Layer_2/ Adolescence(2)
「……『また』、とは?」
僕は、この人に会うのは初めてだ。ガーランドのお姫様、ガーデニアさんには確かに二回ほど――うち一回は正確にはガーデニアさんの手によるものではなく、僕の自殺だが――殺されている。とはいえ、仮にそれを知っていたとしても、「また痛い目に遭わされた」という言い方は変だと思う。
それとも、この人が言っているのは、記憶を失う前の、かつての僕のことだろうか?
ガーデニアさんに恋をして、それ故に決定的に彼女と袂を分かつ羽目になった「僕」の。
思っていると、その人は既に僕の目の前に立っていた。すらりとした体躯と痩身を際立たせる黒の衣装も相まって遠目には長身に見えていたが、近づいてみると僕と比べて十センチくらいは低いようで、形のよい顎を少しだけ上げて、僕を見つめてくる。きっと、こちらを見つめているのだろうということは、分厚いミラーシェードを隔てていてもわかる。
「そうか、やっぱり覚えていないのか。当然とはいえ、少しばかり寂しいものはあるな。だが、流石にアンタの記憶はこのシステムの根幹だろうから、覆せないのだろうな」
僕には意味のわからない言葉を囁いて、僕がその言葉の意味を問う前に、一歩下がったその人は優雅に一礼する。とんでもなく芝居がかっていながら、さもそれが「当然」であるかのように堂々とした振る舞いに、思わず喉まで出かけた言葉も飲み込んでしまう。
「アンタが私を知らないならば、改めて『初めまして』と言っておこう、忘我の彷徨い人。私はシスル、ここ第二層の守護者だ」
薊。野に咲く、鋭い刺のある花。小さな無数の花びらを持つ花も綺麗だが、何より複雑で美しい形の葉が特徴的な植物であったはずだ。この人も、植物の名前を持っている。ダリアさんや、ガーデニアさんと同じ。
シスルさんは、顔を上げて、僕の間抜け面をミラーシェードの曲面に映しこみながら問うてくる。よく通る、けれど柔らかく僕の胸に沁みる、高くも低くもない声音で。
「今の、アンタの名前を聞いてもいいかな?」
僕が忘れてしまっている、僕の名前ではなく。シスルさんは、今、僕が僕として認識している名を問うてくる。そういえば、ガーデニアさんは僕のかつての名前を呼んでいたから、あえて僕の名前を問うことはしなかった。だから、僕自身、人に「名乗る」のはこれが初めてだと気づく。
どこか気恥ずかしさを覚えながらも、それでも、今、僕をこの場に繋ぎとめている名前を、ゆっくりと、言葉にする。
「ユークリッド、です」
「ユークリッド。遠い昔、世界の形について思いを馳せた博士の名前だな」
……ユークリッドといえば、数学者にして哲学者の名前だ。名前をつけてくれたダリアさんにとっては「飼ってた兎」以上の意味はなさそうだったけれど。
「いい名前じゃないか」
そう言われると、本当の名前でなくても、嬉しくなってしまうのだから現金なものだ。
「……ありがとうございます」
握ったままだった警棒のグリップから手を離し、ほっと息をつく。肩に入っていた力を抜いたところで、シスルさんはにっと口元だけで笑ってみせる。
「そうそう、それでいい。綺麗な顔に、しけた表情は似合わんよ」
――どうやら、ダリアさんの言うとおり、「守護者」とは言っても、ガーデニアさんとはまるで違うタイプの守護者であるらしかった。
「さて、ユークリッド」
シスルさんは、高らかに靴音を鳴らして漆黒のコートを翻し――僕に背を向けて、天に向かって聳える異形の塔を仰ぐ。僕もつられて塔を見上げる。
灰色の雲を貫く『鳥の塔』。僕の軍服に縫いとめられた名前、僕の記憶の片隅に引っかかっている、大切な何か。
黒の手袋に覆われた手をミラーシェードに翳して、シスルさんが言う。
「ここ第二層は、とある男の青年期の記憶を元に作られた領域だ。統治機関『鳥の塔』、そして塔の足元に広がる『裾の町』。それが、奴にとっての全てだったと言ってもいいだろう」
「ある男、というのが僕のことですね」
僕の確認に、シスルさんは明確には答えなかったが、その口元を軽く歪ませたようだった。
塔からシスルさんに顔を戻すと、シスルさんもこちらを見る。もちろんシスルさんの目はミラーシェードのサングラスに隠されていて、シスルさんがどんな目で僕を見ているのかはわからない。
ただ、
「本当は、二度と顔を見ることもないと思ってたんだがな」
そう言った声には、隠すことのできない思いが篭められていた、そんな気がした。
懐かしさと、何故か、ひきつる痛みのような。僕に向けられていながら、どうにも理解のできない、感傷。
僕は、シスルさんとどのような関係にあったのだろう。
きょうだい、ではないはずだ。仮にそうであれば、第一層でもその姿を見ていておかしくないと思う。ここが「青年期」の記憶を集めた場であれば、第一層はおそらく僕の生い立ちに関わる「幼年期」の場だったのだろうと推測できるから。あの場にいなかったということは、ガーデニアさんのように、僕の生まれや成長に関与した存在ではないのだと思う。
ただ、記憶の鍵を握る守護者であるということは、ガーデニアさんと同様に、僕にとっては重要な人物に違いない。ガーデニアさんが、かつての僕が秘めていた恋情を体現していたように――。
「あの、シスルさん。シスルさんは、僕とどのような知り合いだったのですか?」
つい、口をついて出た質問を、シスルさんはにやりとした笑顔で受け止める。
「何、嫌でもわかるさ。これを受け取ればな」
シスルさんが、指を鳴らす。高く乾いた音と共に、僕とシスルさんの間に浮かび上がったのは、第一層でも見た、天球儀を思わせるいくつもの輪を重ね合わせた球体だった。
記憶の鍵。塔のあちこちにばらばらに散らばった記憶の断片を結びつける、最も重要なパーツ。
「渡して、くれるんですか?」
「もちろん、タダじゃあない。アンタには、私とのゲームに付き合って欲しい」
「ゲーム、ですか?」
そう、とシスルさんは頷いて、宙に浮いた記憶の鍵を指で弾いた。その瞬間、鍵がくるくるとすごい勢いで回転し始めたかと思うと、強烈な光を放って、弾け飛んだ。
「……っ!?」
反射的に目を閉じてしまった後、恐る恐る目を開けば、そこにはもう、記憶の鍵の姿はなかった。いや、先ほどまでと同じ形のものはなかった、と言うべきか。シスルさんの指が示す場所には、鍵の一部と思われる、一つの光る輪だけが残されていた。それはくるりと一回転した後、シスルさんの手の中に音もなく収まった。
一体、何が起こったのだろう。僕の記憶の鍵は、どうしてしまったのだろう。ばらばらに砕け散ったとすると、僕の記憶はもう元の形には戻らないのではないか?
そんな僕の不安を察したのか、シスルさんはいたずらっぽく笑んで口元に輪を翳す。
「そう心配するな、アンタの記憶は無事だよ。ただ、分割して隠しただけさ」
「つまり、それを探すのが『ゲーム』であると」
「そうだ。物分りがよくて助かるよ。分かたれた鍵は全部で五つ。そのうち一つはこいつだから、アンタにはあと四つの鍵を探してもらいたい」
言いながら、シスルさんが無造作に僕の胸元に光る輪を突き刺す。思わず「ひえっ」と変な声を上げてしまったが、胸に傷ができるわけでもなければ痛みが走るわけでもなく、するりと胸の中に入り込んで、消えてしまう。
代わりに、じんわりと、何か温かなものが広がった、そんな気がした。だからと言って何一つ思い出せるわけでもなかったけれど、今まで手にしてきた記憶とはまた違う、柔らかな、けれど不思議と安心できる、感覚。
シスルさんは、細い指でとんとんと僕の胸を叩く。
「これは、記憶と記憶を繋ぐ鍵でしかないからな。これ単体では、何を思い出すこともできないだろう。探しているうちに、鍵と一緒に記憶の欠片も集まるはずだ」
「わかりました。ゲームだけでなく、街を探索することそれ自体にも意味があるのですね」
確かに、僕はここに来て、まだシスルさんに会っただけだ。記憶の欠片を集めていけば、この温かな感触の意味もきっとわかるに違いない。そう思うと、不安はあるけれど、同時に期待も膨らんでくる。
『嬉しそうだな、ユークリッド』
「はい。記憶を取り戻すのは、正直、ちょっと怖くもありますが。それでも、今は期待の方が大きいかもしれません」
現金かもしれない、けれど。それでも、この第二層には、第一層で突きつけられたものとは別種のものが待っている――胸の中にひと欠片だけ取り戻された記憶の鍵が、そう告げている。
ダリアさんは、ほっと息をついて、弾んだ声で言う。
『それはよかった。君が嬉しそうだと、私も嬉しいよ』
嬉しい。ダリアさんがどうして嬉しいと思ってくれるのかはわからないけれど、それでも、同じ感覚を共有してくれる人が側にいるというだけで、心がふわりと軽くなるのだ。
そんな僕とダリアさんのやり取りを、シスルさんはうっすらと笑みを浮かべて見つめていた。見つめていたのだと、思う。
やがて、シスルさんが言った。
「さて、他に、ゲームについて質問は?」
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