Layer_0/ Reboot(3)
目に入ったのは、僕がいた部屋を少しばかり広くしたような空間。ただ、そこにあるのは寝台ではなくて、いくつかの金属製の棚だった。
「ロッカールーム、でしょうか」
『ああ。ここには、塔の探索に必要なものが揃っている。中に入っているものは、自由に使ってもらって構わない』
ダリアさんがそう言うのなら、と試しに一番手近な棚を開けてみる。中には黒い服が入っていた。丈夫そうな生地に、袖や襟に施された銀色の縁取りが煌く。この、特徴的な形状は――。
「軍服に、見えますね……」
おそらく、所属を示すのであろう二の腕のワッペンに目が行く。黒地に銀糸で縫いつけられたワッペンは、鳥の姿を描いているように見える。そして、その下に書かれた文字列を声に出して読み上げてみる。
「アヴィス・トゥリス」
確か、ラテン語でAvisは「鳥」、Turrisは「塔」や「砦」といった建造物を示すはずだから、訳すなら『鳥の塔』といったところか。
――『鳥の塔』。
何故だろう、霞んだ記憶の向こう側で、何かがちらちらと瞬くような感覚に襲われる。僕は、その名前を知っている? いつ、どこで? 何も思い出せないけれど、「知っている」という確信だけが熱く僕の脳裏に焼きつく。
ほとんど無意識に、黒い軍服の袖を手に取る。不自然なほどに真新しい、糊のきいた袖口。僕は、この軍服も、そこに刻まれた模様の正しい意味も知らない。覚えていない、はずだというのに――。
『着てみたらどうだ』
「僕には似合いませんよ、きっと」
こんな立派な服は、僕の趣味ではない。記憶はなくとも、一応僕にだって好みくらいはあるのだ。
ただ、流石に今着ている服で塔を上るのは気が引ける。病人が着るような薄い布の服だし、足だって裸足だ。他に何か着られそうなものはないのだろうか、と横の棚を開けてみるが、そこにあったのは服ではなく一丁の拳銃と弾倉だった。
「……?」
恐る恐る、重たい銃を手に取ってみる。安全装置がかかっているから暴発はないだろう、と判じてみてから、僕は銃の使い方を理解しているのだと気づく。握ったグリップの感触は、やけに手に馴染む。
馴染んでしまうことに、恐怖を覚えなくもなかったけれど。
僕は、記憶を失う前の僕は、この銃を手にしていたのだろうか。これで、誰かを撃つことがあったのだろうか。
鼓膜の奥で、微かな銃声が響く。この銃の銃声を、僕は知っている。そんな気がした。
「ダリアさん……。あの、塔には危険もあるのでしょうか。このような武器が必要になる場合とか」
『危険が伴うのは間違いない。武器があるなら、持って行くべきだ』
ダリアさんはあくまで淡々と、これから僕がすべきことだけを述べる。それが逆に僕を安心させてくれるのも、確かだった。余計なことは考えなくてもいいのだと、思わせてくれたから。
武器。他にもあるのだろうか、と片っ端から棚を開けてみたけれど、ほとんどは空で、唯一武器らしいものといえば、伸縮式の警棒くらいだった。ボタン一つで握りの部分から金属の棒が飛び出す仕組みになっている。握ってみると、銃と同じように手に馴染み、どのように扱うのかも自然と思い出されるようだった。
銃と警棒。武器としては多少心もとない気もするが、後は実際に塔を見てから考えるべきだろう。危険と言われても、何が起こるのかもさっぱりわからないのだから。
そして、結局服も最初に見た軍服のようなもの以外は見つからなかった。見つからなかった、ということにしておく。僕の体のサイズにぴったりのメイド服なんて見てない。見てないんだ。
『着てみればよかったのに……』
「着ませんからね!」
ダリアさん、何でそんなに残念そうなんだ。僕には理解できない。
とにかく、メイド服よりは軍服の方が数段ましだと判断し、天井を見上げる。
「あの、ダリアさん」
『何だ』
「着替えるので、一旦、ちょっと視線をはずしていてもらってもよいですか?」
『見ていてはダメなのか?』
「どうかお願いですから、目を逸らしていてください!」
ダリアさんの感覚は時々おかしいんじゃないかと思う。男の着替えなんて、見ていても何も楽しいことなんて無いと思うのだけれども。
ダリアさんは『残念だ』とか何とか意味不明なことを呟きながらも、目を逸らしてくれた、ようだった。きっと、そうしてくれていると信じることにして、急いで着替えに移る。
着ていた服を脱いで、ご丁寧にも用意されていたアンダーウェアを纏い、その上から軍服の上下を着てみる。実際に着てみるとわかるけれど、丈夫そうな生地の割に軽く、また体にもぴったりと合っている。これもまた、最初から「僕のもの」だったのだろうか。わからない、わからないけれど――。
これらが僕自身に関する手がかりだと思えば喜ぶべきなのかもしれない。実際に、失われた「僕」の一部分を取り戻したような気がして、嬉しいという気持ちもある。けれど、それと同時に一抹の不安がよぎるのだ。
背筋をざらりとした感触が舐めていく、そんな錯覚を首を振ることで何とか振り切って。一通り着替え終わってから、設置された鏡を覗き込んでみる。
――そういえば、僕が僕自身の姿を認識するのは、これが初めてだった。
鏡の向こうにいるのは、やっぱり僕の知らない顔だ。襟足に触れる程度に伸びた髪も、きめ細かい肌も妙に白い。肌からうっすら透けて見えるのは多分血管だろう。顔だけ見れば人形のような中性的な顔立ちをしていて、自分で自分をこう表現するのもおかしいけれど、「よくできた姿」だと思う。
見た目から判断するに、年齢は二十歳に届くか届かないか、といったところ。顔立ちの柔らかい印象に反して体つきは意外とがっしりとしているから、それなりに鍛えていたのかもしれない。僕自身が思っていたよりは、軍服姿がさまになっている。
意外と、記憶を失う前は軍人か何かだったのかもしれない。ただ、「軍人」という言葉の意味や組織の仕組みはわかっても、かつての僕を取り巻く世界にどのような組織があったのかは全く思い出せない。例えば『鳥の塔』というのは何かしらの組織の名前なのだろうか?
二の腕のワッペンを撫ぜてみる。指先に伝わる、ざらりとした感触。微かに胸の中に生まれる「懐かしい」という感慨。でも、それが何らかの記憶を呼び起こしてくれるわけでもない。軽く唇を噛んで、鏡の中の僕の知らない男が眉を寄せたのを見届けた、その時。
『終わったか?』
ダリアさんの声が聞こえてきて、鏡から視線を天井に移す。
「は、はい」
返事をしたはいいけれど、つい鏡を確認してしまう。何かおかしなところはないだろうか、と不安になっていると、思っていた以上に弾んだ声が降ってきた。
『よく似合ってるじゃないか』
「そうですかね?」
『ああ、とてもかっこいいよ!』
ダリアさんの無邪気な賞賛に、思わずほっとする。記憶のない僕には何ら指針らしいものはないし、ダリアさんが何を思って僕を導いてくれるのかもわからない。けれど、ダリアさんの言葉は信じてもいいと思う。姿は見えなくても、声一つで、緊張に凝り固まった心を和らげてくれるのだから。
僕は天井に精一杯の笑顔を投げかけて、武器である警棒と銃を身に着ける。そして、軍服と一緒に置かれていた、揃いの軍帽を白い頭に引っ掛けた。どうも目が弱いようだから、鍔で多少光を遮れるのはありがたい。
いやにぴったりと足にあった靴を履いて、踵を鳴らす。静かな空間に、僕の足音だけが甲高く響いた。
『では、準備も済んだところで、塔に向かおう』
「はい、ダリアさん」
頷いて、ロッカールームを出たその時、僕の視界の端に何かが映った。帽子の鍔を少しだけ上げて、そちらに視線をやる。まだ、僕が足を踏み入れていない回廊の向こう側。きっと、塔への入り口があるのであろう場所に揺らめいて消えた、白い――人影?
「誰か、いるんですか?」
ダリアさんは、誰もいないと言っていたはずだけれども。靴音を反響させながら恐る恐る回廊を歩いていくと、やがて、今までの扉とは違う、巨大な両開きの扉に辿りつく。無機質な壁に囲まれた空間には似合わない、旧い洋館の玄関扉を思わせる、細かな装飾を施された金属製の扉。
ダリアさんに説明されるまでもない。扉と向き合えば、自然と伝わってくる。この先に、僕から失われた記憶が眠っているのだと――。
「そう、ここはあなたのために創られた塔。あなたが記憶を取り戻すための儀式の場」
その声は、背後から聞こえた。
はっとして振り向くと、立っていたのは白衣を纏った、長い髪の女性だった。釦を外した白衣の下は妙に薄着で、体にぴったりとした作りになっていて、艶かしさを強調している。胸元も大きく開いていて、まかり間違ったら胸が出てしまうのではないかと、余計な心配をせずにはいられない。
ちょっと視線の置き場に困って目を逸らしながらも、目を覚ましてから初めて出会う僕以外の人間だ。せめて、少しでも話ができれば、と願いながら真っ先にすべき問いを投げかける。
「あなたは誰ですか?」
「そうね、当然、私のことも忘れてしまっているわよね。寂しいわ。あなたのために、何もかもを用意してきたのに」
大げさな身振りで肩を竦める女性は、「寂しい」と言いながらも満面の笑顔を僕に向けてくる。少し垂れ目気味の目も含めて、決して冷たい印象を持たせる人ではないと思うのだけれども、何故か、僕の背筋はぞくりと逆撫でされたように粟立つ。
白衣の女はヒールを鳴らして近づいてくると、僕の耳元に唇を寄せた。僕はつい反射的に一歩下がってしまったけれど、柔らかな、薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。
「でも、あなたは、きっと何もかもを思い出す。そして」
花の香を伴う声が、僕の脳髄に染み渡っていく。鼻先で、女性の唇が、完璧な弧を描く。
「今度こそ私の望みを叶えてくれる」
――望み?
一体何のことを話しているのだろう。僕はこの女性を覚えていないし、当然この人が何を望んでいるのかなんて、わかるはずもない。
それに、「あなたのために、何もかもを用意してきた」というのは、どういうことなのだろう?
「あなたは、一体? それに、望みって……」
「必ず、私の名前も望みも、思い出してくれるって、信じてるから」
どこまでも僕の質問には答えず、女性は白衣を翻して僕に背を向け、塔に続く豪奢な扉の前に立つ。ちらりと僕を振り返った女性は、片目を瞑って言う。
「塔の上で、待ってるわ」
次の瞬間、女性の姿は忽然と消えていた。
白昼の幻? いや、それは違う。この空間に残った薔薇の香りは、彼女が一瞬前までそこにいたことをはっきりと示している。
『大丈夫か?』
ダリアさんに問われて、僕は、いつの間にか両の拳を固く握り締めていたことに気がついた。どうやら、酷く緊張していたらしい。肩の力を抜いて、深呼吸。それで、背筋の泡立つような感覚も収まった。
「ダリアさん、今の人、ご存知ですか?」
『ああ。彼女は、塔を含めたこの施設の設計者だそうだ』
「せ、設計者、ですか?」
思った以上に偉い人だった。偉いと言うべきなのかはわからなかったけれど。それでも、今の僕にとってこの場所が全てである以上、あの白衣の女性は僕にとって極めて重要な人物だ。
「つまり、僕の記憶も、全てあの方が握っているということでしょうか」
『そういうことだ。塔を上って、彼女の元にたどり着けば、君も全てを取り戻しているだろう』
それならば、突然現れては消える仕組みはともかく、あの謎めいた言葉は納得ができる。何もかもを知りながら、僕のことをからかっていたようなものだろう。
少しずつ――本当に少しずつではあるけれど、僕のすべきことが見えてきた。今の女性にもう一度出会う。全てを取り戻して、彼女と向き合った時に、きっと何かが変わるのだ。きっと。
なのに、どうしてだろうな。ここからの一歩を、なかなか踏み出せない。そんな僕に痺れを切らしたのか、ダリアさんの声が降ってくる。
『さあ、扉を開けろ』
「はい」
こうなったら、意を決するしかない。唇を引き結び、改めて扉に向き合う。呼ばれている。向こう側から、僕を呼ぶ声が聞こえてくる。僕の知らない誰かの声で、僕の知らない誰かの名前を、呼んでいるのが感覚としてわかる。
行かなければ。全てを、取り戻さなくては。
手を、伸ばす。
『本当は――』
「ダリアさん?」
『いや、何でもない。行こう。君の記憶を巡る旅へ』
扉に指先が触れた途端、扉が重い音を立てて開いていく。
そして、その向こうから溢れ出た光の洪水が、僕を飲み込んで――。
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