Layer_1/ Childhood(1)
瞼を貫くほどの強烈な光が収まる。
僕は、目覚めたときと同じ過ちを犯さないためにも、腕で目を庇いながら、恐る恐る目を開く。すると、目に飛び込んできたのは、一本の廊下だった。仄白く光る壁に囲まれた廊下の果ては見えない。遥か遠くの消失点が霞んで見える、だけで。
ここは、もう、塔の中なのだろうか。
振り返れば、確かに先ほどの扉が僕のすぐ後ろにあった。今は固く閉ざされているけれど、これが先ほどの回廊と塔を繋いでおり、僕が今塔の中にいるということだけは間違いないだろう。
だが、塔の外観を見る限り、これほどの長さの廊下を収めるだけの空間があるようには見えなかった。僕がいた部屋や神出鬼没の白衣の女性のように、もしかすると、この空間も物理的な法則を無視した場所なのかもしれない。
それに、空気も先ほどの階層とはすっかり変わっている。
先ほどまでの、快適に整えられた空気とは違い、ひんやりとした、ごく微かに消毒液の香りを含む、静謐な空気。
不思議と、どこか懐かしいと感じられる空気。
けれど、どれだけ懐かしくても、この光景に現実味が感じられないことには変わりなくて、頭がくらくらしてくる。今にも空間の足下がすっぽり抜けて、真っ逆さまに落ちていってしまうのではないか、なんて嫌な妄想がはかどる。
こうも不安になるのは、僕がこの世界のこともすっかり忘れてしまっているから、だろうか。それにしても、僕の頭にかろうじて残された「常識」と、この空間のあり方はかけ離れすぎている――。
『……大丈夫か?』
天井の辺りから声をかけられて、その場に立ちすくんでいたことに気づく。ダリアさんからは、僕がただぼうっとしているようにしか見えなかったかもしれない。
「はい。ちょっと、びっくりして」
『だろうな。塔と言われてこんな空間になっているとは思わないだろう』
ただ、そうは言っているものの、ダリアさんの声を聞く限り、僕と違ってこの非現実的な光景に驚いた風ではない。
「ダリアさんは、この塔の仕組みをご存じなのですか?」
『ああ。全てを知っているわけではないが、この階層にはお化けが出る』
「……お化け?」
聞き間違いかと思った。だが、ダリアさんはごくごくシリアスな声で『お化けだ』と繰り返した。どうやら僕の聴覚や言語認識能力がおかしいわけではないらしい。
『お化けは危険だ。気をつけろ、ユークリッド』
そんなきりっと「気をつけろ」と言われても。
お化けという正体不明の存在に対して、どう備えろというのだろう。十字架とか聖水とか? 確か旧日本辺りの風習では塩も魔除けになるって誰かが言っていた気がする。誰が言っていたかはさっぱり思い出せないのだけど。そして、遺憾ながら僕の手の中には十字架も聖水も、もちろん一握りの塩だってない。
とにかく、こうして立ち止まっていては何にもならない、ということだけはわかる。本当に塔を上りきったときに僕の記憶が戻るかどうかは定かではないけれど、この先に何が待っているのかを確かめないまま、壁に囲まれた部屋で膝を抱えている気にはなれない。
腰に差した警棒のグリップを、そっと握りしめる。何もかもがあやふやなこの世界において、手に馴染む警棒の感触だけが「確かなもの」として感じられる。武器の存在に安心を覚えるなんて、ちょっと複雑な気分ではあるけれど。武器なんかに頼らずに済むなら、その方がいいに決まっている。
ともあれ、警棒からは手を離さないまま、意を決して、一歩を踏み出す。
ただのリノリウムに見えた床が、僕の靴底と触れた瞬間に淡い光の波紋を描いた。一歩、また一歩。歩くたびに、薄暗い空間に波紋が広がっていく。
まるで、水の上を歩いているような幻想的な光景に、僕は、つい、ぽつりと言葉を落としていた。
「……綺麗、ですね」
『ああ。綺麗だ』
ダリアさんも、どこかうっとりとした声音をしている。危険を示唆されて、緊張を強いられているこんな時に何を考えてしまっているのだろう、とも思うけれど、今、僕は何よりも、ダリアさんが僕と同じ感情を共有してくれることが嬉しかった。
僕を「確かなもの」にしてくれるのは、何も身に着けている武器だけじゃない。姿は見えないけれど、僕と同じものを見て、感じ取ってくれるダリアさんの存在もまた、今にも崩れてしまいそうな曖昧な「僕」をこの場所に繋ぎとめてくれている。
『……私も、そこに、いられればな』
「ダリアさん?」
『私はただ見ているだけだ。君と同じ道を歩くこともできない』
光の波紋の上で、僕は足を止める。天井から聞こえてくるダリアさんの声は、微かに引きつれているような気がした。
『すまない、ユークリッド。私は、危険を示唆することはできても、君を助けることはできない』
ユークリッド。僕の名前。かりそめの名前なのはわかっているけれど、その名前で呼ばれると、胸のぽっかりと欠けた場所に、柔らかいものを詰めてもらえたような。少しだけくすぐったくて、温かな気持ちになる。
だから、僕はそんな胸に手を当てて、天井を見上げる。
「ありがとうございます、ダリアさん。その言葉だけで、嬉しいです」
『しかし、私には……』
「僕、実は、すっごく不安なんです。記憶も無いし、何をしていいのかもわからないし、正直記憶を取り戻せるって言われても、半信半疑なところもありますし」
微かに息を呑む気配が伝わってくる。きっと、何かを言おうとしているのだろう。でも、それより先に、僕は言いたいことを言わせてもらう。
「そんな中で、ダリアさんは僕に声をかけてくれた。記憶を取り戻すための道を示してくれた。こうして、新しい名前もつけてくれた。ダリアさんが、僕が僕でいるための『指針』を与えてくれるから、僕はこうやって前に一歩を踏み出せる」
一歩。実際に足を踏み出してみる。僕の足跡は波紋を生み、僕が通ってきた道を輝かせ、僕が行くべき道を照らしてくれる。
「だから、何が危険かを教えてもらえるだけで、僕は十分嬉しいですよ! ダリアさんが気に病むことはありません」
僕は、上手く笑えてるだろうか。自分で自分の顔は見えないけど、ダリアさんが僕の名を呼んでくれる、ただそれだけで僕は救われているのだと、この顔と声とで伝えられたらいいと願う。
ダリアさんはしばし沈黙していたが、やがて『そうか』と深い息と共に呟いた。
『君がそう言ってくれるなら、私も嬉しい』
「ふふ、それならお互い様ですね」
『そうだな』
くすり、と笑う気配があった。ダリアさんは、どんな顔で笑っているのかな。言葉遣いから、勝手にすらりと背の高い女性を想像してしまっているけれど、ダリアさんがどんな見た目をしているのかは、僕にはわからないのだ。
確かに、「見えない」というのはもどかしい。
もどかしいけれど、それもきっと、この塔を上りきったら終わる。終わるはずだと信じて前に進んでいくしかない。
少し早足になりながら、終わりの見えない廊下を歩いていく。ただ、そのうちに少しずつ、ただの白い壁面を晒していた左右が、姿を変えていることに気づく。
徐々に、壁は透明な硝子の板へと変貌していく。その透き通った硝子の向こう側には、いくつもの人影が見えた。
――子供?
そう、僕の目には、それは子供に見えた。
僕が目覚めたとき着ていたような、白い粗末な服を纏った子供たち。誰もがどこかで見たような顔をしている。どこで見た顔だっただろう、すぐにでも思い出せそうな気がするのだけど。
子供たちは、僕が見ているのにも気づいていないのか、めいめいの方向を向いて座っている。そのうち、一人がちいさな唇を開く。
〈……が、処分されたらしい〉
唇から漏れたのは、少年とも少女ともつかない、か細い声。その言葉を聞いた途端、その場にいた全員がびくりと震える。
〈じゃあ、次は誰だろう?〉
〈……さんは、成功作だから……、でも、僕らは〉
ひそひそと語り合う子供たちの言葉には、時々ノイズが混じる。聞きたいところだけが上手く聞き取れないのがもどかしい。硝子の壁に顔を寄せて、せめて聞こえる話だけでも聞き取りたいと思う。何故かはわからないけれど、彼らの話は、僕にとって重要なものである、そんな気がするのだ。
よく見れば、硝子の壁の向こう側に広がっているのは、さして大きくはない部屋だ。僕が立っているのは無限にも見える回廊だというのに、壁の向こう側の子供たちは部屋の中にいる。
そして、部屋には、金属の扉があった。手をかけられる部分はないから、おそらく自動で開閉する仕組みなのだろう。
すると、音もなくその扉が開き、白衣を纏った男性が部屋に入ってくる。途端、子供たちは喋るのをやめて一斉にそちらに視線を向ける。
不思議なことに、子供たちの顔ははっきりと見分けられるというのに、男性の顔はぼんやりしていて、僕の目にはきちんとした像を結んではくれない。首を傾げていると、男性は低い声で、部屋の奥――つまり、僕から一番近い位置にいた少年を指差した。
〈……、来い。耐久実験の時間だ〉
ぶるり、と。少年が震えて、後ずさる。しかし、白衣の男性はつかつかと少年の前まで歩み寄ると、その細い、今にも折れてしまいそうな手首を掴んで無理やりに立たせる。
〈行くぞ〉
感情の感じられない、鋼のような声音にこちらの背筋まで凍る。少年は、他の子供たちに視線を向けるけれど、子供たちは目を逸らし、ただ俯くばかり。やがて、少年の視線は硝子の壁に向けられて――僕と、目が、合った。
それで、初めて、僕は気づくことになる。
髪の色と肌の色こそ違えど、この顔、さっき、ロッカールームで見た、鏡の中の僕の顔と瓜二つだ。この男の子も、その後ろで膝を抱えている女の子も、その女の子の手をそっと握っている子も、誰もが僕と同じ特徴を備えている。こう言っては悪いけれど、気持ち悪いくらい、よく似ている。
そんな、僕と同じ顔の少年が、握られていない方の手を僕に向かって伸ばしてくる。
僕は、ほとんど無意識に手を伸ばしていた。硝子の壁越しに手が届くとは思わないし、仮に届いたとしてそれが正しいのかどうかもわからない。それでも、胸の中に湧き上がってくる、少年に対する同情と、何故かもよくわからない白衣の男への嫌悪感が、自然と僕の身体を動かしていた。
そして、僕の指先が硝子の壁に触れた途端、ぴしり、と壁にひびが走り。
『――いけない!』
ダリアさんの声と同時に、硝子の壁はけたたましい音を立てて崩れ落ちた。
「っ!?」
思わず一歩下がって、辺りを見渡す。
壁の向こう側にいたはずの子供たちや白衣の男性の姿は消え去っていて、むしろ僕の前に伸びていた廊下すらも見当たらなくなっていた。今、僕が立っているのは、四方を白い壁に囲まれた――最初に僕がいた部屋と同じような――扉一つない密室の中心だった。ただし、広さは最初の部屋よりずっと広い。
部屋の四方に一つずつ、何かが蠢いている。不定形の、動くゼリーのような何か。ぐねぐねと絶えず形を変えながら、それでも僕の身長と同じくらいの高さを持っていて、一つでも十分僕を包み込めてしまいそうな質量だ。
そして。
〈僕らは、失敗作だから〉
こともあろうに。
〈失敗作は、いつか処分される〉
〈なら、どうして〉
〈僕らは、作られたのだろう――?〉
そのゼリーのような、生物とも言いがたい「それ」が、僕に向かって触手を伸ばしながら、僕と同じ顔をした子供たちの声で喋るのだ。
粘ついた音を立てて、四方の「それ」が僕に向かって動き出す。その動きは決して速くはなかったが、僕を包囲しようとしているのはわかる。だが、わかるのはそれだけだ。このゼリー状のものが何なのかもわからず、子供の声で喋りかけてくる理由もわからず、そもそも僕が見た子供たちとは僕にとっての何なのかもわからない。
だから、こいつらが何をしようとしているのか判断できない以上、ただ、立ち尽くしていることしかできなくて――。
『……ユークリッド!』
混乱を貫いて、凛と響く声。僕を呼ぶ、声。
僕ははっとして、天井に意識を向ける。すかさず、ダリアさんの声が降って来る。
『そいつらが「お化け」だ、食われたら死ぬぞ! 警棒を抜け!』
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