第3話 心が真ん中に

 フレイアと初めて学校に行くその朝は、曇っていた。だが、涼しい気候が心地良い。

「お兄ちゃーん……」

「何が起こったんだ?」

 僕はフレイアの助けを求める声で目が醒める。そして既にフレイアは僕の部屋に入っていた。滑らかで綺麗なフレイアの金髪は多岐に枝分かれしては弧を描いたりしている。湿気を帯びて爆発でもしたのだろうか?

「寝癖が直らないよぉ……」

 僕に駆け寄り、困り果てた顔を僕の胸元に埋めるフレイア。

 僕はフレイアの頭を撫でるついでに寝癖を抑えてみるが、手をどければすぐにフレイアの髪は跳ね上がる。

「寝癖落とし、もう切れてたっけ?」

「あるけどお兄ちゃんが直してくれなきゃやだぁ」

 あるのか。なら安心だ。だがまだ朝食を済ませてないので、先に食事の用意をしよう。

「解ったよ、着替えたらおいで」

「うん。さっすがお兄ちゃん。フレイアお兄ちゃん大好き」

 少しだけ僕を抱きしめる力を強めた後に、フレイアは上機嫌な足取りで自室へと向かう。


 軽やかなステップで僕の少し前を歩くフレイアは周囲の人間を悉く振り向かせていく。その全員が慈愛の視線を向けていて、その一部が熱い劣情を向けているのが解る。妹は、誰にでもそんな感情を向けさせてしまう魔性を纏う美少女だ。人間相手に下手を打つとは思わないが、この世界だと急に心配になる。だが、時折僕に向ける無邪気な表情はそんな心配をかき消してしまう程だ。

「おはようフレイ君」

 背後から美雪さんの声がした。振り向いてその顔を伺うと、目つきが微睡んでいる。

「どうしたんだ? 妙に眠そうだけど?」

「昨日買ったゲームがおもしろくて止め時がなかなか見つからなくて」

 苦笑いが明るく見えるのも不思議だ。

 美雪さんがフレイアの方を向いている。

「その娘は?」

 視線はフレイアだが、関心の感情は僕に向いている。

「僕の妹だよ」

「初めまして、フレイアです」

 ぺこりと美雪さんに会釈するフレイア。

「初めまして、水樹美雪です」

 少し屈み、微笑んで挨拶をする美雪さん。

「少し驚いたなぁ。フレイ君にこんなに可愛い妹がいるなんて」

「僕に妹がいるのはそんなに意外性があったのかい?」

「いやぁ、そんな事じゃないんだけど」

 僕に向かって安心した感情を、美雪さんは向けている。

「もしかして、クラスのイケてる男子が急に見知らぬイケてる女子と付き合ったりしてる現場を目撃したけど、実は相手は身内だったっていう驚きみたいなものですか?」

「うん。それだよ、それそれ。そんな感じがぴったり来てる」

 意気投合した様子の美雪さんとフレイアだが、意気投合のきっかけは謎だ。

「そうなのか?」

「お兄ちゃん、そういうのは結構あるオチだよ」

「恋愛漫画じゃよくあるよ。クラスのアイドルが大人びたお兄さんと仲良さそうにしてる所に遭遇して、問い詰めたらそのお兄さんはその娘のお兄ちゃんっていうオチは」

「特に驚く程でも無いんじゃないか? 実際」

 僕としては、フレイアの気質に同調する人間がいる事に驚きだ。

「確かに兄妹同士で付き合ってるって聞かされる方がもっとショッキングだよね」

「でも、そういう過程を踏んで法に許された恋愛に発展するのが最近の傾向じゃない?」

「兄妹でベッドインってゴールもありますよね、アンソロとかなら」

 美雪さんとフレイアの仲は一瞬でかなり良好なものになったみたいだ。

「ああいうのって作画の当たり外れが激しいよね」

「作画に目を奪われ買ってみて、いざ中身を見ると妹に余計なものが生えてたりすると、結構萎えませんか?」

「萎えるよねぇ。特に妹ってキャラは育ってても無垢じゃなきゃ駄目だよね」

 その盛り上がり具合は、微笑ましさを通り越して心配にもなる程に熱い。

「詳しいんだね、美雪さん」

「私、漫画も結構読む方なんだよ」

 漫画も人間界が誇る娯楽文化の一つだとフレイアから学んだ。中には性愛行為を描いたものもフレイアから見せられたものもある。

「でも、そういう漫画って――」

先程の兄妹でベッドインとか妹に余計なものとかそういう事も聞こえてたから、きっとそういう漫画の話なんだろう。しかし人間界の法律では、制約が課されているともフレイアと共に学んでいる。

「お兄ちゃん、最近はR指定じゃなくても描ける範囲でそこまで描く漫画もあるんだよ」

 つまり制約を受けない漫画でそんな描写もあるという事か。

フレイアがそう言うのなら間違いはないのだろう。

「フレイ君は、そんな漫画を読んでる女の子は……幻滅する?」

 美雪さんは不安そうに僕を見上げている。その視線は一種の期待を感じる。

「だいじょぶですよ。BLじゃなかったらお兄ちゃんは見捨てたりしませんから」

「そっか。なら良かった」

 安心した様に、美雪さんは笑う顔を僕に見せる。

「それじゃまたね、フレイ君、フレイアちゃん」

 一足先に進む美雪さんを僕達は見送る。足取りは軽やかだ。

「一応それなりに学んできたつもりなんだけど……まだ解らない事ばかりだな」

「だから教材は漫画にしといたんだよ」

 得意げにフレイアは言った。

 確かに、漫画は人間の知識や知恵が偏りつつも解りやすく伝えてくれる教材だった。


 正門付近で、愛良さんを見かけた。

「あ、愛良さん」

「ん? あぁ、おはよう金城――」

 愛良さんの視線はフレイアに向き、ちょっとした驚愕を見せる。

「あ……あんた、その娘は?」

「彼女です」

「は? 彼女?」

「そ♪ 彼女♪」

 僕とフレイアの間を見比べている愛良さんは、驚きを隠そうともしない素直な感情だ。愛良さんの周囲が冷えて感じてくる。

 フレイアは僕から離れ、愛良さんの目の前に躍り出る。

「嘘ですよ、妹のフレイアです」

「あ、そうか……妹か……」

 愛良さんは僕を見て安堵した様子を見せる。徐々に暖かい感情が伝わってくる。

「何々? 妹?」

「よぅ、フレイ」

「おはよう金城君」

 平和兄妹と晶さんが愛良さんの背後から現れた。

 フレイアはその刹那、優斗の両手を握っていた。速い。

「は、初めまして、金城フレイです。貴方のお名前は? 御趣味や特技は? お好きな女子のタイプは? やっぱり女は余計なものは生えてない娘に限りますよね?」

 やや早口でいて明るく、饒舌に好意を全開に優斗へとことん尋ねるフレイア。

 優斗は微笑むと、身長の低いフレイアに目線を合わせ頭を撫でている。

「平和優斗だよ。フレイアちゃんの兄貴と同じクラスだ、こっちこそよろしくな」

「優斗様って言うんですね。お兄ちゃん共々よろしくお願いします」

「フレイくーん、こんなに可愛い妹がいるなんてやるねぇ」

「ひゃっ! な、何するんですか?」

 優斗に熱烈な挨拶をするフレイアの背後を優子さんは取っていた。そして、無駄の無い流麗かつ迅速な動作で優子さんはフレイアの胸を両手で包んでいる。

「んぁ……ひ……ぁん……」

「発展途上、だが晶ちゃんと並ぶ。まぁあたしには敵わないがな」

 やや恍惚とした顔をしながらも、どうにか僕の方へ方向転換したフレイアは僕に潤んだ目を向けている。助けを求めているんだとはっきり解る。

「い、いくらなんでも私が中学生並みなわけないでしょ?」

 晶さんは優子さんに弁明しながらも、自分とフレイアの胸を恐る恐る見比べている。

「やめろ平和妹、この娘が嫌がってんだろ」

 愛良さんが優子さんの額を右掌でぐいぐい押して、フレイアは解放された。

 フレイアは僕の背後に隠れ、優子さんを警戒している。

 優斗はフレイアの目線まで屈み、苦笑いを向けている。

「ごめんな、俺の妹が」

 フレイアは僕の前に出ると、再び優斗の両手を握る。

「優斗様なら、触って良いですよ」

「フレイア。困らせる事言っちゃ駄目だよ」

 フレイアの頭に、僕は左手を置きつつ撫でる。

「はーい」

 返事をしたフレイアに僕はほっとすると、その瞬間にフレイアは軽やかに跳んだ。僕の肩に手を回して、そのまま流れる様に僕の左頬に唇を当てていた。

 フレイアが僕の左頬に唇を当てた瞬間、愛良さんと晶さんの感情が極度に下がる動きを察知した。ふと見れば、衝撃を受けている表情だった。

「じゃあお兄ちゃん、行ってきます」

 上機嫌に走り去るフレイアを見送っているが、愛良さんと晶さんから強い視線を向けるので、少し気が重い。

 この感覚は、背筋に冷たい水を首から一滴垂らされるものと似ている。

「あんた……妹になんて事を」

「え? え? か、金城君?」

「別に唇じゃないんだし、いいんじゃねーの? ほら、フレイ君ってハーフって設定だろ」

 やはり、フレイアのキスが原因だったか。優子さんが一言添えてくれたからか、愛良さんも晶さんも徐々に落ち着いていく。

 設定ってなんだ? 時々優子さんの言う単語の意図が読めない。

「そういやそうか……いや、でも、血の繋がった妹が兄貴に……キ……きききっ……」

「兄妹よね? た、確か兄妹って言ってたわよね?」

 次第に、熱く焦っている感情を纏う二人。

「可愛い! 解ってはいたけど可愛い!」

「るせぇ平和妹!」

「おお、落ちて、おお落ち着いて愛良さん」

 からかう悶えた表情の優子さんに赤い顔をしながら掴みかかる愛良さんを晶さんは結構な程赤らめた顔で宥めている構図となった。

「まぁまぁ、ほっぺにちゅーなんて子どもっぽくて可愛かったじゃん?」

 優子さんも愛良さんを落ち着かせる方向に変わる。

「子どもっつっても中学生だし、多少は刺激のあるシーンだったな。特に愛良には、な」

「いいって。実際フレイアは子どもっぽいし」

 優斗はあえて、愛良さん達がそんな熱い感情が湧き出る気持ちを汲んだ言い方を優子さんにする。それに僕はフレイアへの素直な認識を述べて、愛良さん達の興奮を冷ます。

 愛良さん達はフレイアのキスによる興奮を冷まし終えて落ち着くと、照れた視線を僕に向けている。

「しかしまぁ……あんたの妹はまるで天使だったな」

「いや、僕の妹は天使ってわけじゃ――」

 愛良さんがくすくすと笑う。無邪気に。

「あぁ、そういう褒め言葉」

 優斗の適切な翻訳だった。美雪さんが女神とか呼ばれているのと同じ意味合いだと解る。

 徐々に、愛良さんの暖かい心を感じる。あの時フレイアを見る目が確かに優しかった。

「なんだよ?」

「随分と優しそうな顔をしてる気がする」

「べ、別になんでもねぇし」

 顔を赤らめ、愛良さんは先に昇降口へと向かった。

「金城君が来てから、愛良さんも柔かくなってきた気がするわね」

 晶さんは愛良さんを眺めながら、感謝の意を僕に伝えている。

「そんなに固くなかったよ。あの娘は」

 感情を結構察知できる僕には、愛良さんの虚勢の隙間から素直な心を感じ取れた。

とりあえずそう深みを持たせた言葉を告げておく。

「金城君、愛良さんを見る時は目が違うわね」

「目が?」

 そう告げる晶さんは、少しだけ不満そうに見えた。

「なんでもないわ」

 邪念など感じないが、少し熱く感じるものがあった。


「がらっ(引き戸を開ける音)! 皆の後輩土屋恵です」

「謎の金髪美少女転校生でっす」

 昼食時、珍しく僕以外にも存在が察知できるように堂々と教室に入ってくる恵さんだった。

「あ、フレイ先輩」

「恵さんと……フレイア?」

 恵さんがフレイアをここに連れて来ていた。ただでさえ恵さんが普通に入って来た事が驚愕の事実なのに、更にフレイアが来た事に驚きは増す。まぁ、その驚きは一瞬のもので、すぐに珍しくもなんともない気分になるんだが。

「只今フレイアちゃんを案内中です」

「はい、お兄ちゃん」

 フレイアから小包を渡される。

「これは?」

「お弁当だよ」

「僕詰めてなかったっけ?」

 僕の顔を覗き込む様に身体を傾けるフレイアは、もう上目遣いの体勢に入っている。

「一度やってみたかったんだよね。お兄ちゃんにお弁当を届ける可愛い妹っての」

「中身は四限目の調理実習で作ったオムライスですけどね」

 恵さんの説明で納得した。

それにしてもオムライスか……僕にくれると思うと、とても愛おしく感じてくる。実際に、オムライスは好物だから。

「金城! お前こんなに可愛い妹がいたのかよ!」

「金城君! こんなに可愛い妹がただの妹なわけがないよねっ?」

 突如、周囲の男子や女子が僕に好奇の視線を向けてくる。確かに可愛い妹だが、とても熱い思いで神聖化している雰囲気が悪意は無くとも狂気に思える。

実際、フレイアは女神だから神聖化するのも間違いではないが。

「普通の妹だよ」

 僕にとっては普通の妹だ。この熱気を冷ますために淡々と答える。

「まぁお風呂やベッドが一緒くらいは普通ですよねフレイ先輩」

「なん……だと? 金城……」

 フレイア本人から惚気でも聞いたのか、身に覚えのある事をさらりと言う恵さん。

周囲の熱気が再び上がる。

「金城、悪い事は言わん。お前のためにも俺に妹さんをくれ」

「金城君、逆に考えて。あげちゃったら駄目だって」

「クラスメイトが法を侵しそうになるのは見たくねぇよ普通」

「愛さえあれば関係ないのよっ! むしろ侵しちゃっていいわ! この兄妹なら」

「混浴や同衾の何が犯罪なのか言ってみなさいよ男子!」

「た……確かに犯罪ではない……だが俺達は、その言葉を疑っている!」

「信じるなよぅその言葉を。女子達の言う混浴や同衾は、やらしい意味を含んでいる!」

 収拾がつかない状況になっていく。男子はフレイアを可愛く思うあまり僕を退けようとして、女子はフレイアを可愛く思うあまり敢えて僕を近付ける様な言葉を順々に投げかける。

「こ、これは……おもしろい事になってきましたね」

 陰りが見えるが、恵さんの笑顔はとても清々しい。

「おいお前等」

 愛良さんの落ち着いた声は、周囲の熱を一気に下げる。そして愛良さんが立ち上がり、僕達の方へ歩み寄ってくる。僕に言い寄ってきた人間達は道を恐る恐る開ける。そして、愛良さんはフレイアの頭を優しく撫でる。

「大人げなく騒ぎ立てるもんじゃねぇぞ。この娘が困ってんだろ」

 しばらくすると、愛良さんはフレイアの髪に指を絡めては流している。

「お前の髪……凄ぇさらさらだな」

 フレイアの髪を撫でていると、愛良さんは好奇心に駆られた表情でフレイアを見つめる。

「せっかくだ……ちょっといじって良いか?」

 フレイアが男以外で顔を赤らめるのを、僕は初めて見た。

「じゃ、じゃあお願いします」

 フレイアは愛良さんの席に招かれ、腰を落とす。やや緊張した面持ちだ。それは周囲の人間にも伝わった様子だった。

 愛良さんはフレイアの髪を即座に束ねた。まさに時間を数えるのを忘れる程の流麗な動作で、フレイアの髪は右頭部と左頭部に長い尻尾みたいな形で括られている。

「これで良し……と」

 括られた二つの長い髪の根元は、立ち上がった猫の耳を連想させる形を取っていた。

「女神が……女神が君臨した!」

「私は見た! 羽根を失った天使というものを!」

 愛良さんによって落ち着いていた人間達が、一気に歓喜の雰囲気を纏う。

「猫耳ロングツインテとは、ロリ度が増しましたね。だがそれがいい」

 静かににやりと恵さんは微笑む。喜んでいる雰囲気は明確だが薄い。

 周囲の好評を得て、フレイアも上機嫌に照れている。

「どうお兄ちゃん、可愛い? どきどきする?」

「あぁ、可愛いよ」

 フレイアがそっと差し出した頭を僕は優しく撫でる。

「しかし驚いたな。君にそんな特技があったなんて」

「こ、こんなの、別に女子なら普通だろ?」

 愛良さんの照れた表情には、誇らしい雰囲気が混じっている。

「僕はせいぜい寝癖を直す事くらいしかできないよ」

 僕には愛良さんがどんな動きをしていたかは理解できた。だが、あんな器用な事はできないだろうと思う程、愛良さんの動作は洗練されていた。

「要約すれば、美少女で学生たる者、この程度の事くらいできなくてどうします、ですね」

「いや、程度と言うにはかなり高度な技術な気が――」

「じゃ、あくまで女子高生ですから、ですか?」

「恵、お兄ちゃんに高度なツッコミを求めすぎないの」

 あ、恵さんの言葉はツッコミ待ちの言葉か。

「ところで、優斗様は何処? お兄ちゃん」

「学級委員会だから、昼休みは戻って来れないんじゃないかな?」

「そっかぁ……じゃあ仕方ないかな」

 先程まで上機嫌だったから、がっかり具合が大きく見える。しかしフレイアは気をめげる事無く気を取り直し、にやにやしている恵さんの元に戻った。

「あ、お兄ちゃん。今日は恵とぶらぶらしてから帰るからね」

「あぁ。じゃあ恵さん、フレイアの事を頼んだよ」

「お任せください。それでは帰りましょう」

 恵さんとフレイアが上機嫌気味に教室を去っていくのを、僕は暖かい気持ちで見送る。

「随分と嬉しそうだな、金城」

「解るの?」

「そう思っただけだっつの」

 愛良さんが珍しく、僕を相手に緊張感を見せない様子だった。


 夕方の雨模様は、気落ちさせる雰囲気を作っている。涼しいので僕は好きだが。

 学校を去り、帰路に着こうと正門を出たすぐに僕の携帯電話が鳴り響く。どういう仕組みか解らないが、電波さえ届けば何処でも通信ができる人間界の脅威なる道具の一つだと故郷でも有名だ。

『あ、お兄ちゃん? 今何処?』

「今から帰る所だけど?」

 相手はフレイアだった。

『まだ学校の近くにいるならさ、忘れ物取ってきてくれない?』

「あぁ、良いよ」

『ありがとっ。きっとフレイアの教室の机の中に本があるから持ってきて』

 フレイアの机なら……中等部か。

 しかし僕はフレイアから教室の場所を聞き忘れていた。恵さんと同じ学年に通ってるらしいから中学二年生だと思うが、恵さんからも組を聞いた事がない。再び電話をかけるべく電話を取り出した直後に、昇降口で立ち止まる金髪の少女が視界に入った。

「愛良さん?」

「か、金城? なんでここに?」

 愛良さんは僕に会う度に驚いた顔になると、気恥ずかしそうな雰囲気を見せる。

 突如僕の左手に握られた携帯電話が先程と同じ音を鳴らす。

『ごめんお兄ちゃん。フレイアの鞄にあった。忘れ物なんてしてなかったみたい』

「あぁ、そうなんだ」

『ほんとごめんお兄ちゃん』

 用事は終わった。

フレイアの勘違いなら良かったが、妙に手早く終わった通話は違和感を覚えさせる。

 愛良さんが不思議そうに僕を眺めている。目が合うと、目線を逸らして降りしきる雨をただ眺めている。

「忘れ物を取りに来たんだけど……無かったみたいで」

「あぁ、そう」

 踵を返し、僕は再び帰路に着こうとするが、背後から視線を感じ、歩みを止める。雨をただ困った様に眺める愛良さんがいるだけだった。そして時折僕の傘に目線を移している。

よくよく見ると、愛良さんは鞄だけを持っているのがこの天気では不自然だ。そして、今の愛良さんからは無力感を感じる。祈りを込めている様で、弱くは無いが力を感じない。

「傘持ってないのかい?」

「忘れただけだっつの! 家にはあるっての!」

 それは持ってないって意味なのでは……と思った。言わないけど。

 言葉に力が入っていた。普段通りの照れ隠しを力強い声色で、誤魔化しつつも微かに震える雰囲気は、いつもの愛良さんだ。

 雨がすぐに止んでくれないなら、僕のすべき事はこれだ。

「あげるよ」

 僕は愛良さんに広げた傘を差し出す。

「そ、それじゃあんたが濡れるだろ?」

「僕は平気だから」

「おい待て!」

 雨の降りしきる中進む僕の右腕を、愛良さんは掴んで止める。

 見上げる愛良さんの顔と掴んだ左手を交互に見ると、愛良さんは僕から目を逸らしつつも、照れた顔を見せる。

「もっと考えろって……二人で濡れない方法とかさ……」

 愛良さんはそのまま僕に寄り、傘を僕に差し出す。

「入れてもらってなんだけど……家まで送ってくれねぇかな? そうすりゃさ、そのまま傘を返せるから……」

 祈りに似ている。僕を頼るその姿勢は強い気持ちによるもので、しかしその力の中身は何も感じられない。ただ愛良さんの恥ずかしそうな表情だけが僕に語りかける。

「あぁ、そうだね。で、どの辺?」

「まぁまぁ近いかな」

 綺麗な気持ちで祈られたら、それを叶えてやりたいと思った。


 先日に愛良さんと偶然会った場所で、愛良さんは周囲をきょろきょろ見渡している。

「戻ってきてねぇのな……」

「あの猫なら大丈夫さ」

 僕の一言で、愛良さんは安堵した様子を見せる。

「気にしてても仕方ねぇか……」


「ここだよ。あたしん家」

 白い外壁に黒い屋根の外観に、やや広い庭には花壇が置かれている。その家の外周を煉瓦製の壁で覆っていて、その隣にはこれも人間界において脅威なる道具の一つである車が置かれている。白い外観で、七人くらい乗れそうな大きさだ。

 表札は黒い光沢を帯びたものでできていて、[火野(HINO)]と刻まれている。

「そう言えば、初めて君のファミリーネームを見た気がする」

「あたしの事は絶対に名字で呼ばねぇでくれ」

「あ、あぁ……」

 圧倒された。僕に対した憎悪ではなかったが、純粋な憎しみの感情は冷え切っていた。

 黒い大きなドアが開く。中から愛良さんに似た金髪の壮年が現れる。すらりとした細く長い体格で、とても暖かい雰囲気を纏っている。

「お帰り愛良」

 愛良さんを呼ぶ壮年はにこやかに笑う。その瞬間、愛良さんから刺す程冷える感情は消えて、水が温まり徐々に湯になっていく様な暖かさを纏っていく。そして愛良さんは照れくさそうに笑っている。

「ただいま、パ……お父さん」

 愛良さんの父親は、髪の色こそ同じだが雰囲気が正反対だった。

愛良さんは感情の変化の波も激しく、素直で読みやすいが、愛良さんの父親はただ穏やかな感情を微かに漂わすだけで、それ以外が読めない。表情に関しても、目つきの鋭めな愛良さんとは違って常に優しい蒼い目をしている。愛良さんがフレイアに時折見せる、優しい目を思い出させる。

「そっちの人は彼氏かい?」

「ち、違うよ! ただのクラスメイトで転校生だってば!」

 愛良さんの声色が、普段より高めで明るい。そして、表情こそ照れ顔だが感情は素直で単純な気質になっている。

「随分と水が滴った良い男になってるじゃないか」

 雨で服とか濡れてしまってるって意味だな。

 愛良さんの父親は傘を広げてこちらに来ると、僕に軽く頭を下げた。

「愛良を助けてくれてありがとう。君の名前は?」

「金城フレイです」

「フレイという事は君もハーフか。これは驚いたよ。って僕が言うなってツっこまれそうだな、ははは」

 君も(・)とは……愛良さんもだろうか?

愛良さんの父親は、この周辺の黒髪の人間達とは顔立ちが少し違う様に見える。

「良かったら家へ上がってくれ」

「ちょっとお父さん」

 愛良さんは困惑した感情を父親に向けている。その感情には気負いしたものも混ざっているみたいだ。多分僕が服を濡らしてしまった事に対して気にしているのだろう。

「彼に風邪を引かれてしまったら、父さんは感謝よりも先に詫びなきゃいけなくなるだろ?」

 まるで愛良さんの気持ちを汲んでいる言い方だ。愛良さんの納得した表情を見るとよく解る。父親は先に家の中へと入って行った。

「ま……まぁそういう事だから上がれ……上がってよ」

「じゃあ、おじゃまします」

 僕を家に上げる間の愛良さんは、ふつふつと心に熱を込めている。

 家の中に入ると、すぐに愛良さんの父親が出かけようとしているところだった。

「それじゃあ、父さんは買い物に出かけるよ」

「こんな雨の日に行かなくてもいいよ」

 買い物籠を持って意気揚々としている父親に、愛良さんは心配そうに父親を止めている。

「せっかく愛良が彼氏を連れてきたんだ。お祝いしないと父親が廃るよ」

「だから違うって。それに初対面の他人と二人きりで……信用できんの?」

 寂しそうな顔で父親を見上げている愛良さんの頭を、父親は優しく撫でている。

「愛良の事は信用してるさ。ひどい男なら、まずここに来ないだろう?」

 父親は、僕に衣服一式を差し出した。

「金城君、これを着るといい。おじさんのものですまないが」

「とんでもない。若々しい服装だと思います」

 その穏やかな感情は、僕も釣られて安堵する程に暖かい。

「ははは、ありがとう。愛良が選んでくれたんだ」

 父親は照れくさそうに笑う。

「早く行きなってば、もう」

「じゃあ行ってきます」

 父親はそのまま締め付けずに畳んだ傘を手に取り、買い物に出かけた。それで、あの時傘を広げてわざわざ僕に挨拶までしたのか。元々外出するつもりだったのなら、傘を濡らした事も大した問題ではないというところか。


 浴室の場所まで案内される間は、愛良さんの感情は徐々に緊張感で熱くなっている。

「お風呂はあっちだからな。じゃあ早く入れよ」

「ありがとう。本当に助かるよ」

 僕は愛良さんに教えてもらった所のスライド開閉式ドアを開け、その室内に入る。雨の音が聞こえる程に静かだ。

 濡れてしまったブレザーをまず脱ぎ、ポケットに入っている携帯電話や財布等を外へ出して、着替えと一緒に近くの籠へ置いておく。そしてネクタイを外しシャツとインナーを脱いだ時に、ふと考える。脱いだ服は何処に置くべきなのだろうと。

「ちょっと待った金城!」

 突然ドアが開いた。

「ひぃああああああああああ!」

 振り向いた瞬間、もう高い声での悲鳴が上がっていた。そして、ドアは閉まった。

「どうした?」

 ドアをスムーズに開けると、その場に震えて屈む愛良さんが両手で顔を覆い隠している。僕に気付いたのか、反射的に僕に向く愛良さん。そしてすぐにまた顔を背けて、その場に蹲る。

「ご、ごめ、ほんとごめん」

 震える声で、面と向かわずただ僕に謝っている愛良さん。

「なんで謝ってるんだ?」

「なんでって……見ちゃったから……あんたの……はだ……かを……」

「え? 肌、顔?」

 震える声は小さくなって、言葉が断片的にしか聞こえずにいる僕は、呆然とする。

「そうだよ肌だよ肌! だからごめんって言ってんの!」

 愛良さんは声を張り上げまた謝る。しかし面と向かわない。

 僕は室内のあまり動かない空気が直接肌に触れる感覚で納得した。しかし肌と言っても男の上半身だけだ。恥ずかしがるのは多少なりとも理解できるが。

「ズボンは履いてただろ? 今だって履いてる」

「まぁそうだけど……」

 恐る恐る、愛良さんは僕の方を向く。

「って、なんであんた平気なんだよ?」

 すかさず背を向ける愛良さん。

 僕は気にせずとも愛良さんは罪の意識を感じている様子だ。まずは僕が愛良さんに言うべき事は、安心させる台詞だ。

「僕だってズボンの下を見られたら恥ずかしいさ。でも履いてただろ? だから何も気にしてないよ」

「……ほんとか?」

 弱々しく、愛良さんは僕の方を微かに向きつつ聞く。

「本当さ」

 愛良さんから安堵の一呼吸が流れた。

「じゃ、じゃああたしは行くからな」

「あぁ」

 立ち上がり、愛良さんはここから離れようとする。

「って違う! ちょっと待て!」

「ん?」

 踵を返して戻ってくるが、再び踵を返して背を向ける愛良さん。

「使っていいシャンプーは緑色のやつだからな。それだけを言いに来たんだよ」

 僕は浴室のドアを開けると、プラスチック製の容器が数個並んでいた。その中に緑色の物が並べられていたのを確認する。

「あぁ、成程」

「それと脱いだ服はそこの洗濯機に入れとけよ! 絶対にな」

 愛良さんから洗濯機に入れて良い許可が下り、僕の考え事は解決した。

「今の君は本当に解りやすいな」

「な、なんだよ?」

 微かに僕の方を向いては、上半身の服だけ脱いだ僕を愛良さんはちらちら見ている。

「何を恥ずかしがってるのかがよく解る」

 それだけ言って、僕はスライド開閉式のドアを閉める。


 十数分のシャワータイムから上がった僕は、とりあえず渡された衣服一式を着る。流石に、トランクスは借りる事に抵抗もあった。全くと言って良い程濡れる被害は避けられていたので、トランクスだけは僕自身のものを再び履いておく。

 そう言えば愛良さんもこの雨で色々と濡れてしまっただろう。早く呼んであげなければ。

まずは愛良さんを探すとしよう。

「パパなら買い物に出かけてる」

 やはり、普段は父親をパパと呼んでいる様だ。しかしこの家からは、人間の気配は一人しか感じられない。とりあえず僕がシャワーから上がった姿を見せに行こう。

「あぁ、そんだけ? じゃあ切るから」

 微かに開いたドアの隙間から、愛良さんが電話をしている姿が見えた。

「長く話したいならたまには顔出せば?」

 険悪な雰囲気だ。だが、妙に虚無感を纏った気質を感じる。

「あたしだってそんなに子どもじゃない。あんたがお金を振り込んでくれるから恵まれた生活もできるし、パパだってやりたい事ができてるのは解ってる」

 相手は知り合いらしく、愛良さん達に経済的支援をしている者というところか。しかし関係は良好なものらしくない空気が漂っている。

「でも、パパからお仕事を奪って、あたしからも由愛を奪った事には変わらないから」

 電話を切る愛良さんは悔しさを見せている様子だった。

その素直な心は真っ直ぐ僕にも伝わる。とても重い。受け止めるのが辛い程に。

 隙間から、愛良さんと目が合った。僕はすぐにドアを開け、リビングに入る。

 お互い言葉が出ない。ふと僕は据え置きの電話に目線を移す。

「電話、気になんの?」

「電話してた君が、少し気になってるよ」

 目の前にいる沈み気味な気分の愛良さんが、言い表しようも無く心配だ。

「普通はおかしいだろ? お父さんがこんな時間に家にいんのって」

「そうなのかな? 僕には解らない」

「普通はさ、お父さんってのは仕事に行ってて昼間は家にいねぇんだよ」

 本心ではないのだろうが自分を卑下した言い方をする愛良さんに僕は素直に答える。人間界では父親と呼ばれる者は確かに昼間は働く場合が多い。だが、常識は絶対ではなく多数であるだけというのは、どの世界だってそうだ。

「あたしのお父さん。凄く良い人だろ?」

 愛良さんが父親を称賛する表情は、誇らしい明るいものだった。

「君がパパって呼んでるくらいだ。その愛情の深さが伺えるよ」

「あ、あい?」

「あ、あぁ、これは忘れた方がいいんだな」

「お、おぅ……忘れて……」

 緊張した空気が和らいでいく。よし。

「一緒にいる時間が長いからな……凄く」

 照れた顔だが、普段みたいにその感情は隠さない。

 もっとこういう柔かいものを纏ってれば、周りの人間達も君を怖がらないのにな。

「ゆ(・)めを奪われたって……それは?」

「妹の名前だよ。ドリームの夢じゃなくて理由の由に愛って書いてさ。あたしにもさぁ、妹がいんの。今中三のな」

 懐かしそうに愛良さんは話す。フレイアを見ていた時と同じ様な優しい目だった。

「ここに?」

「母親に連れてかれた」

 母親という言葉には、憎しみが渦巻いていた。そして、哀しそうな顔をしている。

「これが不思議な事に離婚してねぇのよ。でも母親はここにいねぇ。どういう事だろ?」

 お互いが遠い距離にいるという事実以外は僕にも解らない。そして、見えない相手の感情を理解する事はできない。だから僕は、ただ黙って話を聞くしかできない。

「仕事のためなら捨てちまうんだよ」

 捨てたと言うが、離婚はしていないという事は……ファミリーネームはそのままでいる、という事は……繋がりは解けていない。

「それで君はファミリーネームで呼ばれる事を嫌がるのか」

 少し見上げる愛良さんの表情は、虚無感を感じる。

「名字さぁ……母親のもんなんだよ。こいつはまるであの人の所有物だって知らしめてる様で良い気分じゃねぇの」

「所有物?」

「金だけは送ってくれんの。だから余計にさ……」

 僕は愛良さんを見ているのが辛い。愛良さんから拒まれている様な感覚を覚えるからだ。

誰とて醜い所を見せる事はできない。今の愛良さんは、きっとそんな気分なんだ。

「じゃあ僕は帰るよ」

「おぅ……ありがとな。濡れずに済んだ」

 見送りはなかった。だが、僕はそれで少し安心した。

 そしてふと思い出した。脱いだ服を洗濯機に出したままだと。愛良さんは洗濯して返すとか言ってただろうか? そもそも僕の住居の住所は教えてない。それに迷惑にならないだろうかと理由なき不安が生じている。

「愛良さん!」

 返事は無い。なら先程の浴室へ向かって回収しよう。

 スライド式のドアに手をかけ、スムーズにドアを開ける。

「え?」

 既に洗濯機は作動していた。そしてそこにいるのは僕の濡れたブレザーを手にしている愛良さんだった。

「あぁ、もう洗ってるのか。ごめん愛良さん」

 愛良さんは、僕のブレザーを抱きしめながらただ身体を震わせて硬直している。

「せめてこれだけは持ってくよ」

「ひ……」

「ひ?」

「ひぃあぁあぁぁあぁぁぁあぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!」

 悲鳴と同時に放たれる愛良さんの左ストレートは、僕の顔面へ真っ直ぐ向かう。僕は、ただ反射的にその拳を右手で捌いて防ぐ。

「危ないじゃないか」

「出てけ! 来んな! あっち行け!」

「あぁ、解ったよ。これを返してもらったら行くから」

「あ……」

 目の前には、一糸纏わない愛良さん。

 確かにフレイアの言った通りだった。綺麗で……愛おしく思う。

 愛良さんは僕からブレザーを取り突然身を屈めた。それは蹲(うずくま)っている様に見える。

「愛良さん?」

「出てけぇ! 見るなぁ! 来んなぁ!」

 愛良さんの感情が特定できない。苦しがってるのか焦っているのか解らない。だが言葉は、僕の退場を求めている。僕はすぐに洗面所の外へ出る。

「おいこら待て!」

「え? あぁ、はい!」

 突然ドア越しに呼び止められた。

「ドアは開けんなよ!」

「は、はい!」

 ドアに手はかけていないが、その言葉は僕を身構えさせる程の迫力だった。

「あんたなんで入って来たんだよ……」

「脱いだ服をそこに置いたままだったのを思い出したんだ」

「洗濯するからそこに置いたんだろ?」

「それだと君に迷惑がかかるんじゃないかと思ってさ」

 少しだけ、静かになった。愛良さんの複雑で熱い感情も徐々に冷めていくのがドア越しでも感じ取れる。

「迷惑?」

「僕の家を知らないだろ?」

「んなの学校で渡せば良いだろ?」

 あまりにも僕が見落としていた答えだった。一気に罪悪感を覚える。

 僕は突然気になった。ブレザーだけを抱えていた愛良さんが脳裏から離れない。

「僕のブレザーは何故洗濯機に入れてなかったんだ? ポケットの中身は全て回収しておいたんだけど」

「あぁ、あれはほら、色々あんの」

「色々?」

 少し困惑した様子を愛良さんから感じる。

「シャツとかと違って気軽に洗濯機に回していいか迷ってたんだよっ。で、ファブリーズとかやっといて自然乾燥でいいかなって思って外に出しといたんだよ」

「あぁ、そうだったのか」

 ドア越しに、愛良さんの感情が熱くなっていくのがまた伝わる。

「って時にあんたがいきなり入ってきて……」

「あぁ、あれは君が僕のブレザーを持っていたから――」

「普通取るかな? あたし裸だったし!」

 そして再び僕は一糸纏っていない愛良さんを思い出す。

「ブレザーしか見えてなかったんだ、僕は」

「え? み、見えな、かった?」

 急に、愛良さんは熱くなってきた感情を静めた。

「見えてねぇなら……じゃあ、この話はいいな、うん」

「愛良さん?」

「もしかして、ブレザーがこれ一つしかなかったりすんのか?」

 更に僕は、見落としていた答えを思い出す。

「あ、そういえば家に予備があったんだ」

「は?」

「愛良さん、急にお邪魔して悪かったよ。入浴の途中だったみたいだし」

 僕は一言詫び、その場を去ろうと歩み始める。

「おい待て金城!」

「ん?」

 愛良さんの感情が、再び熱を帯びる。

「なぁ……あたしの身体……どうだった?」

「綺麗で愛おしかったよ。余計なものも生えてなかったし」

「覗かれ損かよぉ!」

 察した。どうやら見られてなかったのだと思ってたみたいだ。

 更に察した。さっきのが誘導尋問って対話術か。

「忘れろよ! 絶対に忘れろ! でなきゃ明日殴る!」

 強い言葉に込められているのは、怒りよりも羞恥の感情だった。

「ごめん愛良さん。そこまで恥ずかしい思いをさせたなんて……」

 詫びる言葉しか、僕には思いつかない。

 忘れようにも、忘れられない。

「……悪気が無かったのは解ったっつの」

 感情の昂りは収まり、穏やかな空気が流れている。

「綺麗で愛おしかったんだな……」

「ん?」

「なんでもねぇよ! 早く帰れ!」

 語気は強かったが、普段通りの愛良さんの感情は、僕を安心させた。

 明日殴られるのは嫌だな。忘れよう……忘れ……難しい……うん、忘れた事にしよう。


 雨は少し弱まっていた。気温も少し暖まった様に感じる。

 突如、フレイアから電話がかかる。随分と多い。

『おーにーいーちゃーん』

 妙に不機嫌な様子だった。

「フレイア? もう少ししたら家に着くから」

『と、ぼ、け、な、い!』

 少しだけ、耳が痺れる。

 その不機嫌な様子で、僕は確信した。

「やっぱり、愛良さんを送らせるために嘘をついたのか?」

『お互い様でしょ? フレイアがおじいちゃんのソファを使ってる事は、タイミング良い着信で気付いてたでしょ?』

 やはり監視されていたようだ。

「どうしてそんな不機嫌そうなんだ?」

『見ててじれったいの。どう見てもチャンスだったでしょ?』

「チャンス?」

『あの電話、愛良先輩の母親からで――』

「そこまでだ」

『なんでよ?』

 僕は人間の感情は察知できても、記憶は覗けない。それに、その領域は禁忌だ。

「それは僕が知るべき愛良さんの事情ではない気がするからさ」

 傷口を敢えて突いて気持ちを向けさせるのは、悪行だとも思う。

『そうかもしれないけど……』

「ん?」

『お兄ちゃんはさ、愛ってやつに無欲じゃない?』

「え?」

 フレイアは不満をぶつける様に言う。

『だってお兄ちゃん、フレイアの事は可愛いって言うけど、どきどきしないでしょ?』

「そんな事は――」

『そうだもん。フレイアからアプローチしないとぎゅっと返してくれないじゃん』

「あの、フレイア?」

 徐々にフレイアの語気が強くなっていく。電話から声が漏れる程に響く。

『お風呂もベッドもフレイアからしか誘った事ないもん!』

「それはねフレイア――」

 ふと、この雨の中随分と膨らんだ手提げを重たそうに持つ少女が視界に入る。

五分袖の白シャツにデニム生地のショートパンツに白いニーハイソックスという涼しそうな格好の小麦色の長髪が、雨に濡れたのか重量感が増している様に見える。

『お兄ちゃん?』

 その少女は美雪さんだった。

「ごめんフレイア。ちょっと遅くなる」

 美雪さんから、祈りに似た弱くともはっきりした感情を察知した。

 僕は電話を切り、美雪さんの前に立つ。

「あ、フレイ君」

 にこやかな顔を美雪さんは向ける。傘の取っ手には手提げ袋が下げられている。

「美雪さん……その荷物は?」

「お買物だよ。よっこいしょっと」

 掛け声を付ける程の重さな様だ。それにしても結構な量の買い物だ。手提げ袋は二つもある。どちらも結構膨らんでいて大変そうだ。

 スニーカーやソックスの足元辺りの色が濃く見える。雨で濡れたのだろう。

「半分持つよ」

「本当? ありがとう」

 遠慮なく、美雪さんは一つの手提げ袋を僕に渡す。中身は牛乳パックが四本に詰め替え用の調味料が複数だ。これは重い。


「ここが私のお家だよ」

 外観は黒く屋根はダークブラウンで彩られ、家自体も大きい。城壁らしき壁に囲まれていないが、ある程度の高さはあるコンクリート塀で隣の家屋とは区切られている。そして隣には、車とバイクと呼ばれる二つの車輪で稼働する一人用の車らしきものが一台あった。

「立派な家だね」

 特にバイクは名馬に似た風格を漂わせている。そういえば人間界にはバイクを乗り回す仮面や鎧を装着した戦士達の戦いを描いた活劇が作られていた。フレイアと共に故郷でも見ていたのを思い出す。

「ありがとね。今日はお兄ちゃん飲み会で帰ってこれないから夕ごはんが無くって」

「兄さんがいるのか」

「大学生のね」

 兄を慕っている雰囲気がよく解る。フレイアが僕に向ける無垢な笑顔そっくりだ。

「それじゃあ」

「あ、待って。せっかくだから上がってってよ」

「え?」

 さっきもこんな事があったな。

「あ、お父さんは単身赴任でお母さんはお父さんに付いてって、今は私だけだからそんな心配しなくても良いよ」

 考え込んでると、美雪さんは今の自分の状況を説明しだす。

 そんな心配とは、きっと予習でよく見たあぁいう心配か。

「それにね、こんな強い雨の中荷物持たせちゃったし……そのお礼」

 善意が真っ直ぐ伝わる。

「僕が勝手にやった事だよ」

 大した事をしたわけでもないのに礼を尽くしてもらうのは、遠慮したいと考える。決して、好意が重いから拒むんじゃない。好意を抱いているからこその遠慮という気持ちと、早く家へ帰ろうとも考えているからかな。

「そう言えば昨日のチョコロールケーキが残ってたっけ?」

「御馳走になるよ。おじゃまします」

「うん」

 チョコは大好物だ。ただ甘いだけでなく、脳髄を覚ます様なバランスの甘さが最高だと断言をする。チョコは最高の甘味だ。


 美雪さんに招待されたリビングは広かった。それ以上に、大きなテレビがとても目立つ存在感を放っていた。テレビを設置したデッキにはブルーレイレコーダーが置かれていて、その下には黒いゲームハードが置かれている。その隣には、書籍を立てて並べているみたいにゲームパッケージ五本が並んでいる。

「どうしたの?」

「ゲームが好きって割にはゲームソフトが少ない気が……」

「見たい? じゃあ持ってくるね」

「あ、いや――」

 僕が答える前に美雪さんは軽やかにリビングを出て行った。

 一分も経たないうちに、美雪さんは上機嫌なまま降りて来た。

「はい」

 ゲームパッケージが十本積まれていて、ソファの前のテーブルに置かれる。

「これは……」

「良いでしょ? このレーターは成人向けも描いてるカリスマ絵師なんだよ」

 それは[レッツロック! レディ]というタイトルで、ギターやベースを構えた少女達が不敵に微笑んでいる。ジャンルは恋愛SLGと書いてある。

「美しいという言葉じゃ足りない芸術だよ、この絵は」

 捲れたシャツから覗かせる肌の質感が、人間以上に繊細に描かれている。女性特有の肉感を柔かさと引き締まりで上手くバランスを取っている表現は、本当に人間を見ている様で美しいという表現では足りない。

 次に手に取ってみたパッケージは[シナリオ・オブ・ヴェスペリア]と書かれていた。

「こっちは多分史上最高のロープレシリーズって言っても良いんじゃないかな?」

 弧刀を携えた黒を基調とした衣服を纏う青年が、槍を構える天使の美少女と背中合わせで、不敵に笑っている構図のイラストだった。パッケージを裏返すと[全世界、累計二千万本突破]と書かれている。他[飽きさせないスタイリッシュな戦闘を味わえ]や[そのシーンは、常に劇的]に[合計三十分を超す描き下ろしアニメは見るだけでも圧倒]とも書かれている。こうも煽っていると本当に凄そうに見える。ジャンルはRPGか。

「凄いのかな……これ」

 そして次に手に取ったパッケージは[ジャッジ・オブ・ベリーフ3]と表記されている。そのジャンルはスタイリッシュアクションと書いてある。

「これは?」

 銀髪の青年が剣を真っ直ぐ向け、不敵に笑っている。

これは漫画の絵等とは違った表現で人間そのものを描いている。確かCGというものだったか。

「見る? 丁度最新作するとこだから」

 美雪さんはかなり嬉しそうに目を輝かせている。お勧めのゲームに興味を示している事が、とても嬉しいのだろう。

「でもその前におやつおやつ」

 いつの間にかテレビは電源が点いていて、そのデッキの中にあるゲームハードも既に起動音を立てている。そしてテレビからエレキギターの音が流れたと気付いたら、銀髪の青年が剣をいきなり天に投げた。そして左手に抱えていたジャケットを振り回しつつ袖に通し、右手を袖に通し終えたと同時に剣の柄を握り、剣を薙ぎ払う。すると画面は両断されて、その真っ暗な画面には[JUDGE OF BELIEF 4 SPECIAL EDITION]とロゴが出現した。

 画面は切り替わると、剣を構えた青年は怪物に囲まれている。左手で手招きすると、前方の怪物が一斉に襲い掛かってくる。そして青年は次々と軽やかに怪物を斬り捨てていく、爽快な戦闘を繰り広げている。

「人間は神話を作る事ができる様になったのか……」

「凄いでしょ? もう映画みたいで最高でしょ? でもこれオープニングなんだよ」

 美雪さんはチョコロールケーキとガラス製のグラスを二つトレイに置いていて、それを僕が座らせてもらっているソファの前のテーブルにゆっくり置いた。

 いつの間にか美雪さんは濡れたニーハイソックスを脱いでいて、色白な脚を太腿から爪まで見せる。小柄で適度に細い体格に見合った適度な長さと細さの脚だ。

「オレンジジュースで良い?」

「勿論さ」

「意外だね。甘いものにはコーヒーとか牛乳じゃない?」

 美雪さんは冷蔵庫の方に向かっている。

「コーヒーや牛乳があるのかい?」

「あるけど……オレンジジュースを飲みきっておきたいんだよね」

 冷蔵庫の中身を空けておきたいというところか。

「じゃあオレンジジュースで。好きなんだ」

「私もだよ。奇遇だね」

 グラスには丁寧にオレンジジュースが丁寧に注がれる。

僕はゲームのパッケージの山をそっとトレイから少し離す。

「よっと。それじゃいただきます」

 隣に腰かけた美雪さんは、テレビに向き恍惚とした表情をしながら、チョコロールケーキを食べ始める。

「いただきます」

 僕もその美味なチョコロールケーキを食べ始める。生地が柔かくチョコクリームが濃厚な味をしていて、脳髄から甘美な気分になる美味しさだ。その後に飲むオレンジジュースは酸味が強調されている様に感じたが、後にそれが甘味に変わる感覚だ。

「さぁてと、やろっかな」

 オープニングやゲームの遊び方を見せるシーンが変わる。

 とても流麗な動きで美雪さんはゲームを始めた。

 見ているこっちも高揚する気分だった。

怪物をスムーズに撃破していくその動きは夢中にさせられる程格好良いものだった。やろうと思えばできそうな範囲で動くので尚更夢中にさせられる。

 すると、映画みたいなシーンになった。主人公に対峙しているのは、弧刀を持つ黒髪の青年だった。

『悪いがお前はここで通行止めだ』

「あぁ、良い声ぇ」

 黒髪の青年が冷たい表情のまま主人公にそう告げているシーンに美雪さんは恍惚とした表情をしている。

『パーティーにゃ遅れねぇ主義なんでね……通してくれよ』

 主人公は不敵に笑って、武器を構える。

『お前が通る必要は無い。全て俺が片付けてやる』

『仕事を変わってやるから命をよこせって契約、神様だって持ちかけねぇぜ』

『神に仇為すお前が神を語るか……笑えない冗談だな』

『コメディアンじゃねぇからな、俺は』

「シームレスで戦闘移行ってすっごく滾(たぎ)るぅ!」

 そして美雪さんは高揚したテンションで戦闘へと突入する。

 主人公の戦う相手はとても強かった。

こちらの攻撃は回避されるか防御されるかで悉く捌かれて、よろめいている隙に居合抜きによる攻撃で、致命傷を与えられて戦闘不能に陥る。攻撃の当て方は相手の攻撃の隙を狙うか、カウンターで当てる方法が有効らしいがこちらの攻撃を当てるまでが難しい様で三回戦闘不能に陥った。

「あー、もうレアン強すぎるよぉ」

「凄いな……エインヘリアルでもこれ程の動きを見せる男はいない」

「レアンはエインヘリアルだよ」

「なんだって?」

「主人公クロスはベルセルクで、オリンポス一族をはじめとする敵をスタイリッシュに戦って撃滅してくってのが、このゲームのシリーズだよ」

「ベルセルクが主人公?」

 話しながらプレイしている美雪さんは先程とは動きが大分違う。レアンと呼ばれた敵の攻撃を上手くカウンターで返したりくらう寸前で防御して敵の攻撃を弾いたり、敢えて構えを解除して攻撃を誘って隙を突く冷静かつ大胆に攻める戦法に変えている。

「ベルセルクってのはね、ヴァルハラの医療技術で改造された強化人間の総称でね――」

「凄い設定だな。とても他人事とは思えないよ」

「ね、最近のゲームが如何に凄いものを練り込んでるか解るでしょ?」

「見てるだけでも引き込まれそうだ」

 調子が良いのか、上機嫌に饒舌な美雪さん。

「よぅしっ、撃破ぁ」

 どうやら敵を撃破したらしく、ムービーシーンに移行したみたいだ。

 戦っているクロスとレアンを取り囲んだのは、人間の形をしているが頭部は角の生えた頭蓋を晒している不気味な姿をした怪物だ。

『立ち入り禁止の看板出しとけよ』

 囲まれた二人は標的を怪物達に変え、次々と撃破していく。

『ミネルヴァ!』

 鎧を着こんだ人間らしき者が怪物達を従えて主人公クロスと先程まで戦っていた青年レアンを襲撃する。

『邪魔をするな!』

 レアンは怪物達を切り伏せ活路を開きミネルヴァに斬りかかるがその前に頭から足にかけて鎧を着こんだ小柄な人間らしき者が立ちはだかる。

『いい子ね……ここは任せるわ』

『邪魔をするなら、お前から斬り捨ててやる』

『アナタにはムリよ、オオカミ男』

 小柄な人間の兜が綺麗に斬られ、素顔を晒す。長い黒髪を靡かせる、肌の白めな少女だった。

『ラン?』

 小柄な少女は冷たい表情のまま、レアンに攻撃を仕掛けている。

『やめろ、俺だ! レアンだ!』

『別れた彼女か? 痴話喧嘩なら余所でしてくれ』

『よせ! 妹だ!』

「嘘? レアンの妹が敵? 何その展開?」

『我が命はオリンポスに捧げしもの……』

 冷たく言い残し、その少女は撤退した。

 レアンはただ、呆然と去り行く少女を眺めている。

「オリンポスまじひどい!」

 敵の組織はオリンポスという名前か……随分とぴったりだ。

『兄妹か……こりゃ最悪なシナリオを書いてやがる』

 クロスは怒りを込めて、静かに呟いている。

「残酷な……やはりオリンポスは人間を道具としか思ってないんだな」

 作り物だと理解はしていても、本物だと心に感じさせるCGムービーは、僕に本物の感情を動かす。戦闘の高揚感や、奸計への嫌悪感という平和に不釣り合いなものも。


「あ、そろそろ夕ごはんにしよっかな」

 時計は午後六時を過ぎていた。

 美雪さんは大きなテーブルに置いていた買い物袋から、カップラーメンを一つ取り出した。そして次にパックに積まれた鶏腿から揚げを取り出す。これ以上は何も出していない。

「ん? 結構な数の食材を買ってただろ?」

「あれはお兄ちゃんに頼まれたお遣いだよ。私の夕ごはんは……これ」

 照れ顔とは違った弱々しい表情を、美雪さんは見せる。

 買い物袋を見てみると、大量の食糧がまだ残っている。

「作らないのか?」

「私料理できないんだよ……」

 少し心配に思えた。

美雪さんは料理ができない事を自身の問題事だと一応捉えてはいるらしい。だが、清々しいくらいに諦めの感情も感じ取れる。だから心配に思えた。

「もしかしてフレイ君、女は須らく料理ができるものだと思ってない?」

「そういうわけじゃないよ」

 少し拗ねた美雪さんから向けられる言葉は、僕の善意を動かす。

大量の食材がまだ残る買い物袋から人参と玉葱を僕は取り出す。

「とりあえずこれだけ使って良いかな?」

「そんな、いいよ別に……って、できるの?」

 台所には偶然にも包丁やまな板が食器乾燥機の中に置かれていた。適当に切り揃えたサイズに野菜を切り揃え、フライパンに少量の水を入れ、その水に塩胡椒を混ぜ、野菜を煮込む要領で野菜炒めを作る。

「これくらいのものは、慣れれば簡単さ」

 三分あれば火は充分通るだろう。

 美雪さんはフライパンをじっと覗いている。

「あれ? お肉が無いよ?」

「鶏腿から揚げがあるだろ?」

「あ、そっか」

 三分経ち、フライパンを開ける。人参は色が濃くなり、玉葱は透明感が現れている。湯気も上がっているので大丈夫だろう。

「さてと、僕はこれで。妹が待ってるから」

「今日はありがとう。野菜炒めも作ってくれて」

 真っ直ぐ向けられた無垢な笑顔は、僕の心を止める。

満面の笑顔だ。可愛い

「只今ー」

 外の方から落ち着いた明るい印象の声が聞こえる。

「え?」

 美雪さんはリビングのドアの方へ驚いた表情を向けていた。

「いやぁ、飲み会がキャンセルになっちまってさ。腹減ったろ? すぐに晩メシ作るから」

 僕に視線を向けた後、入ってきた男はぴたりと止まる。

「誰?」

「が、学校の先輩だよ、お兄ちゃん」

「初めまして」

「え、あ? あぁ、初めまして」

 静かだ。そして美雪さんもその兄も、混乱している様子が明確に解る。

「じゃあ美雪さん。僕はこれで――」

「おっと待ちな」

 爽やかに笑う美雪さんの兄だが、緊張感を伴っている。

「お前の名前は?」

「金城フレイです」

「ちょっと男同士で話したい事があるからちょっとお外で語り合おうぜ」

 美雪さんの心配そうな視線を感じながら、僕は屋外へと招待される。


 玄関の外へ、そして正門の外へ僕は歩いた。

「聞きたい事が二つある。お前は美雪の彼氏か何かか?」

 落ち着いた印象が無くなり、言葉の所々に焦りが生じている。

「いや、違いますけど」

「おっと、聞きたい事が増えたぜ。彼氏じゃねぇならどうして家の中に?」

「買い物の荷物が重そうだったから助けたんです」

 僕が平静に答えているからか、徐々に美雪さんの兄も落ち着いた雰囲気を纏う。

「そうなのか。確かにポイントデーとはいえ美雪にあの量は買わせ過ぎだったか……」

 思い出した様に、美雪さんの兄はまた僕に問いかける姿勢になる。

「ところで下心があって美雪に近付いた……とかじゃねぇって事でオーケーか?」

「下心?」

「俺の妹、可愛いだろ?」

 誇らしく僕に問いかける。

「そうですね。女神や天使ではありませんが、そう呼称する人もいるみたいで」

「そんな妹と二人きり、家には誰もいねぇからとことんいちゃついてやるぜ、とか考えてたりして家の中にいたってんなら俺がそれを阻んでやる!」

 言葉には焦りがあり、強さも混じっていた。

それは決してぶれてはいないが常に響いた弦楽器の如く出続けている。

 善意による心配は僕への疑念。善意しか感じないので彼を落ち着かせよう。

「まさか。可愛い娘ではありましたが、そんなおこがましい事は考えませんでしたよ」

 強い響きが一気に消えた。美雪さんの兄は虚を突かれた様子で呆然としている。

「えっと……美雪にしたい事とか考えなかったか?」

「強いて言うなら、食生活が可哀想に思えたので手を差し伸べたくはなりましたね」

「そんだけ?」

「はい。まぁ実際勝手ながら野菜炒めを作らせてもらいましたが」

「まじで?」

「まじです」

 目の前から安堵した様子で、涼しい空気が流れて来る。

「あぁ、良かった……」

 満面の笑い顔で、美雪さんの兄は僕の双肩に手を置く。ところで、右手首に買い物袋を掲げたまま肩に手を置かれると相当重いんだが……どれだけ買ってきたんだ?

「いやぁ、妹が急に男を連れてきたからもうそんな時が来たのかと少し腹を括りかけたが俺の思い過ごしで良かったよ」

 いや、重いって。

「まったく、美雪に手を出さずにいられるなんてどんだけ紳士なんだよ、お前は」

 純粋な善意による笑い顔が初めて重いと感じる。

「僕はもう帰っても良いですか? お兄さん」

「誰がお義兄さんだ!」

「いや、そういう意味ではなくて」

 驚いた。感情の変化が激しい。全て善意だが。

「あぁ、そうか、そういう意味な……健人(たけと)だ」

「じゃあ健人さん。失礼します」

「おう。気を付けてな」

 妹の美雪さんを心配する気持ちも、そして僕に疑念を抱いた気持ちも全て善意から発生していた。あれも愛情というものだと思う。

 しかし人間界は、直系血族との婚姻は禁忌だと医学から証明されているのではなかったか? いや、子を成す事が愛に結びつくわけではないから純粋な愛か、あれも。

 帰り道に、またフレイアから電話が鳴る。

『もしもしお兄ちゃーん』

 くたびれた様子だった。お腹を空かしているのだろう。

「フレイア。待たせてごめん。もう帰るから」

『迂闊だったわ。まさか美雪さんのお兄さんが帰ってくるなんて』

 また監視されていたのか……ってちょっと待て。迂闊とはどういう事……いや、考えるまでもないか。

「もしかして」

『うん。しっかり見てたよぉ。いやぁ最近のゲームはおもしろそうだったね。今度一緒に買いに行こうよ』

 違ったのか。てっきり美雪さんもフレイアが仕組んでいた事かと思ったが、違ったか。

「あぁ、そうだね」

『って良い流れで終わるわけないでしょ! お兄ちゃんどんだけ無欲なのよ!』

 仕組まれていたみたいだ。

 しかしフレイアは、今日はよく僕に怒る。

「何を怒ってるんだよ?」

『別に怒ってないもん! ツッコミ所満載だからツッコミ入れてるだけだもん!』

「ツッコミ?」

『美雪さんじゃなくてそのお兄さんの好感度上げてどうするの? そんな展開誰が頼んでんの? 誰も頼んでないでしょ? あぁん!』

「あの、フレイア?」

『今日も帰ってきたら勉強会だからね! あ、晩ごはんはオムライスでね!』

 フレイアの怒った声色の中には、照れ隠しに似た感情が籠っていた。結局は夕食の献立を僕に強請るくらいには機嫌が良いみたいだ。

 どれだけオムライスが好きなんだ? 僕の妹は。


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