Layer_1/ Childhood(6)

『右に逃げろ!』

 彼女――ガーデニアさんが床を蹴ると同時に、ダリアさんの声が響く。僕はほとんど反射的にその言葉に従って、すぐ右に伸びていた通路に飛びこむ。

 そこにあったのは、立体的に入り組んだ通路の重なりだった。手すりもない、ただ板のように延びる色のない「道」が、上下左右、縦横無尽に広がっている。その光景は、遠い日にどこかで見た騙し絵のようだ。遥か遠い天井まで続いているように見えるそれらの道は、僕の足元に複雑な影を描いていた。

『上を目指せ、捕まるなよ』

「簡単に言ってくれますねえ」

 ダリアさんの言葉に苦笑しながらも、僕は足を止めない。止めることなんてできない。話している間も、ガーデニアさんは背後から獣の脚力で追いすがってくる。本当はきちんとガーデニアさんと向き合うべきなのだろうけれど、馬鹿正直にそうしたところで、またベッドに逆戻りするのはいくら僕が間抜けでもわかる。

 行き止まりの道から、助走をつけて一つ高い道へ飛び移って。ガーデニアさんがまだ下にいることを視界の端で確認してから言葉を吐き出す。

「それにしても、ガーデニアさん、と言いましたっけ。ものすごい身体能力ですよね」

 金属製の警棒と打ち合って無傷とか、まともじゃない……、と思っていると、ダリアさんは『うむ』と相槌を打ってから、説明を加えてくれる。

『ここにいるガーデニアは、君の記憶が形作ったものだからな。彼女の元々の能力もあるが、君が彼女を「そういうもの」だと認識しているということも、彼女の強靭さに影響しているだろう』

 なるほど、つまり僕はガーデニアさんのことを、そのくらい「脅威的な存在」として認識しているということだ。ただそこに存在するだけで、僕に恐怖をもたらすもの。それだけの「強さ」を備えた存在。

 多分、今はこうして僕と「戦う」ために存在しているから、人間離れした相手として僕の前に立っているのだろうけれど。きっと、かつての僕が考えていた彼女の「強さ」は、何も肉体的な強さだけではなかったのだろう、とは思う。

 僕はまだ、かつての恋心を正しくは思い出せないけれど。頭の上で結った長い髪を揺らし、挑戦的に僕を見上げるガーデニアさんを見ると、身体に刻み込まれた痛みと胸に刻み込まれたものが、彼女への複雑な思いを訴えるのだ。

『しかし、君だって、そんな彼女に追いつかれない程度の速さで走れているじゃないか』 ダリアさんの言うとおり、僕はガーデニアさんと比べると足の速さでは上らしい。最初に殺されたときも、今対峙していたときも、積極的に逃げを打たなかったから気づかなかったけれど、この差はかなり大きい。

 そういえば、最初にスライムお化けと対峙した時も、驚くくらい身体がよく動いたことを思い出す。特に跳躍に関しては、人の持ちうる能力を完全に超えていたはずだ。

「……僕と彼女はつくりもの、血を分けたきょうだいらしいですから。やっぱり、僕も普通の人間にはない能力を持っているのでしょうね」

 一部だけ戻った記憶と、ガーデニアさんの言葉からもわかる。僕の記憶の補正だけではなく、元より僕らは普通ではない。

 どのような目的で造られたものかは思い出せないけれど、僕はこの色の無い空間によく似た場所で造られ、育ってきたのだと思う。分厚い硝子の壁越しに、同じ血を分けたきょうだいの姿を眺めながら、僕を含めたごく一握りのきょうだいだけが「成功」なのだと言い聞かされて。そうして、その枠に含まれていなかったガーデニアさんを見つめていた、そんな記憶が蘇る。

『ガーデニアは、どうやらきょうだいである君に嫉妬していたようだな。君の存在を許容できないくらい強く』

「……はい。理解していてしかるべきでした。ガーデニアさんが、僕を恨んでいることくらい。そんな彼女に恋や愛を語ろうなんて、本当に馬鹿なことを考えていたものです」

 拒絶されて当然だ。その頃の僕は僕自身の感情に溺れて、違う立場で僕を見ていた彼女の気持ちなんて、考えてもみなかった。その結果、僕は二度と恋ができなくなるほどの痛みを彼女から与えられ、打ち捨てられることになった。

 それでありながら、彼女への恋を忘れきることもできずに、彼女の形をした記憶と向き合っている。大切な思い出のほとんどを欠いたはずの、今この瞬間すら。

 そんな自分自身に嫌気が差して、つい、ダリアさんに語りかけていた。

「ダリアさんは、気色悪いとは思いませんか」

『何が?』

「僕が、造られたものだということ。血の繋がったきょうだいに恋をしていたということ」

 そもそも人間と言えるかもわからないこの身体、それに、同じつくりものとはいえ、極めて濃い血の繋がりを持つ相手に恋をしてしまう、この不完全な心。ガーデニアさんが「気色悪い」と繰り返すのもわかる。過去の僕が自分自身をどう思っていたのかはわからないけれど、確かに僕は、人間として、それどころか一個の生物として不完全に過ぎる。

 けれど、ダリアさんは僕の想像に反し、『何だ、そんなことか』とあっけらかんと言ってのけたのだ。

『別に私は気にしないさ。造られたものであろうと、何であろうと、君は君じゃないか』

 それに、と。ダリアさんは心底愉快そうな声を上げる。きっと、遥か遠い天井の向こう側で、笑っているのだろうとはっきりわかる、声を。

『恋というのは、意識してするものじゃないだろう? その人に自然と引き寄せられてしまう。自分でもどうしようもないくらい、その人のことしか考えられなくなる。君の場合、その相手がきょうだいだっただけで、何もおかしいことはないさ』

 その言葉には、別に僕を気遣うような響きは感じられなかった。それ自体が、ダリアさんの信条、みたいなものなのかもしれない。だからこそ、ガーデニアさんを目にしてからずっときつく締め付けられていた心が、ふっと軽くなるのを感じていた。

 拒絶ではなく、哀れみでもなく。ただ、あるがままを受け入れてくれる。今の僕にとっては、それが何よりも、温かく感じられて嬉しかった。

「……ありがとうございます、ダリアさん」

『私は何もしてないと思うが?』

「それでも。今の言葉で元気出ました」

 そういうものなのか、とダリアさんはまだちょっと納得していないような声で言った。きっと向こう側では、首を傾げていたのかもしれない。

 自然と、口元が緩むのを感じながら、足を止めて振り返る。僕が通ってきた道の向こう側から投げかけられる、ガーデニアさんの視線を受け止める。

 僕はまだ、ダリアさんほど楽観的に「自分」を見つめることはできない。ガーデニアさんの言うとおり、僕自身を「気色悪い」と感じるのは事実だ。

 ……ガーデニアさんが、記憶を取り戻さない方が幸せだ、と言った真意は知れない。

 けれど、知りたくもないことを知ることになるだろう、ということくらいはわかる。ガーデニアさんと接触した瞬間に、この身体に刻み込まれた恐怖と痛みを思い出してしまったように。きっと、ガーデニアさんの持つ「鍵」を手に入れれば、まだ客観的に見ていられたそれらを、僕自身のものとして完全に受け入れることになるのだろう。

 それが、恐ろしくないと言ったら、嘘だ。

 僕には記憶が無い。僕自身を定義するものは何も無くて、ユークリッドという名前ですら、本来の僕を識別する名称ではない。そんなあやふやな己に対する不安と、失ってしまった己が犯してきたことに対する不安。それを天秤にかけてどちらがより重いだろうと考えてしまうと、きりが無い。

 ただ、ダリアさんは僕がどのような人物であれ「気にしない」と言い切ってくれた。ガーデニアさんは決して僕を許容はしないけれど、一人でも、そう、ダリアさんだけでも、こんな僕の存在を受け入れてくれるなら。

 まずは「僕」に向き合ってみようという勇気も、湧くというものだ。

 ガーデニアさんは、獣のような跳躍力で僕に飛び掛ってくる。僕の肉を引き剥がそうとする指の一撃を警棒で受け止めるけれど、ガーデニアさんも僕がそう反応すると予測していたのだろう、警棒を握り締めてもう片方の手で僕の顔を狙ってくる。

 顔の皮を剥がされる前に、細い手首をぎりぎりのところで握り締めるものの、勢いのままに振り払われそうになる。どうも、僕は脚力はあっても腕力ではガーデニアさんに敵わないらしい。

 だから、抵抗するのは諦めて。

 床を蹴って、道が消えている方向に身を投げる。

「……っ!」

 ガーデニアさんの表情が強張って、僕の手を振りほどこうとする力が弱まる。それでも、僕は手を離さないまま、むしろ更に力を篭めてこちら側に引き寄せる。ガーデニアさんの人形のような顔が僕に触れそうな位置まで近づいて、柔らかく膨らんだ胸が僕の胸板に触れて、嬉しいような背筋が凍るような、何とも複雑な感情に襲われる。

 そんなのん気なことを考えながらも、重力加速度を意識する。先ほどまで確認していた光景が僕の見間違いでなければ、先ほど僕が身を投げ出した位置の直下には、道が交差している場所はなかったはずだ。つまり、あれだけ全力で上ってきた高度をそのまま落下していくことになる。その先に待っているのは、床に叩きつけられて脳漿をぶちまける未来だろう。

 ――それでいい。それで、いいのだ。

 ガーデニアさんは、僕の胸に身を預ける形になったまま、不敵な笑みを浮かべて僕の耳音で囁いた。

「死ぬ気?」

 その笑みに答えるように、笑みを浮かべてみせる。とはいえ、それは半分以上強がりでもあったけれど。

「ダリアさんが言ってました、僕は、生きることを諦めない限りは死なないと」

 そりゃあ、怖くないと言ったら嘘だ。いくら死なないとしても、あんな痛くて苦しい思い、二度としたくない。人間、高いところから落ちる場合どこかのタイミングで意識が飛ぶと聞いたことがあったけれど、それは嘘なんじゃなかろうか。最低限、僕は今も明晰な意識で、目の前で瞬く長い睫毛を見つめている。

 ガーデニアさん。

 僕とよく似た顔をした、かつての僕が愛した人。

 決して受け入れられないとわかっていても、今だけは、その身体を抱きしめて、心からの言葉を投げかける。

「どうしても、僕は、記憶を取り戻したい。僕を、それにあなたを、理解したいんです」

 そのためならば、一緒に「死ぬ」ことだって、厭わない。

 そんな僕の覚悟を、ガーデニアさんはどう受けとめたのだろう。僕の耳元で、ふっと息をついた。

「馬鹿だね、あんたは」

「どうやら、昔から馬鹿だったようなので」

「そうじゃない」

 落ちながら、ガーデニアさんは僕の身体を突き放す。吸い込まれそうな色をした両の瞳が、僕の間抜け面を映しこんでいる。

「そう思いこんでいること自体が、馬鹿だって言ってるの」

「……え? それは、どういう」

「さあ、ね?」

 にぃ、と底意地の悪い笑みを浮かべた――不覚にも、その表情が今まで見た中で一番「綺麗」だと感じてしまった――ガーデニアさんは、突然、顔を近づけると僕の唇を奪った。口を塞がれる息苦しさと、柔らかな肉がもたらす身体全体が火照るような感覚。甘い花の香りに包まれながら、僕はただただ硬直することしかできない。

 ざらり、と。冷たい舌が唇を舐めてこじ開ける生々しい感触と共に、何かが僕の唇の内側に流し込まれていく。熱い、と思ったのも一瞬のこと。次の瞬間には、強烈な、頭を金槌で殴られたような痛みに襲われて、ガーデニアさんを突き放していた。

 今のは何だったんだ? この痛みは、何だ?

 混乱している間に、僕の腕の内側からガーデニアさんがするりと抜け出す。そして、そのまま落ちていく僕をあざ笑うように、ふわりと空中に浮かんでいた。

 柔らかな髪を靡かせて僕を見下ろすその姿は、さながら、天使か悪魔のようで。もしくはその両方を兼ね備えたもののようで。

 頭を襲う痛みは僕に思考させることを許さない。僕はこれからどうなろうとしているのか。ガーデニアさんは一体僕に何をしたのか。何もかもわからないまま、ただ、うわごとのようにその人の名前を、呼ぶ。

「ガーデニア、さん」

 どこまでも、どこまでも。僕と似た顔なのにまるで僕には似ていないその人は、とびきりの笑顔で残酷な言葉を紡ぐ。

「さよなら、   。もう、二度と会わないことを祈るわ」

 どうしても、僕を呼ぶその声だけが、ノイズに隠されたまま。

 手を離したガーデニアさんの姿が、遠く、遠く、霞んでいく。

 僕は、ほとんど無意識に手を伸ばすけれど、その手は空を切って、そのまま。

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