Layer_2/ Adolescence(1)

「は……、っ、はあっ」

 呼吸がままならない。身体は完治しているはずだけれど、脳裏に焼きついた光景が、肺を締め付ける。そこを無慈悲に貫いた、冷たいナイフの刃を意識せずにはいられないのだ。

 目を開ければ、もはや見慣れてしまった天井がそこにあって。

 僕は、狭い部屋のベッドの上に、たった一人で横たわっている。

 僕は生きている。この身体には傷一つなく、肺に開けられた風穴は消えている。だから、正常に呼吸できるはずなのだ――。自分自身に言い聞かせて、強烈に焼きついた死のイメージを理性の力で無理やりに追い出す。そうでもしないと、空気の中で溺れてしまいかねない。

 生きている。そう、僕はまだ、生きているのだ。諦めてなんていない。

 やっと、呼吸の仕方を思い出したところで、ゆっくりと上体を起こす。予想通り、身体自体は痛み一つなく動かすことができる。ぼろぼろになっていたはずの軍服は、新品同然の姿をさらしている。

 それでも。

 こんな時に限ってしっかりとしている理性は、確かに僕が「死んだ」のだと告げている。

 鈍い痛みを訴える頭を振って、僕は、僕自身に向けて語りかける。

「……っ、これで、何度目でしたっけ……?」

『四度目だ』

 混乱する僕に代わって、ダリアさんがすぐに返答してくれたけれど、その声は酷く硬い。

 それも当然だ、こうも何度も「殺されて」いれば、ダリアさんだって不安にもなるだろう。僕自身も、ただでさえ有り余っているとは言えない自信をはじめ、ありとあらゆる大切なものが着実に削り取られている気がしてならない。

 死なない、とわかっていても、殺されるのは決していい気分ではないというのに、僕は、なす術もないままに四度も殺されて、この部屋に引き戻されている。

「くそっ」

 流石に、悪態をつかずにはいられない。

 第一階層の記憶の守護者、ガーデニアさんから鍵を手に入れて。僕の記憶は一部ではあるが取り戻された。それと同時に、第二階層への扉が僕の前に開かれた。

 第二階層にも、ガーデニアさんのように打ち倒さなければならない守護者がいるのだろう――そう思って、気を引き締めて挑んだ、そのはずだった。

 そのはずだったのに。

「まさか、ガーデニアさん以上に苦戦させられるとは、思いませんでした……」

 何も、油断してかかったわけではない。塔を上へ上へと上っていけば、ガーデニアさん以上の相手が立ちはだかる、その予感は当然あった。覚悟もしていた。けれど、その予感は半分は当たっていて、半分はまるで外れていたのだ。

『すまない、ユークリッド。彼が何を考えて君に難題を課すのかは、私にもわからない。ここまで、無慈悲に君を蹂躙するような人物ではないと思っていたのだが……』

 ダリアさんも、不可解そうな声を上げる。ダリアさんは、今までと同様、第二階層の守護者に対してもある程度の知識があるようで、守護者の行動と僕の惨状を不思議がっているようだった。

 とはいえ、事実は事実として、僕は第二階層の守護者に四度殺され、四度この場所に立ち戻っている。

 ――よーく考えるんだ、ユークリッド。

 胸をナイフで貫かれ、強烈な熱と痛みによって意識が遠のく中、灰色の街並みに立つ黒尽くめの影――第二階層の守護者は、歌うような不思議な声音で僕に呼びかけていたことを、思い出す。

 ――私は今、どこにいるでしょう?

 不可解な謎かけ。目の前に立っていたはずのその人から投げかけられた、「難題」。

 僕は、つい、唇を噛んでいた。正常に下唇が痛みを感じることを確かめて、喉の奥から正直な感想を吐き出す。

「そんなの、わかるわけ、ないじゃないですか……」

 僕は何も知らない。思い出せるはずもない。大切な記憶の鍵は、他でもない、質問を投げかけてくるあの人が手にしているのだから。なのに、どうしてあの人は、僕にわかるはずもない質問を投げかけてくるのだろう?

『ユークリッド、少し休んだ方がいい』

「しかし!」

『気づいてないのか。顔色が酷いし、脈拍も不安定だ。何より、これ以上がむしゃらに進んでも、また彼に殺されるだけだということは、君が一番よくわかっているだろう』

「……っ」

『彼に相対する前に、考えよう。君も、私も、彼とどう対峙していくべきか』

 ダリアさんは、はやる僕の気持ちを見透かしたように、ゆっくりと、ゆっくりと、語りかけてくる。その透き通った声は、僕のささくれだっていた心を、優しく撫でて落ち着かせてくれる。

 そうだ、確かにダリアさんの言うとおりだ。無策で挑みかかる前に、僕はまず、考えなければならない。これが、第二階層の主が課した、僕への試練。記憶の鍵を手に入れるための「ゲーム」。決して答えの無い問いかけではないと、守護者の彼は言っていた。つまり、彼が求めている何らかの「答え」があり、その答えには僕の記憶に関わる「意味」があるはずなのだ。

 ガーデニアさんとの暴力的な対峙が、僕の幼い頃の過ちと恋心を意味していたように。

 考えるんだ、ユークリッド。思考停止は、僕自身の死と何も変わらない。

 膝の上に置いていた手を、そっと握り締める。暴れだしそうな感情を押さえ込んで、一つ一つ、噛み締めるようにダリアさんに告げる。

「……そう、ですね。少し、落ち着いて考えてみます」

 僕はまず、思い出すべきだ。一番最初に、第二階層に足を踏み入れたその瞬間から。

 僕に何が求められているのか、その手がかりの一端を掴むために。

 

 

 ――第二層。

 そこは、無機質な白い壁に囲まれていた第一層とはまるで違う空間だった。

 足を踏み入れた瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、

「……街……!?」

 紛れもなく、僕の知らない街並みだった。

 ここは、確かに塔の内側だったはず。そんな僕の戸惑いを受けてか、ダリアさんが灰色の雲に覆われた空の上――そう、この空間には天井らしいものも見当たらなかった――から声をかけてくる。

『驚いているようだな』

「そりゃあ、驚きますよ! 塔の中に、街があるなんて!」

 けれど。

 うなじの辺りにちりつく違和感を感じて、口を噤む。まただ。この違和感。目覚めた直後にも感じていたそれが、第一層を越えて、記憶の一部を取り戻した今になって少しずつ理解できはじめてきた。

 それはまさしく「違和感」なのだ。本来僕が持っていたはずの記憶と、何かが違うのだということを訴える、反応。

 今までは違和感の理由に気づくことはできなかったが、今回ばかりは簡単に推測できた。

「街、ではありますが……、誰も、いないんですね」

『ああ。ここも、本質的には第一層と何も変わらない。君がかつて記憶していた風景を投影しているだけで、真に人間の暮らす「街」ではない』

 埃っぽい、僅かな悪臭が混ざる空気の匂いも、「開店中」の札がかかった今にも壊れてしまいそうな店の扉も、風に吹かれて転がる空き缶も。街のあちこちに人の気配を感じているのに、僕は、街角にたった一人で立ち尽くしている。

 僕は、かつて、ここにいたことがあるのだろうか。建物と建物の間に見える、やけに背の高い塔を眺める。確か、僕が立っているこの塔の外観は、つるりとした窓ひとつない円錐形だったけれど、今灰色の空に向かって聳えているのは、同じく窓はないけれど、代わりに無数のディスプレイが取り付けられた異形の塔だ。

 そのうち、一番巨大なディスプレイが、いやに化粧の濃いアナウンサーの顔と一緒に、どこかで見た文字列を映し出す。

〈Avis Turris〉

「……鳥の、塔?」

 はっとして、二の腕を撫ぜる。軍服のワッペン。『鳥の塔』。それが、僕の前に聳えている塔の名前なのか。そして、かつての僕は、そこにいたのだろうか――?

「そう、あれこそが『鳥の塔』。アンタの記憶の始まりであり、終わりである場所」

 声。ほんの少しだけ、それこそ僕の耳にかろうじて響くノイズを混じらせた不思議な声が、僕の意識にするりと滑り込んできた。

 はっとして声が聞こえてきた方を見ると、街灯の柱に寄りかかるようにして、一人の人が立っていた。この、誰一人生きた人がいないと思われた街で、初めて目にした「人」。

 つや消しの黒いロングコートを纏い、硬そうなブーツの色も、袖から伸びた手を覆う手袋も全てが黒一色。衣装に覆われていない首から上は、対照的に染み一つない白い肌を晒していた。それこそ、頭の先から顎の先まで。毛髪を持たない滑らかな頭部には、鳥の羽に似た模様が刺青として刻まれている。

 そして、その人がどのような表情で僕を観察しているのかは、正しく判断することができない。目を含めた顔の上半分は、ほとんどが幅広のミラーシェードに覆われていたから。ただ、薄い色の唇が、どこかシニカルな笑みを浮かべているということだけは、はっきりと見て取れる。

「第二層へようこそ、彷徨い人」

 歌うように言ったその人は、無造作な様子で僕の方へ歩み寄ってくる。

 僕は自然と、警棒のグリップを握っていた。この人が第一層で見た「お化け」と同じ存在でないという保証はないし、仮にお化けでなかったとすれば、人の姿をしているのは僕の記憶の鍵を握る「守護者」であるはずだ。それならば、余計に警戒すべきだろう。第一層の守護者であったガーデニアさんは、お化けなんかとは比べ物にならない力をもって、僕を殺しにかかってきたのだから。

 そう、思っていたのだけど――。

『警戒はいらないぞ。彼は、ガーデニアのように不意打ちを仕掛けてくるような守護者ではない』

 ダリアさんの声は、僕の緊張感をあっけなく削いでくれた。いや、守護者であるという想像自体は間違いではなかったようだけれど。

 その人は、毛穴も見えない己の禿頭を撫ぜて、雲に覆われた空をついと見上げる。それから、口元の笑みを更に深めて僕に視線を戻した。

「おやおや、またガーランドのお姫様に痛い目に遭わされたのか。災難だったな」

 さらりと告げられた言葉には、聞き流してはならない違和感があった。

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