第2部

 パザンは薄暗いバーのカウンターで女と二人で飲んでいた。仕事での業績や今後独立する気があることを熱心に話すパザンに、女は微笑を浮かべながら聞き入っている。パザンは女の横顔に見惚れている。話が終わると、女は「すてきね」と褒めた。

「仕事には自信がある。しかし、女に対してはさっぱりだ。俺は決して女にモテるような見てくれじゃない。だが、俺は卑屈にはならない。自分を理解してくれる女を探してる」

 そう言うと、女は「私はすてきだと思うよ」とパザンをまともに見て言った。

「俺も愛されたいんだ」

 搾り出すように言うと、女はパザンの手に触れた。

 そこで夢は終わった。

 その女の夢は、何度か見ていた。パザンは夢の中で女を抱きしめようとしたり、触れたりしようとしたことがあったが、いつも女と接触するや否や夢は終わってしまった。女には懐かしさを覚えたが、いくら記憶を手繰り寄せてもその女の記憶は見つからなかった。ともあれ、自分がこういう夢を見るとは驚きで、嬉しくもあった。恋愛がいよいよ血肉化したように思えたから。

「所詮は夢の女だ」

 パザンはそう口に出して言った。地球の男が言いそうなことを真似てみたのだった。

 机には昼寝する前まで読んでいた『赤と黒』があった。パザンは、この数年で地球の主要な恋愛小説や恋愛論を読み込んできた。読めば読むほど、恋愛が魅力的に思えるようになった。パザンは、スタンダールが『恋愛論』の情熱恋愛の章で論じているような恋愛の危険に心酔した。パザンには危険こそが自分に必要なものであるように思えた。自分の人生を危険に晒さずには何も得られないと考えるようになった。そういう立場からすれば、ラブスコープは恋愛に対して良からぬ影響を及ぼすと思えた。人類によるラブスコープの受容は興味深かったが、一方で、人類が自分たちと同じ道を歩んで欲しくないとも思っていた。

『赤と黒』を切りの良いところまで読むと、四時になっていた。パザンは、五時から六本木の会場で開催されるラブスコープの討論会を見るために出かける準備をした。


   *


「昨年度から爆発的に普及しているラブスコープ。街には『スコープ族』と呼ばれるナンパ師が急増。もはやスコープなしにはナンパはありえない!? スコープは恋愛シーンを激変させつつあります。今回の『激論90』では、さまざまな識者やスコープ族の方たちともにこの現象について徹底的に討論します!」

 モデレーターの梶尾しげるが早口でまくし立てた後、軽快なオープニングテーマ曲とともに討論のパネラーが登場した。洋は食い入るようにニコ生中継に見入った。日本の思想界隈で有名な宮下氏と西氏が今夜の討論の目玉だった。

梶尾:さて、ラブスコープ、通称スコープですが、このようなSF的ツールが本当に登場して驚いているのですが、私はまだこの道具が有効であると信じられません(そう言って、梶尾はラブスコープを掛けた)。しかし、有効であるとしたら、その科学的根拠はあるのでしょうか? この点について、スコープの製造販売元であるZ電機部長の高柳氏に伺います。

 高柳氏は、がっしりした体格の五〇代の男だった。

高柳:最初に申しますと、この製品が正確にどのようなメカニズムで動作しているのかまだ解明できておりません。また、弊社が独自に開発したものではありません。詳しいことはお話しできませんが、部外者からの持ち込みで、弊社が買い取ったものです。弊社は、一年にわたり持ち込まれた製品を研究し、その構造をほぼ理解しました。しかし、数値の大小が何に由来するかなど、根本的なところは不明でした。また、未知の物質が使用されており、同一のものを製造するのは不可能と思われました。しかし、たまたま別の物質で代用したところ、うまく行ったように見えたのです。ですが、その物質で問題ないという確証はありません。

梶尾:なるほど、では、信ぴょう性はないということですね?

高柳:そうですね。二重の意味で。といいますのは、まず、弊社の製品がオリジナルを正確に模倣しているわけではないことがあり、次に、オリジナルの数値の意味を把握できていないことがあります。

梶尾:それでも、スコープの数字を信じている人が大勢いるように見えますが、それはなぜでしょうか?

高柳:解明できていないからといって、それが誤っているとは限りません。経験的に正しいと感じられるということではないでしょうか?

梶尾:しかし、根本的なところを解明できないのは、なぜなのでしょうか? スコープが地球外からもたらされたという噂もあるようですが、それについてはどう思われますか?

高柳:その可能性はあると思います。明らかに現代の科学の水準を超えていますから。

梶尾:……では次に、実際にスコープを使ってナンパしているスコープ族の方に訊いてみたいと思います。

 スコープ族の男は三〇代後半くらいのパーマの胡散臭い奴だった。

梶尾:スコープを掛けてのナンパはどうですか?

スコープ族:もう、すごいですよ。スコープ前とスコープ後で完全に区切られます。マジで夢のアイテムですよ。だけど、最近はスコープが知れ渡ってしまったので、厳しいですね。もう旬は過ぎたって感じですね。できれば、デザインのバリエーションを増やして欲しいですね。スコープとわからなければいいので。

梶尾:これからもスコープでナンパしますか?

スコープ族:そりゃもう、当然でしょ。こんな美味しいアイテム、スルーできませんよ。まあでも、スコープのせいでナンパ師も激増してるんでね。いいことばかりじゃあないけど。逆にスコープがなかったら、マジで辛いと思いますわ。

 その後、スコープの機能についての話と、スコープユーザーへのアンケート結果の紹介が三〇分ほど続いた。洋はすでに多くを知っていたので、退屈だった。スコープが欲しいかという質問のアンケートの結果では約八割が欲しいという結果が出た。画面上にはリスナーが入力した文字が迅速に流れている。


10マンもするのに買えるか

スコープ狩りにあって氏ね>スコープ族

俺は要らないな。ナンパするDQN氏ね

私は重宝している。コソーリ好きな人との相性見たり

1年前ならまだしも今は要らないかな


 次にスコープ賛成派と反対派に分かれての討論になった。賛成派の主な論客には、元ナンパ師で大学教授の宮下氏、反対派には哲学者・批評家の西氏がいた。賛成派はその根拠として、恋愛コストの低減を可能にすること、草食男子の恋愛への参加を促進すること、一人の女性に固執しないためストーカー犯罪などが減ると予想されることを挙げた。

「何にせよ、恋愛に対して活発になるのは良いことだと思いますよ。アニメの女の子に夢中になるよりずっと健全ではないですか」

 宮下氏はそう言って締めくくった。続いて、反対派の西氏が話した。

「僕はこのスコープというのはとんでもないものだと思います。怪物的というのかな。恋愛というか愛を終結させるほどの破壊力があると思っています。いちいち数値化されるんですよ。こんな散文的な恋愛があるでしょうか? もはや恋愛とは異なるものになってしまうのです。スコープは、恋愛を破壊する道具です。従来の恋愛では必ず反省があった。これは不可欠な要素です。反省を通して、恋愛者は恋愛というイベントを享受していたのです。つまり、恋愛というのは、決して告白とかナンパとかの行為のことではなく、特定の人のことばかり考えるという状態のことを指すのです。ところが、スコープによりそうした状態が根こそぎにされます。というのは、マッチ率の高低がすべてだからです。これが宮下さんが言われた、恋愛コストの低減ということの内実です。果たしてこれが良いことでしょうか? それから、スコープのもう一つの機能、つまり、人恋しさの表示ですが、これは人の弱みにつけいることを助長する非常に悪しき機能だと思います」

「実を言いますと、その機能につきましては、次の生産分から廃止される予定です」

 高柳氏が言った。

「えっ、マジですか? それじゃあ、ナンパできないじゃないですか?」

 スコープ族の男が声を上げた。

「そういうことになります」と高柳氏。観客の一部から拍手が湧き上がった。

「西さんとしましては、スコープは廃止すべきとお考えですか?」と司会。

「え~、廃止されればそれに越したことはないですが、もう無理でしょう。今更廃止を唱えたところで、現実的ではないと思います。むしろ、スコープを前提としてどのようにすれば恋愛が可能か、あるいは、可能でないとしたらどうするかを考えるべきだと思います」

「宮下さんは、西さんの意見に対して何かありますか?」

「恋愛を終結させるからスコープは良くないという主張については、同意しません。僕と西さんとでは、恋愛のイメージに違いがあるようです。僕はむしろ、女の子とデートしたり、とにかく女の子と時間を過ごすことが恋愛だと考えているんですね。スコープでそれが容易になることは間違いありません。それに、マッチ率というのは、古い言葉で言えば、ウィンウィンですからね。相手も恩恵を受けるのです。私たちは通常誤った相手と時間を共にしたいと考えていませんから。確かに一人でうじうじ悩む時間は減るでしょう。だけど、僕はそのことを肯定的に捉えたい。スコープにより恋愛小説というジャンルが消滅するとしても」

「男女間の交流が活発になるといのはその通りでしょう。ですが、たとえ恋人であっても常に代替可能性に付き纏われることになるのではないでしょうか? マッチ率至上主義によれば、マッチ率の低い相手はよりマッチ率の高い相手よりも劣ることになります。ですから、恋人がいても乗り換えを狙うという人も出てきます」

「そういう人もいるでしょう。だけど、僕はマッチ率が絶対だとは思いません。やはり共に過ごした時間の重みがあると思います。だから、マッチ率が高いからと言って、簡単に他の人に乗り換えるというのは一般的ではないでしょう。それに代替可能性というのはスコープの有無にかかわらずあります」

「……まあ、それはそうですね」

「賛成派が一歩リードというところでしょうか。では次に会場にお越しの方々の意見を訊いてみたいと思います」

 洋はもどかしさを感じた。洋の立場は断固反対だったが、洋も西氏と同じように反論できなかったからだ。

「待ってください」声を上げたのは詩人の菅原氏だった。会場一同が菅原に注目した。「LSが粉砕しているのは純愛です。純愛は、データではなく、人間の感性と想像力によって可能になるものです。純愛は男女間のみならず、同性間でも、また年齢差があっても可能です。そして、どのような形であれ、純愛とは常に例外的な出来事なのです。恋人は掛け替えのないユニークな存在です。恋人との繋がりは、決してLSの数値に還元されることはありません。LSは恋愛の矮小化を促進する悪しきツ―ルです。私は断固LSに反対です。LSが地球上から一掃されることを願います!」

 会場からパラパラと拍手が起こった。洋も思わず手を叩き、ニコ生に書き込んだ。


菅原氏に激同!!!


 その後、観客から意見が出た。見知らぬ男からスコープで見られていると思うとゾッとするという若い女性の話があった。次に二〇代男性の大学院生の意見が出た。

「私はラブスコープが巻き起こしている現象を大変興味深く見守っています。私たちは今まさに歴史的瞬間に立ち会っているのです。つまり、恋愛という文化の終焉です。恋愛は昨今飛躍的にその価値を高めましたが、今、恋愛バブルがはじけようとしているのです。この二~三〇年間で人々は恋愛に多くを求めすぎるようになりました。特に女性は、恋愛というキーワードに振り回されてきました。ラブスコープは過大評価されるようになった恋愛を無化する強力なデバイスです。恋愛で救われた人は少数です。多くの人は、恋愛で挫折し、辛酸を嘗め、最悪の場合、犯罪に走る者もいました。恋愛への幻想がそういう人たちを生み出したのです。ラブスコープは、そういう恋愛不適格者に救いをもたらすものであり、延いては人類にとって有益であると思います」

「そう言うけどね。恋愛が無化されたら、男女関係はひどく詰まらなくなりますよ」と西氏。

「そうかもしれません。しかし、人類は創造力を持っています。新しいより良い関係が生み出されないとは限らないのではないでしょうか?」

 洋は食い入るように画面を見つめていたが、それは大学院生の男の話に興味を惹かれたからではなく、その隣に座っている若い男のためだった。その男は、確かに洋の記憶に引っかかり、誰かを思い出そうとして必死になった。どうしても思い出す必要があるように思えた。ようやく男のことを思い出した洋は、「あっ」と声を上げた。洋がラブスコープを購入したDVD屋で出会った男だったのである。

「あいつだ!」

 洋は居ても立ってもいられなくなり、ニコ生の会社に電話で問い合わせようとして、その電話番号をネットで調べた後、そんなことをしても無駄だと気づいた。


   *


 まだ中継の途中だったが、パザンは休憩時間になるとスタジオを出て、六本木の駅に向かって歩いた。夜の六時過ぎで、暗くなりかけていた。もうすぐ桜のシーズンだが、夜はまだ寒かった。

 パザンはビールが飲みたくなりHUBに入った。客はまだ少なくスポーツ中継もやってなかった。パザンがテーブルで飲んでいると、後から店に入ってきた三〇がらみの女に声をかけられた。

「お一人ですか?」

 パザンは女がさっきスタジオの観客席にいた人だということに気づいた。女は美人でも不美人でもなかった。強いて言えば、長い黒髪がきれいだった。前の席に座ってもいいか、と訊かれて「どうぞ」とパザンは答えた。女は嬉しそうに礼を言って椅子に荷物を置いた。

「討論会、どうでしたか?」

 彼女はドリンクを買って席に戻ると、パザンに訊いた。「想定内かな」パザンは答えた。「あなたは?」

「恋愛が終わりつつあるみたいな話が私には衝撃的でした。私はずっと恋愛に至上の価値を置いてきました。恋愛していないと女として終わっていると思っていました。だけど、そういう考え方がプレッシャーになっていたようにも思います。つまり、自分を女として演出することが」そう言って、女は確かめるようにパザンを見た。「まだ名乗っていませんでしたね。私は泰子と言います」「村中です」パザンは地球での名前を名乗った。

「実は私、ラブスコープ持ってます。だけど、好きな人には使いません。だって、数値が低かったらショックじゃないですか。ラブスコープって、恋愛の役には立たないんですよね。相性で相手を選ぶのは恋愛とは別の行為だと私は思います。相性が良いからと言って、すぐに好きなれるとは限りませんから。それにそういう相手とデートを重ねても好きになるという保証はないと思います。わかりませんけど。……だけど、たとえ好きになれなくても、相性が良ければそれでいいかなって、今は思ってます。私は恋愛関係であることにこだわり過ぎてきたのじゃないかって反省してるんです。恋愛結婚したカップルが続々と離婚しているのを見ると、恋愛にこだわる必要もないかなって。村中さんはどう思います?」

 パザンは、恋愛関係がどうこうという話に対してどんな感想も意見も持ち合わせてなかった。パザンにとって、恋愛は研究対象でしかなく、一度も自分が行うものとして考えてなかった。しかし、そんなことを言うわけにはいかないし、言う気もなかったので、これまでの知識から地球の男が言いそうなことを考えた。

「そうですね……。恋愛は意図的にできるものではないので、どうしてもパートナーが欲しいという場合は、ラブスコープは便利ですよね。しかし、人は通常、恋愛を通じて異性と結ばれることを望んでいます。どうしてこうも恋愛が重要視されているかは、私の意見では、恋愛には物語性があるからだと思います。物語は人々が求めてやまないものです、誰もが自分の人生を物語にしたいと欲している。そのためには、感情に沿った生き方をする必要があります。恋愛に関連付けて言えば、私たちは誰かを好きになるという自発的な感情によって、その人と結ばれ、子孫を残したいと考えていると思います。しかしながら、恋愛は誰に対しても開かれているわけではありません。恋愛したくてもできない者もいます。それは、恋愛が本質的に繁殖へのステップであることを考えれば当然のことかもしれません。あらゆる種で繁殖において淘汰・選別が起きます。人間も例外ではありません。一定の外見や能力がない者は、繁殖で不利な立場に立たされます。ゆえに、金銭面同様、恋愛の面でも貧困はなくなりません」

「だから結局は、スコープのようなものが有効だ、と言うことでしょうか?」

 泰子はカクテルを一口すすってから言った。

「スコープは、人類の希望が具象化されたものです。今や純愛はほぼ絶滅しています。結婚できない人は増加の一途を辿り、男女間の溝はますます深まっています。これは恋愛にこだわっているためです。スコープは、恋愛ができない男女にとって、救いをもたらすデバイスです」

「なるほど。大変わかりやすいご説明ありがとうございました。わたしの迷いも吹っ切れたように思います」

 パザンはそう言う泰子に微笑みかけた。泰子は顔を赤らめて目を逸らした。

「あの、失礼かもしれませんが……、村中さんは恋愛市場で優位に立てる人だと思うのですが、なぜスコープを支持されるのでしょうか?」

「私は自分の恋愛市場でのポジションに興味はありません。それにスコープを支持しているわけでもありません。ただ、スコープが人類の恋愛行動をどのように変えるかに興味を持っているのです」

「……これまた失礼かもしれませんが、村中さんは女性に興味はおありなんですよね?」

「はい。女性には特段の興味があります」

 これは本当だった。パザンの惑星には、もはや性という概念がなかったし、性器は退化して生殖機能を失っていた。個体数の増減もほとんどなく、肉体が滅びても記憶を何代にも渡って保持できた。パザンも一三代目だった。

「恋人はいらっしゃらないんですか?」

「いません」

 泰子の目が輝いたのがわかった。その瞬間パザンの中で恋愛への欲望が閃いた。

「本当ですか~? どうして? 黙っていても女の子は寄ってきそうに見えますけど」

「それは……。昔、付き合って結婚を考えていた人がいたんですけど、その人が交通事故に遭って死んだんですね。それ以来――」

 パザンがありがちな話をすると泰子はしくしくと泣いた。

 ……その後泰子の恋愛話をつまみに、何杯かの酒を飲み別れた。

「恋愛対象でなくてもいいので、これからも会ってもらえませんか? できれば、村中さんを癒してあげたいです」

 別れ際に、泰子は目を潤わせて言った。


   *


 公園に集まった人山を見て、洋は安堵した。予想以上だった。百人は超えているように見えた。平日で雨こそ降っていないものの、肌寒い天気だったが、これだけ集まれば十分だった。二〇~三〇代がほとんどで、男女の割合は半々くらいだった。美男美女で小洒落ている人の率が高かった。

 洋は「LoveScopeはゴミ!」と書かれたプラカードを掲げて、デモ参列者たちと公道を練り歩いた。「スコープで恋は始まらない!」、「スコープは人類の敵!」、「Z電機はスコープを直ちに廃棄せよ!」などと連呼しながら。

 一時間ほど歩いたところで、新横浜駅から程近いZ電機本社に着いた。Z電機の社屋はガラス張りの大きなビルだった。デモ隊のリーダーが拡声器を使って、スコープの有害性を滔々と演説した。しばらくするとデモ隊を遠巻きに取り巻くように人だかりができた。ビルから出てくる者はいなかった。

 洋は自分でも説明できない感覚(あえて説明するとすれば、「視線を感じて」という他なかった)に導かれ、後ろを振り返り、取り巻きの人だかりの中から男の視線を捕捉した。洋はその男があのDVD屋の男だということに気づいた。洋は吸い寄せられるように男の方へと歩を進めた。

「お久しぶりです」

 洋が男の前まで来ると、洋が口を開く前に男は言った。

「あなたは何者なんですか? あなたがスコープを持ち込んだのですか?」

「少しお話しませんか?」

 男は薄ら笑いを浮かべて言った。


「今、出回っているスコープは我々のものではありません。スコープのコピー製品です」近くにあったスターバックスの席に着くと「パザン」と名乗った男は言った。「当時、洋さんの他にもスコープを購入した人がいました。その内の誰かがZ電機に売ったのでしょう」

「元のスコープは誰が製造したのですか?」

「それは我々です。あなた方の言うところの宇宙人ですね。我々の住んでいる惑星は、地球から約十一光年の距離にあります」

 洋はある程度予想していたが、本当に異星人だとわかると、冷や汗が出た。

「スコープを地球に持ち込んだ理由とあなたの星のことを詳しくお話していただけませんか?」

「スコープは、人類の恋愛を研究するためのツールだったのです。私は人類の恋愛に特段の興味を抱いています。かつて――千年以上も前ですが――、我々の星にも同様の恋愛関係があったことが割と最近わかりました。男性と女性の性が我々にもありました。しかし、今は、性という概念がありません。性が滅んだ理由は、クローニングが性行為による生殖に取って代わったためと言われています。我々はクローニングにより千年以上生きてきました。それは苦悩や苦痛のない生活でした。それで満たされていたのですが、最近になり、先人が我々の歴史、また個人の記憶の一部に対して隠蔽工作を行なっていたことが明らかになりました。恋愛のフィクション、つまり、地球で言うところの恋愛小説がすべて廃棄されていただけでなく、末代の恋愛の記憶に直接操作が行われた可能性があることがわかりました。私は一三代目なのですが、初代の記憶がまったくありません。公式の歴史では、我々の祖先は、『異性との繁殖のための協調関係』により子孫を作ったことになっています。ところが、日記形式の恋愛の記録が古い建物の地下の隠し部屋から見つかったのです。それはセンセーショナルな事件でした。瞬く間に、我々の人生は問い直しを迫られました。我々は自分の人生の単調さや安寧を恥じるようになりました。その後、ブームが去ると、恋愛学という学問分野ができ、私を含む一部の恋愛フリークは恋愛の研究に勤しむようになりました。我々の研究が俄然盛り上がりを見せたのは、地球と人類を発見したこの十数年前からです。地球も人類も我々の星と我々に酷似しています。まるで鏡の国のようです。私たちの祖先と今の地球人との間に有意な違いがあるかどうか疑わしいです。したがって、人類の恋愛を研究することにより、我々の祖先が恋愛を廃棄した理由が明らかになるではないか、という期待が持たれているのです。以上が背景です」

「……何と言っていいやら。……とにかく、スコープは恋愛を研究するためのツールだったんですね。それで僕にスコープを売って何がわかりましたか?」

「非常に有意義なデータが得られました。洋さんのデータにより、我々は恋愛の定義を見直すことになりました。つまり、我々は恋愛を単純に男女間のマッチングのための行動として考えていたのですが、それだけでは恋愛を説明できないことに気づきました。もっと奥深いものがあると」

「驚いたことに、私自身も同じことに気づきました。……スコープ反対派の人は各自が譲れない恋愛観を持っています。相手への尊敬の念が必要と言う者もいれば、苦悩が必要という者もいます。あるいは、相手を信じることが不可欠という者もいます。私は別のことを考えています。それは運命です。運命という言葉が重ければ、巡り合わせとでも言いましょうか。相性よりも出会ってしまったことの運命を受け入れるべきだと思うのです」

「なるほど……。いずれにしても、実に興味深い事象ではありませんか、恋愛は! 恋愛が手に負えない、おそらくは危険な事象であることは、直感的にわかっています。そうでなかったら、私たちの祖先がなぜ恋愛を隠蔽したのか説明がつきません。それでも、ごく一部ですが、私たちの惑星にもこの危険に身を投じたいと願っている者がいます。今となっては、私もそうした考えに傾いています。私には誰かに恋心を抱いたという体験はありませんし、それが可能かどうかもわかりません。ですが、恋愛について深く知れば、あるいは、可能になるのではないかと考えています」

「それはどうでしょう? 恋愛は知識やスキルがあればできるものではありません」

「我々が恋愛感情を抱けないという根拠はありません。我々の祖先が恋愛をしていたからには、長いブランクがあったとは言え、我々にも可能であると考えています。外国語の学習者が文法や単語を学ぶことによって外国語を習得するように、我々も恋愛を学習することによって習得するのです」

「しかし、あなたはセックスができないのではないですか?」

「デバイスを使えばできます。それはすでにシミュレート済みです。問題はやはり感情でしょう」

「……いずれにしても、不毛な恋愛遊戯だと思います。あなたが恋愛できたところで、それでどうなるのですか? 結婚して、地球に居つく気があるんですか?」

「ありますよ。もし恋愛ができるのならね。故郷くにに帰っても退屈なだけですから」

 男の口調には迷いは感じられなかった。

「なるほど。そうであれば、百歩譲ってよしとしましょう。しかし、スコープはどうなるんですか? スコープを持ち込んだ責任をどうやって取るのですか?」

「洋さんのようにスコープにより、恋愛の価値を再認識する人もいます。私は恋愛の研究者として、恋愛が滅びることを望んでいません。しかし、もし滅びるとしたら、それが人類の選択ということです」

「それではあまりに無責任じゃありませんか?」

「一部の人々の反発を招いているにせよ、普及しているということはニーズがあるということです。スコープは両価的なものです。洋さんのように拒否する者が多ければ、大勢に影響はないでしょう。結局、恋愛に対する人類の評価次第です」

 パザンはそう言って、どこか試すような横柄な視線を自分に投げた。


 電車で帰路に着いた洋は、今日のデモのことなど忘れて、パザンとの会話を反芻していた。自分一人の胸の内に留めるにはあまりにも大きすぎる話だったが、話せる相手もいなかった。洋はただただ己の無力さに打ちひしがれた。


   *


「お洒落な店ね。よく来るんですか?」

 泰子が店内を見回して言った。

「うん。他に適当な店がないんでね」

 ダイニングバー「ブラン」の白を基調にした内装は、パザンの故郷によくある店に雰囲気が近かった。円形の一五人くらいが座れるバーカウンターを中心に、四人がけのテーブル席が配置されている。いわゆる未来的な店だった。音楽はデビッド・ボウイの「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」がかかっていた。

「今日は誘っていただき、ありがとうございます」

「いいえ。こちらこそ来てくれありがとう」

 待ち合わせ時間に一五分遅れてきた泰子は、気合の入ったおしゃれをしていた。グロスのリップ、爪先には繊細なネールアートが施されている。薄手のベージュのトレンチコートの中はワンピース。胸元には大きめのネックレス。足元は白のサンダル。

「最近、お仕事はどうですか?」

 ドリンクの注文を終えると、泰子が訊いてきた。

「ああ、仕事ね」パザンは大学で心理学関係の研究職に就いていると話してあった。「最近、新しいフェーズに入ったよ。今まではデスクワークだけだったんだけど、それじゃあ、物足りなくなってきて、自分で確かめてみたくなったんだ。だから、フィールドワークに移ることにしたよ」

「へぇ~、熱心ですね。具体的にはどんなことをやってらっしゃるんですか?」

「そうだね……。セッションを通じて、感情の変化を測定することかな。それより、泰子さんは仕事どうですか?」

「仕事は簡単ですよ。もう何年も同じことやってますから」

 泰子は貿易事務の仕事に就いていた。

「それよりも、今は、結婚したいですね。私もいい歳ですし……」

 泰子はネックレスを弄りながら言った。

「恋愛はどうですか?」

「もちろん、したいですよ。恋愛して結婚できればそれが一番です。だけど、この前も話しましたけど、なかなか難しそうなので、結婚相談所に登録しようかなと思ってます」

「僕は泰子さんは恋愛できる人だと思います。魅力的だし、優しいし」

「からかわないでください。きっと村中さんは私よりもずっと綺麗なひとたちを知っているはずです」

「僕の美の基準というのは、世間一般のそれとは違っていて、僕はより内面的な美を重視しています。内面的な美は、目に現れます。泰子さんはすごく綺麗な目をしています」

「な、何を言ってるんですか? 冗談も大概にしてください!」

「冗談ではないです」

「私は信じません」

 泰子は俯いて言った。

 ナチョスとサラダとプライドポテトをあらかた食べ終わるまでに、泰子は昨年、母親を亡くした話をした。母親は延命治療を拒んでいたため、だんだんと弱っていく様子を何もしないでただ見守ることしかできなかった。それは地獄だった。その後自分の死について考えるようになった。私もいつ死ぬかわからないし、子孫を残したい。要約すると泰子はそういう趣旨の話をした。

 話が終わると、パザンはテーブルの上の泰子の手に自分の手を重ねた。それは夢の中でパザンが夢の女に対して行ったことのある行為だった。泰子は驚いた顔でパザンを見返したが、手を引くことはなかった。

 ブランでの食事が終わると、パザンはタクシーを捕まえて渋谷円山町にあるバーに行った。薄暗いバーの入り口の傍には四つん這いになっている女性の下半身が、ロールシャッハの絵のように線対称になっている奇っ怪なオブジェが置いてある。カウンターには正装の四〇代のバーテンダーが一人。客は他にいなかった。

 カウンターのペアシートでは、お互いの体の一部を接触させて座った。音楽はR&Bがかかっていた。会話はほとんどなかったが、パザンが「泰子さんといると癒されるよ」と言うと、泰子は笑顔を見せた。お互いにカクテルを一杯飲み干してから、パザンがホテルに誘うと泰子は「いいですよ」とはにかんだ。


「これは?」

 二人ともシャワーを浴びた後、お互いに裸で抱き合ったとき、泰子はパザンが付けているロケットネックレスを手に取って言った。そこには初代パザンの写真が入っていた。パザンはロケットを開けて見せた。

「……誰?」

 泰子は顔を近づけてよく見てから言った。

「死んだ父親」

「あら……お気の毒様、若いのに。でも、似てないわね」

「俺、母親似なんだ」

 泰子は、歯が当たるほど勢いよく、パザンの唇に自分の唇を押し付けた。

 パザンは男性の多くが女の体がたまらなく好きで、女の体を触ったり、見たりすることから最大の快楽を得ることを知っていたが、パザンが泰子の体に昂奮にすることはなかった。彼女の体は性的に昂奮させる要素がないわけではなかったが、ただ、柔らかくてすべすべするというだけで、それ以外に感想はなかった。しかし、さも感動しているかのように「きれいだよ」と耳元で囁き、抱きしめた。性器については、とても直視できたものではなかった。じっと見ていると気分が悪くなりそうだった。しかし、蛮勇をふるい舌を這わせていると「私も舐めさせて」と言われ、パザンは慌てて「俺はいいよ」と断った。

 膣が十分に愛液で濡れると、パザンは予め装着してあるペニスを象ったデバイスを膣内に挿入した。そのデバイスは、女性器との摩擦とピストン運動により脳の快楽中枢にシグナルを送り、快楽を生じさせ、摩擦とピストン運動(またはそのどちらか一方)が特定のしきい値を超えると射精時に匹敵する快楽とともに、擬似精液を発射する仕組みになっていた。パザンはデバイスをまじまじと見られないよう、正常位と後背位で交わった。後背位でピッチをあげると、だんだんと泰子の喘ぎ声が激しくなり、ビクビクと体を震わせながら、「イ、イクーッ!」と叫んだ後、ぐったりした。パザンももうすぐ行きそうだったので、膣から抜いて自分で激しくしごいて液を出した。

 それから、ベッドで体を寄せ合っていると、「すごく良かった」と泰子はとろけたチーズのような表情で言った。「俺も良かったよ」とパザンは答えたが、実際のところ、デバイスの快楽はすでに体験済みで想定内だった。ただ、一連の行為を無事できたことに安堵していた。初めてだからな、もっとやるうちに楽しくなるかもしれん。パザンはそんなことを思いながら、パザンの胸で心地良さそうに目を瞑っている泰子の頭を撫でた。


   *


 夏を過ぎた頃には、スコープはテレビドラマの主題になるほどポピュラーになり、洋はこの状況に絶望していたが、そんな折に「今週の土曜日、食事しませんか?」というメールがパザンから届いた。

 当日、洋が時間通りに指定された「ブラン」という店に行くと、パザンは店内中央のカウンターにいた。洋は真っ白な内装に面食らい、店を見回しながら、パザンの隣に座った。挨拶を交わし、ビールを注文した後、「あなたが正しかったようです」とパザンが言った。パザンは数人の女性と関係を持ったが、いずれの相手にも恋愛感情を抱くことはなかったことを話した。

「僕が彼女たちに好きになれないことを告げると、皆一様に泣きました。その後、ある者は怒り出し、ある者は口汚く罵ったり、暴力を振るったりしました。僕は彼女たちに対してすまなく思うだけでなく、自分に対してもひどく苛立ち、苦しみました。こんな気持ちになったのは初めてです。そういうわけで、この試みはもう止めることにしました。今回の件から、恋愛がいかに人類、というか女性にとって必要とされているかがわかりました。恋愛なんてうんざりというのは結局ポーズにすぎないんですよね。彼女たちの切実な思いには畏怖の念さえ抱きました。私は彼女たちの思いに応えることはできませんでしたが、彼女たちの恋愛への熱心さを尊重したいと思います。恋愛文化の破壊を阻止することが私のできるせめてもの罪滅ぼしです。ますます普及しているスコープに対して何らかの手を打つことを検討します。いったん故郷くにに帰って、研究者に相談してみます。たぶん対抗デバイスをつくることは可能でしょう」

「そうですか。是非お願いします!」

 洋はパザンの話に不快感を抱いたが、結論には大賛成なので、批判はしなかった。パザンは端正な顔立ちに笑みを浮かべた。その笑顔には男でも強く惹かれるものがあった。

「元はといえば我々の責任ですからね。もしかしたら、僕は恋愛できる人類に嫉妬していたのかもしれません。外見は人類に似ていますけど、僕には人類の真似はできないようです。何はともあれ、恋愛が貴重なものであることはよくわかりました。恋愛に乾杯しましょう!」

 パザンはそう言ってグラスを掲げた。

「恋愛に!」

 洋はそう言ってパザンのグラスに自分のグラスを当てた。

 洋が上機嫌でトイレで手を洗っているとき、悲鳴が聞こえた。洋は慌ててトイレを出ると、店の客とスタッフが総立ちで、自分のいた席の方を向いていた。パザンは床に倒れていた。コンクリートの床には血の海が広がりつつあった。パザンの側には刃物を持って震えているサングラスの女がいた。

「貴様っ!」

 洋が女に向かって声を上げると、女は刃物を自らに向けた。洋はとっさに刃物を持った手を蹴り上げた。刃物が空中に舞い、カウンターの中に落ちると、洋は女にタックルして、床に倒し、女を拘束した。

「早く救急車を!」

 洋は女の腕を掴みながら叫んだ。


   *


 パザンはベッドに裸で横たわっていた。薄暗い部屋で窓がない。ただベッドが部屋の中央にあるだけの部屋。ラブホテルの部屋だ。夢の女がバスタオルを巻いて、バスルームから出てきた。二人は抱き合い、キスした。「愛してる」「俺も愛してる」。パザンは歓喜に貫かれた。

 交わった後、二人で風呂に入った。パザンは風呂の鏡に映る自分の顔を見て驚いた。初代の顔だったのだ。

「子供つくろうよ」とパザン。

「えっ、死ぬから嫌じゃなかったの?」

「死なんて恐れることないよ。将来はクローン技術で死は克服できるから。あるいは、それが無理だとしても、死ぬ運命であっても敢えて生きるに値するものがあるから」

「わかってくれたのね」

「君のおかげだよ」

 徐々に顔を近づけて、キスした。柔らかい舌の感触。次の瞬間、まばゆいばかりの光に包まれた。(了)

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