第二章 ホタルの光
ミーンミーンと鳴くミンミンゼミの声と蒸し暑さでぼくは目を覚ました。息を吸い込むと、井草の匂いがした。
布団をめくって起き上がる。眠い目を擦って辺りを確認すると、そこはぼくの部屋だった。
その状態で昨日のことを思い出す。確かお風呂からあがって縁側で涼んでいると、眠くなったんだっけ。そしてそのまま……。
おじさんが運んでくれたのかな。
ぼうっとする頭で申し訳ないなと思っていると、ドアがノックされた。
「ユウキくん? 起きた?」
ノリくんだ。
「あ、うん!」
ぼくが返事をすると、ドアが開いてノリくんが顔をのぞかせる。寝起きのノリくんは(というか目を閉じていた)その癖の強い髪を四方八方にはねさせていた。「おはよう」と言った時、頭頂部にできた一際大きな寝癖がびよんと跳ねた。
「おはよう」
ぼくが返すと、ノリくんは大きなあくびを一つ。
「朝ご飯できてるよ」
「うん、今行く」
ぼくたちはパジャマのままでリビングへと向かった。
「おはよ二人とも」
薄いピンクのエプロンをしたおばさんの手にはフライパンが握られていて、目玉焼きがパチパチ弾けていた。
「おはようございます」
二人並んで席につく。あくびをしている間に、全ての料理がそろった。
ご飯、味噌汁、目玉焼き、ベーコンと野菜炒め。ベーコンの香ばしい香りが眠気を吹き飛ばして代わりに食欲を運んできた。
「じゃ、いただきますだな」
ノリくんの合図に頷いて、「いただきます」と手を合わせた。
「はい召し上がれ」
味噌汁の器を手に取って口元まで持っていこうとした時だった。扉が開いて、おじさんが現れた。スーツをビシッと着ているその姿を見た瞬間、父さんと見間違えた。昨日の雰囲気からは想像できない威厳みたいなものを感じた。
ぼくがそうやって器を片手にじっとおじさんを見ていたら、目が合った。
「お、ユウキくん。おはよ」
「お、おはよございます」
さっきからおじさんはニヤニヤしている。一体何だろうなと思っていると、
「ユウキくん。昨日縁側で寝てただろ? 誰が二階まで運んだか分かるか?」
「えっと……おじさん?」
「ん」とおじさんは目で答えを示した。
おじさんが目を動かした方を見ると、そこにはピースサインをしたおばさんがいた。
「えぇっ!?」
慌てた拍子に味噌汁をこぼしそうになった。
「そういこうことー」
おじさんはぼくの驚き様をおもしろがって、はははと笑っていた。
「ユウキくん、案外軽いのねー。この夏ノリと一緒にブタさんになってもらわなくちゃ」
というおばさんの言葉は、全然耳に入ってこなかった。何であんなところで寝てしまったんだと自分を責め続けないと、恥ずかしさのあまりどうにかなってしまいそうだった。
……結局、ろくに味わうこともできずに朝ご飯を食べ終えた。
「ごちそうさま」と手を合わせると、突然ノリくんが尋ねてきた。
「今日は何して遊ぶの? 昨日の友達と、何か約束とかしてるの?」
「ホタルを見に行くんだ」
「おーホタルかー。ここ、いっぱいホタルいるからきっと感動するぞ」
「ほんと!?」
「おう!」
「それじゃあ晩ご飯は早めの方がいいかな」
ぼくたちのやり取りを聞いていたおばさんが、洗い物をしながら尋ねてきた。
「うん。お願いします」
「はーい」
食器を流しに運んで、ノリくんと一緒に二階に上がった。そして部屋の前で別れる。ノリくんは今から勉強をするそうだ。
ぼくは……どうしよう。ベッドに倒れ込んで考える。
田舎生活二日目。今日も朝から暑い。風がないので、ぼくは起き上がって扇風機をつける。動き出した扇風機とそのまま向かい合って、再び考える。
今日の予定はさっきノリくんに話した通り、ホタルを見ることだ。でも、それまでの予定がない。んー……。今から秘密基地に行ってもまだ朝の八時過ぎだし、誰もいないだろうな。もしかしたらいるかもしれないけど、何となくそんな気がする。
「ああーー……」
何気なく扇風機に向かって声を出してみる。回転する羽に当たって声が振動する。
「あーー……あ、そうだ」
扇風機のおかげか、ぼくはふっと思いついた。部屋の隅に置いた鞄を漁って目的のものを取り出す。表紙には虫網やかき氷、風鈴のイラストなどが描かれている。だけど、その中央に大きく書かれた『夏休みの宿題』という文字の力は強大で、いくら夏の風物詩で周辺を飾っても、嬉しいものには見えない。
昨日は寝落ちしちゃったから宿題ができなかった。面倒だけど、やらないわけにはいかない。まだ手を付けていないページを開く。
自分で言うのもなんだけど、ぼくはちょびっとだけ真面目だ。まあ父さんと母さんがうるさく言うのもあるけど、これまで夏休みの宿題を最終日まで持ち越したことは一度もない。一番時間がかかったので八月の二十五日くらいで、大体は中旬には終わらせる。
でも、だからといって頭がいいわけでは決してない。テストで飛びきり低い点数を取ったこともなければ、高得点ばかり取っているわけでもない。基礎はできているけど、応用になると手こずる。いたって平均的だ。
今日は算数をやる。単元で言うと小数のかけ算だ。
計算を嫌だと思ったことはあんまりない。かけ算に関しては好きな方だ。だけど、小数になると少し弱い。
自分では気をつけているはずなのに、よく小数点を打ち間違えてしまう。
扇風機の風でプリントが飛ばないように筆箱で固定する。
「よしっ」と意気込んで、ぼくは宿題をやり始めた。
……かれこれ一時間くらいが経過しただろう。四十分を過ぎた頃から途切れがちだった集中力も、もうつなぎとめておけそうにない。持っていた鉛筆を半ば放り投げるようにして机に置き、ベッドに寝そべる。
喉、乾いたなぁ。
リビングに麦茶を飲みに行こうと思って部屋を出た。すると偶然、ノリくんもぼくと同じく部屋を出るところだった。ノリくんはぼくを見ると苦笑して、「もしかしてユウキくんも喉乾いた?」と聞いてきた。ぼくはノリくんと同じように苦笑いを返して「うん」と答えた。
二人連れ立ってリビングに向かう。冷蔵庫から麦茶を取り出したノリくんはぼくの分まで注いでくれた。お礼を言って、一気に飲む。
「はぁー生き返る……」
体が内側から冷えていくようだ。それでもまだ暑い。二杯目を注いで、二回目の一気飲み。
「ユウキくんは何してたの?」と口元を拭いながらノリくんが尋ねてきた。
「宿題」
「何の科目?」
「算数」
「そっか。どう、難しい?」
「うーん……ちょっと苦手かな。今小数のかけ算やってるんだけど……」
「ああ、五年でやるんだっけ」
「うん」
「ちょっと見てあげようか」
「え、いいの?」
「気晴らしに、ね」
そう言ってノリくんはニッと白い歯を見せた。
「どれどれ……」
机に座ったノリくんを、ぼくは少し緊張して見ていた。テストが返却される時のような心持ちに似ている。
「基本はできてるね。でも……」
その打消しの言葉に、ビクッとした。
「なあユウキくん」ノリくんはプリントから目を離してぼくの方を向いた。「これ、いつもどうやって解いてる?」
「えっと……そのまま、普通に」
「まあ、そうだよね。計算自体は間違っちゃいないんだけど、小数点の位置がズレてるんだよなぁ」
「うん……」
「そこで、だ」ノリくんは人差し指をピンと立てた。ぼくの目は自然とそこに向かう。「一旦、小数無視したら?」
「……へ?」
「何も計算する時に小数を意識する必要なんかないってことだよ。だって、小数があってもなくっても、数自体に変化はないんだから」
例えば……と言って、ノリくんはぼくが間違えた問題を解き始めた。
「まずは普通に二桁同士の計算をするんだ。三七かける二九は一〇七三。で、それに小数点をつけたら……。な? 簡単でしょ?」
「ほんとだ……」
「多分これでもう間違えることはないと思うよ。まあ、計算ミスさえなければの話だけど」
「うん、ありがとう」
「それじゃあ、俺、勉強戻るね。また何か分かんないところがあったら言ってくれていいから」
「うん!」
そうしてノリくんは部屋を出ていった。ぼくは今しがた教えてもらったことを確認するために、問題を解き直した。
確かに、小数を無視して計算すれば簡単だった。どうして今まで気がつかなかったんだろう。
やっぱり高校生って賢い。いや、受験生だからかな。うーん……多分、どっちもだろうな。
それからお昼までは、途中でゲームを挟みながら宿題を続けた。昼ご飯は昨日と同じくノリくんと二人で食べて、食べ終わるとノリくんは図書館に勉強をしに行った。
ノリくんがいなくなると、家にはぼくだけになった。椅子に座ったまま、『夏の劇場』というというドラマをぼんやりと見る。
これは毎年夏になると放送される番組で、一時から一時間、二つのドラマを放送する。一つは大家族の物語で、もう一つは中学生の物語だ。いつ頃から見始めたのかは思い出せないけど、気がついたら毎日見るくらいにはまっていた。
やがて二つのドラマが終わると、ついにすることがなくなった。手元に視線を移すと、コップの周りに水溜りができていた。しまった……ドラマに夢中になっていてすっかり飲むのを忘れていた。コップを掴んだだけでぬるくなっているのが分かる。飲んだらなおさらその温度を実感した。麦茶はやっぱり冷えていてこそだなぁ……。
麦茶を飲み終えたぼくは、テレビを消して部屋に戻った。
そろそろ秘密基地に行こうと思ってショルダーバッグを用意した。そこにゲームを入れて、水筒を手に部屋を出た。リビングで麦茶を詰めて、下駄箱の上に置かれた鍵を手に取って玄関の引き戸を開いた。鍵をかけて鞄の中にしまい、秘密基地を目指す。
昨日、ノリくんに案内してもらった神社を抜けて森の中を進む。一度行けば道は覚えているもので、迷わずに目的地に着くことができた。
全然秘密じゃない秘密基地の扉をそっと開けて中を覗き込んだけど、まだ誰も来ていなかった。ぼくは昨日と同じように靴を脱いで二段ベッドの下側に陣取った。鞄からゲームを取り出して、一日振りにプレイする。
昨日のリベンジだ。クエストを受けてアイテムの確認をして、そして出発。音が小さいことに気づいて音量を上げる。
始まったフィールドの向こうに、宿敵のドラゴンがいた。赤黒くて刺々しいフォルムの飛竜。接近するぼくに気づくと、そのドラゴンは「グオオオオオッ!!」と咆哮した。
いざ、バトル――!!
戦闘は三十分くらいで終了した。ぼくの勝ちだ。地に伏して動かなくなったドラゴンから素材を剥ぎ取る。
そもそもこの敵は特別強いというわけではない。他のドラゴンに比べたら多少は強いけど、普通に戦って負けるような相手ではない。昨日はただちょっと、油断していたというだけのことだ。
それでも勝てた時にはふぅ、と安堵の息が出る。ロード中なので鞄から水筒を取り出して飲む。
その時に辺りを見回して思った。誰も来る気配がないなって。もしかして夕方にならないと来ないのかな……。
ロードが終わってサウンドが流れ出す。ぼくはまた視線を下に向ける。
次はどのクエストに行こうかな……。と、クエストボードを眺めていた時だった。
基地の扉がギ……と音を立てて開いた。現れたのは、ナツキとテツロウだった。
「ちーっす……って、お前かよ」
「あ、ユウキくん! こんにちは」
「こ、こんにちは……!」
ナツキは今日はボーダーの入ったTシャツとショートパンツを着ていた。
「あれ、どうしたのユウキくん。何か嬉しいことでもあった?」
「え?」
だって嬉しそうな顔してるから、とナツキは言う。確かに、二人が来てくれてぼくは嬉しかった。だけど、まさかそれが顔に出ていたなんて……。
「な、何でもないよ」とぼくは慌ててごまかす。
「こいつ、ナツキに会えて嬉しがってんじゃねーの」とテツロウが鋭い視線を向けてくる。
「そ、そんなことないよ!」とぼくが咄嗟に否定すると、
「え……ユウキくん、私に会えて嬉しくないんだ……」とナツキが表情を曇らせた。
「えっ……あ……その……そうじゃ、なくて……」
俯くナツキに対してどう声をかければいいのかと狼狽えていると、テツロウが宙を見上げて言った。
「あーあ。オレ知らねーぞ。ナツキ怒らせたら、お前……」
その言葉を聞いたぼくは、少し顔を強張らせてナツキを見た。するとナツキはそのままの状態で、さながら呪いのビデオの幽霊みたいに近づいてくる。でも、その服装と肩までしかない髪のせいで全然なり切れていない。幽霊らしさはないけど、その姿からはまた別の怖さが滲み出ていた。ぼくはその場からの脱出を試みようとした。でも、急にナツキに飛びかかられて失敗した。
「ユウキくん……私を怒らせたね……」
馬乗りになったナツキが、ぽつりとそんな言葉を漏らした。今から謝れば許してもらえるだろうか。
半分祈りを込めて「ごめんなさい」と言おうとした。でも、「め」のところで裁きが降りた。
「私を怒らせたお仕置きだ! 食らええー!」
こちょこちょこちょ! とナツキは容赦なくくすぐってきた。
「ちょっ、ちょっと! あははっ! だめ! やめてよ! あはははっ!」
そんな風にしてぼくが悶え苦しんでいると、ナツキはさらに動きを速めた。するとナツキから甘い石鹸のような香りがして、ぼくはナツキのことをヘンに意識してしまう。それでも何とか抵抗しようとしてより体を大きく動かす。
「どうだ! 参ったかー!」
「まっ、参った! 参ったー!」
叫ぶようにして言うと、ナツキの手が止まった。
「はぁ……ちょっとやり過ぎちゃったかな……」
ナツキは荒い呼吸を繰り返している。……ぼくもだけど。
ぼくは第二の制裁を恐れてナツキから離れた。ゲームを手に持って、ベッドを抜け出す。
「ああっ! お前それ!」
突然、テツロウがそんな声を上げた。彼の目線はぼくの手元に向けられている。
「えっ?」
「お前、ゲーム持ってんの⁉」
「持ってる……けど」
テツロウは昨日みたいに口を閉じて何か言いたそうな顔をする。別に今はナツキから止められているわけじゃないんだから、言ってもいいんじゃないかな……。
ぼくがそう思っていると、テツロウがついにその口を開いた。
「……てくれ」
「え?」
「……見せてくれ」
テツロウは決してぼくと目を合わそうとはせず、じっと小屋の隅を見ていた。
本当はやりたいんじゃないのかな。きまりの悪そうな表情のテツロウを見ていると、そんな考えが浮かんできた。
「いいけど……その、やってみる?」
とぼくが言うと、テツロウは驚きと嬉しさの混じった顔をして、でもそんな表情を悟られまいとしてまた元の顔に戻した。……バレバレなんだけど。
「い、いいのか?」
「うん、いいよ」
と言ってぼくはゲームを差し出した。ぼくからゲームを受け取る間も、やっぱりテツロウは無愛想な表情に努めていた。……ちょっぴり口元が笑っていたことは本人には言わないでおこう。
「それじゃあケンイチくんたちは夜に来るんだ」
「うん」
ナツキの話によれば、あの兄妹は今親の買い物について行っているらしい。
「あ、テツロウ。そこかわした方がいいよ。じゃないと――」
「うっせえ! 食らえ必殺……って何だよこいつ! せこくね!?」
「だから言ったのに……」
「お前の指示が遅いから」
「ええっ!? ぼくのせい!?」
「ああ、お前のせいだ」
納得がいかず、唇を尖らせていると、ナツキが聞いてきた。
「今日さ、何時頃に集まる?」
「うちのオカン、あんまり遅くなるとこえーからなぁ」
「ミナちゃんもいるしね。なるべく早く集まった方がいいかも。ユウキくんは、お家、大丈夫?」
「うん、一応おばさんには伝えたから大丈夫だと思う」
「じゃあ六時半くらいに学校に集まろっか。ここだと危ないしね」
「そうだな」
「わかった」
「二人には私が連絡しておくから」
「それは頼むけどさ、ナツキ、星も見るんじゃなかったのか?」
「ああ、そうだった」と言ってナツキは隅に置いてあった望遠鏡を持ってきて、テーブルの上に置いた。「調整しなくちゃいけないんだよねー」
「できんの?」
「……頑張ってみる」
「はあ……」とテツロウは盛大にため息をついた。「ケンイチにやってもらえばいいんじゃねーの」
というテツロウの提案に、ナツキはピースサインを返した。またテツロウがため息をついた。
ぼくはしばらくナツキの奮闘を眺めていた。レンズを覗き込んで、「うーん……」とか「何か違うなぁ」とかぼやきながら調整(?)をしている。
そして、ナツキから目を離してテツロウのゲームを見た後に、もう一度ナツキの方を向くと、レンズから顔を上げていた。
目をぱちぱちと瞬かせて、ぼくの方を見た。そして、一言。
「分かんないや」
「だあーっ!」
ナツキの後に響いたテツロウの叫び声に手元を覗き込むと、プレイヤーがぐったりと地面に倒れ込んでいた。ゲームオーバーの文字が画面の真ん中に表示されている。もう何回目だろ……。
テツロウは「このゲームつまんね!」とぼくに押し付けると、今度はナツキに向かって言った。「だーから言ったじゃねぇか! ケンイチにやってもらえって」
「だってぇ……」
「だってじゃねーよ! ほら、もう触んな」とテツロウはナツキから望遠鏡を取り上げた。
「ああー。私の望遠鏡がぁ……」
「いや、元の場所に置くだけだし!」
「うぅ……」とナツキはあからさまに目を潤ませる。
「……目にゴミでも入ったのか」テツロウはいたって冷静だ。
そんなテツロウがおもしろくないと思ったんだろうナツキは、「ばーか」と言って舌を出した。
それからぼくたちは二時間ほど基地で過ごした。
夏の劇場は二人も見ていたようで、その話で盛り上がった。作中の登場人物の真似をしたり、決め台詞である「ざけんなっ!」を言い合ったりした。
日が落ち始めたので、ぼくたちは基地を後にすることにした。神社の入り口まで来ると、もう一度時間と場所の確認をした。
「それじゃあ、六時半に学校でね」
「うん。……あ、そうだ。持ち物って何がいるかな」
「えーっと、とりあえず懐中電灯は絶対持ってきてね。真っ暗だから。あとは……虫よけもしてきた方がいいかな。それと、寒いと困るから上着も一応持ってきたらいいんじゃないかな」
「分かった」
「じゃあ、またあとでね、ユウキくん」
「うん。バイバイ」
「バイバイ」
テツロウとも手を振り合って、ぼくたちは別れた。
家に戻ると、おばさんとノリくんはすでに帰っていた。
「おかえり、ユウキくん」
「ただいま。ねえ、おばさん」おばさんを見つけるなり、ぼくは尋ねた。「懐中電灯、ない?」
「懐中電灯? ああ、これからホタル見に行くんだもんね。えーっと、悪いんだけど、ノリに聞いてみてくれないかな。多分、持ってると思うんだけど」
ぼくはノリくんに聞くため、二階にある部屋まで向かった。ノックをしようと手を扉に近づけた時、中から声が聞こえてきた。誰かと電話をしているみたいだった。
「……うん、まあぼちぼちって感じかな。マナミは?」
マナミ? 誰だろう。もしかして、彼女、なのかな。
ノリくんに彼女がいるということを、一度も考えたことがなかった。そりゃノリくんと過ごしたのはまだ昨日今日と二日だけだし、あんまりノリくんのことを詳しく知らないということもある。でも、考えてみればノリくんは高校生なんだし、好きな人がいても何もおかしくはない。ただ、この二日間でそんな気配を全く見せなかったから、ぼくは納得もしたけど驚きもした。
そうやってぼくがノリくんのことを頭の中で整理していると、聞こえてくるノリくんの声色が急に変わった。
「え……? それ、本当なのか? ……そっか。……よかったじゃん! おめでとう!」ノリくんは祝福していたけど、どうも無理をしているように聞こえた。「ううん。気にすんなって。俺も合格したら、バイトしてお金貯めて会いに行くからさ。……それじゃあ、帰ってくるのは厳しい感じ? ……そっか。ううん、大丈夫」
頑張れよ、と最後にノリくんは言って、電話を切ったみたいだ。
部屋が静かになった。何も聞こえてこない。ぼくは本来の目的を忘れて、心配になったノリくんに声をかけるために扉を叩こうとした。でも、すんでのところで踏みとどまった。そんなことをしたら、一連の会話を盗み聞きしていたことが知られてしまうと思い至ったからだ。
あとで聞けばいいや。そう考えて扉の前から立ち去ろうとしたちょうどその時。目の前の扉が開いた。
ぼくに気づいたノリくんは、「わっ」と驚いた。
ぼくの方も、見つかってしまったという驚きで顔が強張るのを感じた。
驚いた顔のノリくんはすぐに元の柔和な笑みを浮かべて言った。
「びっくりしたなぁ。どうしたの、勉強、分かんないところでもあった?」
ノリくんは気づいているのだろうか。ぼくが廊下で話を聞いていたことを。実は気づいていて、でもそのことに触れないでいるのだろうか。
ノリくんの笑った顔が、少し、怖い。
「えっと……そうじゃ、なくて……」
状況の整理ができなくて、ぎこちない話し方になってしまう。
「そうじゃなくて?」
「……懐中電灯、貸してほしくて。おばさんに、ノリくんに聞いてみてって言われたんだ」
「ああ、ホタル見に行くんだっけ」
「うん」
「ちょっと待ってて」そう言ってノリくんは部屋に戻っていった。そして十秒もかからないうちに、再び僕の前に現れた。「はい。電池は変えたばっかだから、多分大丈夫だよ。オンオフはそのスイッチね」
「……ありがと」
「ん。……あのさ、ユウキくん。それはいいんだけど……」と、ノリくんは突然ためらいがちになった。まさか……と、身構える。「もしかして……俺の声、聞こえてた?」
身構えていたのに、背中に冷たいものが走って心臓が強く跳ねた。
「う、ううん。何も。ぼく、今来たところだったし……」
ぼくは嘘が下手だ。こういう時、上手くごまかせたらなと思う。
「……そっか」とノリくんは横に逸らしていた目を細めてうっすらと笑った。「それなら、いいんだけど」
もうその笑顔に怖さは感じなかったけど、今度は後ろめたさを覚えた。ノリくんがそんな寂しそうに笑う原因を盗み聞きしてしまったこと。そして、バレているかもしれない嘘をついたこと。その二つに対する、後ろ暗い気持ち。
ぼくがその感情に向き合っていると、ノリくんは、
「まあ聞いてたとしても、別に問題はないんだけどね」
と付け加えた。そして、ご飯を食べに行こうとぼくを誘ってきた。ぼくは言われるがまま、ノリくんに続いて一階に降りた。
夕飯はそうめんだった。相変わらずの山盛りだったけど、もうこの量にも慣れてきた。
残さずに全部食べ切ると、ぼくはすぐに部屋に戻った。鞄から上着を取り出して、早々に部屋を出る。
「おばさん」
「あら、行くの?」
「うん。でもその前に、虫よけしたいんだけど」
「ああ、そうね」と言っておばさんは箪笥の上のかごに手を伸ばした。「はい」
「ありがとう」
ぼくは受け取った虫よけスプレーを持って玄関に向かった。
「遅くならないでね。心配するから」
「はーい」
そう返事をして、使い終わったスプレーをおばさんに返す。でもおばさんはまだ心配してくれているようで、
「ノリも連れて行かそうか?」と聞いてきた。
「大丈夫だよ、おばさん。友達もちゃんといるから」
「そう? ……じゃあ、くれぐれも気をつけてね」
「うん! 行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
心配するおばさんに別れを告げて、ぼくは家を飛び出した。
学校までの行き方は、ある程度覚えている。完全じゃないのは、まだ一度しか行っていないからだ。しかも、行きの方は家からじゃなくて、秘密基地からだった。家からの直接的なルートを通ったのは、帰りの時だけなのだ。
迷ってしまわないか不安だった。でも、ここは田舎だ。建物であふれた都会とは違うんだ。
なるべくみんなと早く合流したくて、ぼくはポケットにしまった懐中電灯を落とさないように注意しながら駆け出した。
そして、駄菓子屋までたどり着いた時、ぼくは速度を緩めた。実は途中で迷いかけたけど、駄菓子屋を見つけられればもう大丈夫だ。空を仰ぐ余裕も出てきた。
もう夕日は山の向こうに隠れて見えなくなっていた。限りなく赤に近い紫色の空が広がっている。
駄菓子屋はまだ開いていた。でも日が暮れてしまったせいで、店の中はひどく暗い。昨日の昼間には涼しかった風鈴の音が、今回はもの寂しく聞こえた。それに周囲の森から「カナカナカナ」とヒグラシの鳴き声がして、余計にそれが強くなる。
早くみんなに会いたい。心細くなったぼくは、その寂々とした雰囲気から逃げるようにして走り出した。
何も考えずに走っていたら、いつの間にか校門に着いていた。肩で息をして、速まった呼吸を整える。
ここに来ると、いくらか気分が晴れるかなと思った。でも、そんなに変化はなかった。
どうやらぼくが一番乗りだったようだ。まだ誰の姿も見えない。
落ち着いてきたぼくは、手持ち無沙汰を理由にグラウンドに足を踏み入れた。隅っこにある遊具のところまで行くとみんなが来た時に分からないだろうと思って、その付近をうろうろするつもりだった。でも、ふいに遊具の方に目を向けると、そこには人の姿があった。
誰だろう……目を凝らしてみる。
「あ……」
気づけば自然と声が漏れていた。
ブランコが一つだけ、小さく揺れている。その上に乗っているのは、昨日駄菓子屋の前で見かけた少年だった。どこか憂いを帯びた雰囲気を纏って、紫がかった空をじっと眺めていた。
ぼくの声が届いたのか、その少年はすっと空からぼくの方へと顔を下げた。
まさかこの距離で聞こえるはずはないと思ったけど、何せその首を下げるタイミングが絶妙だった。
ぼくたちはお互い見合ったままで動かなかった。
気まずいとか間が悪いといったことは感じなかった。ただ、声をかけに行こうにも、昨日のことを思い出して、一歩を踏み出せない。
ぼくがそうやって尻込みしていると、その子はさっとブランコから降りた。人の乗っていないブランコが、寂しげに揺れる。
彼は確かな足取りで一歩一歩ぼくの方へと近づいてくる。その間もぼくは目が離せなくて、彼のことをじっと見ていた。
昨日と同じようにポケットに手を突っ込んで、もう向こうはぼくと目を合わせなくなった。
そっぽを向くその顔は無表情を貫いていて、そんな彼の表情を見ると、向こうは気まずかったのかな、なんて考えてしまう。
そうしている間にも、彼との距離が縮まっていく。
……一メートル……五十センチ……0。そして、十センチになった時。
「あのっ……!」
ぼくは思い切って声をかけてみた。すると、彼はぴたりとその足を止めた。そして、わずかに顔を動かして尻目にぼくを見る。
そのまま無視されるかと思っていたから、少し驚いた。でも呼び止めただけで何も言わなかったら、それこそ無視して帰ってしまうかもしれない。慌てて次の言葉を口にする。
「もし、よかったらさ……ホタル、見に行かない?」
「…………」
相手は何も返してこない。またしても出会った時と同じように固まってしまう。
今度は、気まずさを感じた。はっきりと。最初見合ったのは偶然だったけど、今回はぼくに原因があるんだから、それも当然かもしれない。
いくら気まずくっても、相手の反応がなくっても、呼び止めたのはぼくだから。もう一度呼びかけようとした。
「ね、ねえ……ホタル――」
すると彼は突然走り出した。待って、という時間もなくて、あっという間に姿が見えなくなった。
だめだった……。考えてみれば、ナツキでさえ失敗していたんだから、ぼくにできるはずなかったんだ。
どうして声かけたんだろう。
そうやって一連の行動を振り返っていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
秘密基地のメンバーがぞろぞろこちらに向かってきていた。ちゃんとケンイチとミナミもいる。
「おーいユウキくーん!」真っ先にナツキがぼくに気づいて大きく手を振る。ぼくも振り返しながらみんなのところへ向かう。「早かったね。待った?」
「ううん」
「そっか。……あ、それよりもさ、」とナツキは話を変えてきた。「昨日駄菓子屋で見かけた男の子とすれ違ったけど、ユウキくん会わなかった?」
「会った……っていうか、会って声かけたんだけど……」
「えっ、そうなの?」
「うん、ホタル見に行かない? って誘ってみたんだけど。……でも、結局無視されちゃった」
「うぅーん……ユウキくんでもだめだったかー」とナツキは思案深げな顔つきで腕を組んだ。「どうすれば心を開いてくれるのかなあ」
「放っとけよ」とテツロウが言う。「あんだけ関わるなオーラ出してんだからそっとしておくのが一番だって」
「そうは言ってもなぁ……。どうしても放っておけないっていうか何ていうか……」とナツキにしては珍しく言葉を詰まらせていた。
「だあっ! 何だよそれ! わけ分かんね!」
テツロウは苛立たしげに言い放つ。
「わ、私も分かんないよ! どうしてそう思っちゃうのか……」
分からない。だけど、どうしてか気になる。
ナツキのその気持ちが、何となく分かる。ぼくの場合、それは多分ナツキの影響だ。ナツキが昨日彼に声をかけたのを見たから、ぼくもどうしようもなく気になってしまう。
それじゃあナツキが気になるのはどうしてなんだろう。さすがにそれは、ぼくにも分からない。
「とにかくさ、とっととホタル見に行こうぜ。ガキもいんだから」
そう言ってテツロウはケンイチとミナミに視線を投げかける。
すると、その言葉が癪に障ったのか、ケンイチが「僕は別に、ガキじゃありませんけどね」と冷静に反論した。
ミナミもミナミで、「あたちをガキ呼ばわりするなんて百万年早いわっ!」なんて言い返している。
「そうだね。ホタル、見に行こっか」
ナツキは笑ってみせたけど、まだあの少年のことを気にしているみたいだった。
森の中に入ると、一気に暗くなった。もう日が落ちてそれなりの時間が経つ。到着する頃には夜になっているだろう。
ぼくはみんなと同じように懐中電灯を取り出して周囲を照らした。
「足元、気をつけてね」とナツキがみんなに注意を促す。ぼくは頷いて、彼女の後に続いていく。
そしてぼくの隣では、ミナミが兄のケンイチにしがみつく勢いで歩いていた。
「ちょっとミナミ、もう少し離れてくれないか?」
「…………」
森に入る前の威勢はどこへやら、ミナミは一言も話さずに、ぎゅっとケンイチの服の裾を握っていた。
「やっぱガキじゃねーか」
そんなミナミを見て、ナツキの隣を歩くテツロウが言った。それでもミナミは、やっぱり何も返さない。
ミナミでも怖いものはあるんだなぁ。
と、そんなことを考えていると、ナツキがテツロウを諭した。
「こら。そんなこと言わないの」
「だって本当じゃねーか」
「それじゃあてっちゃんだってガキじゃん」
「はぁ⁉ 何言ってんだ、オレは大人だ!」
「どっこがー? 私よりも身長低いくせにー」
ナツキに真実を告げられると、テツロウは暗闇でも分かるくらいに顔を紅くして叫んだ。
「うっせぇ! ナツキこそガキだ! 年下を煽りやがって」
「勝手に言ってなよ、ふふっ」
騒ぎ立てるテツロウを、ナツキはさらっとあしらう。
いつも、こんな感じなのかな。二人のやり取りを見ていると、ふとそう思った。
いつもテツロウが誰かを茶化して、それをナツキが注意する。そうするとテツロウはナツキに食ってかかろうとして、でもナツキはそれを軽やかに受け流す。
そうして出来上がった空間に、ぼくという新しい色が混ざり込む。
そう、混ざり込むだけであって、完全に溶け込めていない。二人のやり取りを見ると、それをどうしても感じてしまう。
ナツキは何も言わずにぼくを仲間に入れてくれたけど、もしかするとそれは、ぼくが秘密基地を見つけてしまったからかもしれない。
だから、つまり、仕方なくぼくを……。
そこまで考えが及んだ時、突然ナツキの鋭い声がした。
「ユウキくん! 危ない!」
「えっ――うわ!」
我に返ったぼくの目の前に、木の枝が突き出していた。ギリギリのところで気づいて、何とか避けることができた。
「もう、危ないじゃん」
「……ごめん」
「怪我、ない?」
「……うん」
「まさかお前も夜の森怖いわけ?」
小さくなったぼくを見て、テツロウが煽ってくる。
「こーら、てっちゃん?」
ナツキの冷ややかな視線を浴びると、テツロウはさりげなく顔を逸らした。
怖い……。確かに、怖い。本当はみんながぼくのことをどう思っているのか分からなくて、怖い。ナツキがどう思っているのか分からなくて、怖い。
「ユウキくん? どうしたの?」
足を止めたぼくに向かって、ナツキが怪訝な表情を見せる。
「おーい、ちびっちまったのかぁー」
テツロウが抑揚のない声で聞いてくる。
ぼく……ぼくは……。
「ごめん、ぼく……夜の森、ちょっと怖いや……」
そうやってごまかしたぼくに対して、ナツキは「大丈夫だよ」と優しく声をかけてくれる。テツロウは相変わらず、「お前もガキじゃん」と煽ってくる。そしてケンイチは幽霊なんかいないということを論理的に説明してくれて、ミナミにいたっては手を握ってくれた。
ぼくが思っているよりも、みんなはぼくのことを受け入れてくれているのかもしれない。まだ少し不安だったけど、みんなの優しさに頑張って笑ってみようとした。……上手くできていると、いいな。
それからぼくたちは川を目指して歩みを再開した。前を行く二人の足取りは軽やかで、一切の迷いがなかった。ぼくなんかは、まだ一度しか通ったことがなくて、それに視界も悪いから一体どこを進んでいるのか全然分からなかった。
でも、空気に冷たさと湿っぽさが増えてくると、もうすぐだと予想できた。
「あ、ホタル!」
川の音が聞こえ始めたと同時に、ナツキが言った。彼女の声に前方を見やる。すると、淡い黄緑色の光がゆっくりと動いているのが見えた。
「あれが……ホタ――」
「わあっ、ホタルだー!」
ぼくのつぶやきを遮って叫んだのは、ミナミだった。ホタルを見ると元気が戻ったみたいだ。
そうして駆け出そうとするミナミを、ナツキがとめる。
「危ないよ、ミナちゃん」
「ええっ。でも早く! 早く見たいよ!」
「早く見たいのは分かるけど、こっそり近づかないと、ホタルがびっくりしちゃうかも」
「ううー」
「ミナちゃんはお利口さんだからできると思うんだけどなー」
「……うん、ミナミ、余裕でできる」
「よし、じゃあ懐中電灯を消して。それから、あんまり物音立てないようにね」
ミナミだけじゃなく、ナツキはぼくたちにもそう促す。全員がナツキの指示に従うと、再び歩き出した。
一歩、一歩進むごとにホタルの数が増えていく。まるで川で夜会でも開かれているのかなと思ってしまうほど、辺りのホタルはぼくたちと同じように川を目指していた。
ぼくたちはホタルについて行くようにして進んだ。そして、ついに――
獣道を抜けたぼくたちの目の前には、息を呑む光景が広がっていた。それをファンタジーか何かの世界の出来事だと言われても、あっさりと受け入れられるだろう。いや、もしかしたらファンタジーの世界以上に幻想的かもしれない。
こんなにきれいな光の揺らめきを見られる場所が、日本にあったなんて……。
ぼくたちは誰からともなく足を止めて、その光景にじっと見入っていた。
何匹いるだろう。千? 二千? もしかして、それ以上?
数えきれないほどの光が、川上から下流にかけて揺らめいている。その一つ一つがそれぞれの意思で動いているけど、でも、どこか秩序立った動きをしていて。まるで波のようにうねる。
それはまた、ホタルたちが寄り集まってダンスをしているようでもあって。ぼくはその演技に魅せられた。
これだけの数がいれば、羽音が聞こえてきそうなものだけど、まったくの無音だった。それは別にホタルたちが慎ましげに飛んでいるというわけではなくって、大胆に飛ぶホタルも中にはいる。
そして、その無音で乱舞するホタルを演出しているのが、川だった。ただ川のせせらぎだけを聞いても、それは単なる音に過ぎない。だけど、こうして光と合わさると、どこかリズムが生まれているように感じられて演奏みたいに聞こえた。光に反響しているからか、立体感のようなものも感じられる。
目で見て、耳で聞いて、肌でその雰囲気を感じ取る。
夢でも見ているのかな。目の前の光景に心を奪われたぼくは、夢見心地な気分になりそうだった。でも――
「もっと近づいてみよっか」
というナツキの声で、どうにか踏みとどまることができた。
ぼくたちは静かに頷いて、ゆっくり近づいた。
間近で見るようになって、さらに一つ一つの光が際立った。
全体的に見ると黄緑色をしている光も、中には青っぽかったり、それこそ黄色や緑色に光るホタルもいた。
「こんなにたくさんのホタル、初めて見たなぁ」
隣でナツキがぽつりとつぶやいた。
「え、そうなの?」とぼくは返す。
「うん。毎年見てるけど、こんな数のホタルは初めて」
ユウキくんがいてくれたからかな、って。なーんてね、って。ナツキは微笑む。
淡い光に浮かぶナツキのその顔が、繊細で、きれいで、それでいて何だか儚くて……。ぼくはホタルに目を向けずに、ナツキの横顔をじっと見つめていた。
するとナツキは、ぼくの視線に気づいたのか、こちらを振り向いた。まじまじと見られて恥ずかしくなったのか、苦笑を漏らす。
「なあに、ユウキくん?」
というナツキの声が、何だか遠くで聞こえる。他のみんなも、何かささやき合っているみたいだったけど、何を言っているのかほとんど聞こえなかった。
ぼくとナツキの間を、一際強い光を放つホタルが横切った。黄色い光にナツキの顔がぼうっと照らされて、その瞳が切なげに煌めいた。
「…………」
ぼくは、思わずナツキの顔に手を伸ばしていた。
頬っぺたに触れる確かな感触が返ってきた。周囲の涼やかな空間に冷やされていて、でも温かくて、柔らかくて。ナツキの温もりを感じる。
するとナツキは、ぼくの行動に少し驚いたみたいで、無言でぼくの手を剥がした。そこでぼくは、はっと我に返る。
「ご、ごめん……」
今しがた自分のしたことを振り返ると恥ずかしくて、どうしても目を合わせられなかった。
「ううん、大丈夫……」
と言ったナツキは、一体どんな表情をしているのだろう。ぼくには、それを確認する勇気がなかった。
ユウキという名前なのに……。
ぼくは、臆病だ。
ホタルの光が、まぶしい。それはもはや、ぼくを惑わすアヤシイ光だった。
結局、ぼくたちはその後真っ直ぐ家に帰った。星もついでに見るという予定だったけど、みんなはホタルだけで満足したみたいだった。帰り道の間中、すごかったすごかったと騒いでいた……ナツキとぼくを除いて。
ぼくは、それでよかったと思う。ただ、みんなと同じように満足を理由にそう思ったんじゃない。全然、別の意味で星を敬遠したかった。
それは、つまり……。
家に着くまで、ずっとナツキのことを考えていた。自分からナツキに触れたことも、頭から離れない。
そんな状態で、星なんか見れるはずない。見てもきっと感動できなかったと思う。
だからホタルを見て、すぐにみんなと別れて一人になれてよかった。
ナツキといると、気まずくて、息苦しくて、つらかった。それもこれも、全部ぼくに原因があるんだけど……。
自業自得。どうして、あんなことしたんだろう……。
夏の夜風は涼しい。いや、涼しいを通り越して冷たかった。そういう気分だからか、上着を着ていても寒く感じた。
ポケットに手を突っ込んで、足元に視線を落として歩いた。時折思い出したように街灯が道を照らした。
カエルの鳴き声が大きくて、静かに鳴く虫の声がかき消されていた。
そう言えば、夜の田舎を体験するのは、実質今日が初めてだ。昨日はすぐに寝落ちしてしまったから。
これが、田舎の夜。車の音が本当に遠くの方から一回聞こえてきただけで、それ以外、カエルか虫の鳴き声しか聞こえてこない。
吹く風は冷たくて、ぐちゃぐちゃになった頭を冷やしてくれる。
そうしていくらか落ち着きを取り戻した頭で、もう一度考えてみる。
ぼくよりも背の高いナツキ。スキンシップの多いナツキ。よく笑うナツキ。困ったように頬っぺたを膨らませるナツキ。ホタルの光に浮かぶナツキ。ぼくに触れられて驚いた顔をするナツキ。
たった二日しか一緒に過ごしていないのに、いろんなナツキの顔を見てきたことに気づいた。そしてそのどれもが印象的で、こうしてはっきりと思い浮かべることができる。
それは言い換えれば、苦しいことだった。その理由は分からない。でも、確かに感じる。胸の辺りがぎゅっと締めつけられるような痛みを。……柔らかい痛みを。
そんなこと、今まで感じたことなかった。
似たような感覚は、何度かあった気がする。だけど、気がするという程度で、これほどまでにはっきりとした形で感じたことはなかった。
何なんだろう……これ。
ぼくは左胸に手を添えてみた。いつもより少し早く心臓が動いている。まるで、何かを叫びたがっているかのように、そこで暴れている。
叫ぼうとした。……でも、何を叫んだらいいのか分からなくて、空気の塊が出た。
足を止めて、右の手を開いた。
そこには、ナツキに触れた時の感触がまだ残っていた。
おかしかった。ふとした拍子に友達に触っても、その感触は意識する前になくなっていくのに。ナツキに触った時だけ、やけにその感触が残る。
左手でこすってみても、やっぱり消えない。
全くもう、何が何だか分からない。ナツキが分からないし、それ以上に自分のことが分からない。
ぼくは、ナツキをどう思っているんだろう……。ナツキを、どういう風に見ているんだろう。
頼れる年上の女の子? 合っているけど、しっくりこない。
ケンイチとミナミの保護者役? 少し違う。
テツロウの歯止め役? 違うし、それは嫌だ。
ぼくにとってのナツキは……。
答えが出なかった。喉の辺りでつかえて、どうしても外に出ようとしない。
ぼくがそうして胸の辺りを押さえていると、家が見えてきた。夜道を歩いていたら何か気づくのではないかな、とぼんやりと思っていたのに、何にも気づけなかった。
空を見上げてみる。そこには昨日と同じように星が無数に散りばめられていて、小さく瞬いていた。
一つとして、星は流れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます