ラブスコープ

spin

第1部

 乗車率一五〇%くらいの下りの電車に揺られながら、洋は安堵するとともに、今夜の予定がないことに凹んでいた。(せっかくの金曜の夜なのに……)月~金で働く洋にとっては、秋晴れの今夜ほど羽を伸ばしたい夜はなかったが、今のところ、家飲みという最も詰まらない選択に向かってまっしぐらだった。

 電車が駅のホームで停車しようとしていたとき、洋の足に激痛が走った。

「痛っ!」

 洋の隣のつり革につかまっていた女が靴の上から洋の足をヒールで踏んだのだった。

「あ、ごめんなさい」

(か、かわいい!)洋は彼女の長い黒髪と大きな瞳にクラクラした。その子はリクルートスーツと思われる地味なスーツに身を包んでいた。

 その子はC駅で降りた。洋は一瞬迷った後、声を上げた。「すみません。お、降ります」その子は駅前の本屋によると、就活コーナーで何か本を買った。洋は彼女が店から出たとき、声を掛けた。それはわざわざC駅で降りたという事実が洋を後押しからこそできた芸当だった。カラカラの喉を試すように声を出した。

「あの、これからどちらへ行きますか?」

 彼女は洋の声に一瞬ハッとしたが、無言で目を逸らした。

「よかったら、食事しませんか?」

「もうすませましたので、結構です」

「じゃあ、お茶――」

 見知らぬ女子はすでに歩き出していた。

 洋はあまり降りたことのないC駅周辺をブラブラすることにした。とある細い路地を入ったビルの二階にいがかわしいDVD屋らしき店があった。洋はこの巡りあわせに苦笑した。

 洋がエロDVDを物色していると、やたらと美形な若い男の店員が話しかけてきた。

「お兄さん。DVDもいいけど、生の女の子とエッチしたいでしょう? いいものあるよ」

 風俗店の割引券かと思っていたら、黒縁のメガネらしきものを持ってきた。

「これでエッチできる女の子がわかるよ」

 男はそう言うとそのメガネを装着して窓に近づき、窓を開けて、通りを見下ろした。男はその状態で、そのメガネがラブスコープという名前であること、これを通して女を見ると、女の精神状態ならびに自分との相性がわかるという話をした。洋はまったく信じられなかったが、このエロDVD屋の店員としては破格の美形の男に言われるとあながち嘘ではないように思えた。

「あ~、今、通った子は脈アリだね」

 しばらくすると男が言った。

「え、本当スっか?」

 洋が訊く、男は待ってましたとばかりにメガネを外して、洋に差し出した。

「どうぞ自分で試してみてください」


   *


 洋は今、秋晴れの土曜日の渋谷にいた。時刻は夕刻でそろそろ闇が濃くなる時間帯だった。昨夜ディスカウントで千円で買ったラブスコープを試すことが目的だった。あれから店員に勧められるままに試すと、たとえば次のようにターゲットの女性のデータが表示された。


S:□

MR:32

[SはStatus、MRはMatch Rateを意味し、□には何かしらの色が付く]


 Sでは、人恋しいかどうかが赤、黄、青のグラデーションのいずれかの色(赤が最も人恋しく、青に近づくほど人恋しさは少ない)で表示され、またMRでは、0~100の数値で相性が表示されるということだった。

 このラブスコープの情報が正しければ、ナンパなど余裕なはずだった。

 洋はトラフィックの多い、マークシティー前の広場でラブスコープを装着し、行き交う女を調べた。次々とターゲットを調べる。調べるには多少の集中が必要だ。つまり、知りたいと念じなくてはならない。何人かに試すと、Sはオレンジ、黄色、緑、MRは5~20前後の数値を行き来した。洋は二〇分かそこらでようやく、赤を示す女の子を見つけた。洋はその子の後を追った。

「こんにちは~」

 かなりスローペースで歩くその後ろ姿はいかにも「声掛けてください」と言っているかのようだった。

 女の子は振り向くと、八重歯の覗く笑顔を見せた。

「どこ行くの?」

「……別に。ただブラブラしてただけ」

「じゃあ、ちょっとお茶しようか?」

「いいよ」

 洋はあまりの容易さに驚くとともに拍子抜けした。


   *


 洋にとってナンパは女をつくるための手段にすぎなかった。だから、なるべくならナンパなど止めて彼女とまったりしていたかったが、すでに三回のナンパ出撃で一〇人以上の女に声を掛け、その内八割以上の子とお茶をし、一人とセックスしたにもかかわらず、洋にはまだ女ができていなかった。

 このような結果になったのは、間違いなく相性の問題だった。相性の数値は最大でも30だった。デートまでこぎつけられても相性が悪いため次がないのである(セックスまで行った人は、ナンパしたその日の内にホテルに行き、それきりだった)。

 好相性の人はめったに見つからなかったし、仮に相性が良くても、状態が赤に近い相手にはまだ出会ってなかった。

 洋は天気の良い土曜日にもかかわらず、ナンパに行く気力もなく、部屋でふて寝していたが、ふと職場の山田綾子のことを思い出した。綾子と同僚との会話を聞いているとき、映画の話題が出て、綾子が称賛した映画が洋の好きな映画だったことから、洋は急に綾子に近親感を覚えたのだった。そもそも綾子はなかなかの美形で男心をくすぐるものがあったし、スタイルも華奢でかわいかった。


   *


 洋は月曜日ラブスコープを掛けて出社した。綾子をラブスコープで調べる機会は昼休みに訪れた。同じエレベータに乗り合わせると、綾子に照準を合わせた。75! 試しに隣の小川さんに合わせると、15という数値なので、ラブスコープの誤作動ではないと確信できた。


「山田さん」

 その日、洋は綾子の退社に合わせて会社を出て、雑踏の中で声を掛けた。薄ら寒い十一月の夜だった。

「あっ、お疲れです」

 綾子は洋に笑顔を向けた。

 その日から一週間後には、洋は綾子と恋人同士になっていた。


   *


 洋は綾子と付き合ってからの三カ月でリア充的イベントを次々に経験した。クリスマスデート、大晦日、そしてこれからバレンタインを迎えようとしていた。洋は今夜のバレンタインデートに備えて、着ていくものの準備をしていた。

 この三カ月間は、非モテだったこれまでの三〇年間を帳消しにするくらいのめくるめく幸せに満ちていた。まるで光線のシャワーを一身に浴びているような感覚だった。しかし、洋は今、一抹の不安を感じていた。それは順調すぎる恋愛に必然的に伴う不安であると割り切ろうとしたが、必ずしもそうとも言えない気もした。ラブスコープのデータ通り、相性は良いと感じられた。それでも、どこか釈然としないのはなぜなのかとときどき洋は考えるのだった。


 予約したイタリア料理の店はカップルで一杯だった。洋は自分も今やリア充の仲間入りを果たしたことに誇らしさを感じつつ、カップルたちを仲間意識を持って眺めた。綾子は黒のニットのワンピースに赤茶のレザーのジャケットという出で立ち。メイクも透明感があって綺麗だった。職場で見せる姿とのギャップに萌えた。

 六千円のワインは極上だった。洋は幸せを噛み締めた。

 綾子がトイレに立っている間、通路を挟んだ向こうの席にカップルが着いた。男は普通だったが、女の子は、おでこを出していて知的な感じでしかも可愛かった。洋は綾子と付き合ってから、ラブスコープを作動させたことはなかったが、今ふと試してみたくなり、思念した。洋はその結果に驚いた。MR85だったのである。


「たまにはこんなこともあるよ」

 洋は綾子とのセックスの最中で萎えてしまった。こんなことは初めてだった。それは間違いなく、あの娘を見てから洋を揺るがせていた疑問――もっと自分に合う女がいる。中途半端なところで妥協すべきではないかもしれない――が原因だった。


   *


 洋は二月の終りに綾子に別れを告げた。洋は他に好きな人ができたのが理由だと話した(それは嘘だった)。綾子はショックで会社を辞めてしまった。

 新しい女は毎週土曜日、午後から夜八時頃まで渋谷で観察し続けて、四月の初めにようやく見つけたMR90の女の子・村上麻美子だった。

 洋が声を掛けたとき麻美子は渋谷に映画を一人で見に来た帰りだった。幸いなことにSも黄色だった。

「こんばんは。これからどちらへ?」

「……駅へ」

「お茶しませんか?」

「あなたは何者ですか?」

「失礼。ただのナンパです」

 麻美子はハハッと笑った。

「ちょっとだけなら」

 かくしてお茶したわけだが、話が合うこと合うこと。あっという間に時間が過ぎ、結局、終電を逃し、ホテルで熱い夜を過ごした。

 麻美子は高級志向ではなく安上がりなデートでOKだったので、金銭に余裕のない洋にとっては好都合だった。お互いの趣味が合うので、映画やライブやら一緒によく行った。楽しいには違いなかったが、またしても綾子のときと同じように洋はある不安を覚えた。だんだん相性の問題ではないということに気づいた。相性とはまったく次元を異にする問題だと思えた。恋愛――。洋は自分たちの関係が恋愛と言えるのか、と訝ることがあった。違和感があった。あの電車の中で足を踏まれた女の子に対して感じたようなドキドキ感がなかった。これは大いに問題だった。洋は麻美子とのセックスの後、訊かずにはいられなかった。

「なあ、男女間って相性とかあるじゃん?」

「そうね」

「もしそれが事前にわかったとしたらどう思う?」

「どうでしょうね。楽しいのかな? 恋愛はまた別なんじゃないかな」

「つまり、恋愛は相性とは関係ないってこと?」

「そうね。相性なんて付き合ってみないとわからないし」

「いや、だから、もしわかったとしたら……」

「ああ……。どうだろうね。でも、相性なんてそんなのあてにならないよ。だって、私たち皆、日々変わるものだから」

 麻美子はタバコを吹かしながら言った。

「なるほど」

 洋は考えた。とはいえ、変わらない部分もあるのではないだろうか? しかし、麻美子の言うことにも一理あると思えた。相性など意味がないと言えばそれまでだ。それに相性の良さという定義自体がわからない。何をもって相性がいいというのか。共通点の多さだろうか? しかし、お互いに触発し合える関係であれば、相違点も必要だろう。結局、相性の良さとは主観的なものでしかないのではないだろうか?


   *


 洋は麻美子とも三カ月で別れた。それを機にラブスコープを外した。

 初夏の夜、会社からの帰り、どこかで見た顔と出会った。

「こんばんは」

 ハンサムな若い男だった。

「お仕事お疲れ様です。その後いかがですか?」

 洋はようやく彼がエロDVD屋の店員であることを思い出した。男はラブスコープのことを訊いてきた。ラブスコープでうまく行ったか、と。洋はこれまでのことを話した。うまく行ったと言えなくはなかったが、恋人として付き合うというのは難しそうだ、と結論付けた。男は考え込むように腕を組んで言った。

「それは奇妙ですね。人間の恋愛行動は最大のマッチ率を持つ異性を探す試みですよね。ラブスコープの正確さに問題でも?」

「いいえ、違います。ラブスコープは正確だと私も感じました。ですが、なぜかはわかりませんが、相性をわかった上で恋愛するというのは不可能なように思いました」

「なぜでしょうか?」

 男は驚いた顔をした。

「たぶん恋愛のプロセスが不可能だからだと思います」

「トートロジーですね。……まあ、いいです。ともかく、ご使用いただきありがとうございました」

 そう言うと男は踵を返した。洋は雑踏に紛れる男を見守っていたが、男は突然消えた。


   *


 パザンは予定の調査期間を終えると、ジェットボールと呼ばれる国の乗り物で故郷の惑星に帰国した。

 学内での発表当日、パザンは今回の調査について話した。

「今回の一年間の調査で、ラブスコープを購入した三人の内、恋人を探そうとしたのは洋と呼ばれるサンプルだけでした。洋はある程度の成功を収めたように見えました。一定期間、洋は二人の女性と交際しました。いずれも高いマッチ率を持つ女性です。しかしながら、二人目の女性と別れた後、洋はラブスコープを外しました。私は直接、洋とコンタクトを取り、話しました。驚いたことに洋はまさにこのラブスコープの機能、つまりマッチ率がわかることを別れた理由に挙げました。私は大変ショックでした。もし洋のケースが特異なものでないとしたら、すでに妥当な説として受け入れられている恋愛行動の定義を再考する必要があると思われます」

「何かご意見・質問は?」

 司会が言った。

「人間の恋愛行動は一筋縄ではいかんのだよ。わしはすでに気付いておった」学会から異端視されている老学者のマリだった。「彼らがなぜあれほどまで繰り返し飽きもせず、失恋や悲恋の物語を生産し続けてきたか。そのことを考えてみたまえ。すでにわしが論文で述べたように、失恋は恋愛の必然なのだ。つまり、恋愛の成功とは成就ではなく、失恋にしかない。なぜなら人間には時間という要素があるからだ。『時がすべてを破壊する』という格言が彼らの世界にある。恋愛の成就とは、すなわち凋落への第一歩なのだ」

「え~、論点がずれていると思いますが、他に何かありませんか?」

「確かにサンプルの感情の高まりは低いように思われます」気鋭の若手学者のギヨームが洋の心拍数をグラフにしたものと洋が発した言葉を記録した資料を見ながら言った。「『相性をわかった上で恋愛するというのは不可能』というセリフは重要だと思います。これはマリさんがおっしゃった時間の問題と関係するのではないでしょうか? つまり、時間を共にすることでいわゆる化学反応的なものが二人の間に起こることを恋愛と定義付けるならば、確かに相性など事後的にしかわからないはずです。二×二が四ではなく、五にも六にもなり得るという意味で、摩訶不思議な体験とでも言いましょうか。それゆえに恋愛は人間にとって主たる興味であり続けているのでしょう」

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