Layer_1/ Childhood(3)
「……へっ?」
間抜けな声が、意識せずとも喉から漏れる。
そう、僕のすぐ背後に、人が立っていた。先ほど硝子の壁の向こうに見えた子供たちと同じような服を纏った、一人の少女。年齢は十五歳くらいだろうか。この子もまた、僕とよく似た顔をしていて、硝子玉のような大きな瞳で僕を見据えていた。
――何故か、酷く、不機嫌そうに。
今日何度目かもわからない、それでいて今日一番の悪寒が背筋を駆け抜ける。
「何、ぼんやりした顔してるの?」
少女の、柔らかそうな唇が、可憐な顔に似合わぬハスキーな声を奏でる。懐かしく、切なく胸を締め付ける、けれど同時に否応なく戦慄を催す声音。
一体彼女は何者なのか。彼女も先ほどの子供たちと同じお化けなのか、それとも――? 少女は一歩僕に近づき、すっと形の整った眉を寄せた。顔のパーツの一つ一つは僕とよく似ているはずなのに、その表情を含めた造形の全てが、まるでよくできた人形のようで、ただただ美しい。
判断できず、口をぱくぱくさせていると、少女はすっと、白い手を上げる。
「気色悪い。消えて」
次の瞬間、僕の視界の中で少女の長い髪が揺れ、振り抜かれた小さな拳が、見た目からは判断できない圧倒的な力と速度で僕の顎を撃ち抜いていて、
ぶつん
と頭の中の何かが切れる嫌な感覚
――を、確かに僕は記憶している。
大丈夫、忘れていない。僕の名前はユークリッド。記憶を取り戻すまでの仮名だけど、僕を導いてくれるダリアさんにつけてもらった、大切な名前。
覚えている。僕は目を覚ましたときには記憶を全て失っていて、それを取り戻すために、天に向かって伸びる不思議な塔を探索していた。そこで――。
腕で目を覆って、ゆっくりと瞼を持ち上げる。今度は「見覚えのある」天井だった。
最初に僕が目覚めた場所、扉も窓もない小部屋に、いつの間にやら戻ってきていた。ベッドの上に単に横たえられているだけでなく、ご丁寧に掛け布団までしっかりかけられている。
この状況から考えるに、もしかしてずっと夢を見ていたのではなかろうか。お化けや女の子に襲われ、殺されかけるという悪夢を。そんなことを思いながら、砕かれたはずの顎に触れる。骨や歯に問題はなさそうだし、痛みも全くない。
けれど、いくら夢だと思いたくとも、あまりにも生々しく身体に染み付いた感触。
意識が完全に消える直前、僕は確かに認識していた。僕と似た顔の少女が殴った勢いのまま僕の身体を押し倒し、両手で首を絞めつけていたこと。
その時、うっとりと微笑んでいた少女の顔が、見とれるほどに美しかったこと。
――どうかしてる。
じわじわと息の根を止められる感触までが蘇ってきて、喉元をさする。違和感はない。ないけれど、どうしても嫌な感覚は消えてくれない。夢ではない。あれは、僕の身に起こったことだった。僕の肉体が何も覚えていなくとも、僕は、僕の自意識は、確かにあの少女に殺されたと認識している。
しかし、彼女は一体何だったのだろう。思いながら上体を起こすと、天井の辺りから声が降ってきた。
『ユークリッド。気分はどうだ』
その声が悲痛かつ切実な響きを帯びていて、やはりあれは夢ではなかったのだと確信する。そして、同時にほっとする。ダリアさんの声を聞くだけで、凝り固まっていた心がほぐれる、そんな気分だ。
「身体の様子は問題ありません。目覚めは最悪ですけど……」
『すまない、警告が間に合わなかった』
「いえ、完全に不意打ちでしたから、仕方ないです。ダリアさんに言われていても、きっと反応できませんでしたよ」
まさか、すぐ背後に立っているなんて、思いもしなかったのだ。息遣いも気配も感じられなかった。それに、仮に気づけていたとしても、警棒を抜く前に、僕の顎を割った瞬発力と怪力とで殴り殺されていただろう、と推測する。彼女が僕に向けたのはそのくらい圧倒的な暴力だった。
そこまで考えたところで、まず、真っ先に思い至るべきことを考えてもいなかったことに気づいた。
「ダリアさん、僕、どうして生きているんですか?」
何故それに気づかなかったのだろう。あの瞬間、僕は死んだはずだ。仮に「瀕死」だったとしても、ここまで完璧に怪我が治っているのはおかしいだろう。
すると、ダリアさんはこともなげに言った。
『それが、この塔の仕組みなんだ』
「……そう言われると『そうなんだ』としか言えませんけど」
既に僕の常識を超えた出来事ばかりなのだから、死人が生き返ることもあるのだろう。随分とんでもない話ではあるけれど、この身で体験した以上、それはそれとして納得するしかない。
「とにかく、あの塔の中で誰かに殺されると、この場所に戻ってくるということですね。まるでロールプレイング・ゲームの世界ですね」
――いや、「まるで」どころか、ゲームの世界そのものなのかもしれない。
物理法則を無視した塔、目で見て触れることのできる記憶、問答無用で襲い掛かってくるお化けという名のモンスター、死んでもやり直しが可能だという「システム」。
記憶を失っているせいで、これがゲームであると認識できないだけで。触覚や嗅覚、味覚を含めた全ての感覚を再現したゲームの世界にいるのではないだろうか。そう考えたほうがよっぽどしっくり来る。
僕がそれを確かめる術は、今のところないけれど。それも、塔の上までたどり着けば、わかることなのかもしれない。
『だが、体感してみてわかったと思うが、殺されるというのは君の精神衛生上極めてよくない。事実上肉体的な死はありえないが、できる限り回避するよう、心がけた方がいい』
「ええ。もう、あのような経験はしたくないものです」
正常に肉と骨が噛み合っている喉元をさすりながら、しみじみと頷く。
もしあんなことを何度も繰り返していたら、恐怖で一歩も動けなくなるか――もしくは、死に恐怖を感じなくなるかのどちらかだろう。どちらにせよぞっとしない話だ。
ダリアさんは『うむ』と重々しく僕の言葉を受け止めて、それから打って変わって軽い口調で言った。
『それはそうと、君を殺した彼女が、一人目の守護者だ』
「守護者は話は通じるって言ったじゃないですかっ!?」
あの人、完全に話が通じない顔してたよ! 人の首絞めてうっとりしてるとか、まともな神経じゃないよ!
『身体言語という言葉があるじゃないか』
「その言葉、多分ダリアさんが思っている意味と違いますからね!」
最低限、僕の知識が正しければ、身体でぶつかって分かり合うとかそういうものではない。ましてや相手を問答無用で殺すようなものは、到底コミュニケーションとは言えない。
しかし、彼女が僕の記憶の鍵を握っているということは、だ。
「あの……、どうすれば、彼女から鍵をもらえるんでしょう?」
ダリアさんは、しばし沈黙した。露骨に嫌な予感がして、つうと額から汗が伝う。そんな僕にダリアさんは気づいていたのだろうか、低く、唸るような声で言った。
『……言葉でどうにもならないなら、打ち負かすしかないな』
「無理ですって! 彼女、めちゃくちゃな動きしてましたよ!」
いくら相手の行動が予測できていなかったとはいえ、彼女の動きはまともな人間のものではなかった。仮に「来る」とわかった上で警棒や銃を構えていたとしても、どれだけ対応できたものか、わかったものではない。実際銃弾くらいなら避けそうで怖い。そう信じたくなるだけの存在感が、彼女にはあった。
『真っ向から倒せ、とは言わない。先ほどは運が悪くいきなり鉢合わせてしまったが、気をつけていれば逃げることは可能だ』
「逃げ回りながら、何とか彼女の隙を探せというわけですね」
思い返してみれば、あの時はいきなり殴り倒されてしまったからろくに探索もできなかったが、スライムお化けを倒した後に飛ばされた空間は、どうも最初の一本道とは違い、折れ曲がった通路だったはずだ。上手く道を把握できれば、彼女を撒くなり、後ろに回りこむなり、何らかの対策が取れるのかもしれない。
……できることならば、彼女に会わず先に進めればいいのだけれど。彼女が僕の記憶を握っている以上、避けては通れない相手なのが悲しい。
それと同時に、何故か、わくわくしている自分にも気づく。いや、これは「わくわく」と言っていいのだろうか。僕を睨みつける彼女の顔を思い出すと、どうも落ち着かなくなる。僕自身もよく知らない彼女への思いが、てんでばらばらに胸の中に散らばって、ぶつかり合っているような。とにかく、彼女のことを考えるだけで落ち着いてはいられない。
僕にとって、彼女は、どういった存在なのだろう。記憶のひとかけらを取り戻しても、今まで以上にちりちりとした感情が胸の中に居座るだけで、それ以上の意味を成してはくれない。
――彼女から「鍵」を受け取らない限りは。
「……行くしかない、か」
僕自身に言い聞かせるようにして、ベッドから降りる。その瞬間、壁の一面に生まれた扉がしゅっと開いた。枕元に置かれていた帽子を被りなおして、ベッドの柱に無造作にかけられていた、武器を収めたベルトを腰に装着する。
それから、もう一つ。ここから先に進むためにも、知っておきたいことがあった。
天井を仰いで、その向こうにいるはずのダリアさんに向かって、問いかける。
「ダリアさん、もう一つ、確認させてください。答えられる範囲でいいのですが」
『何だ?』
「僕は、何があっても本当に死なないのですか?」
僕は殺されても死なないらしい。それが、塔の仕組みだから。真偽に関しては、今ここに僕とダリアさんしか存在しない以上、疑っても無駄なことだ。それに、ダリアさんを疑うような気分にはなれなかった。
ただ、本当に「何があっても」死なないのかは、確かめておく必要がある。例外的に、永遠に目覚めないようなことがあったら、困る。
いや、永遠に目覚めなければ困ることもなくなるのか? 僕は神や仏を信じてはいないから――「神」や「仏」の知識はあるが、あくまでそれは知識以上のものではないと感じている――、当然彼らが提唱する「死後の世界」とやらも信じてはいない。つまりその先にあるのはただの「消滅」であるはずだ。
消えてしまえば、もはや何にも煩わされることはない。つまり困りようもないわけだ。
まあ、死後の僕が困るかどうかは置いておいて、絶対に死なないからと高をくくって無駄死にはしたくない。そういうことだ。
ダリアさんは、再び黙り込んだ。微かな唸りは、また僕のために言葉を選んでいるためのものだろうか。それとも、ダリアさんにも何か思惑があるのだろうか。変な茶々を入れないようにしながら、じっとその場で待っていると、やがてダリアさんの声が降ってきた。
『君が死ぬ、つまり二度と目覚めない可能性が、一つだけある』
「何ですか?」
ダリアさんは『簡単さ』と言い置いて、ぽつりと言葉を落とした。
『君自身が、生きるのを諦めた時だ』
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