Layer_2/ Adolescence(4)
同時に、僕は駆け出していた。
残る鍵は四つもある。シスルさんやお化けの妨害があることを前提に考えるなら、そうのんびりと構えているわけにもいかない。
商店街と思われる、煤けて、所々に皹が入ったウィンドウが立ち並ぶ道を駆け抜けながら、空の上のダリアさんに向けて声をかける。
「ダリアさん、鍵の在り処に心当たりはありますか?」
『……少し待て。この階層全域をサーチする』
「そんなこと、できるんですか?」
『階層によって、観測者に与えられた権限は大幅に変わるようだ。ガーデニアは観測者の介入を嫌っていたようだが、シスルは逆に観測者と「協力」することを求めているのだろう』
なるほど、だからガーデニアさんの時には、ガーデニアさんの居場所を事前に察知するのも難しかったのか。それでも可能な範囲で僕をサポートしてくれていたのだから、ダリアさんにはいくら感謝しても足りない。
『よし、サーチが完了した。全域の地図を送るぞ』
「えっ? わっ!?」
ダリアさんの声が終わるのと同時に、僕の視界に淡く輝く地図が覆いかぶさった。地図は半透明で、辺りの風景を視認するのには困らないけれど、突然現れたものだからびっくりしてしまう。
地図を確認する限り、『鳥の塔』を中心に、ドーナツ状に広がっているのがここ『裾の町』であるらしい。その中でも、ゲームの舞台として設定されているのは、街を外敵から守る防壁である『隔壁』に面する外周部だとダリアさんが説明してくれる。
塔とその周辺である内周部は上流から中流階級の済む区画、隔壁に近い外周部は内周に住まうことのできない貧しい人々が暮らす場所であるという。確かに、この街並みを見る限りあまり管理が行き届いているようには見えない。
ただ、このごみごみとしていながらどこか寂しい風景が、不思議と懐かしいのも、事実。
『内周部には立ち入れないようだ。まあ、探索範囲を限定して、サーチまで可能なのはシスルなりの優しさかもしれないな』
「……確かに、仮にヒントなしで内周や塔の内側までくまなく探せと言われたら、途方に暮れますね」
この広さをしらみつぶしに探していたら、それこそ僕の寿命が尽きる方が先だと思う。『裾の町』は、その程度には広大なのだ。
そして、地図の中にちらりちらりと光って見える、四つの光点。これが、おそらくダリアさんが鍵をサーチした結果なのだろう。僕の現在位置を示す光点は、うち一つの点に程近い場所にある。胸に手を当ててみれば、僕の中にある鍵の欠片もまた微かに震えて、目当てのものが近いと教えてくれる。
「すぐそばに、鍵が一つありそうですね」
顔を上げて、ダリアさんの声が聞こえてきた方向を見る。ダリアさんの顔が見えるわけではなかったが、気分の問題だ。
『ああ。だが、気をつけろ。鍵の在り処を探ることを許したということは、おそらく』
そのダリアさんの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
ぞくり、と背筋に走った悪寒。その、上手く言葉にできない直感に従って、横に跳躍して地面に転がっていた。
次の瞬間、激しい破裂音が連続で響き渡り、僕が一瞬前まで立っていた場所が抉られ、射線上に存在したショーウィンドウまで跡形もなく砕けて、硝子の欠片が舞い散る。大口径の連装銃による銃撃――、そう判断して顔を上げれば、建物の屋上に黒いコート姿の影が一瞬だけ現れて、消える。
「こ、殺す気ですか、シスルさん……!?」
『だろうな。彼は、確かに君の死について言及していただろう』
「そりゃあ、そうですがっ!」
ある程度覚悟はしていたけれど、ここまで、本気で殺しに来るとは思っていなかった。話している間はあんなに気持ちのよい人なのに、相対してみるとえげつないにもほどがある。地面を抉るような銃、人間相手に撃つものではないだろうに。
『……しかし、確かに、いやに殺意を感じさせるやり方ではあるな』
「そういえば、ダリアさんは、シスルさんをご存知なのですか? シスルさんは最初からダリアさんのお名前をご存知だったようですが」
シスルさんの追撃、そしてお化けが襲ってくる可能性を考え、辺りを見渡しながらも、気になっていたことを確認してみる。シスルさんは、僕の名前は聞いたけれど、ダリアさんの名前は聞いていない。それに、ダリアさんと話している内容を聞く限り、初めて会った相手というわけでもなさそうだった。
ダリアさんは『ふむ』と言葉を選ぶように一拍置いて、一言一言をはっきりと告げる。
『知ってはいたが、あえて「知っている」というほどではない。先ほど彼自身が言っていたこと以外のことは知らないと言っていい。機械仕掛けの人間であること、ゲームに対しては極めてフェアであること、それに』
「……それに?」
『君に対して他の守護者とは違う、何らかの「願い」をかけているらしいこと』
――願い。
言われてみれば、そうだ。ガーデニアさんは最初から僕に何の期待もしていなかったようだけれど、シスルさんは、僕に何かを望んでいるように見えた。
それが具体的に何であるかは、今の僕にはまだわからないけれど――。
「シスルさんは、『選択』と言っていましたね」
地図に映る鍵の場所に一歩ずつ近づきながら、僕はシスルさんの言葉を思い出そうとする。シスルさんは、塔の意思に縛られているけれど、僕らは違うのだと。シスルさんは『めでたし、めでたし』のハッピーエンドを求めているけれど、結局のところシスルさんの望みは僕らの選択に委ねられているのだと。
だけど、僕にはどうしても、シスルさんの言葉の意味がわからないでいる。
僕は目覚めた瞬間から、この施設にいて。その時には全ての記憶を失っていて。そして、塔に散らばった記憶を取り戻さない限り、この施設の外に出ることも叶わない。それが出来なければ、永遠にこの施設で過ごすことになる。
そんな僕に、選択の余地などない。塔を探索し、記憶を取り戻して、塔を脱出する。それ以外に、何ができるというのだろう?
『選択、か。すまないが、私も彼の言うことは、全て理解できているわけではないのだ』
「そう、ですか……」
『ただ、彼の言葉を理解するためにも、私はもう少し、この塔の仕組みについて理解を深めるべきなのかもしれない』
「それはすなわち、僕の記憶を取り戻す仕組み、ということでしょうか」
そういうことだ、とダリアさんが僕の言葉を肯定したところで、行き止まりにたどり着く。いくつもの粗大ゴミが積み重なった、その隙間に、隠されてもいない光の輪が輝いている。
僕は、胸の内に溶けた鍵の欠片が引き寄せるままに、光の輪に触れた。すると、輪は一際強く輝いて、やがて僕の身体の中に吸い込まれていく。内側に広がる、温かな感触。痛みはなく、ただ、柔らかな懐かしさだけが僕の意識を支配する。
それと同時に、僕を取り巻くこの街も、少しだけ変わる。
世界の色も、空気の匂いも、表層的には何も変わったようには思えなかったけれど、今はどこにもいないはずの、人の気配を感じた気がしたのだ。ざわめき、息遣い、衣擦れの音色。ありもしない幻影、と言ってしまえばそれまでだけれども、一瞬、ほんの一瞬だけ、かつて僕が見ていただろう景色が重なって見えたのだ。
寂れた街並みの中を駆けていくいくつもの影。立ち止まって語らう人々。建物の影に隠れながら、こちらを伺う子供たち。
〈さあ、皆さん。今日の仕事を始めましょう〉
凛、と。耳の奥に響いた声は。
――誰の、声だっただろう?
ふと、気配を感じて振り返ると、道を塞ぐようにして、人型ののっぺりとした影が立ち尽くしていた。一つではない。影と影との境界線が見えづらいけれど、きっと、五つくらい。
『武器を抜け、ユークリッド!』
これが僕にとっての「敵」――「お化け」であることは、硬く響くダリアさんの声で明らかだ。腰に差した警棒のグリップを握って、引き抜く。
その時には、街に一瞬だけ満ちた人の気配も消え去って。僕と、存在感の希薄な影のお化けだけが睨み合う。睨む目は、僕にしかないのだけれど。
人間の輪郭しか持たない影たちは、統率の取れた動きで武器を抜く。その武器も凹凸のない影ではあったけれど、どうも、僕と同じ警棒のように見えた。よくよく観察してみれば、それぞれの影の体格や髪型は異なっているが、輪郭でかろうじてわかる服装もまた、僕が今着ている軍服のシルエットによく似ているような、気がした。
これもまた、僕の何らかの記憶の投影、なのだろうか?
ふつりと浮き上がる疑問、けれど今は意識の奥深くを探っている場合ではない。身体に染み付いた記憶に従って、警棒を構える。僕と同じような姿をした影たちは、やっぱり少しずつ違いはあるけれど、よく似た構えを取る。
多勢に無勢だ。いくら僕の身体能力が通常の人間より優秀だとしても、囲んで殴られれば無傷では済まない。
ならば、まず僕のすべきことは、この場を突破することだ。
相手が動く前に、地面を蹴って突進を仕掛ける。狙いは、立ちはだかる影の中でも一番体格の小さな影。影が僕を包囲しようと動き出すけれど、この程度の速さなら、負けない。
狙った影の鳩尾に向かって、警棒を突き出す。手ごたえは軽かったけれど、それは相手が人間ではなかったから、だろう。紙切れのように腹に穴を開けたのっぺらぼうは、一瞬僕を「見た」ような気がした。目なんてないのだから、見られたと思う僕の感覚がおかしかったのかもしれないけれど――。
〈隊長〉
ぽつり、と。僕の脳裏に声が、響く。
〈もう、やめましょう。あの人はもう、戻ってこないのですから〉
「……え?」
それは、「僕」に向けた言葉、なのだろうか。だけど、僕がそれを問い返したところで、相手はお化け、僕の記憶の残滓でしかなくて。僕の疑問符に答えることはなく、腹に開いた穴から無数の花びらへと変じて、流れる風に舞い上げられてゆく。
意識に割り込んできた声に気を取られはしたけれど、それでも僕の身体は僕自身の意識と切り離されているかのように、動き続けている。
花びらの間に煌いた、僕の記憶の欠片を乱暴に左手で握りこみ、なおも突進を続ける。
一人分の空間に身体をねじ込もうとする僕の身体を、残りの影が打ちのめそうとするのを感じる。前を見つめている視覚だけではなく、全身の感覚が鋭く研ぎ澄まされて、周囲の様子が手に取るようにわかる。
僕の動きを塞ぐように突き出される警棒の動きも、何故だろう、いやに緩慢に見える。
これなら――行ける。
警棒の隙間を縫うように、身体を屈める。ただ、この狭い中で放たれる攻撃の全てを避けきれるわけではない。だから、この手で「受ける」べき一撃を選ぶ。
時間がやけにゆっくりと流れていくのと同じように、僕の身体も見えない壁に阻まれて、もどかしい速度でしか動かない。それでも。
がきり、と。
右手の警棒に、確かな手ごたえ。その一撃をしっかりと受け止めて、そこに篭められた、僕を打ち殺そうとする力をそっくりそのまま、反転させる。それは僕の頭の中に浮かんだイメージ。けれど、現実に僕が思い描いた通り、弾き飛ばされて虚空を舞う影の警棒と、腕を大きく跳ね上げた影が視界の隅に映る。
これで、二人。
これだけ道が開ければ、後は駆け抜けるのみ。
肩で影を押し出すように、大きく踏み込む。
ついに影の包囲を突破して、僕は袋小路から大通りに飛び出していた。視界に覆いかぶさった地図が、僕の背後から追いすがるお化けたちを光点で示すけれど、一度突破してしまえばこっちのものだ。まずは距離を取って、体勢を整えてから、一人ずつ受けて立てばいい。
その時。ちり、と。うなじの辺りに走る、違和感。
何度か感じてきたこの感触は、単なる「違和感」ではないと脳内のどこかが警鐘を鳴らす。その証拠に、地図に浮かんでいる敵を示す光点は、僕が認識している数よりも、一つ、多い――!
僕がその意味を理解するよりも先に、ダリアさんの悲鳴にも近しい声が響く。
『逃げろ! 彼は、君を――』
「遅い」
するり、と。音もなく、気配もなく、僕の喉に何かが絡みつく。それが、鋼鉄のワイヤーであると気づいたのは、それが僕の喉をぐいと締め上げた瞬間だった。確かに、それではあまりにも遅すぎる。
何とか振りほどこうともがくけれど、背後に立つその人は、僕とあり方が違うとはいえ「つくりもの」の存在で。その力は、並みの人間を遥かに上回る。
「悪いな、ユークリッド。手加減は苦手なんだ」
耳元で囁く歌うような声音。柔らかくもよく響くアルトの音域に、ほんの少しだけ、機械由来のノイズが交じって聞こえる声。
――シスル、さん。
「それに」
喉に巻きついたワイヤーは外れない。その先に待っている一つの結末を前に、僕はただ、背筋に流れる冷たい汗を感じながら、立ち尽くすことしかできない。
そして。
「アンタが『気づく』まで、このゲームは終わらない」
ごきり、と。
嫌な音が、耳の奥に響いて。
――それが、僕の、三度目の死。第二層では初めての死だった。
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