Let's go ! Blue ocean ─海へ行く話─
- Lets go ! Blue ocean -
-海へ行く話-
暑い夏の昼下がり、大通りの街路樹で蝉が豪快に鳴いていた。路面は陽炎で揺らめき人通りはまばらだ。そんな中マナナとギルモアは、あまりの暑さにげんなりと歩いていた。
「あっついですね、先輩……」
呪詛を吐くようにマナナが言う。薄手のシャツに下着が透けているのをギルモアはチラリと見た。視線が自然に誘導されてしまうのは悲しい男のサガといえる。
「夏だからな……」
ぼそりと呟くギルモアも滝のような汗を流しており、シャツが半分透けるている状態だ。
「あのさ……」
「どうしました?」
神妙な顔つきでギルモアはマナナに向き合った。生唾を飲み込み、ギルモアはマナナに向かって口を開く。
「涼しくなる呪文とか無いの?」
神妙な面持ちで言うことがそんなものかとマナナはため息を吐いた。ギルモアが余りに真剣な表情をしていたので、マナナはもっと重大な事を告白されるのかと思って内心ドキドキしていたのだ。
「涼しいを通り越して凍死レベルの呪文なら心得てますけどね」
マナナはブックバンドに留められた呪文書をポンポンとはたく。
「無い、か……」
さも残念そうにギルモアが答えた。
「無いですね」
その後、二人は暫く無言で歩いた。直射日光に当たると暑いので、街路樹や商店の軒下といった影が落ちる所を選んで歩く。
「涼しくなる呪文を開発すべきだと思うんだ」
「それはいいですね、と言いたいところですけど、こうも暑くちゃ机に向かう気にもなれないです……」
軽く言うギルモアに、マナナは、作り上げる苦労を知らない人は言いたいことを言うな、と額に浮かぶ汗をタオルでぬぐった。
「暑ければ涼みに行けば良いではないか」
エルがギルモアとマナナの間を割ってはいるようにヒョイと出てきた。突然現れたエルフの娘にマナナとギルモアは思わず飛び退いてしまう。
「どこから出てきたんだ、お前はっ!」
「二人の後を追けていたのだ」
「おまえなあ……」
エルがギルモアに向かいビシリと指を差す。もの凄い気迫に思わずギルモアも腰が引けた。
「暑いなら泳ぎに行きましょう、お兄ちゃん!」
「は?」
ギルモアは、目を点にしてまじまじとエルを見た。そんな視線をものともせずエルはそのままコケティッシュな仕草でギルモアに擦り寄っていく。
「私のー、玉な肌とかー、見放題ですよ。お兄ちゃん!」
そう耳元で囁き、悪戯っぽく笑ったエルがギルモアから離れた。最後にばっちりウィンクを決める。そんなエルを見るギルモアの視線は少々冷ややかだ。上から下までエルを見る視線は、ストンと一直線なスレンダーボディをなぞらえていた。そして、ため息を一つ吐く。
「なんなのっ! そのため息はっ!!」
「わからんのか、エル。お前には決定的に足りないものがある」
ギルモアの一言に、エルは思わずのけぞり身構えた。心に電撃が走るような衝撃を受ける。
「も、もしかして……」
「お色気だ!」
くそまじめな顔をしてギルモアが言い放ち、まるで雷にでも打たれたかのような衝撃がエルに走る。
それだけは言ってやるな、というマナナの表情は何処か哀れみをエルに向けていた。自信満々というわけではないが、マナナは自分がそれなりに良いスタイルをしていると思っている。貧相なエルフの娘に肉感的な魅力で負けているとは到底思わない。
(ま、年下のエルフに勝ってもさほど嬉しい訳ではないけどね……)
そんなことをマナナは自分に言い聞かせるよう心にとどめておく。
エルは目元に涙を溜めて二、三歩後ずさりした。
「どうしたんだよ、エル」
「うわああああ、お兄ちゃんのばかあぁぁぁぁ!!」
ギルモアの言葉が号砲となり、涙目のエルが全速力で大通りを駆けていく。通行人が怪訝な視線をエルに向け、マナナとギルモアは、その後ろ姿を見守ることしかできなかった。エルの姿が見えなくなり、ギルモアがボソリと呟く。
「俺、なんか悪いこと言ったかな?」
「せんっぱい……」
マナナはあきれ顔でギルモアの横顔を見つめた。
「でも、泳ぎに行くのは良い案かもしれないですね。先輩」
マナナにとって一つだけ不安が残るが、この暑い街から抜け出て涼むのも悪くない。
「行くとしたら近所の川か?」
街に水を供給している川の上流なら泳ぐのに適した場所も多くある。実際、避暑地として上流のほとりにキャンプ村が有るぐらいだ。
「いえいえ、泳ぐからには海ですよ、海」
「でも遠すぎないか。内陸のこの町からじゃ馬車を使っても海まで10日は掛かるぞ」
「ふっふっふっ。先輩、私の存在をお忘れじゃあないですか。この呪文使いのマナナさんを!」
はて、とギルモアは首をかしげた。それからポンと手を打つ。
「いつぞや使ってたテレポートだな」
以前、マナナがエルフの街から一瞬で帰ってくるために使った呪文だ。本来は術者本人が瞬間移動する呪文だが、術者に接触することにより多人数を一度に運べる便利な呪文でもある。
「その通りです」
マナナはにかっと笑う。一瞬で目的地に着くのなら海へ行くという理由で学校を休む必要もない。
「それじゃあ明日の午後から海へ行くか」
「そうしましょう。正午に師匠の店に集合で!」
海へ行く約束をした後、マナナはギルモアと別れて家路についた。家族旅行で訪れた南国の海を思い出し気分は上々である。
「海か~、久しぶりだなあ」
鼻歌交じりだったマナナは自宅の玄関でピタリと立ち止まった。ドアノブに掛けた手がプルプルと震えている。口元も笑ったまま微かに震えていた。
「しまった。水着がない!」
マナナは心の中で頭を抱えていた。まさか先輩の目の前で肌着で行水という訳にもいくまい。玄関で180度反転したマナナの足は街の衣料品店へと向いていた。
様々な夏物の衣服が並べられた店内には水着を集めた売り場もある。マナナはまじめな顔つきで水着を物色し始めた。可愛いモノ、大胆に思えるモノ、無難なモノ、いろいろな水着があって目移りする。マナナは試着を繰り返し、やがて一つの水着にたどり着いた。
「ありがとうございましたー」
店員に見送られ、紙袋を抱えるマナナの表情は実に晴れがましいものだった。
その頃エルは自部屋のベッドに突っ伏して枕を涙で濡らしていた。住宅街の一角にある共同住宅の一室がこの町でのエルの住居だ。綺麗に整頓された部屋には、エルフの街で調達された家具が並んでいる。
「お兄ちゃんのバカバカバカ!! エルの事なんてちっとも見てない!」
エルはベッドの上でジタバタと藻掻いた。ひとしきり暴れ気が済んだのかピタリと動かなくなる。
しばらく動かなかったエルだが、のそのそとベッドから這い出し姿見に向かった。じっと自分の身体を見てストンとスレンダーな身体をペタペタ触ってみる。僅かに膨らんだ胸も薄いお尻も人間の男性を振り向かせるにはまだまだ足りない。エルフである事と年齢とを考えれば年相応なのだが、このままでは大好きなギルモアを取られてしまうのではないかという不安がエルの中で大きく膨らんでいくのだ。
「あ~っ、どうすればいいんだろ……。肉体的な成長なんて一日じゃ無理だよ。5年後ぐらいが肉体的なピークなんだろうけどさ」
手足をぐっと伸ばしてみたが、そんなことをしても伸びる訳ではない。脱力したエルはひとつため息をついた。
ぺたんとその場に胡座をかいて頭を捻る。
(あ~、なにかいい方法はないものか……。一時的に成長を促す呪文があったけど私は呪文つかえないしな。大人の色気、肉体的なピーク……)
エルはピンと来るモノを感じた。”肉体的なピーク”これならあの魔法の工芸品で実現可能なのではないだろうか、という事にだ。
おもむろに立ち上がったエルは机の引き出しをじっと見つめた。そのまま一直線に自分の机へと向かう。
「これが使えるのかも!」
エルは引き出しの中から装飾された小箱を取り出した。小箱の中に入っているのは銀で作られた小さな護符だ。鎖が付いており、首から下げることが出来るようになっている。
呪文の魔力を蓄えた護符をつまみ上げエルはにっこりと頬笑んだ。あと何回使えるのか判らないので使うのは本番一発勝負だ。
「待っていろ、マナナ・ロンド!!」
ぐっと拳を握りしめ、エルは一人たからかに吼えた。
「期待しててねお兄ちゃん!」
次の日の午後、マナナはミフネの店前でギルモアを待っていた。軒下に入りタオルで汗をぬぐう。麦わら帽子に白いワンピースが涼しげで小さな背負い袋を担いでいる。肩から斜めに提げるブックバンドが見事なパイスラッシュを形成していた。
「うおーい、お待たせ」
ギルモアが手を振ってやってきた。その後ろには妙に自信満々の表情をしたエルがひっついてきている。
「コイツがどうしても行きたいって言うから連れてきたぞ」
ギルモアはエルの頭をポンポンと叩いた。そうされてまんざらでもないエルは、緩い笑みを浮かべる。
「それから、これ」
ギルモアは、手にしたバケットをマナナに差し出した。
「なんですか、このバケット?」
「三人分の弁当。コイツが朝から家に来て母さんと喋りまくるもんだから、母さんやる気になっちゃってさ」
「私のおかげで昼食の心配をしなくても良いんだよ。お兄ちゃん」
「へいへい。お前はえらいねえ」
ギルモアがエルの頭をくしゃくしゃと撫でた。マナナの目から見れば、二人は仲の良い兄妹のようだ。もっとも、ギルモアもその様に思っているし、そのようにエルを扱っている。
「それじゃ行きますか、先輩」
マナナは、ブックバンドから呪文書を取り出し呪文書を開いた。
「そういや目的地を聞いてなかったな」
「ふふふ、ずいぶん前になりますが一度家族で出かけて忘れられないシャンディアの浜ですよ!」
シャンディアと言えば10日などという距離ではない。南の国の有名なリゾート地だ。
「大丈夫なのか、そんな遠いところ……」
「大丈夫ですって。先輩はエルの手を繋いで私の肩にでも手を置いていてください」
「お、おう……」
マナナは静かに詠唱を始める。少し長めの詠唱の後、三人の姿がフッと掻き消えた。
マナナ達の目の前に広がるのはエメラルドグリーンに輝く海だった。煌めく水面に真っ白な砂浜。そこに打ち付ける波は穏やかで水遊びにもってこいだ。
思っていたよりもずっと素晴らしい海の風景にギルモアとエルは目を丸くして驚いた。思い思いの水着を着た老若男女が涼を求め海へと訪れている。
「どうです、どうです! 先輩!」
記憶のまま残る美しい海にマナナは目を輝かせた。まるで自分の海であるかの様に自慢したい気分だった。
「思っていたよりも凄いところへきてしまった気がする……」
「そうだね、お兄ちゃん……」
ギルモアとエルは惚けた様に素直に感動していた。二人とも近場の海を知っていたのだが、これほど美しい水面を目にするのは初めてだった。
そんな二人を見てマナナは得意満面だ。マナナは呪文書をブックバンドに戻し、荷物を置ける様な木陰がないか視線を周囲に走らせる。
「あそこがいいかな」
そう言ってマナナが指差した先、ちょうど良い椰子の木陰にシートを敷き三人は荷物を置いた。
「よし、私は早速泳ぐぞ!!」
喜び勇んで上着を脱ごうとしたエルのお腹がグゥと鳴った。あまりの気まずさにエルの顔がみるみる紅潮していく。
「これはっ、その……、あの……」
もごもごと口ごもるエルを見て、マナナは小さくため息を吐いた。こうしてみるとエルにも何処か可愛いところがあるものだと思えてくる。
「ほらほら、二人とも。まずはお弁当でしょ。お腹がすいてはなんとやらですよ」
「それじゃあコイツの出番だな」
ギルモアが大きなバスケットから小分けにされたトレイを次々と取り出していく。それをのぞき込むマナナとエルの表情がパッと輝いた。見た目にも美しい輝きを放つサンドイッチ、唐揚げ、サラダ、好きなモノばかりが詰め込まれた特製だ。
「それじゃあ食べようぜ」
ギルモアが二人に、どうぞ、と両手を広げた。
「いただきまーす」
マナナとエルは同時にそう言ってサンドイッチに手を伸ばす。
「おいしい!」
レタスとトマト。それにチーズをあしらったサンドイッチは格別のおいしさだ。マナナの顔が思わずほころんでしまう。
「そうだろう、そうだろう」
あまりの美味しさに顔がゆるみっぱなしのマナナに、エルがさも自分で作ったかのように自慢した。
「いやいや、作ったのは俺の母さんだからね」
得意げなエルにギルモアは思わず突っ込んでいた。
ギルモアの母が作ったお弁当は格別のおいしさで、三人は楽しい食事を満喫した。
ギルモアは時折エルの口元に付いたソースを拭いてあげたりしている。昔からエルを世話をしてきたというだけあり慣れたものだ。エルも子供扱いするなと嫌がってみせるが、まんざらでもない素振りを見せている。
最後に三人はお茶を飲み、三人同時に一息吐いた。満足のいく食事に三人とも満面の笑みを浮かべている。
「それじゃ、各自水着に着替えてもう一回此処に集合ね」
マナナは背負い袋を両手で抱えて立ち上がる。
「了解」
ギルモアも水着を入れた小袋を取り出す。一方エルは顔中にハテナマークを浮かべ困惑していた。
「水着? なんだそれは」
「えーと、泳ぐ時に着る為の服なんだけど。持ってきてないの?」
「そんなものエルフには無い!」
エルフには水着を着て泳ぐという慣習がない。泳ぐ時は薄着ですますのだ。エルは、ポイポイと着ている服を投げ捨てていくと肌着一枚になっていた。
「私はこれでいいぞ。二人は着替えてくるが良い」
そういうエルの胸元で護符がキラリと光った。自然とその護符に目がいくマナナだが、害は無さそうなので何も言わないでおくことにする。
(戻ってきたら変身して驚かしてやる!)
エルはほくそ笑み、茂みに向かう二人を見送った。
海岸からすぐ森が広がるこの砂浜なら少し入れば茂みの中で着替えることも容易い。マナナとギルモアは少し離れて茂みの中に入ろうとしていた。
(何らかの事故を装い着替えを覗く手段はないだろうか……)
ギルモアの頭の隅にそんな考えがチラリと浮かぶ。すると、それを見透かしたかの様な言葉がマナナから返ってきた。
「先輩、覗いたらFireBall(ファイアボール:火の玉)ですからね!」
人間など一撃で消し炭となる呪文を出され、ギルモアの心臓がドキリと鳴った。無邪気に笑うマナナも本気ではない。
「ののの、覗く訳無いだろう! やだなあ、マナナさん!」
焦るところが怪しい。本当に覗く気だったのかと勘ぐってしまう。やれやれ、男という生き物はどうしようもないなとマナナは肩をすくめた。
ギルモアと別れマナナは茂みの中に入った。念のため周囲を確認し、誰も居ないことを確かめておく。
覗く余地が無いことを確認し、マナナは服を脱いでいく。すらりとした肢体に程良い肉付き。もう一度視線を周囲に走らせてから下着を脱いでいった。そして、伸縮性のある蜘蛛糸と絹とを撚(よ)り合わせた糸から織られたワンピースの水着に足を通す。腰の部分に二重のフリルが付いており、淡いピンクに染められている。同世代の女の子から見れば少女じみている印象だが、マナナ的に可愛いと思ったから選んだ次第だ。
「よしっと、準備完了」
最後にお尻の撚(よ)れた部分を両手の人差し指で直し着替え完了となった。
マナナがシートに戻ると先に着替えを終えたギルモアとエルが待っていた。ハーフパンツの水着を着たギルモアはなかなか鍛えられた肉体をしている。さすがは剣士だと、マナナはギルモアをじっと見てしまっていた。
「おそいぞー」
エルが待ちくたびれたように言う。マナナとしてはそれほど時間を掛けた気が無いのだが、エルの当てつけみたいなものであった。
「それほど待った分けじゃないから、大丈夫」
ギルモアがすかさずフォローする。その視線は完全にマナナを観察していた。ギルモアも健全な男子である。女子の水着姿に視線を走らせることは必至だ。それも気になる子となれば見ざるを得ない。
そんなギルモアにマナナは少々気恥ずかしさを覚えた。もじもじと俯き加減になってしまう。
「あ、あからさまにじろじろ見るの止めて貰えますかね、先輩」
「すまん! 余りに可愛いのでつい」
真顔でそう言うギルモアに、マナナの顔が一瞬にして紅潮する。そう言われて良い気分にならない女の子は居ないだろう。マナナとてそれは例外ではない。
「ななな、何を言ってるんですか! 先輩は……」
慌てて腕を振り回して否定するマナナだが、そんな様子をみて面白くないのはエルだ。何としても自分の魅力でギルモアを振り向かせねばと思ってしまう。そして今こそ、その為の秘策を使う時が来たのだ。
「ふっふっふっ。余裕でいられるのもそこまでだマナナ・ロンド! 見よ、この発展の護符を!!」
エルは、甘い空気を振り払う様に大声をあげた。マナナとギルモアは、ハッとエルの方を振り向く。
「あ、さっきの……」
首から護符を外し右手に握りしめたエルがポーズを決めた。それはさながら物語に登場する英雄の様だ。
「へんっしんっ!!!」
エルは右手を天に掲げ護符の力を解放した。まばゆい光が護符から発せられマナナとギルモアは目を細める。
僅かに見えるエルのシルエットは、徐々に変化していた。僅かに身長と手足が伸び、しっとりと皮下脂肪が乗っていく。胸が可愛く膨らみ着ていた下着をほんの少し押し上げる。大きくなったお尻に少々下着が食い込む感じがするが気にしなければどうという事はなかった。
これでマナナからギルモアを自分に振り向かせることが出来るとエルは確信した。護符から発せられていた光が徐々に収まってくる。
完全に光が収まり、マナナとギルモアが見たものは……、使う前より少々肉付きが良くなっているが殆ど変わっていないエルの姿だった。
「なっ、なにゆえっ!」
エルは、自分の身体をぺたぺたと触ってみた。護符の使い方が悪かったかと考えてみるが力は正常に作用していたはずだ。身長は少し伸びている感じがするが、マナナより5センチは低い。
「身長もすらーっと伸びて、出るところは出てる姿になるはずだったのにぃ!」
多少、女らしい体つきになってはいるが、そこはエルフの常に漏れずスレンダーだ。いや、エルフの中でも華奢な体つきである。そんなエルの目には涙すらにじんでいた。
エルの後ろからギルモアはそっと近づき、そっと肩に手を置いた。そして、無言で頷く。
「なんというか、ご愁傷さまです……」
マナナもそう言うのが精一杯だった。全盛期の肉体を一時的に得ることが出来る魔法の護符。それを使った結果があの有様では、エルが成長することにより理想の身体を手に入れることが困難であることを意味する。
「うわあああああああっ!!」
エルは砂浜を蹴って勢いよく海へ飛び込んでいった。そして一心不乱に泳ぐ。森で育った割に泳ぎが達者なのはしばしば川で泳いでいたからだ。
「よし、俺たちも行きますか!」
ギルモアがそう言うと、マナナは唐突に身体をほぐし始めた。
「ど、どうした、イキナリ……」
「せんっぱいっ、ちゃんと体操して身体をほぐしておかないと身体に悪いそうですよ」
マナナは妙に念入りに手足の間接をほぐしている。
「まあ、そうだな……」
それも一理あると思い、ギルモアもマナナに付き合って身体をほぐす。
ひとしきり身体をほぐしても、マナナは体操を止めようとしない。
「で、いつまでほぐしていればいいのかな。マナナさん?」
「いや~、いつまででしょうね、先輩」
二人は汗だくになってまで身体をほぐしていた。そんな二人の様子をエルは波に揺られながら見ていた。
「二人とも、ぜんっぜん入ってこないな」
ギルモアがマナナに何かしら言っているのはエルから見ても判る。マナナに早く海に入ろうと言っている様な仕草だ。それに対し、マナナは頑なに拒否している様に見える。
「ふふん、そういうことか」
ニヤリと笑みを浮かべたエルは、そっと二人に近づいていった。
マナナは、後ろから唐突に両肩を掴まれた。全身に緊張が走り背筋が伸びる。振り返るとエルの顔が間近にあった。
「ひとつ勝負しようではないか!」
指を立てて提案するエルには、どこか自信というモノが溢れている。
「あそこに岩礁が見えるな。そこまで行ってここまで帰ってくる。どうだ!」
軽く見積もっても岩礁まで100メートルはある様に見える。打ち付ける波が岩礁に当たり砕けた。
「えーと、それはどうかなあ」
マナナはエルから視線を逸らしてボソリと答えた。そんなマナナの隣にエルがピタリと張り付く。
「もしかしてー、泳げないって事はないですよね」
エルは、ほんの少し悪意を込めマナナの耳元で囁いた。その囁きは、マナナの心を抉るに充分な威力を持っている。
次の瞬間、マナナはがっくりと膝をついていた。
「しまった! 私は泳げない!!」
膝をつきうなだれたマナナの顔に暗い影が落ちる。そして、それを見逃すエルではない。
「その年で泳げないとは、いままで一体何をやってきたんでしょうかねえ」
「あうっ!!」
エルの言葉が再びマナナの心に突き刺さった。これまでマナナは川遊びも水浴び程度で泳ぎを習得しようと思ったことがないのだ。
「よくもまあ泳げもしないのによくもまあ海へ行こうなどと思ったモノですわー」
「あうっ、あうっ!!」
プルプルと小刻みに身体を震わせ、マナナは立ち上がるともの凄い速さで駆けだしていく。
荷物が置いてあるシートへ戻ってくるなり荷物から呪文書を取り出し、勢いよくページを捲る。
「この呪文を先に使っておくべきだったのよ……」
マナナが唱えた呪文はWater Warking (ウォーターウォーキング:水上歩行)という呪文だ。
マナナは、クククと小さく笑った。水上を歩けるこの呪文ならば溺れる心配がない。これならエルが出した勝負の条件は沖の岩まで行って返ってくることなど容易い。エルは泳がなくてはいけないとは言っていないのだ。
「あ、戻ってきた」
「よーし、勝負よエル」
駆け足で戻ってきたマナナは自信たっぷりにエルに言う。なにやら呪文を使ってきたな、とエルも感じたが、大人モードになった自分の運動能力ならひ弱な呪文使いに泳ぎで負けることはないだろうとたかをくくっていた。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫」
そっと耳打ちするギルモアにマナナは笑顔を返す。
「それじゃお兄ちゃん。スタートの号令よろしく」
マナナとエルは波打ち際に並んだ。ギルモアも二人の脇に並ぶ。
「よーい……」
二人ともグッと腰を下ろして身構えた。ひりつく様な緊張感が二人の間に流れていく。周囲の雑踏などが消える様に感じて、マナナはギルモアの合図を待った。
「スタート!」
その声と同時に助走したエルは勢いよく海に飛び込んだ。そのままクロールで勢いよく泳いでいく。一方マナナは号令と同時に走り出していた。マナナが踏み出した足が水面を捉えると、アメンボが水面に浮かんでいる様な波紋が足下に広がり、コンニャク程の弾力が伝わってきた。
「これなら大丈夫!」
運動が得意な訳ではないが泳ぐよりはましだ。地面の上を走るよりも反発力があるのでスムーズに走れる感じだ。走ることが出来れば普段鍛えていないマナナでも泳ぎに勝つことは容易い。
「おっさきー」
マナナが泳ぐエルを追い抜いていった。エルは自分の横で水上を走るマナナを見る。呪文使いなら水上を走るか、水中呼吸かどちらかだろうと思っていた。
余裕をもって抜かれたが、今のエルは非力な子供ではない。剣士として鍛えた自分が肉体的に成長した姿となっているのだ。まだまだ余力は残している。折り返してからのラストスパートで抜き去ればよい。
これといって鍛えていないマナナだが、それなりに走るだけで泳ぐより早かった。それはギルモアの目から見ても一目瞭然で、余程のことがない限りマナナが勝つ様に思える。
暫く併走していたエルだが、息継ぎをする度に胸を揺らして走るマナナが見えるのだ。
(こんちくしょぉぉぉぉぉ!!!)
エルは心の中で吼えた。全身の力を振り絞り、全力で水を後方に追いやる。水音がしてマナナが横をチラリと見ると必至の形相でエルが追いついてきていた。
「勝負の内容を限定してこなかったエルが悪いのだよー」
マナナは容赦なく速度を上げてエルを置いてけぼりにする。こんなに走る事など、ここ最近無かったことだ。そんなものだから、たかだか100メートルの岩にたどり着いただけでマナナの息はかなり切れていた。
それでも泳ぐよりは水面を走る方がかなり早く、マナナはエルに大差を付けて海岸に戻ってきた。
「よっと!」
最後の一歩は両足を揃えて小さくジャンプする。腕を水平にし、そのままストンと砂浜に着地した。
「相変わらず容赦ないな、マナナさん」
「そりゃあもう。勝負事には負けたくないですもん」
マナナとギルモアは半ばまで泳いで来たエルを目で追った。すると、二人が見ている前でエルの身体がスッと海中に消えた。
「浮かんできませんね」
「ああ……」
マナナとギルモアは互いに顔を見合わせた。一呼吸する間もなく海へ走り込む。マナナは海上をギルモアは泳いでエルが沈んだ場所を目指す。
エルは、全身から急に力が抜けていくのを感じた。
(護符の力が切れたんだ……)
力なく海中を漂い、意識が暗く沈んでいく。急激に襲いかかった疲労感に身体を動かすことが出来ない。魔法の工芸品によくある副作用というやつだ。
エルは遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
意識が遠のいていく中で、エルは自分を必至に抱えてくれるギルモアの姿を見た。
(おにいちゃん……)
しゃがんだマナナは、浮き上がってきたギルモアからエルを受け取った。沈まない様に脇を抱え、エルの顔をのぞき込む。呼吸はしている。命の別状はなさそうだった。
「こうして見ると可愛いもんですね」
マナナがエルの頬をチョンとつつく。
「おとなしくしてりゃあエルフのお嬢様だからな、こいつ」
ギルモアは苦笑いして海岸を指し示す。マナナがそれに頷いてエルを引っ張ろうとした瞬間である。マナナはストンと垂直に、音もなく海に落ちた。そして、あきれ顔をしたギルモアの前で溺れて藻掻いている。
「はっ、早く助けてください、先輩!」
マナナはそう叫んでいる様だが、海面から浮いたり沈んだりで明瞭に聞こえない。ギルモアは、ジタバタ暴れるマナナに冷静な声で突っ込んだ。
「ここ、足付くから」
それを聞いたマナナの動きがピタリと止まる。落ち着いて足を海底に着けてみると首から上がギリギリ海面に出ているという感じだ。
「こっ、これはですね、先輩」
そう言うマナナの顔は、耳の先まで真っ赤になっている。どうしても気恥ずかしくて、マナナはギルモアに背を向けてしまう。
「まあ、なんだ。人間には得手不得手ってもんがあるよな」
ギルモアはエルをおぶさり、マナナの肩をポンポンと叩いた。
マナナは大きな浮き輪に乗って波に揺られていた。泳げなくとも水に浮いていればいい。それでいて涼しいのだから良いことずくめだ。人間の技術はそのうち呪文を追い抜いていくのではないかと心配になってくる。
浮かびながらマナナがそんなことを考えていると、浮き輪に荷重がかかりぐらりと揺れた。
「まったく、余計な見栄を張らずに最初からそうしておけば良かったのだ。この負けず嫌いめ」
ギルモアと泳いでいたエルが浮き輪に手を掛けていた。その口調に悪意や憎しみはこれっぽっちも感じられない。
「まー、それはお互い様じゃないかな」
マナナは、エルの胸元で光る護符をチラリと見た。魔法の護符は、一日一回の使用制限が付いてたようで、効果が切れた後エルが何度使おうとしてもその効果を発揮しなかったのだ。
マナナとエルが話しているのを遠目に見ていたギルモアは、ホッと胸をなで下ろしていた。それからギルモアはそっと潜水し二人に近づいていく。目標を捉える様に浮いている二人の下半身を確認し一気に浮上した。
「いやー、二人が仲良くなって良かった、良かった」
そんなギルモアをエルがツンツンと指でつつく。
「なんだよ、エル」
エルが指さした先では突然出てきたギルモアに驚いたマナナが浮き輪から転げ落ちていた。マナナは手足をばたつかせて藻掻いているが、ギルモアは冷静だった。
「マナナさん、ここ足着くから……」
はたと気づいたマナナは海中から真っ赤になった顔を覗かせるのだった。
ひとしきり遊んだ後、日も暮れかけたということでマナナ達は海を後にした。疲れすぎて呪文を唱えるのも億劫だったが気力を振り絞って唱えることが出来た。
「あー、つかれたよぉ~」
バスタブにお湯を張り、脱衣所でポンポン服を脱いでいく。鏡で自分の姿を見てみると、見事に水着の形を残して日焼けしていた。これほど長時間太陽の下に居たのも久しぶりだ。肩の辺りが赤くなってヒリヒリする。
「いつもよりもの凄く健康的な気がするけど、お風呂につかるのがちょっと怖い……」
そう呟いてマナナはバスタブのお湯をひとすくいする。じっと桶を見つめ、意を決してお湯を肩口からかけた。
「し、しみる……」
得も言われぬ表情で食いしばるマナナは、そっとバスタブに足を入れていく。日焼けした箇所がぬるめのお湯でもヒリヒリと痛んだ。
(次、泳ぎに行く時は絶対に日焼け対策をしなくちゃ……)
バスタブに身体を沈めたマナナは心底そう思うのだった。
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