第2話 可愛いフレイアによる査定対象はあの娘
妹のフレイアがここに来て初めて迎える朝は、重かった…………と言うと怒られるのでこう言い直しておく。
何かに乗られていた。目を開ければフレイアが随分とにやけた笑顔を見せている。顔も近い。フレイアの吐息が僕の顔に掛かりそうな距離だ。
「おはよ、お兄ちゃん」
フレイアが身体を起こすとシーツが落ちる。つまり僕とフレイアは知らない間に同じシーツを被ってたようだ。大きめなオレンジ色一色のパジャマを着ているので安心するが、ところで何故太腿から爪先に掛けて全て素足状態なのか。フレイアのパジャマは確か九分丈のズボンもあった気がするんだが。
「どうして僕のベッドに?」
「お年頃の乙女に独り寝は寂しいものなんだよぉ」
僕の左手側に転がるフレイアは、身体を寄せて素足を僕の腹部に絡めてくる。
「それともお兄ちゃんはフレイアが嫌いなの?」
甘える声だ。そして微かに震えた声は、フレイアが怯えている様に感じてしまう。
「好きだよ。フレイアは可愛いからね」
僕はフレイアの頭を左手で撫でる。僕自身、フレイアは撫でられるとたいてい嬉しそうな顔をするので、眺めると安心する。
「お兄ちゃんは……フレイアでどきどきする?」
「それは解らないな……」
フレイアは少しむくれた表情を見せると、ベッドから跳び上がって起きる。
「さ、お兄ちゃん。学校の準備準備」
七時を指す時計が視界に映る。
あぁ、朝食を作らないと。
食事を終え、学生服も着終えた頃にフレイアは僕の部屋に入ってきた。
「はい、お兄ちゃん」
「これは?」
「超小型無線マイクとイヤホン。イヤホンは耳小骨を直接振動させるものなんだよ。他人には聞こえないから」
フレイアから渡された物を装着すると目立つ気がするな。ここに来る前に故郷で予習をした時にこんな装備を見た事があるな。
「いつの間にこんな物を?」
「ドワーフに作ってもらったの。凄いでしょ?」
「ドワーフが?」
誇らしげに言うフレイアだが、僕は不安に思う。
ドワーフは最高の製作職人だ。故に対価も最高なものを求める種族だ。フレイアから依頼を受けてこれを作ったのなら……フレイアは何を求められ、そして払ったのかと不安が拭えない。
「潜入捜査必須のアイテムをオーディンおじいちゃんが作ってほしいって言っててね、それで試作品ができたから、それをフレイアに貸してちょうだいっておじいちゃんにおねだりしたらすんなり貰えたんだよ」
「あぁ、そういう事か。少し安心したよ」
フレイアの依頼に応えたわけではないなら、フレイアは何も払ってないな。
「じゃ、フレイアは昨日言った通り、お兄ちゃんに的確なアドバイスを送るからね」
昨日、そう決めた。しかしこれを介して連絡を取り合うのは今聞いた事だ。そして僕の状況はこの家にあるソファを使う事で見る事が出来ると確認も済んでいる。
「フレイア。君に限ってそんな事はないと思うけど……僕がトイレに行ってる時とかにも監視をしてたら、夕食は南瓜を食べさせるからな」
「わ、解ってるよお兄ちゃん。フレイアは御奉仕してもらうのは好きだけど苦痛を受けるのは素直にやだと言える正しく愛されたいMだからそんな事しないよ」
平常運転のフレイアで一安心だ。
「じゃ、行ってきます」
連絡を取る時だけマイクを使えば良いとフレイアは言ってたな。耳にイヤホンを付けるだけで良いから特に目立たないな。しかし左耳が微かに窮屈に感じるのも事実だ。
「おはようフレイ君」
透き通る声だ。イヤホン越しでもクリアに聞こえる。まぁ、イヤホンからフレイアの連絡が常に流れるわけでもないのでその通りだが。
声の方向に振り向けば、小麦色の長髪を靡かせる美雪さんが見えた。
「美雪さん。おはよう」
美雪さんは微かに欠伸を見せる。
「眠そうだね」
「ちょっとね」
天使や神だって眠る生き物だ。だが寝顔まで可愛いものかは総じてそうというわけではない。それは人間も同じだろう。
少しだけ、美雪さんの背後からその長い小麦色の長髪を眺めてみる。確かに、金色とは一味違う輝きだ。
「どうしたの?」
「君は女神だとか天使だとか称されているから、羽根でも生えてるのかと思ったけど……」
髪に見惚れていたのは、はぐらかしておく。輝きには希望が見え隠れするものだ。
「思ったけど?」
「いや、やはりそういうものは感じないな」
人間とは確かに一味違った魅力を感じてはいるが、やはり美雪さんは人間だ。
「フレイ君って不思議な人だよね」
「そうかな?」
「うん。天使とか神様を信じてるところが」
人間は信じてないんだな。しかし不思議ではない。僕達神とて常に人間の世界ばかりを見ている生き方などしていない。神も神同士で国交を結ぶ事もあれば、治安が悪い所だったら争いも起きる。ましてや奪い合う争いも稀に稀だがあるものだ。
「神はいるよ」
僕の一言を、美雪さんはくすくすと笑う。
「目の前に女神がいるから?」
「いや、君は人間だ」
「解ってるよ」
無邪気な微笑みを見せて、前を向く美雪さん。
「結構ね……見た目だけは褒められるんだ、私」
誇らしく言うが、美雪さんは驕らずむしろ照れくさそうに言う。
「確かに可愛いよ」
美雪さんは、その白い両手の指を絡めもじもじとして、隣の僕をちらちら見ている。
「でも流石に女神や天使は褒めすぎだよね? 嬉しくは思うけど」
「君は人間だ。僕には解るよ」
可愛らしい微笑みに、僕も表情が緩む。
「ふふっ、本当に不思議な人だね」
美雪さんはまたくすくすと笑う。
学校の正門が近くなると美雪さんは少し足を速め距離を取り、僕の方に振り向いた。
「それじゃあ先に行くね」
ただ、不思議そうに僕は美雪さんを見ている。
「私と一緒にいちゃうと、きっと友達に妬まれちゃうよ」
その苦笑いには、哀しみが込められてる様にも思えた。
こんな感じの微笑みは……愛良さんもしていた気がする。
「そうは感じないな……」
周りの人間から、僕を妬ましく思う感情は感じられない。まぁ、友人自体が少ないという事もあるんだろうが。
向かい側から、眩しく長い金髪を靡かせる愛良さんが見えた。
「おはよう愛良さん。昨日の怪我は、もういいのかい?」
「怪我?」
挨拶をして昨日の怪我の事を告げると、愛良さんは思い出した様に顔を赤くする。
「は? 怪我? あたしそんなのしてねぇよ? これは……昨日家で切ったやつだからな」
愛良さんは近付いて右手の甲を僕に見せる。色白い肌だから傷口が狭くても目立つ。
「確かに瘡(かさ)蓋(ぶた)になってはいるな」
「あんたな……忘れろっつったろ?」
愛良さんの囁きは、僕の耳元を震えさせるようだ。吐息が少し耳を撫でる。
「そうは言ってたけど、唾をつけてもすぐに治らなかったから少し心配で――」
「あぁ、確かにあたしもびっくりだった! 意外に深かったんだよなぁこの傷」
「どうしたんだ?」
急に僕から少し離れ、わざとらしく声を上げて言う愛良さんに、僕はただ戸惑う。
「なんでもねぇっつうの。じゃあな!」
そう言い残して、学校へと向かう愛良さん。
しかしじゃあなと言っても、クラスは一緒なんだが。
突如僕の背後に人間の気配がするが、妙に存在感が小さい。決して薄いのではない。
「これは予想以上に効いてましたね、フレイ先輩」
声の方向に振り向いて目線を下げれば、恵さんがにやりと笑っている。
「恵さんか。君は本当に突然現れるな」
「そんなに驚く必要があるんですか? 昨日はあんな大胆な事を愛良先輩にして差し上げてたのに?」
「大胆な事?」
恵さんが僕を見上げ、手招きをしている。僕はしゃがんで恵さんと目線を合わせると、次は僕の右耳にそっと口を寄せてきた。
「手の甲にちゅーですよ」
「あれが?」
囁いた内容に驚き、僕は立ち上がる。
「イケメン無罪という事で通報はされませんでしたね」
「あれは唾をつければ治ると愛良さんが言ってたから、そうしたんだよ」
「ほほぅ。詳しく聞かせてもらっても良いでしょうか?」
恵さんは目を輝かせ、いつの間にか左手に握っていたシャープペンシルのノック部分を僕の口の方へ真っ直ぐ伸ばす。マイクのつもりだろう。
「個人のプライベートは聞きすぎるものじゃないわよ、土屋さん」
晶さんだった。目が合うと会釈で挨拶をする。
「おや、木原学級委員さん。昨日は残念でしたね、急用とやらのせいで」
「貴女どうしてそれを?」
晶さんはかなり驚いている。
「この娘は尾行してたんだよ、僕等を」
「ちなみに木原学級委員さんの急用が何かは、私も知りません」
「そ、そう?」
ほっと胸を撫で下ろす晶さん。
「って金城君、尾行に気付いてるなら教えてくれても良かったじゃない!」
かなり慌てて晶さんは僕に詰め寄った。
「それよりも目の前の事態が放っておけなかったからね」
「なん……だと? つまり敢えて私のスニーキングを知りつつ、敢えて看破しなかったと……先輩は敢えてSですか? 敢えて聞きますが」
「S?」
「いや、普通にSですか?」
いつになく饒舌に喋る恵さんに、僕はふと不思議そうに尋ねる。
「ほら、可愛い女の子をいじめたり可愛がったりするの好きじゃないですか?」
「何を言ってるの土屋さん」
晶さんは恥ずかしそうに恵さんへ訴えている。
「そういうのは解らないが……可愛がるのは好きかな?」
「じゃあ逆に、苦痛を進んで受けるのはどうですか?」
息を呑んだ様子の恵さん。
「何処の世界にわざわざ苦痛を受けたがる種族が?」
ただ素直に、僕は答えた。恵さんは目を輝かせる。
「はい、先輩はS認定!」
「わけが解らないわ……」
晶さんはただ溜息をつく。
「さて、私は教室へ行くとしましょう。フレイ先輩、またサプライズを期待してますよ」
上機嫌なステップだ。スキップではないが軽やかな足取りだ。
「不思議な娘だね。あんな娘には出会った事が無いくらいだ」
「確かにそうよね……」
上機嫌な恵さんを眺めながら、僕と晶さんは登校する。
登校二日目の朝は、周囲の目線が違って見える。僕を珍しそうに見る雰囲気が充満している。好奇心というより疑心らしきものにも感じる。
既に自分の席に着いていた愛良さんは、僕に気付くと驚いた様な顔を一瞬見せて読書へ没頭する。
「おはようフレイ」
優斗は昨日と変わらない雰囲気だ。既に僕相手に気兼ねしていない気楽な様子だ。
「やぁフレイ君。昨日は魅せてくれたね。あ、魅せるの魅は魅力の魅だよ」
「昨日?」
とんでもなくにやにやしている優子さんの雰囲気も、優斗同様に好ましい。ただ好奇の目は周囲の誰よりも強く感じる。
「昨日は愛良ちゃんの可愛らしいテンパり顔、いただきました」
優子さんの目線を追うと、読書中の愛良さんに行き着いた。そして愛良さんと目が合う。
「あぁ、もしかしてあの事かな?」
「別にテンパってねぇっての!」
突如愛良さんが立ち上がり、僕達に向かって叫ぶ。
「照れなくて良いって。あんな事されたら、乙女は誰でも身体中が刺激されて快楽的な意味でおかしくなっちゃうもんだよ。感じちゃうもんだよ。まさに頭を撫でられ和んでいたら徐々に首の後ろから背骨をなぞられ最後に柔らかな秘密を撫でられるが如く気持ち良くてたまらなくなるもんなんだよ」
「優子、お前ちょっと静かにしとけ」
「品が無いわよ優子さん」
饒舌に喋る優子さんの口を押える優斗と、溜息交じりに一言注意する晶さん。
突然、優斗は驚いた様子で優子さんから手をどける。優子さんが舌を動かしてた様子を見ると、優斗は手を舐められたようだ。
「でも見た目的にはやらしくもなかったでしょ? ほら、お嬢様の手の甲に」
「黙れ優子! 何が欲しいんだ? アイスでも奢れば良いのかおい?」
喋る優子さんに掴みかかり、無理矢理黙らせる愛良さん。しかしその表情は、敵や憎しみは感じられない。ただ恥ずかしがっているだけだった。
「いやん愛良ちゃん、優しくしてん」
火照った表情で優子さんは甘く囁く。目も潤ませているが口角は上がっている。多分、笑いを堪えているんだろう。
あまり他人と関わる様子の無かった愛良さんが羞恥と焦燥の感情で溢れている。原因は僕と理解はしているが、何故恥ずかしがっているのかは僕にも解らない。
「君はもしかして、僕のせいで困っているのか?」
「え?」
原因は僕にあると理解はしているから、僕は誠意を見せなければならない。
「だとしたら……ごめん」
頭を下げる事しか思い浮かばない。
「お、おいこら、頭上げろ」
僕はすぐに頭を上げると、愛良さんのやや困った表情が見えた。
頭を下げる僕に困るという事は、僕に対して怒りを抱いているわけではないのだろう。
「あんたがあんな事……悪気があってしたわけじゃねぇのは解ってんだよ……」
「そうか……良かった」
僕はふと安堵の一言を告げる。そしてまた、愛良さんは恥ずかしそうな表情を見せた。
「で、でも、もうあんな事すんなよ!」
「まんざらでもなかったくせに、そんな言い方は身体に毒ですよ」
突然愛良さんの背後から恵さんが姿を現す。
「やぁ恵さん。また会ったね」
僕は平然と挨拶をするが、突然の登場で愛良さんは勿論だが、他の人も驚いている。
「とりあえず、愛良先輩にフレイ先輩の善意は伝わってたって事が御理解頂けたところで……なんと、お一つ耳寄りな情報を」
「何それ? めっちゃ聞きたい」
優子さんの好奇心旺盛な雰囲気に、恵さんはにやりと笑う。
「愛良先輩の手の甲にできた傷をフレイ先輩が応急処置したのは知ってますね」
「あぁ、そうそう、応急処置だなぁ、うん」
愛良さんは慌てた様子で言葉を重ねる。
「実は走り去った後、愛良先輩はその傷口に自分の」
「おいお前、もしかしてあたしをゆすってんのか? 何か奢ってほしいのかおい?」
恵さんが何かを離し終わる前に愛良さんは背後から両肩を掴み、自分の方向へ向かせる。
「その顔が見たかったんですよ。普段から達観した様な愛良先輩の恥ずかしがる顔がね」
恵さんから歓喜の感情が伝わる。その分愛良さんの恥ずかしそうな感情が、一層強く正直に伝わってくる。
「愛良、こいつは悪どい事だけはしねぇから、それだけは解ってやってくれ」
「そうですよ、私は劇的瞬間を拡散させず記憶に留める主義なので。ツイッターは情報収集に使いはしますが情報を発信させることはしませんね」
優斗と恵さんの言葉で、愛良さんはそっと恵さんの両肩を離す。
「余計な事は言わねぇって事か?」
「そうですともそうですとも。フレイ先輩の応急処置に重ねて愛良先輩が自分で応急処置したって事は絶対黙っていますとも」
「何ぃ? つまりフレイ君による手の甲へのちゅーに自分のちゅーを重ねて間接ってか?」
さらりと話す恵さんに、優子さんは大袈裟に反応している。その瞬間に愛良さんは顔を一気に赤くした。
「おや優子さん、何故解ったんですか?」
「お前が言ったんだろうがぁ!」
「さて、それじゃあ土屋恵はクールに去りましょう」
掴みにかかる愛良さんをするりと避け、恵さんは教室を去って行った。
愛良さんは周囲を威嚇する様に見回しているが、まだ恥ずかしそうな顔をしたままだ。
「お前等! 今聞いた事は忘れろよ!」
「おうとも、その手の甲で間接ちゅーはもう忘れるよ」
「連呼すんなごるぁあ!」
愛良さんは優子さんの両肩を掴んで、ただ揺らす。優斗が愛良さんを宥めてはいるが、当分愛良さんは収まりそうにない。
しかし愛良さんは素直に羞恥も感じている。それが素直に可愛らしいと思える。そして周囲の愛良さんを見る目が、恐れている様な冷えた感情が徐々に暖まっていくのも解る。
「不思議だな」
「あぁ?」
「周りの雰囲気が少し好ましいものに変わった気がする」
僕と愛良さんの目線に合うと、その人達は慌てて目を背けるが、それは気まずさであり恐れではなかった。
愛良さんは優子さんの両肩から突然手を離し、右手の甲を左手でそっと覆う。
「痛むのかい?」
「い、痛くねぇよ!」
愛良さんはそそくさと自分の席へ戻り、身体を窓の方に向けて座った。
「まぁでも、金城君もこれからは気を付けるべきよ」
「気を付ける?」
晶さんから急に話しかけられる。
「キスは挨拶代わりになるものじゃないのよ」
愛良さんを見ながら、晶さんはそう告げた。
「確かに……愛良さんを見て、初めてそう思う」
キスの価値が僕と人間の間で大分違ったのを実感した。人間は手の甲でも、恋愛表現になり得るのだろう。
「あたしも一緒して良いか?」
昼休みの昼食時、愛良さんが僕達に同席を持ちかけた。
「勿論だよぉ。どうぞどうぞぉ」
優子さんがとても友好的に迎え入れる。
愛良さんは僕の左隣に座り、食事の用意を進める。
「久し振りだな、愛良さんとメシ食うの」
「あ? そうだった?」
「去年はあたしと優斗、そして愛良ちゃんでよく食べたもんさ」
平和兄妹は懐かしそうに話し始める。
「お前があたしのおかずつまみ食いしなきゃ今でも一緒に食べてたさ」
愛良さんも懐かしそうに話し出す。呆れ気味な様子だが、雰囲気は優しく感じる。
「えー? あたしもあげたじゃん」
「俺の弁当からな」
賑やかに話す優子さんに、優斗は少し呆れ気味にそう一言を零す。
「それで優斗の弁当は少し多めなのか」
「まぁ、男子と女子じゃ差もできるもんだろ?」
平和兄妹の弁当の中身は料理の種類こそ同じだが、優斗の方が弁当の質量は大きい。
「男子と女子と木原学級委員さんとでは、ですよ優斗さん」
恵さんが僕の右隣にちゃっかり座っている。
「中学生! お前いつの間に?」
「ぉいっす皆さん。恵ちゃんですよ」
驚く愛良さんとは、自分の弁当を庇う様に箸を添える。
「先に言っとくけどな、つまみ食いしたら……な、なんだよ?」
恵さんは愛良さんの弁当とその箸を握る手をじっと見ている。
「指に傷跡が見当たらない様子を見ると……料理はお得意みたいですね」
「は?」
「ぴんと来ましたよ私。それは愛良先輩の手作りですね」
「御行儀が悪いわよ、土屋さん」
恵さんの左手に握られた箸は愛良さんの弁当を指していて、それを注意する晶さん。
「随分と嬉しそうに言うんだな……確かに自分で作ったけどよ。やらねぇぞ」
愛良さんは、更に弁当を庇う様に自分の方へ寄せる。
「頂きましたとも、既に」
不思議そうに見ている愛良さんに、恵さんはにやりと笑う。
「ギャップ萌えってやつですよ」
「はぁ?」
「やっぱり私の目に狂いはありませんでしたね。愛良先輩はおもしろい娘ですよ」
「一応褒め言葉だよ」
優斗の一言で、恵さんの不思議な解説も一気に解読される。
「こいつは解んねぇ奴だな……まぁ悪い奴じゃねぇのはなんとなく解るけど」
それは確かに解る。しかし、また恵さんから発せられる謎の言葉だ。
「萌え?」
「気にすんな、俺にも解らねぇ言葉だ」
優斗が僕に淡々とした様子でそう答える。
「えー? あたし解るよ。なんかこう愛おしい気持ちってやつだよ」
「貴女の場合女子の殆どが萌えの対象になるんじゃない?」
晶さんは呆れ気味に優子さんへ言葉を挟む。
「まさか? ただの美人に萌えがあると思うかい?」
「講義の時間は後にしろ、平和妹」
愛良さんも呆れ気味に優子さんへ言葉を挟む。
しかし僕は、その謎の言葉への理解を深めずにはいられないと直感が働く。
「いや、興味深いな。教えてもらって良いかな?」
「え?」
僕に対して、愛良さんは少し驚いているみたいだ。
「手短にな優子。お前ただでさえ奇妙な残念っぽい美少女って評判受けてるのにもっとそんな評判受ける様になったら、俺は他人のふりするからな」
「ふっ、あたしは純愛よりも好奇心を向けられる事に好意を感じるのさ」
優斗はただ平淡に不敵に笑った優子さんに告げている。
「それで、萌えって?」
「仔猫と猫耳付けた美少女が並んだ時に解るものさ」
例え話をしただけで、優子さんはそれ以上は話さなかった。
「優子さん、この際百聞は一見に如かずですよ」
「なんで持ってんだ?」
愛良さんが不思議そうにそう言ったのでその視線を追うと、恵さんが取り出しいたのはヘアバンドだった。しかし不思議な形をしている。猫の耳が取り付けられていた。流石に本物ではないが、見た目だけなら僕をも騙せる程の精巧かつ魅力的なものだ。
「これを木原学級委員さんにせたっぷ」
「ちょ?」
「どうですか先輩」
黒髪の晶さんに突如出現した黒毛の猫耳は、晶さんには猫の耳がそのまま取り付けられた様に見えた。そしてやや恥ずかしそうにしているのが新鮮で、そして可愛らしい。
「成程……仔猫はただ可愛いだけだが、猫耳を付けた少女はそれとは違った可愛さがある……という事かな?」
「こ、これは没収ね!」
すかさず晶さんは頭部から猫耳ヘアバンドを外す。
「まぁ! 木原学級委員さんったらいけないひとっ!」
「晶ちゃんにそんな事したらそうなるだろうと予測はできたでしょうに恵ちゃん」
「助けてくださいよ優子さん」
恵さんは優子さんに助けを求めている。
僕はふと晶さんに視線を移すと、晶さんはただ微かに溜息をついているだけだった。
「大丈夫だよ恵さん。晶さんは怒ってなんかないよ」
「え?」
「猫耳付けたくらいで怒る奴じゃねぇさ。ざっと見ても馬鹿にしてる様な感じはねぇし」
愛良さんは恵さんにそう告げつつ、周囲を見渡している。確かに晶さんを愚弄する様な感情は何処にも無い。実際晶さん本人にも負の感情は感じられない。
「別に取ろうとなんてしてないわよ」
そっと恵さんに渡す晶さん。
「で……それは何処に行きゃ買えんだ?」
受け取る恵さんに愛良さんはそっと聞いていた。
僕が不思議そうに視線を向けていると、平和兄妹と晶さんも視線を向けていた。
それに愛良さんは気付いたらしく急に焦った表情を見せる。
「ちがっ! 違う! 妹がそういうの好きだって言うもんで! 何処で手に入るのか気になるだけだっつの! なんで黙ってんだよ! なんか喋ってくれよ!」
「欲しいんですか?」
恵さんが、にやにやとしながら愛良さんの目を覗く。
「欲しいんじゃねぇし! 他人様からは受け取れねぇだろ! 御馳走様!」
愛良さんはさっさと片付け、僕の左隣から去って行った。
家に帰ると、フレイアから買い物を頼まれた。
午後五時を回りかける空は、ほんの少し暗い。今時の男は、ジャケットにシャツそして必ず九分丈のジーンズかパンツだとフレイアから言われていたので、そういう服装に着替えて外出する。黒いジーンズに白いシャツ、灰色のジャケットはフレイアのコーディネイトだ。
ここは電車という大勢の人間を乗せられるものが多数集う駅……人間の移動拠点らしき所が近くにあり、その駅は大規模なものらしい。だから周辺には店の並びも多様で広い。当然人も集っている。
「ん?」
右手側から、途轍もなく強い歓喜の感情を察知する。その感情は静かに昂ろうとして、だがそれを強い信念で抑えている気配だ。故に強い感情だ。
そして視界に映る少女は淵の黒い眼鏡をかけている。服装は白を基調としたシャツにデニム生地のショートパンツというややフィットした服装とは不釣り合いに大きい上着を袖に通している。ダークグレイのジャケットは少し暖かくなってきた気候には不釣り合いだと思った。
涼しい風が吹いた。そのジャケット少女の髪が靡く。陽光に照らされる小麦に似た輝きだと感じた直後、僕を見て微かに驚くやや幼い顔つきは、この世界では女神や天使と呼ばれている美少女と同じだった。
「美雪さん」
「え?」
僕の視界に映った眼鏡をかけた美雪さんは、更に驚いている。
「どうしたんだ? そんなに驚いて」
「え、ええと……まぁ……これは……その……」
美雪さんは両手に握っていた物で顔を隠している。それはゲームのパッケージだった。
故郷でフレイアによる講義にも出てきた人間界の娯楽文化の一つだと学んではいたが、近くで見ると相当な大きさだ。こんなに大きなパッケージだという事は、きっと限定版という部類なのだろう。
「幻滅……した?」
ゲームパッケージの後ろから、美雪さんはそっと顔を覗かせる。
「何が?」
俯いた視線を僕に定める美雪さんは、強い覚悟を宿した目をしていた。
「フレイ君は、ゲームをする女の子ってどう?」
微かに震えた声は、美雪さんの恐れを表しているかのようだ。
「どうも何も……おかしくなんてないと思うよ」
実際、故郷で実技という事でフレイアとゲームを嗜んだ事もある。フレイアはRPGというジャンルを好んでいたな。僕はスタイリッシュアクションという部類には熱中した。
「そう? 良かった」
安心以上に、新たな喜びを発見した感情を美雪さんは僕に真っ直ぐ伝える。
「フレイ君はゲームとかってする?」
距離を詰め、僕を見上げる美雪さんの視線は熱い。
「妹がやったりしてるのを見た事はあるかな?」
「見てるだけ?」
突然勢いが緩む美雪さん。
「最近のゲームは見てるだけでもおもしろいものがあったりするよ」
「えぇ? 勿体ない! ゲームはやってみないとおもしろさも減っちゃうよ!」
「美雪さん?」
「確かに昔のゲームはね、ただクリアをするだけで技術を磨いたり感動を味わったりする要素を極力削いで作られた言うなら達成感だけを味わう生活と隔離しちゃってる様なものでも名作になってたの。でも裏を返せばゲーム自体が少ないから希少価値とかそういうのも色々あって名作になれてたんだよ。でも今はキャラクターデザインに思わず欲情しちゃう様な絵を上手く描けるレーターさんやストーリーにボキャブラリーを鍛えてくれる程の語彙能力を持っているライターさんや、戦闘だって特撮アクション程に進化したアクションで自由に戦闘できちゃうロープレとか主題歌も良いアーティストや声優を使うゲームも増えてるんだから、やらないと勿体ないよ! ゲームをやらずに声優さんのイベントだけ行って明らかに見た目の超絶可愛い女子声優を冷遇するコンテンツを廃らせる腐女子は許さないもん! 新しいものに適応しようともしない懐古厨も許すまじ!」
「な、成程……」
抑えていた歓喜の感情を開放しただけでは、こんなに熱の籠った講義はできないだろうな。だとすれば今の美雪さんが抱く感情は……義務感の様な堅さは無い。僕の答えに反論を述べる圧迫感も無い。ただ熱すぎて解り辛いが微かに感じた喜びの気持ちは……フレイアが時折僕に向ける甘えの感情にも少し似ている気もする。
これも愛情か。
僕が静かにしていると、美雪さんは徐々に照れ隠しの苦笑いを見せる。
「と、とにかく、やらないと勿体ないよ!」
「熱意は伝わったよ……愛情にも似た感じのね」
「まぁ初心者はプレイ動画視聴から入ると良いよ。例えば、このスタイリッシュアクションの代名詞ジャッジ・オブ・ベリーフシリーズなんてお勧めだよ。ちなみにこれは四作目改良版」
「四作目改良版が出たのか?」
故郷で結構遊んだ事のあるゲームだったので、思わず驚きの言葉が漏れる。そんな僕を見て美雪さんは、満足そうにはにかんでいる。
「ゲームの事を語る君は、一層可愛く見えるよ」
「そ、そうかな?」
俯きつつも、美雪さんは微笑んでいる。
「じゃあ、私は早く帰ってこれをやろっと」
上機嫌な足取りで、美雪さんは歩き始めた。
「あ、今日ここで私に会ったことは皆には内緒だよ」
一点の曇りが見当たらなかった笑顔だった。僕は美雪さんの顔から視線を離せずにいた事を、距離がやや遠くなってから気付いた。
「女神には見えないが……今僕が感じるこの気持ちは……」
思考が正常運転の筈なのに、止まっているという事が何故か解る。
「ん?」
僕の右足に、微かな重みを感じる。
見下ろすと、少しだけ大きい猫が僕の右靴の上を寝転がっている。
「これは……」
「転校生?」
猫に視線を定めていると、低めに透き通る転校生と発せられた声が僕に届く。声の方向へと向けば、驚いた表情の長い金髪を靡かせる美少女だった。
「愛良さんじゃないか」
「あんたなんでこんな所に?」
「妹の御遣いだよ」
答えると、愛良さんは穏やかな雰囲気を纏う。
「そっか……妹がいんのか……」
愛良さんの猫に向ける視線は、とても優しい気質を感じさせる。
「あんたもその猫に強請られたのか?」
「強請る?」
「首輪してねぇとこ見ると、野良だろうな。でもってちゃっかり人間への甘え方を知ってるときてるから、大したもんだよな」
愛良さんは優しく笑っている。
愛良さんの右手には、チョコチップメロンパンが握られていた。左手には様々な食糧を詰めた布製の袋を持っている。メロンパンだけが封を切られ、直に握られている理由が実に謎だと直感が働いている。
「こ、これは少し小腹が空いたから今食べようと思ってだな……つか、あたしが何を買ってもいいだろ?」
愛良さんは猫に視線を送っている。そして何故か焦燥の様子を見せる。
「僕は何か君を困らせてしまってるのか?」
身に覚えが全く無い。しかし、愛良さんが焦っている様にも見えるのも事実だ。
「そうじゃねぇよ……ほら、妹の御遣いあんだろ? ほら早く行った」
「あぁ、そうだね」
僕はまず、足元に転がる猫を両手で抱き上げる。
「っておい、その猫どうすんだよ?」
「猫には相応しい生き方があるんだ」
右手で頭をそっと撫で、そしてゆっくりと足元へ降ろす。猫は素早く走り去った。その速さは疾風の如く俊敏で、強靭だった。
「やはり猫は、駆けるその姿があってこそ弱さも愛おしい」
誇らしい気分で、僕は猫を見送る。
「食べないの?」
「え?」
愛良さんは心配そうに猫を眺めている。
「そのおやつさ」
「あ、ああ、今から食うとこ」
慌てた様子でメロンパンを食べ始める愛良さんの傍を、僕はゆっくり通り過ぎる。
愛良さんの慈愛の感情は、猫に向けられているのはすぐに解った。しかし猫は人間に愛されようとも、人間の愛に溺れてはためにならない。狼と猫は、僕達の故郷においては神と並ぶ程に敬いつつ時に喧嘩もするが、決して甘やかさず堕落させない間柄を保つ存在だ。だから僕は猫の甘えを断ち切らせるために愛情を込め撫でた。
家に帰れば、フレイアが仔猫の如く軽やかに跳びかかられた。
そして今、今日の学校での報告会を開催中だ。
「お兄ちゃん、今誰の事考えてる?」
「誰って?」
「実は今日何も連絡を入れなかったのはね、彼女候補は誰が良いかを見定めてたからって理由なんだよ」
「そうだったのか……」
突然の話始めるフレイアは、楽しそうに振る舞っている。
「で、思ったんだけど、フレイアはお兄ちゃんに何も指示しない方が良いんじゃないかという結論に達したから、明日からフレイアも一緒の学校に行くね」
「そうなんだ」
「お兄ちゃん、嬉しい?」
「あぁ、フレイアも外に興味を広げてくれたみたいで、ちょっとな」
「その言い方はフレイアが外に興味を持てずに引き籠もる人種からようやく脱却できた言い方っぽく聞こえてしまうんですがねお兄ちゃん」
「え? あ、いや、僕は決してそういう意味じゃ――」
「解ってるってばもぅ。お兄ちゃんは可愛いなぁ」
フレイアは本来自由奔放な気質の持ち主だ。だからこそ、より見聞を広めようとする姿勢が誇らしく思えてくる。
「で、お兄ちゃんは誰の事を考えてたの?」
「猫かな?」
「え? 猫?」
「今日駅前に出たら、猫が捨てられていたんだ。僕が野生に放ったから飢える事は無いと思うけど……」
この世界の猫は、本当に獣だった。姿形は故郷と同じだったが、纏う気質に差があった。
「質問を変えるね、お兄ちゃん。火野愛良さんと水樹美雪さんの事はどう思ってるの?」
「どう……って?」
特定の名を出され、僕は驚く。
「ちなみにあのソファはおじいちゃんが使ってるものと同じ材料で作ってもらったんだよ」
連絡をしてはこなかったが、僕をずっと見ていたのは間違いないようだ。
「念のため聞くけど……」
「お兄ちゃんが愛を学ぶために査定をするのも可愛い妹のお仕事ですから」
僕の心配事とは無関係な答えだった。それにしても上機嫌なフレイアだ。
「僕だって男と女性の区別は服を着てたって気配で解るよ」
「気配で肌を識別した事ないでしょ?」
「それはまぁそうだけど……」
フレイアはできるらしい。僕はやろうともしないから、できない事だ。
「余計なものは生えてませんでした。そこが大きなポイントだったけど様々なフレイアの審査によって、外見は査定通過ってとこだね」
「ん? 余計なものが生えてる女性がいるのか?」
「人間にはいるらしいよ。フレイア達にはまったく解らない世界だね」
服を着ていると男女の区別が難しい世界だったとは初めて聞いた。
「恐ろしいな……こればかりはフレイアに感謝するよ」
「お兄ちゃんなら美少女に脱いでくれって言っても上手くいくと思うなぁ」
にやりと笑っているフレイアに、僕は苦笑いを返す。
「それは無理だよ。キスで恥じらうくらいだったからさ」
「まぁ脈あるから恥じらったんだろうけどね」
僕を眺めながら、フレイアは独り言みたいに呟く。
僕が不思議そうにフレイアを眺めていると、フレイアはやや恥ずかしそうに姿勢を正す。
「こほん。とりあえず明日から一緒に学校行こっ、お兄ちゃん」
フレイアが僕と共に学校へ行く事になった。なんとも誇らしい事だろうか。
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