Layer_3/ Senescence(2)

 ダリアさんの言葉は気になるけれど、それを確かめるためにも、まずは、進まなければ。

 一歩、足を踏み出したその瞬間、ぐらり、と世界が揺らぐ。

 本当に、足元が崩れ落ちたのか、と背筋がひやっとしたけれど、見れば足元は柔らかな草を踏みしめていて、そこにはしっかりと地面が存在していた。ならば一体、と顔を上げた僕の目に映った光景は、その一息の間に一変していた。

 確か、僕はつくりものめいた森の中にいたはずなのに。目の前には無機質な白い壁。振り返ってみれば、四方を壁に囲まれた小さな部屋の中で――そう、何となく、地階に位置する、僕が目覚めた部屋に、似ている。違うところといえば、僕が来た方向に、金属の扉が佇んでいること、そして。

 誰もいないベッドの横に、あの白衣の女の人が、座っていること。

 ただ、ここにいる彼女は、さっき僕と言葉を交わした彼女ではない。それはすぐにわかった。その人は全く僕に気づいた様子もなく、誰もいないはずのベッドに向かって微笑みかけ、口を開く。

〈おはよう、   。いい夢が見られたかしら?〉

 ふわりと耳に響く柔らかな声。こちらまでふっと力が抜けそうな、声音。ただ、それはここにいる僕ではなく、本来ベッドの上にいるべき「かつての僕」に向けた言葉なのだと、ノイズにまぎれた「名前」で理解できた。

〈私? 私はカメリア。カメリア・クロウリー。環境改善班の研究員よ〉

 環境改善班。その言葉の響きを、僕は、記憶している――。

『彼女――カメリアは、何を言っているんだ?』

 ダリアさんは、おそらく『鳥の塔』のシステムについて、あまり詳しくはないのだろう。不思議そうな声で問うてくる。だから、僕は白衣の女の人、カメリアさんというらしいその人から意識を離さないようにしながらも、僕が今までに取り戻した記憶と照らし合わせていく。

「当時、統治機関『鳥の塔』の科学者は、二つの派閥に分かれていました。やがて人の住めない土地になるであろうその場所に、人間そのものを適応させようと試みた『環境適応班』、そして何らかの方法でゆるやかな滅びを食い止め、かつての豊かさを取り戻そうとした『環境改善班』。

 二つの派閥は方法論こそ異なれど、目的は同じく『滅び行く世界を生き延びること』です。そのため、時には研究成果を巡って張り合うこともあり、時には手を組むこともあったはずです」

『そして、彼女はうち片方の派閥の研究員だと言っているのか』

「はい。そして――僕は、逆に『環境適応班』の所属です。正しくは、所属ではなく『研究成果』と言うべきかもしれませんが」

 そして、これは「僕」というよりも「僕ら」と言った方が正しいだろう。

 ガーランド・ファミリー。フラスコの中の小人。まさしく、生身の人間では到底生きてゆけないような環境下での生存と繁殖を目的とした、環境適応型人造人間。この世界の未来のために造られた新人類。そのうちの一人が、僕だ。

 環境適応班の作品である、という都合、僕は適応班の研究員たちとは親しかったが、その反面、改善班の研究員には詳しくなかった。だから、きっと、かつての僕も、カメリアさんのことは知らなかったに違いない。それを裏付けるかのように、椅子に腰掛けたカメリアさんは声なき声を聞き取ったのか、くすりと笑って言う。

〈そうね、本来、私はあなたを担当する研究員ではないわ。でも、どうしてもあなたとお話しをしたくて、わがままを聞いてもらったの〉

 甘い香りを漂わせながら、カメリアさんがぐっとベッドの方に身を寄せる。そして、誰もいないそこに、内緒話をするかのように、囁きかけるのだ。

 

〈――私、あなたのことが、知りたいの〉

 

 刹那、ざあという強烈な音と共に、僕の意識は再び森の中に放り出される。カメリアさんの姿も、ベッドが置かれた部屋の風景も、跡形もなくなっていて。僕はただ一人で、知らない森の只中に立ち尽くすばかり。

 それにしても、今のイメージは――。

『今のイメージは――君と彼女の、記憶だったようだな』

「そう、みたいですね。この景色と違って、確かに『僕の記憶』だと感じました」

 ただ、感じただけで、僕がその頃のことを思い出せたわけではない。まだ、記憶の欠片も鍵も何一つ揃っていない以上、それは僕にとっても他人事のヴィジョンに過ぎない。

 だから、一つ一つ、考えてみる必要がある。

 カメリアさんは、一体僕の何を知ろうとしていたのだろう。この塔を作ったのが彼女である以上、そこには重要な意味が隠されている、そんな確信がある。

 彼女は、「どうやって」そして「どうして」この塔を作ったのか。

 そもそも、僕は何故記憶を失って、ここに立ち尽くしているのか。

 その秘密を握っているのは、他でもないカメリアさんだ。

 早く、全ての記憶を取り戻したい。彼女に全てを問いただしたい。この、綺麗なだけに背筋がぞくぞくとする風景の中に佇んでいると、余計にその思いが強まっていく。

 そんな思いを抱えた僕を、ダリアさんはどんな思いで見下ろしているのだろう。僕の耳に届いたのは、小さな、溜息にも似た息遣い。

『彼女は、どうやら、君に好意を抱いていたようだな』

「好意? そんな都合のいい話じゃなく、単なる知的好奇心でしょう。僕は『鳥の塔』でも珍しい、環境適応型人造人間の成功作だったようですし」

 記憶の一部を取り戻した今なら、そう言い切ってもよいと思う。僕の前に現れる研究員は、僕の前では色々な言葉を並べはしたけれど、誰もが「僕」という個人ではなく、ガーランド・ファミリーというブランドの成員としての僕を見ていた。

 きっと、カメリアさんだって他の研究者と何も変わらない、そう、思い込んでいる。思い込もうとしている。

 ……本当に?

『本当に、そうだろうか?』

 僕の脳裏に浮かんだ大きな疑問符を、まるで見透かしていたかのように。ダリアさんは、静かに、けれど酷く張り詰めた響きで僕に問いかけてくる。

『確かに私は、君と彼女について、何を知っているわけでもない。だから、彼女が君に向けている感情の意味も想像することしかできないが……、彼女の言葉は、単なる研究対象に向けたものには、聞こえなかった』

 だとしたら、何だというのだろう?

 カメリアさんは、何もかもを忘れてしまった僕に微笑みかける。優しい声音で、僕が記憶を取り戻すように導いてくれる。それだけの理由が、彼女にあるのだとすれば。

「その感情こそが、好意、と考えられるわけですね」

 好意。それは、本来寄せられれば嬉しいと感じるべき思いだ。ただ、僕にとってそれはどうも、苦さを伴って感じられてしまう。人を好ましいと思うこと、思いを寄せるということ。失った記憶をかき集め、元の輪郭を取り戻し始めた僕は、大切なことを思い出している。

 好き、が伴う痛みを、思い出している。

 カメリアさんは、僕に好意を抱いていたというのだろうか。仮にそうだったとすれば、かつての僕は、その思いをどう受け止めて、応えていたのだろうか。

「カメリアさん……」

 呟いてみるけれど、返事はない。仮にここにいたとしても、僕の問いに答えてはくれないだろう。彼女に関する記憶を、取り返すまでは。

『なあ、ユークリッド』

 ダリアさんが、ぽつりと、問いかけてくる。

『今の君は、彼女についてどう思っているか、聞いてもいいか』

「どう……、と言われても、感慨がないんです」

 優しい人だろうということ、僕のことを気遣ってくれているということ。その時々では温かな気持ちにさせてくれるけれど、それ以上の感情がまだ、浮かんでこない。

 ガーデニアさんに対する胸が締め付けられるような恋情も、シスルさんと言葉を交わした瞬間に蘇った憧憬もなく、酷くフラットな精神状態であることを、自覚している。

 そして同時に、「何も感じていない」ということに苛立ちを感じるのも、確か。そう、この階層に足を踏み入れたときと同じ、何かに追い立てられているような、落ち着かなさ。

「僕は、きっと、彼女に関する決定的なことを忘れてしまっている。だから、何も感じられない。そうだ、思い出せないことが、もどかしくてたまらない……」

 一つずつ言葉にしてみると、僕の内側にわだかまる感触がはっきりとした形を帯びる。僕はもどかしく感じている。この、現実の記憶とはかけ離れた奇妙な風景を、未だにカメリアさんのことを全く思い出せていない僕自身を。それが、不快感や嫌悪感となって、僕の胸にぐるぐると渦巻いている。

『ユークリッド?』

「行かないと。取り戻さないと、全てを――」

『ユークリッド、待て!』

 飛び出そうとした僕の意識にダリアさんの声が割り込んで、反射的に急制動をかける。一瞬、煩わしく感じたけれど、ダリアさんの方が正しかったということは、一拍遅れて理解できた。

 僕の鼻先で、無数の牙の並ぶ巨大な口が、閉ざされたのだった。

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