Layer_1/ Childhood(7)
「どうして、いつも私を見てるの?」
刺々しい声が、硝子の壁の向こうから投げかけられる。長い髪を頭の上で束ね、日に日に女性らしさを増していく身体を、薄い服に包んだその人は、まるでものを見るような目で僕を見ていた。
確かに、「もの」と言ってもいいだろう。僕も、その人も、誰かの都合で造られた、人の形をしたつくりものだったから。天然の人間よりも優れた人間を造り出すレシピ。その模索段階に造られた僕らは、確かに人より優れた能力を持って生まれたけれど、代わりに必ず大切なものが欠けていた。
そんな僕らを評価するのは、いつだって僕ら以外の誰かで。その誰かさんは、僕とその人の間に線を引いたのだった。僕は成功作、その人は失敗作。ほとんど同じレシピで、何が違ったのかを僕は正しく理解できていないし、納得もできていない。
ただ、僕が納得できようができまいが、僕とその人の立つ場所は決定的に違った。
それを彼女がどのように考えていたのか、当時の僕はわからなかったし、今でもはっきりとはわかっていない。
そして、僕の「記憶」そのものであった彼女が、僕に牙を剥いたように。実際に、かつての彼女が、僕を徹底的に痛めつけたように。僕は彼女が僕に向かって抱いている鬱屈を、彼女の感情の矛先が向けられるその時まで理解できていなかった。
それを、受け止める覚悟も、できちゃいなかった。
そんな僕の罪の象徴である彼女は、投げやりに言う。
「どうせ、失敗作の私をみっともないとでも思って、内心であざ笑ってるんでしょう?」
「……そんなつまらない理由じゃありません」
本当は、色々と伝えたいことがあった。あったけれど、それは僕の胸の内側に閉じ込める。伝えてはいけないことだってあるのだ。いつかの僕は子供っぽい浅慮で彼女を傷つけ続けてきたけれど。
せめて、今この瞬間、ただの記憶に過ぎなかったとしても、彼女が僕の前にいて、言葉を交わすことができる、その時間を大切にしたかった。
だから、僕は。
「なら、何?」
鋭く投げかけられたその問いかけに対しては、
「秘密です」
そっと、唇の前に指を立てる。
愛しているという思いを、胸の奥に閉じ込め、鍵をかけて。その鍵の在処もいつか忘れられたらいいと願う。
すると、彼女は小さな唇を尖らせて、ぽつりと言葉を落とす。
「――変な奴」
意識が、覚醒する。
目を開けたときには、頭の痛みは綺麗に消えていた。それどころか、初めて目を覚ましたときよりも頭の中がクリアになった、気がする。
上半身を起こしざま、自然と頭に手を持っていく。意識を失う前の最後の記憶は、最下層の床に頭を打ち付けるその瞬間だったから。予想通り、指先に傷らしいものが触れる感覚はなかった。普通ならば頭が割れて即死していておかしくないと思うのだけれど、やっぱりあの塔、そしてこの施設は僕の常識では測れないものなのだろう。
ふ、と。息をついて、両手を見下ろす。最初は「僕のものではない」と感じたそれが、やっと僕自身のものとして認識された気がした。
記憶。記憶は、まだ、ほとんどが欠け落ちている。けれど、いくつか、この場でも思い出せることがあった。幼い頃に過ごした、白い研究室のこと。硝子の壁の向こう側にいた、大切な人のこと。きっともう、二度と出会えないだろうという妙な確信のある、彼女――ガーデニアさんのこと。
唇に触れてみる。唇にはまだ、あの時触れた彼女の熱が残っているような気がした。あの時飲み込んだものが、多分、記憶の鍵だったのだと思う。ガーデニアさんは、果たして僕を認めてくれたのだろうか。あのガーデニアさんが、僕の記憶から生成された、ほとんど「妄想」に近い存在だったとしても……。
その時、天井の方から軽い咳払いが聞こえてきた。
「……ダリアさん?」
『何だ』
返ってくる声は、妙に不機嫌だ。僕は何か悪いことをしてしまっただろうか。と言っても落ちてからここで目を覚ますまで、ダリアさんに何かした覚えもない。全く心当たりがないだけに、何を言っていいのかわからない。
気まずい沈黙が、流れる。
やがて、口を開いたのはダリアさんの方だった。
『……記憶は、戻ったのか』
「は、はい。まだ、断片的にですが。それでも、僕がどう生まれて育ってきたのかは、わかった気がします! よかったです!」
重苦しい空気を何とか払拭しようと、意識して笑顔を作って明るい声を出す。しかし、それでもダリアさんの不機嫌は続いているようで、いつになく低く深い溜息をつく。ちょっとダリアさん、下手するとガーデニアさんより怖いんですけど。
『みたいだな。第二階層への扉も開いたようだ、これで、記憶探しも一つ前進だな』
「あ、でも」
どうした、というダリアさんの声に、少し言葉を選びながら言う。
「名前。僕の名前、まだ思い出せないんです」
正直なことを言えば、名前はまず真っ先に思い出せるものだと思っていた。最初に取り戻せたものが、幼い頃の僕の記憶であるがゆえに、尚更「僕」を「僕」として定義する名前は一緒に思い出せるものと思っていた。
名前が無い、ということはないはずだ。いくら人と違う生まれ方をしたつくりものとはいえ、同じつくりものであるはずのガーデニアさんには名前があったし、それに。
『……やはり、「聞こえていない」のか』
「あ、はい。そうです。ガーデニアさんも、他のお化けたちも、僕の名前を呼んでいたみたいなんですけど、そこだけノイズになって聞こえないんですよね。不思議ですよね。ダリアさんには、心当たりはありますか?」
『君が不思議そうにしていたから、聞こえていないだろうと判断しただけだ。心当たりらしいものはないな』
「そう、ですか……。ダリアさんは、僕の本当の名前はご存知なのですか?」
『いや、君の名前は、私にも聞こえない。おそらく、私の耳に聞こえてくる音声は、君に聞こえてくるものと同じなのだろう』
「あ、そう、ですよね」
馬鹿な質問だった。もし僕の名前を知っているなら、ダリアさんが教えてくれるはずだ。いくら不機嫌でも、そういうところで意地悪な人ではないと思う。
「それと、もう一つ」
これは、ダリアさんに言って、わかってもらえるかはわからない。ただ、ダリアさんと言葉を交わしているうちに、どうしても無視できなくなった違和感。最初に目覚めた頃には全く感じられなかった、新たなもどかしさ。
「何か大切なものが、欠けている気がするのです。まだ何かを思い出せずにいる――」
戻った記憶には、僕の名前以外に何かが根本的に欠けていた。
それは、きっと「人」なのだ。常に僕の側にいた、誰か。僕という存在を構成し、常に僕と背中合わせだった誰か。その記憶を、僕はまだ、取り戻せていないと気づいてしまった。
何が足らないか気づく程度には、記憶が戻ってきたともいう。
取り戻さなければ。僕を、僕として再び形作るために。それに、君が今の僕をどう評するかを問うために。
――君。君って、誰だ?
『ユークリッド』
僕を呼ぶダリアさんの声は、僕の頭にすっと入り込む。それだけで、ぐちゃぐちゃになりかけていた思考が一旦リセットされるのがわかる。不思議な声。僕を、安心させてくれる声。
『わかったと思うが、記憶の塔は決して君に優しいだけのものではない。それでも、まだ、前に進めるか』
ちらり、と。ガーデニアさんの姿が脳裏をよぎる。彼女は、確かに決して優しくはなかった。塔に住み着くお化けも、僕に苦痛を与えてくる。それが恐ろしくない、と言えば嘘になる。嘘になる、けれど――。
「行けます。みっともない姿を見せるとは思いますが、まだ、折れちゃいません。取り戻すものを取り戻すまでは、退きませんよ」
望むなら、もう少しかっこいいところを見せたいとは思うけれど、今の僕にはそんな余裕はありゃしない。だから、これが僕の正直な気持ちだ。
最初は、この閉鎖した空間から逃れることだけを考えていた。けれど、今は、僕から欠け落ちてしまったものが何なのかを知るまでは、逃げることもできない。そう思う。それを取り戻すまでは、僕は「僕」ではないのだから。
ダリアさんは、僕の言葉から一拍遅れて、先ほどの不機嫌さとは打って変わった安堵の息を、ふっと吐き出した。
『……よかった』
「え?」
『ずっと、心配だったんだ。君が、諦めてしまわないか。この、異常な世界に背を向けて、目と耳を塞いでしまわないか』
「そりゃあ、殺されるのは嫌ですし、嫌なものを見せられるのも、勘弁して欲しいです。でも、何もかもが僕を構成するために必要なものだというなら、目を逸らしてばかりもいられませんから」
『そうか。強いな、ユークリッドは』
「そ、そうですか?」
何だかダリアさんから言われると、妙にこそばゆい。ダリアさんの声音に、僕を揶揄するような響きが全く感じられないから、だと思う。本気で言っているのが、声を聞くだけではっきりとわかってしまう。
『強いさ。だからこそ、私は――』
その先は、僕にはほとんど聞き取れなかった。
「ダリアさん?」
『何でもない。それより!』
急に、声が跳ね上がってびくりとしていると、ダリアさんがまくし立てる。
『破廉恥な真似はこれ以上控えてもらおうか、大衆の面前で接吻なぞ、見ているこっちが恥ずかしい!』
「は、破廉恥って」
いや、確かにガーデニアさんはやたら目のやりどころに困る格好をしていたし、そんなガーデニアさんが僕に突然口付けをしてきたことも認める。けれど、それはガーデニアさんがやってきたことで、僕の希望ではなく。ついでに「大衆」って見てたのダリアさんだけでしょうに。
『いいな、ユークリッド!』
だから、あれはガーデニアさんが――。
「は、はひ……」
つい押し負けてしまうところは、きっと、僕が記憶を失う前から変わらないのだと思う。そう、信じたい。
ダリアさんは『よし』と満足げに言うと、よく通る声で言う。
『では、十分に休んだら二つ目の階層に進もうではないか。何が待っているのか楽しみだな、ユークリッド!』
その言葉に、僕は面食らってしまったけれど。
それでも、ダリアさんの声は嬉しげに弾んでいて。僕はつい一緒になって笑ってしまいながら、
「……はい!」
力強く、頷いた。
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