第5話 祈りと愛と

 清々しい朝だ。晴れていながら、吹く風は涼しい。

 土曜日と日曜日を挟み、久し振りの学校だ。

 フレイアと共に通学する時が何故か新鮮に感じる。先週が穏やかなこの世界とはかけ離れた状況だったからか。

「月曜日はだるいなー」

「そうか? 今日は涼しくて楽じゃないか?」

「月曜日は日曜日の終わりから始まるものだから、サンデーラグナロクとも言われ――」

「言われてないだろフレイア」

「ボケ殺しまで修得してたとは、お兄ちゃんは妹の予想を超えていたか」

「フレイ君!」

 正門に到着すると美雪さんの声が後ろから聞こえた。あまりにも突然で驚いた言葉には、僕自身も驚いて思わず振り向く程だ。

 美雪さんは息を切らしている。

僕の姿を見た瞬間に安堵の感情が一気に立ち上がり、呼吸が荒れる程に走ったんだろう。

「無事だったの?」

「御覧の通りさ」

 美雪さんは穏やかな一呼吸をつく。

「そっかぁ……やっぱり人間が車には追いつけないよね。良かった」

「まぁ、そういう事だよ美雪さん」

 フレイアは僕が本当はあの車に追いついて人間相手に拳を振るった事を知っているのだが、とぼけた言い方で美雪さんに告げている。

「おはようございますフレイ先輩にフレイアちゃん。そして美雪さん」

「おはよう恵さん」

 恵さんは相変わらず何処から現れたか解らない。そして眠そうな目で僕を眺めている。

「んー……」

「どうしたのかな?」

「微かにですが……フレイ先輩の雰囲気が変わった気もします」

「そうかな?」

 僕自身は変わったかどうかは解らない。だが、あの日は確かに新しい感情を僕に抱かせた。ただ誰かを大切に思う程に怒りや哀しみが強くなる感情で、それは時々思考を鈍らせてしまうが、背中を押す感情だった。

「男たるもの美少女を抱けば一皮剥けると言いますからね」

 誇らしく笑う恵さん。

「そんな言葉初めて聞いたな」

「私の言葉ですから」

 確かに初めて聞く。

「成程、つまり言われてないわけだ」

「フレイアちゃん。先輩が……先輩がボケ殺しを!」

「よしよし。ツっこんでもらえるのは愛故にだよ愛故に」

 いつの間に仲睦まじい間柄になってたんだ、この二人は。微笑ましいけど。

「だ、抱いてもらってなんか、ないよ!」

 美雪さんが声を張り上げて美雪さんに弁明している。

「じゃあちゅーですか? 美雪さん」

 俯き黙る美雪さん。微かに縦に首を振った様にも見える。

「まじですか?」

 恵さんはかなり驚愕した表情だ。

「あの! 恵ちゃん……だっけ?」

「いえいえいえいえ、大丈夫です。私はおもしろい情報を拡散しない主義ですから」

 普段から何考えているか不明な恵さんが珍しく動揺している。

「フレイ先輩……どんなテクを……気にならずにはいられません!」

 動揺しつつも、好奇心全開で恵さんは僕に詰め寄る。

「さてと恵ちゃん。フレイア達は教室に行こっか」

「え? ちょっとフレイアちゃん?」

 フレイアに引っ張られていく恵さんは、僕に助けを求めている。だが僕は、そんな恵さんを暖かく見送るだけだ。実際フレイアは絶妙なフォローを入れてくれている。

「じゃあ私も行こうかな?」

 美雪さんも正門を通る。

「そうだフレイ君……考えてくれた?」

 正門を通った後に僕の方へと振り返った美雪さん。顔色は恍惚気味な緊張の色を出している。僕に対して期待の眼差しという目だ。

「君と彼氏彼女の仲になるって話かな?」

 こくりと静かに、照れつつ頷く美雪さん。

「あれ……まだ有効期限だよね?」

 こんな娘が僕の隣にいて、離れていても好意によって慕われている誇らしい気分を、病める時も健やかなる時も味わえるのは幸せなのだろう。

だが僕は、まだ愛という感情に確信を抱けない。

「僕が愛というのをきちんと理解するまで始まりにはならないよ。だから待っててほしいんだ」

 断る気にはなれなかった。何故そう思ったのか僕自身も解らない。

「うん……でも、あんまり待たせないでね」

 嬉しそうに、美雪さんは笑った。

「女の子が可愛くいられる時間が短いものなんだからね」

 真っ直ぐに僕に届いた。これは美雪さんの素直で強い言葉だ。


「金城?」

 愛良さんが驚いて僕に声をかけている。

「愛良さん、おはよう」

「あんた……無事だったんだな」

「あぁ。御覧の通り」

 美雪さんとも同じやりとりをしたな。

「やっぱ神様ってのは、本当なんだな」

 僕を神だと知ったうえで、愛良さんは僕を心配している。その気持ちは、熱さを秘めていて……とても真っ直ぐだ。

「神は人間と殆ど同じ形だから、見分けにくいだろ?」

 愛良さんは僕の冗談めかした言葉には特に反応を見せない。

 愛良さんは僕に期待混じりで不安な表情を向ける。こんな顔は美雪さんの時も見たと思った。

「なぁ神様。あんたって奇跡を起こせたりすんのか?」

 随分とスケールのでかい質問だ。

「内容によるよ、一応」

「じゃあさ……神様のお告げで普通に学校へ行けっつわれたけどさ……やっぱさ、勇気が……出ねぇわけよ……」

 僕はまだ正門をくぐっていない。その立ち位置にゆっくりと歩を進める愛良さん。

「人間ってのは……神様が思ってる程素直でも……もの解り良くも無条件に強いってわけでもなくてよ……」

 静かにただ聞く僕の左腕を両手でそっと掴む愛良さん。

「あぁもう……だから勇気が出る様に……あたしに奇跡を起こしてくれって事!」

 背中を押して欲しいんだろうと思った。

勇気こそ見せるがまだ小さいそのか弱さが……愛おしく思えた。

「御安い御用さ」

 僕は左手で愛良さんの右手をそっと握り、引っ張っていく様に正門を潜る。

 周囲の人間は、ただ僕と愛良さんに安らいだ心を向けている。

「周りの目の色が少し変わったね」

「え?」

 愛良さんの表情は、角が柔かくなった穏やかな表情に見えた。それは周りもそう思える感情に包まれている。

「恐れる様な視線なんて、もう感じないんじゃないかな?」

「解んねぇよ」

 僕の左上腕辺りに、愛良さんは頭をひっつけてしばらく顔を埋めたままだった。

「なぁ……あたし等って偶然にもハーフ同士だし、似合ってんのかな?」

「ん?」

「な、なんでもねぇ……」

 愛良さんはまだ、顔を伏せている。

「ところで、ハーフってどういう――」

「あぁ、ごめん。そういや神様だった」

 ハーフ……混血児……あぁ、僕の氏名表記がこの国ではそういう表現か。

「ハーフか……それはいいかもな」

「え? い? いぃい?」

「ハーフって設定が」

 照れ笑いを見せ合う僕と愛良さん。


 今日は学校に到着した瞬間、僕は愛良さんと共に理事長室に呼び出された。

 理事長室へ向かう愛良さんは不安そうな視線を時々送っていた。僕があまりにも平然としているから、余計に心配になるんだろう。だが僕は不安など微塵も無かった。あの時に比べれば怖くはない。愛良さんに真実を告げようと葛藤していたあの時とは。

「失礼します」

「はいはいどーぞ。鍵は開いてるわよ」

 登校初日に聞いた時と同じく、気楽で寛大な光理事長の落ち着いた声で迎えられた。

 理事長室に入ると、椅子に座りながら回る光理事長と、緊張感が強い様子で、僕達に視線を向けている華恋先生だ。僕以上に愛良さんへそんな視線を向けている。

「聞いたわよ金城フレイ君。そして火野(ひの)愛良(あいら)さん」

「理事長」

「フルネームで呼ばなきゃ、理事長っぽさがでないでしょ? ぽさが」

 怯えた様にも見える華恋先生に光理事長は背もたれに思いっきり持たれて、長い髪を垂らしながら笑っている。

 勢いをつけて姿勢を僕達の方に直すと同時に光理事長は両肘を机へと軽やかに置き、絡めた両手に顎を乗せて僕をじっと眺めている。

「あの河川敷で男四名にオリ校の女子一名と喧嘩したそうじゃない?」

「喧嘩ではありません、正当防衛です。それに愛良さんは被害者です」

 ただ単純に、僕は淡々と答えると、光理事長は微笑む。

「理由はどうあれ戦ったのね。で、その理由は?」

「この娘を救うため、戦いました」

 傍にいる愛良さんを、僕はそっと抱き寄せた。

 愛良さんは僕と光理事長の間をきょろきょろと不思議そうに見ている。

「最高ね!」

「え? 謹慎とかじゃね……ないんですか?」

 驚きと安堵の言葉を愛良さんは光理事長に向けた。

「旨味の無い罰を敢えて受けるMに見えるの? フレイ君が」

 ヴァルハラ……僕の故郷の男は全てと言って良い程Sだ。だから光理事長は実に正しい事を言っている。

「愛良ちゃんが敢えて罰を受けたいってなら、あたしの一日メイドをさせてもいいわね」

「め、メイドぉ?」

 僕の背後に愛良さんは隠れ、そこから身体を伸ばし光理事長をじっと警戒しながら覗く。

「金髪ストレートロングでスタイル良し、余計なものも生えてないし逸材よ、君」

「いいいいいいらねぇです!」

 恥ずかしそうに断っている。きっと容姿を称賛する言葉に照れているんだろう。或いは恥ずかしがっているのだろうか。

「あんた! 最後の方聞こえてねぇよな?」

「あ、ああ、うん」

 そう答えると愛良さんは安心した様に胸を撫で下ろす。

 実際見た事があるので、聞こえてなくても関係は無かったが……と心に秘めておこう。

「まぁ君達を呼んだのは、こうやって面と向かって許すためよ」

 随分と穏やかで優しい言い方は、ここにいる全員の緊張を解す程だ。

「人間って面倒よ。一人で生きられない以上誰かがいなければいけない様に、栄光も罪も称賛も認めてくれる誰かがいないといけないものでしょ?」

 真理だった。当たり前の事をただ優しく言っただけなのに随分と心に染みる。

「神様も同じよね? きっと」

 僕に同意を求める言葉は、まるで僕を神だと見切っている様な言い方だ。

「同じですよ。きっと」

 仮に見切られていても相手が人間な以上、こちらにリスクは無いので同意しておく。

「じゃあ華恋ちゃん。この子達を連れて教室行っていいわよ」

「は、はい理事長」

 華恋先生に連れられ、僕と愛良さんは理事長室を出る。

「いけない! 職員室に配るプリント置いてきちゃった。悪いけど先行くわね」

 理事長室から出たすぐに華恋先生はすぐに駆け出した。

「あ、遅刻しない様にね」

 一言だけ告げ、早歩きで華恋先生は進んでいく。

「忙しい先生だね」

「なぁ……フレイ……」

 今、僕は愛良さんに名を呼ばれた。

あまりにも新鮮な響き。故に素直に驚いている。

「な、何驚いてんだよ?」

「いや、僕を名で呼んだ事に少し」

 愛良さんは恥ずかしそうな顔をしている。

どうやら僕の名を呼ぶのは結構な勇気を必要とする決断だったみたいだ。

「べ、別にあたしだけ、名前で呼ばせんのは不公平じゃ、ねぇの?」

 所々で声にノイズが入った様に音程が不安定で、緊張感を僕に伝えている。

「それは君がファミリーネームで呼ばれるのを嫌ってるから、名で呼んでるだけで――」

「そんだけか? 他にねぇのか?」

「え?」

 また、愛良さんは僕に期待を……何かを願っている目で見ている。

「年頃の男女はよ、まじで親しい仲じゃねぇと……名前で呼ばねぇもんなんだよ」

「成程……ん?」

 あれ? 結果的に僕は愛良さんを名で呼んでいて、でもそれはファミリーネームを僕は知らなかったからであって……だが人間で親しい者は少なくて……何故考えさせられる?

「あ? あぁ、あたしは……」

 愛良さん自身も、どう答えようか困惑しているみたいだ。

「まぁ、あんただけは……名前で呼ばれる度に……ちょっと……まぁ……」

 微かに微笑んだ顔は、少し俯いていた。

「そういや、刺された場所はまじで大丈夫なのか?」

 そういえば刺されたっけ。もう全く痛みはないのでここにいるんだが。

「大丈夫だよ」

 急に僕が刺された事を話題に持って行くなんて予想外だ。

「少しネクタイ緩んでんじゃねぇか?」

「そうかな?」

 緩んでいる様には見えないが、愛良さんの角度から見れば歪んでいるんだろうか?

「ちょっと屈めよ。あんた背が高いから見えにくいし。あたし実は一六○ねぇんだよ」

 既に知っている事だ。だが妙に饒舌だ。

いつの間にか、愛良さんは僕のネクタイへ右手を伸ばしているし……屈めと言っているから少し膝を曲げるとしようか。

 愛良さんはネクタイを掴んだだけで、特に直そうとはしない。顔を僕の左頬側へと近付けただけだ。そして気付いた時にはもう、唇の左隣に愛良さんの唇が触れた。

 柔かく、触れた部分が徐々に熱く感じる。何故か平静な脈動は早くなっていく。

「流石に避けられねぇのな」

 気恥ずかしそうな表情だが、愛良さんは笑っている様に見える。照れ隠しの顔をそんな優しい表情で隠すのはとても新鮮で……見ている時は思考が止まり心が熱い。

「なんだかんだで……助けてくれた礼はしねぇとな……」

 愛良さんは今どんな感情を出しているんだろう?

 熱いと言うには僕の肌ではなく心を暖める様で、心が響きっぱなしだ。

「この感覚……解らない」

 愛良さんは唇を、自分の左人差し指の先端でそっと抑えている。そして、徐々に恍惚としていながらも微かに歓喜している様な表情を見せる。

「あたしだって……解んねぇよ……」

 囁く様に言い残して、愛良さんは僕の傍を通り過ぎた。

「好きかもしれねぇって事しか……」


 愛とはどうも謎だらけだ。

好意の情でありながらそれは時々怒りにも哀しみにもなる。そして他人を癒すと思えば己を毒する事もあって、幸せも不幸ももたらす心だ。心が常に真ん中にあるこの感情は、成就する事があるのだろうか?

 だが、愛良さんの頬へのキスは、一つだけ僕に確かな事を教えた。

愛とは一人で完成はしない感情だ。どんな形であれ相手に伝えられて、それがどんな結果で出来上がろうと、愛なんだろう。

それが未完成で、どんな感情か分類不可能でも。

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神は愛のみぞ知りたい @Yoshi-kun

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