出されたナイフの一撃を、あえて左の肩口に受ける。

『ユークリッド!』

 ダリアさんの悲鳴、けれど、これでいい。これでいいんだ。肩に走る激痛、それでも、死を経験した瞬間ほどではない。大丈夫、意識はまだ、はっきりしている。

 シスルさんの方が僕の行動に驚いたのか、一瞬だけ、ナイフを僕に突き刺したままの姿勢で固まった、その刹那を狙って警棒を振るう。だが、その一撃はシスルさんの身体に沈み込むだけで、全く手ごたえがない。

 シスルさんは、僕の肩からナイフを抜いて数歩下がる。傷口からは、血の代わりにはらはらと花びらが舞う。僕を構成するものが内側からほどけて、空気に溶けていってしまうような感覚。それでも、まだ、意識を手放すわけにはいかない。

 両足に力を篭めた僕を、シスルさんはどこか寂しげな――そう、僕が死ぬ時には必ず見せる、こちらまで胸が苦しくなるような笑みを、口元に浮かべてみせる。

「無駄だよ、ユークリッド」

「……わかってます、これでシスルさんを倒すことができないことくらい。最後の鍵には、届かないことくらい」

「ほう。なら、どうするつもりだ? このままでは埒が開かないだろう」

 少しずつ、少しずつ。

 シスルさんは、言葉と行動を重ねてゆく。かつての僕を嫌いだと嘯きながらも、そうやって、言葉にできること、できないこと、あらゆることを教えてくれていたのだと、思い出す。

 今だって、きっと、シスルさんは僕にヒントを出してくれているはずだ。酷く乱暴な方法ではあるけれど、僕が四度殺されたという事実すらも、一つのヒントなのだと思う。僕が、それに気づけていなかっただけで。

 ――気づけるかどうかを、試されていたというだけで。

「シスルさん」

 じり、と。僕も一歩下がって、シスルさんと真っ向から向き合う。

 そういえば、こうしてシスルさんときちんと向き合うのは、ゲームが始まってからはこれが初めてだと気づく。ナイフを片手に握りこんだシスルさんは、その全身が一つの武具であるかのような気配を湛えて、佇んでいる。

「あなたは、僕に、言いましたね。『私はどこにいるのか』と」

 ああ、と。シスルさんは鋭さを失わないまま頷く。きっと、僕がひとたび意識を外せば、シスルさんは容赦なく僕の首筋にそのナイフを走らせるだろう。

 ただ。

 その一撃も、僕を本当の意味で「殺す」には至らない。二層目に至ってから五度目の死として、この塔のプロセスの一環として消化されてしまうだけ。僕が諦めない限り、それは本当の死ではあり得ないのだ。

 シスルさんはそれを理解しながら、僕を殺す。何らかの思い、否、願いを篭めて、僕を殺す。僕が絶対に触れることのできない場所から。

 その意味を、僕はやっと、理解しはじめている。肩の痛みと、それ以上の胸の締め付けられるような痛みと共に。

「僕の目に映っているあなたは、そこには、いないのですね」

 僕の言葉に、シスルさんは張り詰めた気配を少しだけ緩め、小さく、頷いた。

 ――やはり、そうなのか。

 確信、と同時に喉がいやにひりつく。僕はシスルさんが好きだ。ガーデニアさんに対する「恋情」とはまた違う、純然たる憧れと、僅かな羨望から成る好意。だからこそ、目の前に立っている、否、「立っているように見える」シスルさんを見ていると、酷く悲しくなってしまう。

 それでも、僕は、認めなければならない。

 誰でもないシスルさんが、僕がそうすることを望んでいるから。

「あなたは、どこにもいない。この世のどこを探しても、見つかるはずもない」

 身体の痛みよりもずっと、胸が苦しくて。ほとんど喘ぐように、けれど、シスルさんからは目を逸らさないようにして。

 

「だって、シスルさんは、死んでいるのだから」

 

 僕が辿り着いた「答え」を、言葉にする。

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