Layer_1/ Childhood(4)

 ――もう一度、塔に足を踏み入れてみると、少しずつ、わかってくる。

 この塔は、完全に僕の理解を超えた存在かと思われていたが、そういうわけでもなさそうだ。確かに僕の知識としてある物理法則を無視していたり、お化けなどという奇天烈な存在が闊歩してはいるけれど。それでも、この塔はこの塔なりの法則に従っているようだ。

 腰に差していた警棒を抜き放つ。前に立ちはだかっているのは、白衣の男。けれど、その顔色は浅黒く、目は完全に濁っていて僕の姿を映してはいないようだった。これもまた「お化け」なのだろう。ゾンビお化けとでも言うべきか。そもそもゾンビがお化けかもしれないけれど。

「ダリアさん、守護者の気配はありますか?」

『至近にはいない。近づいたら警告しよう』

「お願いします」

 早口にダリアさんに確認し、警棒を構える。ゾンビのような白衣の男は、ずるりと足を摺りながら僕の方に近づいてくる。

〈いけない子だ〉

 その、歯がむき出しになっている口から漏れる言葉は、いやにはっきりと僕の耳に届く。

〈今日も、訓練をサボっただろう。さあ、部屋に戻るんだ。それは君の役目じゃない〉

 この塔に湧いて出る「お化け」は、どいつもこいつも、絶えず僕に語りかけてくる。ただ、ダリアさん曰く、話の通じる相手ではないらしいし、実際に声をかけても答えを返してはくれない。つまり、音声再生装置のようなものなのだろう。彼らは僕に向かって喋っているのではなく、あらかじめ決められた言葉をただ繰り返しているだけ。

 それでも、彼らの唇から零れ落ちる言葉が「無意味」というわけでもないのは、わかってきた。

 彼らの言葉は、行動は、僕の欠けた記憶の一部なのかもしれないのだから。

「返してもらいますよ、僕の記憶……!」

 僕に掴みかかり、動きを封じようとするゾンビ男の腕を打ち払う。体勢を崩した相手に向かって、警棒の突きを食らわす。身体を支えられなかった男の身体は床に倒れ、その肩を思い切り踏みつけて動きを封じる。

 ゾンビ男は、濁った目で僕を見上げて、口を開く。

〈そうして、我々を困らせて楽しいのかい? 君の父上はどう思っているだろうね〉

 その言葉の一つ一つを聞くたびに鈍く響く頭痛。これが記憶が戻る予兆なのだとするのなら、喜ぶべきなのだろう。それにしては、厳しい痛みだけれど。

〈悲しませてはいけないよ、……。君は、選ばれた子供なのだから〉

 きっと、僕の名前を呼んだのだろうその声は、ノイズとしてしか届かずに。

 頭の痛みに歯を食いしばって堪えながら、警棒を男の頭に向けて振り下ろす。

 頭蓋を割る、嫌な感触が腕に伝わる。それでも、その感触はすぐに消えて、男の身体を構成していたものがぱっと光る花びらとなって散っていく。

 そして、足元に残されたのは、記憶の欠片が一つ。その内側に煌く光の反射もまた、僕の頭に刺すような痛みを生む。

『ユークリッド、大丈夫か。顔色が悪いようだが、一旦戻って休んだ方がいいのでは?』

「大丈夫です。まだまだ行けますよ」

 ダリアさんは、本当によく気づいてくれる。けれど、休むくらいなら前に進みたい。休んだところで、この頭痛は消えないことは、僕自身が一番よくわかっている。欠けたものを取り戻さない限り、行き場をなくしたままの断片的な記憶たちが欠落を訴えるのだ。

 僕は欠片をそっと手に取る。そして、全身を駆け巡る、痺れにも似た感覚に身をゆだねる。

 めくるめく記憶の渦が、僕の脳裏に閃いては消えていく。それらはまだ意味を成さないただのイメージとして、脳に刻み込まれていくが、そんな中、一つの記憶が僕の意識の中に引っかかった。

 大きな影が、僕の目の前に立っている――そんな記憶が現実の視界に重なる。その人は、僕の頭に手を伸ばし、大きな掌でそっと僕の頭を撫でるのだ。僕はそんな背の高い影を見上げて、ほとんど無意識に呟いていた。

「父さん……?」

 僕には父親がいたはずだ。もちろん、当然のことと言ってしまえばそれまでだ。社会的な関係性やその生死はともかくとしても、人間には必ず父親と母親がいるものだ。最低でも、人間が単性のみで生殖を可能としたという話は僕の知識にはない。

 ただ、今までかき集めた記憶の中に、父らしき人の記憶はあっても「母」の記憶は見当たらなかった、と思う。まだ、それについての記憶を取り戻せていないだけ、なのだろうか。何か大切なものを欠いている、そんな感覚を胸に、僕はゆっくりと意識して瞬きをする。

 僕の頭を撫でたその人は、温かな感覚だけを残して消え去っていた。実際、そんなものは僕の記憶の中にしかいない。記憶の欠片に刺激されて励起した、僕の目にしか映らない幻影に過ぎないのだ。

『ユークリッド? 今、何が見えたんだ?』

「……おそらく、僕の父だと思います」

『父親、か。どういう人物だったのか、思い出せたのか?』

「いえ、人となりについては何も」

 記憶が戻っても、それぞれが結びつかないことには、僕の中に一人の「父」のイメージを確立させることすらできない。だから、僕はただ、今の僕が感じたままをダリアさんに伝える。

「ただ、温かな手を持っていた人だったのだな、ということだけは、思い出せました」

『……きっと、いい父親だったのだろうな』

「ええ、そうであることを、祈っています」

 祈りながらも、胸の中にふと生まれるのは、僕自身の過去を取り戻すことへの不安だ。

 この塔の中には、病院のような――いや、「研究所のような」と言った方が正しいのかもしれない、とにかく殺風景な景色が広がっている。そして、僕と同じ顔をした子供たちの姿。彼らは一様に僕を恨めしそうに見上げ、そしてぐずぐずに崩れた「お化け」となって襲い掛かってくる。

 悪夢を思わせる一連の光景が、果たして僕の過去の記憶そのものなのか、それとも何かを伝えようとしているものなのか。わからないまま、僕はただ前に進むしかない。

 全てを取り戻したときには、この悪夢の意味もわかるのだろうか。わかったところで、僕は「かつての僕」を取り戻せるのだろうか。

 温かな父の手と冷たい悪夢の狭間で、かつての僕は何を見てきたのだろうか?

 いくつもの疑問を抱えていると、また一人、今まで出会った誰よりも細い腕を持った少年が、僕の服の裾を引いていた。全く気配も感じさせず現れた少年に、慌てて警棒を握りなおした、その時だった。

〈ねえ、……さん?〉

 囁くような、声。またしても、僕を呼ぶ声だけはノイズにまぎれて。

〈胸が、苦しいんだ。これが、恋なのかな〉

 ――恋。

 その言葉に、心が震えるのがわかった。

 恋。言葉の意味は理解できる。

 ただ、その感情が一体どのような心の働きによって生み出されるものなのか、僕にはわからない。記憶していないのか、そもそも感じ取る能力が備わっていないのか。けれど、後者、では無いのだと思う。その言葉を聞いただけで、胸を締め付けられるような痛みを感じるのだから。

 僕は、恋をしている。それとも、それは過去の出来事だろうか。どちらにせよ、僕が恋をしたことがあるのは間違いない、と思う。その相手のことは、全く思い出せなかったけれど。

「恋……、ですか……」

 僕とよく似た少年の目に、僕の姿が映りこむ。相手は僕を襲おうとしているお化けだ、呆然としているうちに、僕の身体を両断されていてもおかしくない。そう理性では理解しながらも、僕は少年から目を離すことができずにいた。

 その少年の、「僕によく似た」面影に、何か大切なものが隠れているように思えて――。

 少年が僕に向かって微笑みかけた、その時。

『来るぞ、構えろ!』

 ダリアさんの悲鳴にも似た声と同時に、少年の姿が、一瞬で掻き消えた、ように見えた。だが、一拍遅れて少年の身体が横から現れた何者かに吹き飛ばされたのだと気づく。目の端で少年が花びらとなって散っていくのを捉えながらも、突如として現れたその人から意識を離さない。

 少しでも意識を逸らせば、僕もまたあの少年と同じ目に遭うか、それ以上の苦痛を味わうことになるという確信があった。

 長く伸ばした髪を、頭の上で縛った少女。先ほど僕を完膚なきまでに殺してくれた、記憶の守護者。長い睫毛に囲まれた大きな目を細め、明らかな嫌悪の視線を僕に向けて、薄い色をした唇を開く。

「実験槽のげっ歯類に、恋情など必要ない。あんたが恋を語るなんて、おこがましいにもほどがある」

 ぞくり、と背筋を這う悪寒。今にも震えだしそうな身体を意志の力で抑え込み、少女を見据える。

「……実験槽のげっ歯類、とはどういうことです?」

「まだ、気づいていないの? いくら記憶が無いからって、鈍すぎるんじゃない?」

 気づけば、少女の顔がすぐ目の前まで迫っていた。けれど、先ほどのように問答無用に殴り飛ばされるなどということはなく、甘い、くらりとするような香りを漂わせながら、僕の鼻先で嘲笑する。

「あんたも、私も。ラットやモルモットと何も変わらない、誰かの都合のために生み出されて利用される、そういう生き物さ」

 ――その言葉には、僕自身が思っていたほどの衝撃はなかった。

 少女は「鈍すぎる」と言ったけれど、今まで見てきたものから、取り戻した記憶の断片から、想像することくらいはできたのだ。どうしても確信が持てなかっただけで。

 けれど、彼女の言葉で、僕も納得せざるを得なかった。

「僕も、あなたも。誰かの手によって造られた実験動物であると」

「ええ、そうよ」

 彼女は笑う。僕を、そして彼女自身をも嘲笑するかのように、口の端を引き上げて、壮絶に笑う。

 この笑い方を、僕は好きになれそうにない。ただ、同時にどうしても目が離せない。その目の中に光っているものを、読み取ることはできないけれど。

「あんたの身体も、心も、生き様も、何もかも、何もかも、誰かに求められて形作られたものじゃない。もちろん、未来すらも」

 そこに、恋情が介入する余地なんてあるはずはないのだ、と。少女は僕の耳元で囁く。

「ほら、思い出してきたでしょ?」

 その言葉が僕の脳に染み渡っていくにつれて、ばらばらだった記憶の断片が、少しずつ一つのイメージとして形作られていく。

 色のない部屋。寝台に腰掛けた僕は、ぼんやりと僕自身の手を見下ろす。今の僕よりもずっと小さく、柔らかそうな、なのに何故か傷だらけな指先。その手首には長い管が打ち込まれていて、何か薬のようなものを投入されているのだということが、わかる。

 全身が酷く痛む。片方の腕は吊られていて、足も動かない。声も出せない。ただの肉の塊の中に意識が閉じ込められてしまったようなもどかしさを覚えながら、僕はただそこに存在しているだけ。

 そして、こうして客観的に判断している「僕」とは別に、こうして寝台に座り込んでいる「僕」は、ただただ、唇を噛んでいた。今にも爆発しそうな感情を押さえ込むように。行き場のない感情を、肉の塊の内側で膨らませているかのように。

 苦しい。身体の痛みよりもずっと、身体の内側が苦しみを訴える。

 僕の寝台の周りでは、白衣を着た研究員たちが、声を抑えて囁き合っている。僕には聞こえていない、と思っているのかもしれないが、僕の耳はそんな囁き声を単語一つ漏らさず聞き取ることができていた。

〈やはり、失敗作とは自由に接触させるべきではなかったのだ! 貴重な成功作が失われるところだったんだぞ〉

〈ああ……。成功作とはいえ、彼も精神的にはまだまだ未熟だ。厳正な管理が必要だったのだ。これからの治療の過程で、少しでも矯正できればいいが〉

〈それで、あの失敗作についてはどうする〉

 その言葉に、僕は、僕自身の意志とは無関係にそちらを向いていた。怖い。胸が早鐘のように鳴っている。なのに声一つ出すことができない。手を伸ばすこともできない。

 研究員の一人が、特に何の感情も篭っていない声で、宣言する。

〈処分しかなかろう。あれは、狂っている〉

 ――嫌だ!

 僕の内側に生まれた感情が爆発する瞬間、喉に、強烈な痛みを感じてよろめく。はっとして瞬きをすれば、目の前には大きな双眸。その綺麗な形をした唇に咥えられた花びらは、僕の喉を噛んだしるし。

「思い出した?」

 そんな壮絶な表情すらも、うつくしい。うつくしいと、思ってしまう。欠けていたはずのものが、首元の痛み以上に、僕の心を激しく揺さぶる。

「思い、出しました――」

 それはあくまで断片で、僕の全てではない。それでも、きっと目の前の彼女は僕の答えに満足してくれたのだろう。

「あんたは、間違っていた。許されえぬ感情に任せて、罪を犯したの」

 今の僕は空っぽで、この感情の意味を正しく判断することもできない。それでも。

「過ちだとわかっていても、その頃の『僕』は恋をしていました」

 この胸の痛みを、信じるならば――。

「あなたに」

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