第三章 曇天模様とぼくたちの気持ち

 ホタルを見た日から数日が経って八月になった。日を送るごとに、どんどん暑くなっていく。

 この家では、基本的に扇風機が主流で、エアコンは節電のために使わない決まりになっている。

 でも、今日くらいはつけてほしかった。本当に暑い。

 太陽は出ていない。このところ晴れが続いていたから、久し振りの曇り空だ。でも、だからかな、じめっとしていて余計暑い。嫌な暑さだった。

 縁側で横になっていても全然涼しくなかった。風が吹かないから風鈴は鳴らないし、もし鳴ったとしても気分が沈んでいるせいで淀んで聞こえる。

「暑いなぁ……」

 ぽつりと漏らしたその声は、ひどくかすれていた。

 ごろごろしていても仕方がないので、起き上がって外の景色を見てみる。

 曇天模様。雨の気配がする。もういっそのこと、降ってしまえと思う。それでも雨は、どこかタイミングを見計らっているかのように降ろうとはしない。

 そんな空を見ていてもつまらない。ぼくは扇風機を止めて部屋に戻ろうとした。

 何をしよう。宿題……ゲーム……昼寝……。

 正直、どれもする気になれなかった。

 天気が悪いせい? いや、違う。この気だるさは少し前から続いている。別に風邪とかではない。ただ、気分が優れないだけ。

 あの日から。……ホタルを見た日から、ずっと。

 結局あれからぼくはいまだに答えを見つけられていない。夏休みの宿題より厄介かもしれない。

 秘密基地に行くとナツキがいるかもしれないから、ホタルの日から一度も行っていない。

 もしかしたら外を歩いていても出くわすかもしれないと思って、外にも出なかった。でも、ずっと引きこもっていたわけではない。たまにノリくんと自転車で町を案内してもらった。ただ、秘密基地のある場所とは反対側のところだけど。

 秘密基地に行かなくなって数日。あの場所の居心地のよさに気づく。それは秘密基地だからっていうこともあるけど、やっぱり、あのメンバーだからっていうところが一番大きい。

 テツロウがいて、ケンイチがいてミナミがいて。そして、ナツキがいて……。

 でも、ナツキがいるからこそ行きたくなかった。行けなかった。

 相変わらずふとした拍子にナツキのことを思い出す。さすがに、右手にあった感触はもう消えたけど。でもその分、ナツキが思い浮かぶ。

 浮かんでは消えて……浮かんでは消えて……。一体、何なんだろう……これは。

 そして、今も――。

 と、階段を上っていると誰かにぶつかった。顔を上げると、そこにはノリくんがいた。

「どうしたの、ユウキくん? ぼうっとして」

「あ、ごめん……」

「大丈夫? 顔色、悪いよ?」

「そうかな、大丈夫だよ……」

 暑いし、気だるいし、ナツキが頭をよぎったと思ったら消えたし。本当のところ、大丈夫じゃない。

 ぼくって、強がってばかりだ。

 無理に笑おうとしたぼくを見て、ノリくんは何やら考え事をしているみたいだった。そして、何かを思いついたように息を吐き出した。

「ユウキくん、ちょっと」

 ぼくはノリくんについて行った。

 招かれたのは、ノリくんの部屋だった。

 始めて入ったノリくんの部屋は僕と同じくらいの広さだった。ただ、物が多くて少し狭く感じる。それもそうだ。ぼくの部屋は昔ノリくんが使っていたもので、ほとんどの物をこっちに移したのだから。

 本棚にはたくさんの本が窮屈そうに詰めこまれていた。秘密基地にあったジュンズ漫画もあれば、知らないタイトルばかりの小説もある。勉強机の上には教科書や参考書が小さな山を作っていて、箪笥の横にはギターが立てかけてあった。

 ギター弾くんだ。ここに来て一度も音を聞いたことがなかったから知らなかった。

 上手なのかな、とギターの方を向いていると、ノリくんは照れたように笑う。

「あー、そのギター。もらい物というか何というか。ちょっと前にほとんど無理やり押しつけられたんだ……。放置するのもかわいそうだなって思って、ちょっと触ってみたんだけど、指痛くってさ。結局放置。だから、何も弾けないんだ。ごめんね」

「そう、なんだ」

 言われてみると、少し埃をかぶっているように見えた。

「そこ、座っていいよ」

 ノリくんに促されて、ぼくは部屋の真ん中に置かれたテーブルの前に座った。その反対側にノリくんも座って、お互い向き合う形になる。

 ……何か、重い雰囲気。ノリくんの顔も、心なしか陰って見える。どうしたんだろう。

「あのさ、ユウキくん……」とノリくんは口を開いた。声にも影が落ちている。「最近、何かあった?」

「え?」

「ああ、いや……。別に深い意味はないんだけどさ。ここんとこ、ずっと家にいるだろ? だから何かあったのかなって。その……友達とケンカした、とか」

 ノリくんは頬っぺたをかいて苦笑いを張り付ける。

 ノリくんはぼくが秘密基地に行かなくなったことを心配してくれているようだった。でも、心配のしすぎだと思う。いちいち部屋に呼ばなくても、こんなに重い空気を醸し出さなくてもよかったのに。

 心配性のノリくんに、ぼくは笑って答える。

「別にそんなんじゃないよ。みんなとは仲いいし、今日は行こうって思ってたんだ」

 それは嘘。行こうだなんて、思ってない。

「そっか。それならいいんだけど」

 それならいい。ノリくんはそう言ったけど、まだ納得できていないみたいだ。

 割と上手く嘘をつけたつもりだったんだけどな……。

「それじゃあ、さ」とノリくんは再び話を切り出した。「何か悩んでることでもある?」

 ある。何個かある。

 ノリくんの言葉を聞いた瞬間、ナツキの顔が浮かんだ。

 ノリくんに言う言葉を探す必要があって、頭からナツキを振り払いたくて、その二つを同時に処理しようとして、ぼくは顔をそむけた。それが、間違いだった。

「当たり、かな」

 自分のことで精いっぱいだったぼくは、その言葉を聞いて、ようやく自分の行動が間違いだったことに気づいた。

 知られてしまったら、仕方がない。ぼくはぽつりぽつりと話し始めた。

「えっとね、二つあるんだけど……」

「うん」

「一つ目は、友達になる方法を教えてほしいの」

「友達? それって、いつものメンバーの他に、別で友達になりたい子がいるってことだよね?」

「うん。あ、でもみんなもその子のことは知ってるんだ。……けど」

「けど?」

「誰にも心を開いてくれないっていうか。話しかけても無視されるんだ」

「なるほど」

「友達がその子に声をかけてからずっと気になっちゃって。……どうしたら友達になれるのかなって」

「んー……」そうだなぁ、とノリくんは腕組みをする。「どうしても気になって仕方がないんだったら、無理やり誘えばいいんじゃない? 『駄菓子屋行くよ!』って強引に引っ張って行くとかさ」

「嫌われたりしないかな」

「それで嫌われるんだったら、そこまでってことだよ。それなら、諦めはつくと思う。でも、今はまだ諦めきれてないんでしょ? だったら、ぶつかってみるべし、かな」

 と、ノリくんは拳を前に突き出してきた。ぼくはそろそろと自分の右腕を伸ばして、コツンと当てる。すると、ノリくんはニッと笑ってみせた。

「それで、次の悩みは?」

「次は……」

 二つもあると宣言してしまったのに、その二つ目がどうも喉につかえて出てこない。だって、その悩みは……。

 その悩みは、ナツキに関することだから。

 一度頭から振り払ったナツキが、またちらつき始めて、胸の鼓動を速くさせる。

 それは日が経つにつれて強くなっているような気がした。ホタルの日からずっと叫びたがっている何か。どんどん大きくなっているのに、それが何なのか分からない。

「……あ、あのね、ノリくん……」どうにか押し出した声は、小さく細かった。聞こえているか不安だったけど、ノリくんは頷いてくれた。「……ある人のことを考えると、その人で頭がいっぱいになって、胸が苦しくなって、……よく分かんないけど、何かを叫びたくなるんだ。でも、それが何なのか分からなくって……ぼく……」

 言っている間も、ずっと左胸が落ち着かなかった。言い終えたぼくは、自分の手をきつく握っていたことに気づいた。それに、手だけじゃなくて、全身に妙な力が入っている。

「な、ユウキくん」話を聞き終えたノリくんは、ぼくの名前を呼んだ。その声に、俯き気味だった顔を上げる。「その子って、女の子かな?」

「……うん。そう、だよ」

「そっか」とノリくんは少し笑った。そして「青春してんなぁ」と呟いた。

 青春……? これが? ぼくにはその言葉の意味が理解できなかった。

 ぼくがそうして頭にハテナマークを浮かべていると、ノリくんはくすくすと笑って、でも次の時には真剣な表情になってぼくに話し始めた。

「ユウキくんてさ、学校に好きな人いない?」

「え?」

「好きな人だよ。あ、さすがにそういうのは言いづらいか……。んー……じゃあ、気になってる人は?」

「気になってる人?」急にそんなことを聞いて、どうしたんだろう。ぼくの悩みと関係があるのかな。少し疑問に思ったけど、ぼくは「気になってる人は……いないよ」と答えた。

 そう、いない。……学校には。

「それじゃあ、今までで気になった人はいない?」

「今までなら……いる、かも……」

「その時のことって思い出せる?」

「えっと……ドキドキ、した」

「うん」

「でも、今みたいな感じじゃなかった。今は、もっとドキドキする。会った時だけじゃなくって、ふとした時にも胸が痛くなるんだ……」

 ……病気、なのかな。と付け加えた。病気。ナツキの病気。

 すると、ノリくんは「確かに、そうかもね」と笑った。どうして笑えるんだろうと思っていると、ノリくんは言った。

「ユウキくん、それは、恋の病だよ」

「恋……の?」

「そう」

「恋の、病」

「ユウキくんは、その子のことが好きなんだ」

 ぶわっと顔が熱くなるのを感じた。暑いなぁー、とごまかす余裕もなくて、ぼくはただ顔を逸らすので精いっぱいだった。

 好き。……ナツキが、好き。

 目の前にノリくんがいるのにもかかわらず、頭の中でいろんなナツキが現れる。

 嫌じゃなかった。ううん、そうじゃない。だって、そうしているのが、ぼくだから。ナツキが勝手に現れたんじゃなくて、ぼくがナツキを思い出している。

 ナツキが好き。それが、ホタルの日から、ずっと叫びたがっていたぼくの気持ち。

 嬉しかった。それに気づくことができて。ずっとモヤモヤしたまま、答えを見つけられないまま、残りの夏を過ごしていくのかなって考えていたから。

 苦しかった。ナツキのことが好きだと気づいても、やっぱり苦しいものは苦しい。だって、告白なんかしたことないし、きっとできない。ぼくはユウキっていう名前だけど、臆病だから。

「ぼく……どうしたらいいのかな」

 素直にそう尋ねた。もう、ためらいや照れみたいなものはなかった。

 顔を上げると、ノリくんは相変わらず穏やかに笑っていた。

「一番は自分の気持ちを伝えることだけど……それができたら苦労しないよね。それは、俺もよく分かる」

「ノリくんも?」

「うん。……まあ、ユウキくんも話してくれたんだし、俺も一つ、話そうかな」そう言ってノリくんは咳払いを一つした。「実は、俺、彼女がいるんだ」

 やっぱり。それは、何となく分かっていた。ドア越しに聞こえた電話の相手、マナミという人がそうなんだろう。

「彼女、と言っても、どちらから告白して付き合ったわけじゃないんだ。お互い、照れくさくって、何となく自然と付き合う形になった。……中三の、夏ごろかな。

 彼女――マナミっていうんだけど、マナミには夢があったんだ。歌手になるっていう。だから、高校は東京の学校に行くことを決めていた。まあ志望通り、彼女は今、東京の学校で頑張っているんだけど、ここを出ていく時に、これまで『好き』だと言えなかったから、言おうと思ったんだ。

 でもね、結局、『頑張れよ、夏と冬には帰って来いよ』としか言えなかった。やっぱりさ、言うべき時に言えなかったやつが、別れの時に言おうとしても無理だったんだ……。向こうも『寂しくなったらギター弾いてね』なんて返してくるし……」

 そう言ってノリくんは、寂しそうな眼差しで壁に立てかけた埃っぽいギターを見る。

「そうやってずるずる自分の想いを言えないまま、今になった。そして、さ……」とノリくんの声が突然小さくなった。「そして、あいつはまた、遠くに行こうとしてるんだ」

「……それって」

「留学、イギリス」

 ノリくんの口元は笑っていたけど、それは複雑な笑みだった。

 その言葉を聞いた時、妙にすとんと腑に落ちた。あの時の電話は、きっとそのことについてだったんだ。

「嬉しかったよ。世界のことを知るチャンスが巡って来たんだ。断る理由はない。でもね、その反面、想いを伝えられないまま、マナミが遠くへ行っちゃうのかなって、考えてしまったんだ。もうすでに遠くにいるのに、さらにその向こうへ行っちゃったら、もう、言えそうにない……」

 そこで、沈黙が降りた。外は縁側で見た時と変わらず曇っていて、風も吹かない。セミだって全然鳴かない。くすんだ夏の日。

 ノリくんに何か声をかけようとして、でも言葉が見つからなくて、口をパクパクさせるだけだった。すると、ノリくんは一度深呼吸をして、話を再開させた。

「そういうわけでさ、好きな人に気持ちを伝えることの難しさは、俺も知ってるんだよ。でも、それだけじゃなくて、気持ちを伝えないでいると後悔するってことも知ってる。ユウキくんには、俺と同じようになってほしくないんだ」

 押しつけがましいけど、とノリくんは苦笑する。

 ノリくんは、マナミさんに気持ちを伝えられずに後悔した。ぼくだって、この夏が終わる頃にはここを離れないといけない身だから、ぐずぐずしているとノリくんみたいに後悔するかもしれない。

「ノリくん、ぼく……!」だからぼくは、覚悟を決めた。「ぼく、ナツキに告白する!」

 ノリくんはしばらく驚いたように目をパチパチさせていたけど、すぐにその目を細めた。

「そっか。ナツキちゃんっていうのか。頑張れよ、ユウキくん」

「うん! だから……」ぼくは、さっきノリくんがやったように、拳を突き出した。「ノリくんも、頑張って。男と男の、約束」

 またしてもノリくんは目をパチパチさせた。そしてさっきと同じように目を細めて、コツンと拳を合わせてきた。

「ああ、約束な!」

 ようやく、ぼくも笑えた。

「ねえ、ノリくん」拳を下ろしたぼくは、気になっていたことを聞いてみることにした。

「ん?」

「どうして分かったの? ぼくが、悩んでること」

「うーん……顔見たら分かるよ」

「……そんなに顔に出てたかな」

「どうだろ。でも、何か全体的に悩んでるオーラみたいなのは出てた気がする」

「すごい。超能力者だ」

「大げさだな」

 ぼくたちがくすくす笑い合っていると、突然扉がノックされた。外から聞こえてきたのは、おばさんの声だった。ノリくんが返事をすると、扉が開いておばさんが姿を現した。ぼくに気づくと、「あら、ユウキくんもここにいたの」と言った。

「ちょうどよかったわ。二人に頼みたいことがあるの」

 ぼくたちは顔を見合わせて、首を傾げた。


「ありがとねー」

「いえ。それじゃあ、失礼します」

「はーい。熱中症には気をつけてね」

「はい、ありがとうございます」

 ふう、やっと手が軽くなった。ぼくは額の汗を拭って歩き出した。

 ぼくはおばさんの使いで公民館に行っていた。おばさんの知り合いがそこで働いていて、スイカを持って行ってほしいとのことだった。結局、お礼にとスイカを一切れいただいてしまい、何だか罪の意識を拭えないでいる。

 ……それにしても、嫌な暑さだ。じっとりと肌に絡みつくような感じ。じわじわと体から水分が奪われていることが分かる。

 スイカをもらっておいてよかったかもしれない。

 それでもまだ水分が足りない気がする。ぼくは真っ直ぐ家には帰らないで、駄菓子屋に寄ることにした。

 駄菓子屋に着くと、おばあちゃんが外のベンチに座って空を見上げていた。

「こんにちは、おばあちゃん」

「おや、ユウキくん。こんにちは。今日は一人かい?」

「うん。おばさんに頼み事頼まれて、その帰り」

「そうかぁ。ご苦労だったねぇ」

「えへへ。ねえ、アイスもらってもいい?」

「はいよー。五十円ね」

 ぼくはポケットから五十円玉を取り出して、おばあちゃんに渡した。そして隣で低い稼働音を出し続けるアイスボックスから、ソーダ味のアイスを選んだ。

「今日も暑いねぇ」というおばあちゃんの顔は笑顔だったけど、どこか憂いを帯びていた。元から細い目をより一層細めて、曇り空を見上げている。「一雨降りそうだぁ」

「そう、だね」

 おばあちゃんと同じように空を見上げると、視界の横でおばあちゃんがぼくに振り向いた。

「ユウキくんや」

「何?」

「ここに来れてよかったかい?」

 うん! と笑って答えると、おばあちゃんは優しげに笑顔を返してくれた。

「そうかぁ。それはよかったぁ。ここには何もないから、そう言ってもらえて嬉しいなぁ」

「へへ」

 とぼくが照れていると、目の前の道から足音が聞こえてきた。その音に目を移すと、そこにはあの少年がいた。初めてここで出会った時と同じように、ポケットに手を突っ込んで、横目でこっちを睨むようにして見ている。

 ぼくと目が合うと、さらに不機嫌な表情になった。そして、歩く速度も速くなる。

 その姿を目で追っていると、ふとノリくんの言葉が思い浮かんだ。

 ――どうしても気になって仕方がないんだったら、無理やり誘えばいいんじゃない?

 気になる。どうしても、気になる。放っておけない。

 ぼくはベンチから勢いよく立ち上がった。すると、目の前を横切ろうとする彼は一瞬だけ驚いたような表情を見せた。ほんのわずかだけ、歩く速度が落ちたような気もする。

 そして、そのまま彼の腕を掴んだ。

 ぼくは、どっちかというと消極的だ。ここまで一方的に誰かに関わろうとしたことなんてなかった。だから、その相手が男子であっても少し緊張する。

「……あのさ、」声が小さかった。だから今度は、大きく、はっきりと。「アイス! 奢るからさ! 一緒に食べようよ!」

 腕をほどかれるといけないので、そのままぐいぐい引っ張ってアイスボックスのところまで連れて行く。

 隣に立たせて、「好きなの選んでいいよ」と選ばせる。

「…………」

 少年はずっと口をつぐんだまま、何も言わずにアイスを見ていた。いや、実際は見ているようで見ていないのかもしれない。

 一向に動かない彼を見て、ぼくはしびれを切らしてボックスの中に手を伸ばした。

「これ! これでいい!? い、いいよね!」

 一方的に確認を取って、おばあちゃんに代金を渡す。

「はい」

 そして、半ば押しつけるようにしてアイスを渡した。

 彼はじっとアイスを見ていたけど、おもむろに袋を破って前歯でかじった。

 いつの間にかおばあちゃんは店の中に姿を消していた。ぼくは誰も座っていないベンチを指差して、一緒に座ろうと提案した。先に彼が座るのを待って、それから腰を下ろした。

 ……これで、よかったのかな。本当にノリくんの言葉通りぶつかってみたけど……。こんなに積極的な行動をしたことがなかったから、ひどく疲れた。でも、ここで音を上げていたらだめだ。アイスを食べるために声をかけたんじゃない。友達になるために声をかけたんだ。ぼくは意を決して質問してみた。

「ねえ、名前何ていうの?」

 アイスを食べるその動きが止まった。そして、少し間を開けてぽつりと答えが返ってきた。

「……ユーイチ」

「そっか。ぼく、ユウキっていうんだ! 結構似てるね。ぼくのことユウキって呼んでいいから、ぼくもユーイチって呼んでいいかな?」

 すると、彼はぼくの方を向いて何か言いたそうにしたけど、すぐに視線を足元に落とした。気になって声をかけようとした時、かすかに首が縦に動いた。

 いいってことなのかな。ぼくは思い切って名前を呼んでみた。

「ユーイチはさ、いつからここに来たの?」

「…………」

 いくら待っても、その質問には答えてくれなかった。これまではどちらかというと肯定的な反応だったから、ちょっと不安になった。だけど怖気づいていてはいけない。また別の質問をしよう。

「ユーイチは、何年生? ぼく、五年生なんだけど」

「……同じ」

「そ、そっか! それじゃあテツロウと一緒だね! テツロウも同じ五年なんだ。……あ、テツロウっていうのは、ぼくがいつも一緒に遊んでいる友達で、タンクトップとツンツンした髪が特徴なんだけど……」

 ぼくがそうやって必死に説明していると、ユーイチはそんなこと知りたくないとでも言いたげに跳ね返すような眼差しを向けてきた。その目に射すくめられるように、ぼくは「ごめん」と言って話を打ち切った。

 やっぱり、難しいな。慣れないことをするのって、すごく頭を使っている感じがする。そして、一度落ち着くと、その分の疲労を感じる。

 ふと視線を足元に移すと、ポタ、ポタ、とアイスが溶け出していることに気づいた。慌てて口に持っていく。

 必死にアイスと格闘していると、隣に座っていたユーイチが突然立ち上がった。彼の顔を見上げると、道の一点を凝視していた。

「ユーイチ? どうした――」

 彼の視線を追って道路に目を向けると、そこには、テツロウがいた。ぼくがユーイチに説明した通りのタンクトップ姿とツンツンした頭で、こっちを見ている。

「あ、テツロウ!」

「ユウキ、お前、何でそいつと……」

 訝しむテツロウの質問には答えず、ぼくはテツロウを呼んだ。

「こっちおいでよ、テツロウ。一緒にアイス食べようよ!」

 と、その時。隣にいたユーイチが、ぷつりと糸でも切れたかのように走り出した。「あっ」と声を上げる間にも、彼はどんどん遠ざかっていって、あっという間に姿が小さくなってしまった。

 何で……逃げたんだろう。

 いまだなお走り続ける彼の後ろ姿を見ながら、そう疑問に思った。

「おい、ユウキ」

 というテツロウの声で、ぼくは我に返った。

「えっ、ああ、ごめん。何?」

「何? じゃ、ねーよ。何であいつと仲良くアイス食ってんだよ」

「……別に仲良く、ってわけでもなかったんだけど……」

「いや、そういうことじゃなくて。一体どういうことだ?」

 と、テツロウはどこか苛立たしげに問いかけてくる。

「えーっと……。ぼくがアイスを食べていたら、たまたまユーイチが通りかかったんだ。だから、その、ちょっと強引にアイス食べようって、誘ったんだ」

「ユーイチって、お前……」

「ああ、うん。彼の名前」

「んんんん……」とテツロウは何か言いたげに口をへの字に曲げていたけど、結局出てきたのはため息だった。「まあ、別にいいわ。それよりも、」

 ちょうどよかった、とテツロウは言う。そして、基地に行こうと提案を受けた。ぼくは残りのアイスを食べて、テツロウの後に続いた。セミの鳴かない、静かな午後だった。


 基地に着いてから、数分が経った。テツロウとぼくの二人だけしかいない基地に流れる沈黙が、そろそろ重くなってきた。

 テツロウは、ここに来るまで何も話さなかった。前を進む後ろ姿から少し気の立った雰囲気を感じていたけど、どうやら間違いじゃなさそうだ。こうしてテツロウの顔が確認できる位置にいると、それがよく分かる。

 駄菓子屋の時と同じように、何か言いたそうにしていた。だけど、いくら待ってもその言葉が聞こえてこない。

 そろそろぼくも耐えられそうになくなってきた。これ以上沈黙が重くなる前に……。

 そう思って声を出そうとしたのと同時に、「あああああああっ!!」とテツロウが吠えた。

「うわっ! びっくりした……」

「はぁはぁ……」

 ぼくが驚いて耳を塞ぐほどテツロウは本気で叫んだから、顔が真っ赤だ。

「ねえ、テツロウ。どうしたんだよ」

「お前、さあ」ぼくの言葉にかぶせるようにして、テツロウは言う。「お前……」

 ――お前、ナツキのこと、好きなの?

 やけに、静かだった。ぼくたちだけじゃなくて、小屋も、そして外も、世界が息をひそめたみたいに静かだった。

 それはきっと、前触れだった。だって、タイミングを計ったかのように雨が降り出したから。

 ぼくたちは小窓を叩く雨の音を耳に、テーブルを挟んで向かい合って、お互いの顔を見ていた。テツロウはちっともぼくから目を逸らさないから、真剣に聞いているんだと分かった。

 ぼくはテツロウから目を逸らそうと思ったけど、雨がそうさせてはくれず、テツロウから目が離せなかった。いつになく真剣な表情のテツロウを真正面から捉える。

 テツロウの目が少し上にあるような気がした。数日会わなかっただけで、テツロウの背が伸びていた。

 だからどうというわけではない。そのはずなのに、口を開いても声が出てこなかった。さっきやってのけた積極性は、もうぼくの中にはなかった。

 ぼくが何も言わないでいると、テツロウは「どうなんだよ」促してきた。

「ど、どうして急にそんなこと聞くんだよ」と聞き返すことしかできなかった。

「仕方ないだろ、誰にも邪魔されずに聞けるタイミングなんて、いつ来るかわかんねーからな」

 ぼくがその言葉に反応する前にテツロウは、「それで、どうなんだよ。ナツキのこと、好きなのか? 好きじゃないのか?」と再度聞いてくる。

 ぼくは、ナツキが好きだ。でも、それはノリくん以外の他の誰にも知られたくなかった。特に、同じ秘密基地のメンバーのテツロウには、なおさら……。

 そんなテツロウに、ぼくは聞かれている。ナツキが好きなのか、と。

 答えられるわけない。答えたくない。逃げ出したい。雨なんか関係ない。夏だし、すぐに拭けば風邪はひかない。

 それじゃあ、逃げよう。……そう、できたらいいのに。ぼくには逃げ出す勇気もなかった。

 ただ、時間だけが過ぎていく。刻々と、確実に。そのはずなのに、そのスピードはとても遅いように感じた。雨の音のおかげで、時間が止まっているとまでは感じなかったけど。

 このまま無言を貫けば、テツロウはしびれを切らして「もういいや」と言うかもしれない。だけど、そこに辿り着くまでが果てしなく遠いように思われた。

 テツロウは、ぼくなんかよりも圧倒的に少ない瞬きでぼくを見続けている。ぼくは動揺して、瞬きが多かったり、嫌な汗が流れたりしている。

 ナツキが好き。そう言うだけ。本人に言うわけじゃないのに、こんなにも言いづらいなんて……。そんなんじゃ到底本人には言えない……。

 それは視点を変えれば、ここで人に打ち明けられたら、本人に言う時の緊張が少なくなるかもしれないとも考えられる。実際に告白なんてしたことはないから分からないけど、そう思うことで、ぼくは覚悟を決めることができた。

 それと同時に、遠くで雷が鳴った。鳴り終わっても少しの間、音が耳の奥に残り続けた。

 そして、その音が完全に消えた時、ぼくは言った。

「ぼくは……ナツキが……好き。好きだよ」

 今度は空が盛大に光って、近くに落ちたんじゃないかと思うくらいの雷鳴が轟いた。それでもぼくたちは意に介さず、無言で視線を交わし続けた。

 どれくらいそうしていただろう。雷が鳴って、その音が消えて、それからまた雨の音が聞こえてきて、ようやくテツロウが口を開く。そこまでの時間が、やたらと長く感じた。

「……っち、やっぱそうかよ」そう吐き出すと、テツロウはぼくから目を逸らした。そして、横目でぼくを確認しながら、「ナツキの……どこが好きなんだ?」と尋ねてきた。

「どこって……それは……」

「好きなら、理由があるだろ」

「……優しい、ところとか」

「他には」

「……かわいいし」

「他には」

 同じ調子でそう続けられて、いよいよぼくは我慢ができなくなった。

「って! そういうテツロウはどうなんだよ! ナツキのこと、好きなの⁉」

 ぼくの返しに別段反応を示そうとはしないで、テツロウはゆっくりと口を開いた。そして「オレは――」と言いかけたところで、後ろで扉が勢いよく開く音がした。

 その音に驚いて振り返ると、そこには雨雫をぽたぽたと垂らしながら佇むナツキがいた。

「ナ、ナツキ⁉」

 ぼくがそう言うと、ナツキはちょっぴり紅い顔を綻ばせた。走ってきたらしい。

「えへへー。ここに来る途中で急に雨降ってきちゃってさ。急いだんだけど、だめだった」

 そう言う間にもナツキはワンピースの裾を絞って、水を落とす。

「あっ、そうだ! タオルタオル!」

 と、ぼくが基地を見回していると、「ほら」とテツロウがタオルを差し出してくれた。テツロウにお礼を言って、ナツキのとこまで行く。タオルを渡すと、ナツキは苦笑して「ありがとう」と言った。


「雨、やまないね」というナツキの言葉に、ぼくは「そう、だね」と相槌を打った。

 相変わらず雨は結構な勢いで降り続いていて、いつやむのか想像がつかなかった。多分、すぐにはやまないだろうなぁ……。

 ぼくとナツキは椅子に腰を下ろして、二人して小窓の外をぼんやり眺めていた。テツロウは二段ベッドの上に陣取って、無言を決め込んでいた。

 結局、テツロウにナツキが好きなのかを聞くチャンスはなくなってしまった。ぼくだけが言うことになって、何だか損した気分だ。

「そういえば、」とナツキがテーブルに肘を置いた。「二人はいつからここに?」

「えっ……」

 ドキリとした。よく考えてみれば、いつ来たかを聞かれただけなのに、その時は二人で何を話していたのかを聞かれたのだと思い込んでしまった。

 ぼくが返答に戸惑っていると、上の方からテツロウの声がした。

「ナツキが来る少し前」

「そっかぁ。私ももう少し早く家を出ていたらなぁ……」

 ぼくはずっとナツキから目を逸らそうと努めていた。川で水遊びした時のことが思い出される。またナツキに「エッチ」だと思われたら、いくらナツキでも、もう許してはくれないかもしれない。

 ……それなのに。……だめなのに。

 ぼくは窓を見るふりをしてナツキをちらりと見てしまう。時間が経ったことでいくらか治まったけど、それでもまだ頬っぺたはほんのり紅い。ひどく艶めいた髪が首とかに張りついて、その白と黒のコントラストにどういうわけか惹きつけられた。

 ふと、ナツキが動く気配がしてぼくは慌てて窓に目を戻した。

 椅子の動く音が聞こえた。ナツキはどうやら立ち上がったみたいだ。

「タイムカプセル、みんなで埋めない?」

「タイムカプセル?」ぼくとテツロウは声を合わせて聞き返した。

「そ、タイムカプセル。私、思ったんだよね。この夏って、特別だなって。もちろん、都会からユウキくんが来たこともそうだけど、ただそれだけじゃない気がするんだよね。具体的に何がどうとかってことは分かんないんだけど、でも、そんな気がするの」

 だから、みんなに手紙を書いて、それをタイムカプセルに入れて、埋めるの。

 とナツキは言う。

 また何年後かに集まって、みんなで開けようよ。

 とナツキは笑う。

「いいよね?」ナツキは最後にそう聞いてくる。

 断る理由もなかったから、ぼくは素直に「うん」と頷いた。テツロウも、乗り気ではなさそうだったけど、賛成の意を示した。

「それじゃあ、ケンくんとミナちゃんには私から言っておくね」

「うん」

 それで話は終わるのかと思いきや、ナツキは「あ、それから」と次の話題を切り出した。

「星、いつ見よっか」

 そうだ。星を見る計画を立てていたんだ。ここ最近いろいろ考え込んでいて、そのことを忘れかけていた。

「一週間後でいいんじゃね。ちょうど八月の中旬だろ?」

「私はそれでいいけど、ユウキくんは?」

「ぼくも、大丈夫だよ」

「よし、じゃあ後はあの二人に確認取るだけだね」

 そう話を締めくくるナツキの表情は、外のどんよりとした灰色とは違って夏の青空みたいに明るくて。そうやって笑いかけるナツキからは、雨の匂いに混じって夏の甘い香りがした。

 ナツキがそんなだからか、次第に雨は上がって、ナツキに感じたあの夏の空が顔を出し始めた。

「あ―やっと雨あがったねぇー」

 ナツキは基地から出ると、日差しの射すところまで行って、その日差しに手を伸ばした。一本の光の線がナツキに向かって降り注いでいて、ぼくは思わず目を細めた。

 それは、ナツキ自身が陽だまりみたいな存在だからかな。それとも白いワンピースを着ているから? どっちにしても、夏の日差しを一身に浴びる彼女はまぶしくて、そして瑞々しく見えた。

 ふと、後ろの方からテツロウが近づいてくる気配がした。振り返ると、今まさにテツロウがぼくの方へ歩いてきている最中だった。晴れ間が見えたというのに、テツロウは曇り空の時と同じように神妙な顔つきだった。

 そして、そのままぼくの隣まで来ると足を止めて言った。

 小さな声で、でも、確かにはっきりと聞こえた。

 ――オレも、ナツキが好きだ。

 その瞬間、ぼくにとってのテツロウが変わった。普通の友達から、恋のライバルに。

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