Hi・Speed Spell-高速詠唱の話-
(最近お兄ちゃんが家に来なくなったのはアイツのせいだ!!)
一人の少女が頬を膨らませて昼下がりの大通りを歩いていた。
少女が一歩踏み出すたびに、絹糸のようなストレートの金髪が膝のあたりでぴょんぴょん跳ねた。年の頃は十代の前半だろう。
美しい刺繍が施された萌葱色のチュニックに動きやすいかぼちゃパンツ。これまた細かな装飾が施されているロングブーツを履いていた。
そんな少女が人目に付かない訳もなく、騒めきと共に人々の視線を集めてしまっていた。美しい姿に加え、少女の耳が長く尖っているのも視線を集める原因の一つと言える。少女はエルフなのだ。
森の集落から人里に降りてくるエルフはそう多くない。そんな物珍しさに注がれる視線に、少女は切れ長の眼を更に細めてにらみ返す。そうすると、町の人たちはヤレヤレといったふうに少女から視線をそらした。
(なんだよ、仲が良さそうにおんぶまでしちゃってさ!)
憤慨した少女は、手元のメモを見ながら大通りの店舗を、あれもちがう、ここもちがう、と言いながら一件ずつ確認していく。馴染みの無い街を道すがら確認していく中で、少女はピタリと立ち止まった。
その店には、呪文書を意匠した小さな看板が掲げられていた。少女はメモ用紙と看板を何度も見比べ、目的地に到達したことを確信する。
「ここにアイツが居るって訳ね!!」
少女は住所が書いてあるメモ用紙を力一杯握りしめ、閉まっている店舗を睨み付ける。青く澄んだ瞳の奥に決意の炎が灯っていた。だが、そんな少女の決意をあざ笑うかのように「CLOSED」の札がドアにかけられている。
張り詰めた緊張感がしぼんでいくのを感じ、少女はガラス張りの店舗の中をのぞき込んだが人の気配が無い。たぶん駄目だろうと思いつつも、少女はドアノブに手を掛けてみるが、ドアはうんともすんともしない。
少女はやるせない表情でドアを見つめていた。
「ちっ、運がいい奴めっ!」
そんなことを吐き捨て、店舗が見える通りの一角に身を隠すエルフの美少女を、町ゆく人々は怪訝な表情で見守っているのであった。
講義が終わったマナナとギルモアは、ミフネの店を目指し大通りを歩いていた。いつものように、たわいない話をしながらノンビリと歩いていた。
「今日はいつもと違う感じがするなあ」
「どうしたんです、先輩。突然変なこと言いますね」
「なんというか、殺気を感じるというか」
「至って平和なこのご時世に殺気とは、穏やかじゃないですね」
マナナはそう言うが、ギルモアには剣士として鍛えた感覚というものがあった。肌にひり付くような殺気を感じるのだ。そして、そこまでそれは迫ってきている。
「お覚悟ッ」
少女の声と共にレイピアの一閃がマナナを襲った。完全に不意打ちだったが、それに反応したギルモアがマナナの肩を掴んでひょいと身体を翻させる。マナナを狙ったレイピアの切っ先は、虚しく空を斬った。
「いきなりなんなのよ、あなたはっ!」
「問答無用!」
レイピアが再び振り下ろされようとする少女の手首をギルモアがしっかりと掴んだ。
「エル、こんな所でなにをやってんだ!」
「お兄ちゃん!」
エルはレイピアを収め、ギルモアにヒシッとしがみつく。それはもう、もの凄い笑顔だ。
「えーと、お二人はどういうご関係で?」
呆気にとられたマナナが、ギルモアとエルを交互に差していた。何処にでも居そうな青年とエルフの美少女という取り合わせがマナナの中でどうしても繋がらないのだ。
「話せば長くなるのだが……」
ため息交じりにギルモアが話そうとしたところで、素早くエルが割り込んだ。
「エルとお兄ちゃんは将来を誓った仲なんです! だから、あなたの出る幕なんて何処にもないですっ!!」
エルはギルモアに抱きついたままマナナに向かいあかんべえをする。
「いやいやいや、違うだろ!! それは言葉のあやって奴だ。お前があまりにもしつこいからついつい生返事をしてしまったにすぎん!!」
ギルモアは抱きつくエルを引き離す。それでもエルは全く引き下がる様子がない。むしろ身体をクルリと回転させギルモアの左腕にからみついた。
「約束は約束です!」
エルの瞳に決意の炎が揺らめきマナナをビシリと指さした。
「だ、か、ら、そこのドロボーネコッ! お兄ちゃんには金輪際近寄らないようにっ!!」
「だっ、だー、れー、がー、泥棒猫よっ」
流石にこれにはマナナもカチンと来た。ギルモアのことはどうでも良いのだが、そこまで言われて黙ってられないのがマナナだ。この生意気な少女にお灸を据えてやらねばならない。ブックバンドから呪文書を外し、付箋ふせんを貼ったページを開く。一音節で発動できるForce(フォース:衝撃波)の呪文だ。人一人を衝撃で吹き飛ばすぐらいの威力を持つ。少々手荒いが、用心のためにと予め用意していたものが役に立った。
「呪文使い!!」
ギルモアの腕に絡んでいたエルが咄嗟にステップを踏んで間合いを詰める。その一瞬でマナナの懐まで入り込んだ。
(速い!)
しかし、呪文は一音節だ。唱えれば吹き飛ばすことぐらい出来るはず。マナナはそう思った。それはエルとて同じで、柄に掛けた手はいつでも抜き打ちできる状態だ。
マナナとエルはにらみ合っていた。一瞬で決まりそうな勝負に、二人とも動くに動けない状態になってしまった。そんな中、騒ぎを聞きつけた人たちが何事かと集まりはじめ、三人を囲うように人垣を形成していく。
「よしっ、決闘するか!」
ギルモアが二人の間に割って入り、マナナとエルを引きはがした。
「は? 決闘? ああ、お兄ちゃんを掛けて決闘という訳ね。くそっトロい呪文使いと勝負なんて、する前から勝ちが見えてるけどさあ」
自信満々のエルの言葉に、マナナの心臓がドクンと鳴った。確かに面と向かって戦った事なんて一度もない。さらに言うと、人に向けて攻撃用の呪文を使った事など一度も無い。それをイキナリ決闘と聞き、マナナはぐっと息をのむ。
「しょせん呪文使いなんて、安全な後ろから呪文唱えてるしか能がないし、面と向かって決闘なんて出来る訳無いよね」
その台詞はマナナにとってNGワードだったと言えよう。自分が馬鹿にされるぐらいならまだ我慢も出来た。しかし、己の憧れ、尊敬の対象である呪文使いが馬鹿にされたとあっては話が違ってくる。
「そこまで……、そこまで言われちゃ黙ってられない! 一週間後の正午、町外れの空き地で勝負よ!!」
「お兄ちゃんを賭けて勝負というわけか!!」
エルは精一杯すごみをきかせた声を繕ったが、無理している感じがどことなく可愛く周囲をほっこりさせた。
「一週間まっててね、お兄ちゃん!」
精一杯可愛い声を作ったエルはそう言い残し、人垣を掻き分けたかと思うと風のように走り去ってしまった。
マナナとギルモアは呆然とその後ろ姿を見守っていた。エルの姿が見えなくなってから、涙目のマナナがギルモアの胸ぐらを掴んで詰め寄った。
「呪文使いがどうやって剣士と勝負しろっていうんですか。それも決闘で向かい合ってですよ!」
一流の剣士との勝負は呪文使いにとって圧倒的に不利だ。呪文書を広げさらに唱える時間で剣士は間合いに入り込んでくるだろう。
「売り言葉に買い言葉とはいえ、さっきの呪文は速そうだったじゃないか」
「あんなの殆ど効かないですよ。吹き飛ばすだけですもん。もう少しまともな呪文が使えればいいけど、唱えている間に負けちゃう自信ありますもん」
どういう自信だ、とギルモアは心の中で突っ込んだ。
「そもそも、あのエルフの女の子……。エルって呼んでたっけ? あの子と先輩はどういうご関係で?」
「さっき話そうとしたところをエルに話の腰を折られてな」
深く長いため息をついて、ギルモアは話を続ける。ギルモアの父親は剣術の師範で、ライトリーフのエルフ達に剣術を教えているという。
「あ、ライトリーフってのはエルフの部族な」
マナナは素直に頷いた。この町からさほど遠くないライトリーフの森に住むエルフの部族のことはマナナもよく知っていた。
「で、俺も親父についてエルフの集落へ行ってたんだよね。まあ、小さい頃から行ってると、まだホンの赤ん坊の頃からエルの子守を仰せつかる訳だよ。で、何年にも渡って世話をしているうちに懐かれてだな、今に至るという訳だ。最近忙しくて親父について行かなくなったってのがお気に召さなかったんだろうな」
「で、思い立ってきてみたら、たまたま私をおんぶしていた光景を眼にしてしまった、と」
一瞬、柔らかな感覚がギルモアの脳裏にフラッシュバックするが、頭を振ってその感覚を振り払う。
「自分のお兄ちゃんを取られたと思ったんだろうなあ」
果てしない勘違いなのだが、どうやらエルという少女は思いこんだら一直線という性格なのだとマナナには感じられた。それはそれで純情な所なのだが、それが嫉妬やねたみとなり、さらに攻撃性に変換されて自分に向けられたのではたまったものではない。
「で、決闘になっちゃた訳ですけど」
「あの場を収めるにはアレが手っ取り早いと思っただけだぞ! エルはいつも自信満々で自分は負けないと思ってるからな。作戦は見事成功」
マナナはギルモアを訝しげな眼で見た。「先輩、決闘するのは私なのですよ」と訴えかけているかのようだ。そんなマナナの視線に眼を逸らしつつ、ギルモアがポンと手を叩く。
「わざと負けて気分良く返って貰うというのはどうだ?」
「わざと負けるぐらいなら正々堂々と勝負する方がマシです」
「そうなると、勝つための手段を考えなきゃいけない訳だけど……。何か良い方法でもあるかな?」
エルフというと、白兵戦はもちろん弓術にも長けている。さらにエルフ独自の呪文も使いこなすことで知られる。普段は森で狩猟採集を糧として暮らすエルフだが、彼らは戦闘でもエキスパートと言える。
「彼女の剣術は先輩のお父さんが仕込んだんですよね? ということは、先輩も同じ流派の剣士であり技を使えるということですよね」
「そうだけど?」
「ちょっと空き地へ行きましょう。試してみないと……」
マナナはギルモアを連れ立って町外れの空き地へとやってきた。人気の無い空き地には、立ち入り禁止のロープがかけられているが、そんなものお構いなしに二人はロープを潜った。
「で、俺はどうすればいいんだい?」
ギルモアは、右手に持った棒きれで素振りをしながら、古来より伝わる決闘の作法を思い出していた。互いに10メートルほど離れた所で対峙する。合図と同時に互いの技をぶつける。降参するか死亡するか行動不能になるまで行われる勝負。殆ど見られなくなった決闘だが、昔は辻決闘なんてものもよくあったらしい。
「私が呪文書を開こうとした瞬間に突っ込んできてみてください」
ギルモアが頷くのを見て、マナナは呪文書に手を掛ける。その瞬間、猛スピードでギルモアが突っ込んできた。
自分の呪文書だ。何処にどの呪文が書き込まれているかは把握している。呪文書のページが高速で捲られ、マナナは目当ての呪文を引き当てる。しかし、そこまでだった。
「遅いな!」
ギルモアの棒きれがマナナの喉もとを捉えていた。3秒、いや2秒ほどだろうか。10メートルとは熟練の剣士にとって、呪文使いを容易く殺せる距離、ということなのだろう。マナナの頬を汗が一筋伝った。
古来よりの決闘の作法とはいえ圧倒的に不利。マナナはそう思った。古の呪文使い達はどの様に決闘を生き抜いてきたんだろうと思わざるを得ない状況だった。
それから何度か試してみたが、何度やってもギルモアのスピードに対し、マナナは一度も呪文を発動させることが出来なかった。
「たはー、ちょっと休憩です」
マナナは、お尻からぺたんと座り込んでしまった。
「さて、どうしたらいいと思う?」
ギルモアの問いに、マナナは即座に答えることが出来なかった。数秒の猶予、剣士の体捌き、短い呪文の有効性、どれをとってもエルに通用するように思えないのだ。
「エルフの剣士か。エルフ、エルフ……」
マナナは、師匠のミフネからエルフの呪文について教えられた時のことを思い出していた。
「高速詠唱、ぐらいかな」
光明を得たり、といったふうにマナナがぽつりと呟いた。
「おっ、それはどんな感じのものなんだい?」
「ああ、高速詠唱っていうのは、古代エルフ語により長大な呪文を短縮して唱えることが出来る技術のことなんですよ」
「おおっ、それは凄いな」
「一週間で習得できるかが問題なんですけどね」
そうとなれば、善は急げだ。マナナは、シャンと立ち上がり、ギルモアに頭を下げた。
「先輩、ありがとうございました」
「いや~、何も出来なかったけど頑張って」
「やってやりますとも!」
笑顔を向けたマナナが軽くガッツポーズをしてみせる。
「あとはやるだけやってみます」
やる気で瞳を煌めかせたマナナは、そう言い残し空き地を走り去っていく。
「頑張れよー!」
ギルモアは、遠ざかっていくマナナの後ろ姿を見えなくなるまで見送っていた。
「師匠、お願いがあります!」
マナナはミフネの私室になだれ込んだ。壁一面の書架、床には書架に収納されきれない本が平積みされている。所々に置かれている箱には、巨大な巻物や拗ひねくれたワンドやスタッフが差し込まれていた。
部屋に置かれたモノをすり抜けるように、マナナはミフネのデスクへと向かう。巨大な机の上には主を囲うように本が積み上げられていた。マナナは、デスクを回り込み師匠であるミフネの前に立った。
魔法の光に照らされた机の上で本を読んでいたミフネは、ゆっくりとした動作で本を閉じ、マナナに優しい目を向けた。
「何かあったようだな……」
優しさの籠もった師匠の言葉に、涙腺が緩み涙が零れそうになる。それをぐっと堪え、マナナは事の次第をミフネに説明した。
「なるほど、事情はわかった。決闘とは懐かしいなあ」
ミフネは感慨深くそう言うと真っ白な顎髭をさすった。
「師匠は剣士と決闘したことがあるんですか?」
「勿論あるとも。まだ若い頃だったなあ……」
懐かしそうに眼を細めるミフネに、マナナはやきもきして尋ねる。
「で、どうやって勝負に勝ったんですか?」
「私がやったのは詠唱破棄だな。これなら呪文書すら必要ない。道具に込めた呪文をコマンドワードで解放するだけだ」
「じゃあそれを今から準備すれば勝てるんですね、師匠!」
「準備に一月は掛かるが、勝負はいつなんだい?」
「一週間後なのです……」
「もう一つは高速詠唱かのう」
「高速詠唱って、古代エルフ語の高速詠唱ですか?」
「おお、おお。知っておったか」
「私、それを師匠に習おうと思って飛んできたんです!」
マナナは、ミフネに詰め寄り、真摯な瞳でミフネを見上た。そんなマナナの頭をなで、ミフネは微笑んだ。
「古い友人に現代に古代エルフ語を伝えておる者がおるから、彼に教えて貰うといい」
「はいっ、師匠!!」
ミフネの返事に、マナナがぱっと顔を輝かせる。
「両親に一週間家を空けるという了解を貰っておいで。準備が出来たらすぐに出発しよう」
「ありがとうございます、師匠!!」
マナナはミフネに深々と頭を下げ、勢いよく部屋を飛び出していった。
ミフネは椅子に深々ともたれた。机に置かれている遠見の水晶球を起動し、古い友人に連絡をつける。快く了承を貰ったミフネは、すぐに戻って来るであろうマナナとテレポートするため、自分の呪文書を手に取っていた。
マナナとミフネがテレポートの呪文で降り立ったのは、ライトリーフ大森林にあるエルフの街の入り口だった。巨木が林立する中、地上と樹上に都市が形成されている。初めてエルフの街にやってきたマナナは、人間の町では見ることが出来ない風景に、興味深げに視線を走らせていた。
「これがエルフの街だよ。よく見ておきなさい」
「はい、師匠」
先を歩き始めたミフネの後をマナナは付いていった。地上はよそから来た人が住んでいる住宅、樹上はエルフの住宅のようだ。建築様式が地上と樹上で二分されているのが面白い、とマナナは思った。
地上の街を抜け、マナナとミフネは巨大な木に据え付けられた昇降機を使いエルフの居住区へと入る。昇降機が昇る毎に開けていく遠景は圧巻で、森の木々がまるで海のように延々広がっていた。マナナは思わず感嘆の声をあげる。
「さあ、こっちだ」
すっかり観光気分になっていたマナナを促してミフネが歩き始めた。素朴な木造建築が並ぶ中、見かけるのはエルフばかりだ。彼らはミフネを見ると恭しく頭を下げる。長年ミフネに師事してきたマナナだが、ミフネがエルフ達にここまで尊敬されているとは思わなかった。マナナは、改めて自分の師匠の凄さというものに気づかされていた。
「ここだ」
ミフネは、ひときわ立派な建物の前で止まった。それは、木造だが樹上の建築物とは思えないほど立派な建物で、門に陽光と樫の葉を意匠化した紋章が掲げられている。門の前には、槍で武装した衛兵が直立不動で待機している。
「やあ、久しぶり。ラライド様はご在宅かな?」
「こっ、これはミフネ殿!」
優しく話しかけたミフネに、衛兵は大仰に驚いて見せた。ミフネはそれを見て朗らかに笑う。
「そちらのお嬢様は?」
「ああ、この子はマナナといってね私の弟子だ。なかなか優秀だぞ」
「マ、マナナ・ロンドと申します!」
突然紹介され、マナナは咄嗟に頭を下げた。こういう場所に慣れていないのがありありと判る反応だ。
「マナナさん、そんなに畏まらなくてもいいですよ」
「なにぶん、街から出ないからね。ちょっと緊張しているのかもしれないな」
衛兵とミフネが、朗ほがらか笑った。それで緊張がほぐれたのか、頭を上げたマナナの表情もいくぶん和らいで見える。
「ラライド様は執務室に居られます。どうぞ中へ」
衛兵は通用門を開け、ミフネとマナナを中へ招き入れた。
「ありがとう。後は自分たちで大丈夫だよ」
ミフネは門番に礼を言い、二人で門を潜った。
「まるで貴族の邸宅ですね。樹上のはずなのに中庭が有るなんて」
目の前に広がる美しい庭園に、マナナは見とれてしまった。
「そりゃあライトリーフの太守の館だからな。マナナに紹介したい人物も此処にいるんだぞ。私の無二の親友だ」
二人は、よく手入れされた中庭を進んでいった。程なく美しく彫刻された玄関に辿り着く。ミフネが躊躇ちゅうちょ無く玄関を開けると、そこはロビーになっており、そこから4方向に廊下が分かれていた。ミフネは惑うことなく右の廊下を進んでいく。新築という訳でもないのに、清々しい木の匂いがする空間は、普段人間の街で暮らしているマナナにとって素晴らしく新鮮に感じられた。
階段を一つ上がり、エルフ語で「執務室」と書かれた扉の前でミフネが止まった。ドアをノックし返事を待つ。暫くして、「どうぞ」と、落ち着いた男の声が返ってきた。
ミフネがドアを開け中にはいると、部屋の中央で一人の男が両手を広げ待っていた。マナナから見ても二十代前半に見える若さだが、長命のエルフのことだ、見た目通りの年齢ということはないだろう。
男はミフネの姿を見ると親しげな微笑みをミフネに向ける。そして、がっしりと握手を交わした後、互いに抱き合った。
「ひさしぶりだなあ、ミフネ」
「何年ぶりだろう、ラライド」
マナナは、他人に対しこれほど砕けた表情をしているミフネを初めて見た。交わす仕草から二人が深い仲なのだとマナナが思うに充分だった。
ミフネとラライドは、互いの健在ぶりを確認しあった。それからミフネがマナナを紹介する。
「キミが弟子を取ることが有るなんて思わなかったぞ、ミフネ」
「僕だって何時までも健在じゃあ無いんだぜ。この子は僕の後継者さ」
「マナナ・ロンドと言います。よろしくお願いします」
頭を下げて挨拶するマナナの頭を、いつの間にか一人称が僕になっていたミフネがくしゃくしゃと撫でた。
「この子は優秀だぞ」
「ということは、僕が彼女に何か教えてあげなきゃならないみたいだな」
ラライドはニヤリと笑った。そのニヤリとした笑みに、マナナはドキリと顔を引きつらせる。
「この子に高速詠唱を教えてやってくれないか。エルフウィザードとして極めたその知識をほんの少しでいいんだ」
エルフウィザードというのは、エルフの中でも呪文の修得に特化した人たちの事だ。エルフ独自の呪文を使いこなす事で知られている。
ラライドはチラリとマナナを見た。利発そうな瞳に肩から提げられたブックストラップには美しい装飾が施された呪文書が留められている。呪文書は今時珍しく使い込まれた感があった。
「よし、ミフネたっての願いだ。この子の修行に付き合おうじゃないか」
ラライドはマナナにウィンクして見せた。そんなラライドに、マナナの顔がぱっと輝く。
「宜しくお願いします!」
マナナはラライドに頭を下げた。必ずやり遂げて勝負に勝ってみせるという決意を固め、口をグッと真一文字に結んだ。
その晩、ささやかな晩餐会が催され、ミフネとラライドは大いに語りあった。一緒に冒険をした頃の話から始まり、エルフの集落が危機に陥った際、ミフネがエルフ達のために尽力した話。巨大なドラゴンと戦った話さえあった。マナナも少しはミフネから聞いていたが多くは知らない話だった。
晩餐会が終わると、ミフネはラライドと固い握手をし、テレポートの呪文でその場から消え去った。
「まったく、いつもながらせっかちな奴だ」
少し呆れた感じだが、その言い方に嫌みはない。ラライドには微笑みさえ浮かんでいた。暫くラライドはミフネが消えた空間を名残惜しそうに見ていたが、くるりとマナナに向き直る。友人たっての願いだ。この娘に高速詠唱の基礎をたたき込んでおこう。ラライドは利発そうな娘に慈しむような微笑みを向けた。
「今日はゆっくりと休んでおくれよ。まあ、私が直々に教えるんだ。一週間で一つの呪文を高速化することなんて訳ないぞ」
ポンポンとマナナの頭を撫でてラライドは笑った。気恥ずかしくなって、マナナは肩をすくめ一言、「頑張ります」と言うのが精一杯だった。
ラライドにあてがわれた豪華な客間でマナナは一夜を過ごすこととなった。見たこともないエルフの工芸品と絵画、それに加え見事な彫刻の施された調度品が並ぶ様子を、マナナはポカンと口を開けて見回していた。
「こ、こんなところに寝泊まりしても良いのかしら……」
マナナは、部屋の隅に荷物を下ろしてソファに座ってみた。全身が包み込まれるように沈み快適そのものだ。マナナはゆっくりと目を閉じる。気持ちよさで睡魔が襲ってきそうになると、マナナはカッと目を見開いた。
「師匠、こんな所に座っていると私は駄目になってしまいそうです!!」
拳を握り、やおら叫んで立ち上がる。妙に呼吸が荒い。
「明日からラライドさんに師事するんだから、今日は早く寝なくては」
マナナは部屋に備え付けられたシャワーを浴び、ふかふかのベッドに潜り込んだ。シーツは絹で作られており最高の肌触りだ。
「はあ……、これで明日から何も無ければ天国なんだけどな……」
マナナはこれから行われるであろう研鑽の日々を思い天井を見つめた。天井に描かれた極彩色の絵画がぼんやりと浮かび上がる。その奇妙な紋様を眺めているうち、いつしかマナナは眠りについていた。
「それじゃ、呪文書を持って裏庭にきてくれるかな」
それなりに豪勢な朝食を終え、寛いでいたマナナにラライドは笑顔を絶やさずそう言った。
「はいっ!」
早速の申し出に、マナナも緊張感の籠もった返事を返す。
「早速準備してきます!」
マナナは、挨拶をしてから食卓を離れ自分の部屋へ向かった。どの様な修行が待っているのか、おおよその予測は付く。触れたことの無い古代エルフ語を短期間で習得するというとてつもない課題を思うと、マナナは武者震いしてしまった。
部屋に着くと、マナナは荷物から呪文書を取り出した。マナナには、呪文書に嵌められたアクアマリンが静かに自分を見つめているように思えた。それが、ずっと一緒に連れ添ってきた呪文書にどこか励まされて様な気がしたのだ。
「頑張らなくちゃ……」
キッと口を一文字に結び、呪文書を抱えたマナナは裏庭に急いだ。
マナナが準備をすませ裏庭に来てみると、ラライドが既に待っていた。手招きされたマナナがラライドの元に小走りで近づく。
「お待たせしました!」
「大丈夫、そんなに待ってないよ」
そう言って微笑むラライドは自分の呪文書を脇に抱えていた。本来、美しい装飾が施されていたであろう呪文書は、長い年月でボロボロになっている。一体何年使えばこの様になるのだろう。マナナはそう思い、自分の呪文書の背表紙をさすった。
「では、講義を開始しようか」
ラライドの第一声にマナナはゴクリと喉を鳴らした。
「高速詠唱を教えるにあたって知っときたいのだが、決闘の相手はどんな奴なんだい?」
マナナは、決闘の相手であるエルの事をかいつまんでラライドに説明した。エルフの少女で剣士。剣の腕はかなりのものだが呪文は使わない。最初マナナの説明を頷いて聞いていたラライドだが、説明が進むにつれ眉間に皺がより、眉毛がピクピクと動いていく。マナナがエルの名前を言い出す前に、ラライドがマナナの話を遮った。
「あ~、判った。あの馬鹿娘、家を空けて何処へ行ったのかと思ったらギルモア君に会いに行っていたのか。そこでマナナ君にちょっかいを出して決闘などと言い出す始末……と」
ラライドは大方の事情を理解し、深くため息をついた。マナナとて複雑な心境だ。心の中で(親子なんかーーい!!)と突っ込みを入れると共に、(なにか戦いづらいな)、とも思うのだ。だから、マナナは非殺傷の呪文を選んで高速化しようと思った。決闘が始まった瞬間にエルを行動不能にすれば済む話だからだ。
「マナナ君、娘が迷惑をかけて申し訳ない」
ラライドは、スッと頭を下げた。至極真面目な表情で頭を下げられたものだから、マナナも慌ててしまい、手をぶんぶん振ってしまう。
「いえいえ、迷惑だなんて……。あれぐらいの年の娘は多かれ少なかれ、ああいうところ有りますよ。私も売り言葉に買い言葉というか……」
「そう言ってくれるとありがたい」
「はい……」
マナナとラライドの一瞬の沈黙を破ったのは、ラライドだった。
「ま、まあなんだ。決闘は決まっているようだし、高速化する呪文は考えてあるのかい?」
一つ咳払いしてラライドが言った。
「HoldPerson(ホールドパーソン:人間捕縛)を高速化しようと考えています」
マナナの言葉に、ラライドは心底安心したような表情で一息吐いた。
「殺傷力の高いFireBall(ファイアボール 火の玉)なんかを切り出されたどうしようかと思ったよ」
「いやいやいや、娘さんにそれはない! それはないですよ!」
マナナは全力で突っ込んだ。これまでマナナは呪文を修得することはあっても、それを使って人を殺したことはない。ましてや師の娘に対し火球を打ち込むなど、考えただけでもおぞましい行為だ。
「うちの娘もキミみたいに真摯に魔法の勉強をしてくれればいいのだが、知っての通りやんちゃで……」
「ラライドさんに師事すれば強力なエルフ呪文を操ることができそうですけどね」
「なぜか剣術ばかりに熱中して呪文を勉強してくれないんだよねえ」
ラライドは、マナナに付きっきりで古代エルフ語の基本を教えていくにあたって、HoldPersonの高速詠唱を実演して見せた。呪文書を開き数語の詠唱を行う。その詠唱もかなりの早口で聞き取りづらいものだ。呪文が完成するまで一秒掛からなかった。
ラライドの呪文からくる圧倒的な力がマナナに襲いかかった。抵抗しようと四肢に力を込めたマナナだが、その甲斐も無く全身の感覚が一瞬で失われた。そのまま立っていることすら出来なくなり、マナナは力なく座りこんでしまう。
「古代エルフ語の高速詠唱とは、呪文の構文を圧縮して一行を数語に変換する技術だ。正確な文章の変換と発音が必要になる」
動けないマナナに、ラライドは言い聞かせるように言った。瞼一つ動かす事のできないマナナは、心の中で返事をする。
ラライドは、呪文書の別のページを開き、Dispel Magic(ディスペルマジック:解呪)を唱えた。
身体の自由が戻ったマナナは、両足を放り出したままラライドを見上げる事しかできなかった。
「普通、一週間で高速詠唱をのもに出来るということは殆ど無いと思う。卓越した技術というものは、日々の研鑽に裏付けられたものだからだ!」
差し出された手を取り、マナナは立ち上がった。マナナが立ち上がったのを確認してからラライドは言葉を続ける。
「しかし、無理だと言ってやらなければ出来ないのも事実。第一にHold Personの古代エルフ語での呪文書への記述。これは私が教えるとおりに記述すれば何とかなる問題で、さしたる事ではない。第二に……、呪文書を如何に速く開くかだが、付箋でも貼り付けておけばいいだろう。まあ問題ないな。第三、古代エルフ語の発音を正確にかつ速く出来るか。これが一週間で習得できるかが問題なのだ。ミフネの話では、エルフ語は読み書きできると言うことだし、古代エルフ語の発音を習得するところからだな」
「ハイッ!!」
ラライドと向き合い、意志が籠もった強い瞳と引き締められた口元、返事をするマナナの表情は決意に満ちていた。
それからマナナの修練の日々が始まった。ラライドから渡された基礎文献が悉くエルフ語で書かれており、今になってミフネが「後々必要になるから習得しておきなさい」と言っていたのが身にしみて判った。エルフ語の読み書きを教えてくれたミフネにマナナは心の底から感謝するのであった。
マナナが苦労したのが発音で、エルフ語の会話が出来ると言っても、完璧なイントネーションで話せる訳ではない。加えて古代エルフ語の細かな表現を可能にしている古代エルフ語は、種類も多く発音も微妙な差を持つモノが多い。
マナナは一週間のうち、殆どの時間を発音に費やす事となった。ゆっくりと正確な発音から徐々に速くしていく。時折ラライドの激が飛んだりしたが、そんなものにめげてなんかいられない。
ラライドの講義が終わった後もマナナは部屋で発声練習を続けていた。
六日目の朝を迎えた。
マナナは少し焦りを感じていた。呪文は暗記するぐらい唱えている。呪文書を開く必要がなければ暗唱したい気分だ。古代エルフ語に関してもゆっくりなら呪文が発動している。しかし、正確に速くとなると安定しない。ほんの少しのミスで呪文が発動しないからだ。
自主練習をしていたマナナは、ボトルの水を一口飲んだ。乾燥した喉を潤し、口元を袖でぬぐう。
今更だが、異なる言語で呪文を唱えることがこれほど難しいとは思わなかった。マナナは呪文書に目を落とす。新しいページに書かれた数語の古代エルフ語。その数語にマナナは苦戦していた。
マナナは深呼吸し、正確に発音できる限界の速さで呪文を唱えた。対象が居ないため、呪文の効果は感じないが発動した事だけは判る。ラライドの流れるような発声にはとうてい及ばない。
(今の自分の到達点がこれなんだ。これで勝負に挑む……)
そう思うと少し気が楽になった。
夕暮れ前の裏庭に木々の影が長く伸びていた。
呪文書を構えるマナナは、腰のレイピアに手を掛けるラライドと10メートルの間隔を空けて向き合っている。呪文の完成度を試す試験。今こそ高速詠唱を実戦で試す時だ。
「マナナ君がコイントスをしたらいい。コインが地に着いた瞬間が勝負開始の合図だ」
マナナは頷き右手のコインを握りしめた。コインを親指に載せて勢いよく弾く。
軽い金属音と共にコインは高く昇っていった。マナナは呪文書の栞に手を掛ける。精神を集中しコインが落ちるのを待った。
地面にコインが落ちる音、それに合わせて目的のページを開いた。あとは視線で対象を確定し、呪文を唱えるだけでよい。
しかし、顔を上げた時には既にマナナののど元にレイピアの切っ先が突きつけられていた。凄まじい突進力だ。エルフウィザードといえど、ラライドの剣の腕前は相当なものがあった。
「もう一度お願いします!」
ラライドは無言で頷き、二人は再び向かい合う。
結果は先ほどと同じだった。それから数度勝負を繰り返してみたが結果は惨敗である。
「くっ……。間に合わないっ」
マナナはがっくりと膝をついた。呪文書を開く時間で間合いに入られてしまっている。そこから相手を確認し呪文を詠唱する事など不可能なのではないかと思えた。
「今のままでは如何に高速詠唱といえど一流の剣士との試合は無謀とも言えるな」
ラライドが剣を収めてそう言った。
その言葉に含むモノを感じたマナナは、立ち上がってラライドに詰め寄った。
「ラライドさん、他に方法は無いんですか!」
真摯な瞳がラライドに突き刺さる。そんな瞳を向けられれば、ラライドとしても期待に答えない訳にもいかず言葉を濁しつつもマナナに答えた。
「あ、あるには有るのだが……」
「その方法を教えてください」
少し考えるそぶりを見せて、「付いてきなさい」とラライドがマナナの先を歩き始めた。 館の地下にある一室の前でラライドは立ち止まった。一言二言唱えると自然にドアが開いていく。
そこは太守の館の宝物庫だった。トルソーに付けられたフルプレートアーマーが並び、壁にはソードが何本も掛けられている。備え付けられた棚には美しい装飾が施された魔法の工芸品が所狭しと並べれれていた。この場でDetect Magic(ディティクトマジック:魔法探知)を唱えでもすれば、その魔力の輝きで眼を開けていられないほどだ、とラライドは笑ってマナナに教えてくれた。
「あった。これだ」
ラライドは、ガラス戸からケヤキの葉を模した銀の髪飾りを取り出した。
「それは……?」
「これはブックリーフと言ってね、呪文書の替わりにこの髪飾りに呪文を記録しておくことが出来るんだよ。これなら呪文を暗記しておけば呪文書を開く必要がないというわけだ」
「凄いじゃないですか! それが有れば一瞬で呪文が決まりますね!」
流石エルフの宝物庫、凄い工芸品もあったものだ。マナナは渡されたブックリーフを掌で包み込んだ。その輝きにマナナがうっとりしている所にラライドはもう一つ箱を差し出した。
「ただし、これを身につけないと効果を発揮しないのだ……」
どことなく言葉を濁し、更に美しく装飾された箱を机の上に置いた。
「あ、開けてみても……」
ラライドは神妙に頷いた。それを確認したマナナはブックリーフを机の上に置きそっと蓋に手を掛ける。
蓋が箱から離れた瞬間、夥おびただしい光が隙間から溢れた。
「こっこれはっ!!」
中をのぞき込んだマナナは思わず叫んでいた。その中に収められていたモノは……。
一週間が経ち、決闘の日を迎えた。
町外れの空き地は、決闘に似つかわしくない賑やかさで多くの人が出向いている。屋台やダフ屋まで現れてちょっとしたお祭り騒ぎだ。
そんな中、エルは仁王立でマナナを待ちかまえていた。その横でギルモアは必要も無いのに椅子に縛られている。
「おいっ、なんだこの扱いは!」
「もう少しの辛抱よ、お兄ちゃん。すぐにエルが助けてあげますから」
「お、おまえなあ……」
自分で縛り付けておきながらそういうエルに、ギルモアは呆れ顔でエルを見据えるのだった。
約束の時間が10分過ぎた……。マナナは表れない。エルの頬に一筋の汗が伝う。
約束の時間が20分過ぎた……。マナナはまだ表れない。エルの頬に一筋の汗が伝い、眉がひくひくと動く。
約束の時間が30分過ぎた……。マナナはさっぱり表れない。エルの頬に一筋の汗が伝い、眉がひくひく動いて、いらだたしげに貧乏揺すりまで始めている。椅子に座ったギルモアが暇そうにあくびをした。
「臆したか、マナナ・ロンド!」
エルは拳を握りしめ高らかに叫んだ。集まった人たちも顔を見合わせ、やはり呪文使いと剣士の決闘には無理があったか、などと騒ぎ立てている。
エルが高らかに笑い勝利宣言をしようとしたその時だ。
「私はここです!」
広場にマナナがテレポートしてきた。マナナにしては珍しく全身を覆うマントを着用している。ざわついていた広場が一瞬で静まりかえった。
「マナナさん、俺のために血の滲むような特訓を……。そんなに俺のことを思っていてくれたとは感激だ!」
「ちがいますっ!!」
眼を潤ましてわざとらしく言うギルモアにマナナは力一杯突っ込んだ。一つ咳払いし、気を取り直してマナナはエルに向き合った。
「さあ、勝負しましょうか!」
マナナは、キッと鋭い目でエルを睨んだ。その表情は自信に漲っている。聴衆が見守る空き地に緊張感が迸ほとばしる。
「剣士の私と面と向かって勝負する度胸は認めてやるが、手加減するつもりはないぞ」
二人はじりじりと距離を取り、決闘のルールとされる10メートル離れる。
「お好きにどうぞ」
マナナはさらりと答えた。余りに自然なその振る舞いに、エルは相手に妙な余裕があるなと思った。そして、マナナをよく見てみるとあの分厚い呪文書を抱えていないことに気がつく。マントの下に持っているとしても相当かさばるはずだから見た目で判る。
「貴様っ、呪文書はどうした!」
「どうしたのかしらね」
自分を指さすエルに笑みを返し、マナナは見せつけるように前髪をはらりと払う。日光に銀の葉の髪飾りがギラリと煌めいた。
「そっ、それはエルフの至宝の一つブックリーフ!! 何故貴様が!」
目を丸くして驚くエルだったが、群衆から現れた人物の登場にさらに目をむく事となった。
「私だ……!」
「お父さん!!」
群衆の中から出てきたのは、紛れもなくエルの父ラライドだ。エルの頭の中でぐるぐると思考が回る。マナナと父が知り合いだったとは誤算だった。
「くっ、お父さんが絡んでいたということは、もしや……」
チラリと父親の顔を見るエル。
「勝負に負けたらおとなしく家に帰ってくるんだ、エル。それと、迷惑賭けたねえ。ギルモア君」
ラライドは椅子に縛られていたギルモアを解放して言った。
「いやいや、俺は良いんですけど、あの二人、あのままでいいんですか?」
にらみ合いを続ける二人をラライドはチラリと見た。一触即発の雰囲気だが、ラライドはフッと笑う。
「そんな大事にはならんと思うよ。まあ、みてなさいって」
「ラライドさんが言うならそうなんでしょうけど」
ギルモアは縛られて窮屈だった手首をぶらぶらと回しほぐした。
「くっ! まあいい。勝負に勝てば問題ないのよ! それに、ブックリーフを付けているということは……。貴様アレを!」
「やはり知っていたのね。この事を……」
マナナがグッとマントの留め具を掴む。どことなくマナナの表情に恥じらいが見え隠れする。
(こんなにギャラリーがいるとは不覚だったわ……。でも、やらなきゃ負けちゃうだろうし。負けちゃうぐらいなら恥ずかしい方がマシ!!)
勝負へ賭ける決意を込めてマナナは勢いよくマントを取り去る。風に翻るマント、それと同時にギャラリーの男性諸氏から歓声が上がった。ギルモアもマナナの肢体に視線誘導されざるを得ない。ラライドは細く笑っていた。
もじもじと身をよじるマナナは一見すると裸に見えるようなレオタード姿だったのだ。
(うわああああ、恥ずかしすぎる! 一瞬で終わらせてマントを羽織る!)
「私はそれを着たくないから魔法を勉強しなかったんだーっ!!」
顔を赤らめてエルはレイピアを抜き放つと一瞬で間合いを詰めてくる。
その一瞬の間でマナナはブックリーフを起動していた。目の前に浮かぶ数語の古代エルフ語、それを発声すれば呪文が完成するのだ。そして、それを発声するのに一秒も必要なかった。
エルには、マナナがブックリーフを使っていると判った時点でこうなる事が薄々判っていた。呪文の検索を破棄し詠唱を行うブックリーフと古代エルフ語による高速詠唱のシナジーは呪文使いにとって近接戦闘に対応する随一の手段だ。
一瞬で唱えられたHoldPersonホールドパーソンに対する抵抗を試みるどころではなかった。全身が痺れるような感覚に襲われ、エルは糸が切れた操り人形の様に地面に倒れ込んだ。レイピアが弧を描いてマナナの足下に転がる。
「勝負あったようね……」
エルは堅く口をつぐんでいた。マナナはマナナで勝負には勝ったが羞恥心から眼に涙を浮かべていた。
「おつかれさん」
ギルモアがマナナにそっとマントを掛けた。マナナはひっつかむようにマントの裾を重ねる。身体のラインをさらけ出した羞恥心で顔が真っ赤だ。
「まったく。先輩は肝心時にはなにもしないんですね」
「俺が何かできるってもんじゃないだろうに」
「それはそうなんですけど……」
ギルモアがしゃがみ込んで突っ伏しているエルをのぞき込む。
「で、お前はどうするんだよ」
悔し涙を浮かべているエルを優しい眼をしたラライドがひょいと担ぎ上げた。服に付いた土埃を軽くはたいて落としていく。
「この子は私が連れて帰ろう。迷惑掛けたねえ、ギルモア君」
さわやかな笑顔を二人に向け、エルを担いだままラライドは空き地を去っていく。
「次だー、次こそはこうはいかんぞーーっ!」
か細いエルの叫びが空き地にこだましたが、そんなエルをマナナとギルモアは黙って見送っていた。
集まっていた群衆もあっけない勝負の幕切れに散らばり始めていた。
(か、勝ったわ……)
その後、ラライドに連れて帰られたエルが現れることも無く、再びマナナに平穏な日々が訪れた。
はずであった……。
「此処であったが百年目!」
数日後、町に引っ越してきたエルの元気な声が大通りに響いた。
その姿を見たマナナとギルモアの眼が点になっていたことは言うまでもない。
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