第一章 違う夏

 ゲームをやめたぼくは、ことの始まりを思い返していた。

 夏休みが始まる前のこと。夕方、友達の家から帰ったぼくは、母さんの声を聞いた。何やら電話で話をしているようで、その声は驚きと戸惑いに溢れていた。晩ご飯の時に、その理由を知った。

 出張。

 それなりに耳にする言葉だったから特に驚かなかった。でも、今回は少し違うらしかった。

 両親は二人とも仕事をしている。父さんはゲーム会社で働いていて、母さんはアニメーターをやっている。出張はいつも、どちらか片方の時だけだった。もしかしたらそれは珍しいことなのかもしれない。両親ともに仕事をしている場合、二人そろって出張することの方がよくあるのかもしれない。そう、どっちが確率として高いのか分からない、両親出張がぼくの身に初めて起こったのだ。

 別にそれが短期間なら問題の解決は簡単だったんだろう。でも、そうじゃなかった。

 二か月。それが意味するところを、ぼくはまだ完全に理解できないでいる。

 晩ご飯を食べている時に、父さんと母さんは残念そうに話した。

「どうしても断れない」

「ごめんねぇ」

 こんなことは初めてだったから、確かに混乱した。これから夏休みだというのにどうすればいいんだろう。友達の家に泊まる? いや、これはもはや泊まるというよりも住むという方が近いのかもしれない。

 両親も同じことを考えたんだろう。家族ぐるみで付き合いのある友達の家にぼくを預けるという話も挙がったけど、さすがに月単位となると迷惑になる。

 他にも、父さんと母さんのどちらかについて行くという話やおじいちゃんおばあちゃんの家に行くという話も出た。前者の方は二人の邪魔になるし遊べないしでぼくが却下した。後者は、少し複雑だった。まず父さんの方のおじいちゃんおばあちゃんは二人そろってぎっくり腰で入院中。母さんの方のおじいちゃんおばあちゃんは、家を改装中で厳しいとのことだった。

 ぼくたちはテーブルを囲んでうんうん唸った。そして家族三人で出した結論は――


「もうすぐだぞ」

 いつの間にかぼくは眠ってしまっていたみたいだ。父さんの声で目を開けて窓の外に視線を投げる。さっきと変わらない、夏の空が続いていた。気のせいか、より青さを増している気がする。

 本当にもうすぐらしい。

 ……もしも今、言ったらどうなるだろう。

 おじさんの家には行かない。父さんの出張について行く。そう言ったら父さんは、どんな反応をするだろう。

 ぼくたち三人の出した答えは、田舎にあるおじさんの家にお世話になるということだった。おじさんは父さんの七歳上のお兄さんだ。弟の父さんは都会に出て、兄のおじさんはずっと田舎で暮らしている。公務員をやっているそうだ。

 おじさんの家には昔来たことがあった……らしい。何せぼくがおじさんの家に行ったのは今から七年前、ぼくが四歳の頃のことで、ぼくはおじさんの家に来たということを覚えていない。おぼろげながら来たことがあるような……。頑張ってもそれくらいの記憶。これはもう、初めて訪れると言っても大丈夫な気がする。

 おじさんには一人の子どもがいて、名前をノリくんという。ぼくよりも七歳上だから十八歳。ジュケンセイらしい。漢字で書こうと思えば書けるし、意味も知っている。でも、それがどんなに大変なことなのかは分からない。おじさん家行きが決まっても、その話題が何度か持ち上がった。でもおじさんおばさんが言うには、大丈夫だとのこと。むしろ勉強しかしてないから少しくらいは遊び相手になってやってほしいと言っていたみたいだ。ノリくんも、ぼくに会いたいらしい。

 お盆やお正月にはおじいちゃんおばあちゃんの家に行く。でも、父さんや母さんの仕事の都合とか、おじさんおばさんの都合とかで、全員が顔を合わせるということはこれまでなかった。だから本当にノリくんと会ったのは、その七年前が最初で最後なのだ。

 慣れない場所、慣れない人。そこに行くと頷いたのは紛れもなくぼく自身。だから今更になってそれを曲げることは許されないだろう。でも……。

 今更だからかな。着実にそうなりつつある今だからこそ、ぼくは行きたくなくなった。窓から視線を外して、運転席の方に移す。この視点からだと父さんは完全に席に隠れていてその姿は見えない。でも、透けて見えるというか、見えなくても父さんがいるってことが分かる。……当たり前だけど。

 見えないけど見える父さんに向かって、口を開く。だけど、喉で言葉がつかえて出てこようとしない。さながら学校の中庭にいるコイみたいに口をパクパクさせていた。

 寝転んでいるから言葉が出ないんだ。と、意味の通らない答えを出して起き上がろうとした途端――

「おっと」

「うわっ!!」

 車が派手に揺れた。その衝撃でぼくは座席から落ちた。

「はっは。ユウキ、大丈夫かー?」

 全然心配していなさそうな声音で父さんは言う。

 ……大丈夫……じゃない。

 もう、いいや。ぼくは席に座り直すこともしないで、そのままでいることにした。目を閉じる前に見た空は、やっぱりさっきとおんなじだった。


「よっし。着いたぞーユウキ」

 父さんの声がした。座席と座席の間にぴったり収まっていたぼくは、閉じていた目を開ける。寝てはいなかった。というか、こんな狭いところで寝られるはずがない。でも寝られないだけであって、別に居心地が悪かったということでもなかった。

「そんなところで何してる?」

 振り向いた父さんがぼくを見下ろして言った。

「何もしてないよ」

 ぼくはのそのそと起き上がる。

「着いたぞ。ほら、降りろ」

 自然とため息が漏れた。ぼくからすると着いちゃったの方が正しいんだけどな。

 可能な限りゆっくりとした動作でドアを開けると、そこから夏の熱気が流れ込んできた。

 あっつい……。元々憂鬱な気分なのに、そこに暑さも加わってぼくの顔はひどく歪んでいるだろう。

「ほれ、ユウキ」

 そんなぼくのことなんか父さんは気にしない。ぼくに向かって鞄を放り投げてくる。

 普段使うことのない旅行用の鞄。黒色でかっこいいデザインだ。ぼくのお気に入りの一つ。家で荷物を積めている時は楽しかったし、旅行気分でいられたけど、今ここで渡されても重いだけだった。肩にしょって、そして辺りを見回す。

 緑、緑、緑。ぼくたちはおじさん家の門の前にいた。そこは他よりも高い位置にあるため、遠くの景色までよく見渡せた。

 ……本当に、田舎だ。

 ぼくは田舎と縁のない都会っ子だ。おじいちゃんやおばあちゃんの家も都会よりの場所にあるから、こんなに何もないところに来るのは初めてだった。

 そう、何もない。ここには何もなかった。ここに来る途中で見たビルなんてどこにも見当たらないし、マンションもスーパーも、コンビニさえも見つけられない。もしかしたらこの位置からだと見えないだけなのかもしれない。最初はそう思った。でも、たとえそうだとしても、ビルやマンションは大きいから見えるはずだ。なのにそれらが見えないということは、やっぱりここには存在しないのだろう。

 家の方もどこか古めかしい印象を受けた。屋根が瓦でできていて、全体的な色も落ち着いていて、昔懐かしの日本の家っていう感じだ。何となく昭和みたいな雰囲気がある。ぼくはれっきとした平成生まれだから昭和のことなんかよく分からないけど、でもそんな雰囲気を感じる家々だった。ぼくの住む街の家とは対照的だ。

 そういう町並みを、山々がぐるりと取り囲んでいる。遠くの方でセミの声に混じってウグイスの声がした。もしかしたら、直接聞いたのはこれが初めてかもしれない。長閑、という言葉がぴったりだと感じた。

「おーいユウキー」

 ぼくが鞄を受け取ったままの状態で景色を眺めていたら、少し離れたところから父さんの声が届いた。父さんはぼくを置いて一人で門をくぐっていた。

 立派な門だった。毎年初詣に行く神社の門と比べると小さいけど、重々しい雰囲気があった。門は大きさじゃなくて、それ自体に存在感が宿っているんだと思った瞬間だった。

 門をくぐると庭が広がっていて、洗濯物が風に揺れていた。庭には色鮮やかな朝顔やマリーゴールド、その他トマトやキュウリなどが植わっていてちょっとした菜園みたいだった。

「あらー、ユウキくん?」父さんのところまで行くと、そう声をかけられた。「大きくなったねえ」

 目の前にいたのは、おばさんだった。おばさん、なんて言ったけど、実のところお姉さんなんじゃないかなと思ってしまうくらい若く見える。長い髪は後ろで一つにまとめられていて、しわのないきれいな顔がぼくを見下ろしていた。

「ほらユウキ、挨拶」

 おばさんのことを何て呼ぼうか考えていると、父さんの言葉が飛んできた。背中をぽんと押されて、一歩前に。

「……こんにちは」

 顔も見られずに出した声はいつもよりも断然小さくて、辺りのセミの声に埋もれてしまったかもしれない。……聞こえたかな。

 というぼくの心配は必要なかった。おばさんは微笑んで、

「こんにちは。おばさんのこと、覚えてる?」と尋ねてきた。

「えっと……」七年前のことなんか覚えていない。でも覚えていないですって答えたらおばさんに失礼かなと感じて、次の言葉が出てこなかった。

「ふふ、覚えてないよねぇ。だって最後に会ったのって……七年前かしら」

 ぼくが俯いたままでいると、おばさんは言った。最後の言葉は父さんに向けられて、父さんは「そうですね、それくらいになります」と不器用に笑った。

「あ、そうだ。ノリ呼んできますね」

 突然思い出したようにおばさんは言った。だけど父さんがその後ろ姿に向かって慌てて声をかけた。

「ああ、メグミさん。大丈夫ですよ。ノリくん、勉強大変でしょうから」

「そう? でも挨拶くらいは……」

「それはノリくんが合格した時のお楽しみってことで。僕もこいつ預けたらすぐ行かなきゃいけないし」

 おばさんは不服そうだったけど、うっすらと笑って「分かったわ」と言った。

「ユウキ」ぼくの名前を呼んで、父さんはぼくと目の位置を合わせた。大きな手が頭に乗せられる。「おじさんおばさんの言うことは絶対に聞くんだぞ。それから、ノリくんと遊んでもいいけど、くれぐれも勉強の邪魔はしないように。あと宿題も、迎えに来るまでにはきっちり終わらせること。分かったな?」

 分かってる、とぼくは頷いた。すると父さんはまた不器用な笑みを浮かべて、「たまには電話するから」と付け加えた。

「それじゃユウキのこと、頼みます」

 おばさんに向かって言うと、父さんは頭を下げた。ぼくも真似してお辞儀する。

「よろしくお願いします」

 おばさんは、はいと言って小さく笑った。

 父さんはその後すぐに家に帰った。すでに出張の準備は済んでいるみたいだけど、最終確認が残っているそうだ。

「ユウキくん、おうち入ろっか。ここにいても暑いだけだし」

 父さんの姿が見えなくなると、おばさんはそう言った。ぼくは頷いておばさんの後に続く。

「お邪魔します」

「はいどうぞ」

 家の中に入ると匂いが変わった。植物の強い匂いから、何だか温かみのある優しい匂い。木の家だからかな、こんな匂いがするのは。

「ノリー! ユウキくん来たわよー!」

 きょろきょろと玄関の周りを見回していると、おばさん突然の大声でぼくは我に返った。その直後に二階から扉の開く音と、「はーい」という声が聞こえてきた。

 いよいよノリくんと再会(もしくは初対面)のときだ。

 ドキドキしていると、目の前の階段からノリくんの足音が聞こえてきた。次第にその姿が見えてくる。

 ジュケンセイのノリくんは、くせっ毛で髪と同じ色の黒縁メガネをかけていた。背が高くて手足がすらっと細い。別に色白というわけではないけど、でも夏の日差しをあんまり浴びてないんだろうなと感じる肌の色をしていた。

 眠そうな目を細めて笑うと、ノリくんは言った。

「久し振り。大きくなったなー」ノリくんはニコニコして言った。だけど、すぐにその笑顔を引っ込めた。「ああ、ユウキくん的には初めましての方がしっくりくるかな」

 ややこしいよな、とノリくんはまた笑った。

 本当にその通りで、ぼくが考えていたことをノリくんはずばりその一言で言い表してくれた。ややこしい。ジュケンセイって、言葉のイメージ通りすごい。

「さ、上がりなよ。部屋案内するからさ」

 ノリくんは右の親指で後ろの階段を差した。おばさんは、「それじゃあ後はノリにまかせるわね」と言ってどこかへ消えてしまった。

「お邪魔します」ともう一回言ってから、ぼくは家に上がった。

 ノリくんの後に続いて階段を上る。一段上る度に、木でできたそれは鈍い音を立てる。

「ああ、そうだ。これから夏の間はこの家で暮らすんだから、いちいちお邪魔しますなんて言わなくていいよ。いきなりは無理かもしれないけど、ここ、自分の家だと思ってくれていいからね」

 ノリくんは振り返らずに言った。

「はい」

 とぼくが言うと、ノリくんは突然立ち止まった。階段の途中で一体どうしたんだろう。

「それから」ノリくんは笑いを漏らしながら振り返った。「俺たち従兄弟なんだからさ、敬語じゃなくていいんだよ? あ、でも最初はそうなっちゃうか……」

 ノリくんは何がそんなに嬉しくて仕方がないのか、くすくす笑いながら再び階段を上り始めた。そんなノリくんのことを理解できないぼくは、不思議に思いながらその背中について行った。

「ここが、ユウキくんの部屋」

 ノリくんに示された部屋は、七畳の和室だった。部屋の右奥に勉強机があって、その反対側にはベッド。部屋の中央には円い座卓と扇風機が置いてあった。

「俺が昔使ってた部屋で申し訳ないんだけど、許してね」

 昔って大体どれくらい昔なんだろう。見た限りではそれほど古いようには見えない。

 と、ぼくが突っ立ったままだったので訝しく思ったのだろう、ノリくんが声をかけてきた。

 別に聞くほどのことでもないかなと思ったぼくは、他のことを口にした。

「旅館みたい」

「旅館?」

「うん。畳、だから」

 ノリくんはしばらく黙って、そして「ああ」と何か納得したみたいだ。

「もしかして、ユウキくんの家には和室ない?」

「うん。ない」

「ひゃあー都会ってすごいなー。ちなみにこの家、ほとんど和室だから」

「え!?」

「これぞ田舎ハウス! な、後でさ、都会のこといろいろ教えてよ」

「う、うん」

 ぼくがそう言うと、ノリくんは「やった!」と嬉しそうにしていた。

 ノリくんはきっといつものノリくんなんだろう。気さくで、優しくて、小さなことでもすぐに笑う。

 でも、ぼくは違う。さっきから緊張して素を出せないでいる。どうやったらノリくんみたいに緊張しないで話せるのだろう……。

「ね、ねえノリくん」

 ぼくは思い切って尋ねてみることにした。

「ん?」

「……ごめん、何でもない」

 できなかった。ノリくんの顔を見たら、何だかそんなことを聞くのは場違いな気がした。

 言いかけたぼくを見ても、ノリくんは笑顔を崩さなかった。

「ノリー!」一階からおばさんの声が聞こえてきた。首だけを廊下に出してノリくんが返事する。

「何ぃー?」

「私ちょっと出かけてくるからー。後よろしくねー!」

「はぁーい!」

 とノリくんが答える時には、すでに玄関の引き戸がガラガラと音を立てていた。そして程なくして車のエンジン音が聞こえてきたと思うと、あっという間に音が遠ざかって行った。

 少しの間、家が静かになった。だけど相変わらず外ではセミが大声で鳴いていて、本当の意味での静けさなんて当分訪れそうにはなかった。

 そのままでいるのも変な気がして、ぼくはその場から動くことにした。今日からここが自分の部屋になると言われても、自由に部屋を歩き回る気にはなれなかったのでゆっくりと七畳の部屋を縦断する。

 向かった先は、さっきおばさんの乗った自転車の音が聞こえてきた窓辺だ。断続的に風が吹き込んできて、白いカーテンが大きく揺れる。その膨らんだカーテンの隙間から内側に入り込む。

 門の外で見た時と同じ景色が広がっていた。さっきよりも高い位置で眺めることはできたけど、やっぱりビルは見つからなかった。

「何にもないだろ?」背後からかかってきた声に、ぼくは後ろを振り仰ぐ。ノリくんは優しい目でぼくを見下ろして、そして窓の外に視線を投げた。「都会の子には物足りないかもしれないね」

「そんなことない……よ」

 敬語を使わなくていいと言われたことを思い出す。「です」って言いそうになるのを何とか軌道修正した。

 ぼくはノリくんの言葉を否定した。でも、本当のところどうしようかなと思っていた。見た限りではノリくんの言う通り何もないし、かといってどこか遊べるような場所を案内してもらうにも、この町に友達がいるわけじゃないからそれも難しい。ノリくんに頼めば案内してくれるかもしれないけど、いきなり馴れ馴れしくそんなこと言えるはずもない。って考えると、できることは持ってきたゲームくらいか。

 カセット、何個持ってきたかな……。

 ぼんやりと空を眺めて持ってきたカセットを頭の中で数える。一個……二個……。山の向うの空にはわたがしみたいな入道雲ができていて、今もどんどん大きくなっているみたいだ。

 あんなに大きなわたがしがお祭りで売っていたらな、と考えた時、二つの音が鳴った。似たような音だった。ぼくとノリくんはどちらからともなく顔を見合わせる。

「もしかして、あの雲のこと、わたがしみたいだって思った?」

「うん、思った」

 少しの間を開けてから、ぼくたちは二人して笑い合った。

「もう昼だもんな。お腹空いたよな」

「うん、あの雲見てたら余計に」

「よっしゃ、昼にしよう!」

 というノリくんの声を合図にしてぼくたちは部屋を後にした。前を行く背中が、少しだけ近くなったような気がした。


 リビングはいたって普通だった。テレビがあってテーブルがあって箪笥があって。それでもやっぱり昔の家みたいだなと感じるのは、隣の部屋や廊下が、障子や襖で遮断されていたり、木でできた家全体がこげ茶色をしているからだろうか。

「あ、ユウキくん。手洗っといでよ。洗面所はそこから出て右に進んだ突き当りのとこね」

 ぼくは考えるのをやめて、ノリくんに言われた通り手を洗いに行った。

 戻って来るとテーブルの上には冷しゃぶが山盛り置かれていて、そのボリュームに思わず声を上げる。

「うわ!」

「ははっ。母さん、ユウキくんが来るからって気合入れすぎだ」と苦笑するノリくんは、それはそれで楽しそうにしていた。「よし、食べよう。いただきまーす!」

「い、いただきます!」

 冷しゃぶは文字通り冷えていて美味しかった。野菜は嫌いなものが入っていなかったこともあったし、何よりノリくんの手前、いっぱい食べなきゃという見栄が出てきて、いつも以上に口に放り込んだ。

 山盛りあった冷しゃぶはあっという間に底が見えてきて、ご飯も二人とも二杯食べた。食べている間、ノリくんはぼくにいろいろと質問してきた。

「な、都会の学校って、鉄筋コンクリートでできてるんだろ?」

「そう……だよ? もしかして、木造なの?」

「そのもしかしてだよ」

「へぇー」

「やっぱ珍しいよな」

「珍しいっていうか、見たことない」

「うわっ、まじか! 都会にも一つくらいあってほしかったけど、やっぱりないか」

 他にも。

「電車ってどれくらいの頻度で来る?」

 自転車移動が基本のぼくは、電車の本数をあんまり知らない。

「十分に二本くらいかなぁ」

 多分これくらいだろうな、という予想を口にすると、ノリくんの目が丸くなった。

「十分に……二本……」

 ノリくんは掴んでいた豚肉を落とすくらい驚いていた。そんな大げさに驚かなくても、というぼくの思いに関係なく、ノリくんはぽつりと言った。

「ここなんて、一時間に一本だぜ……」

 一時間に一本。電車をあまり使わないぼくにとって、それが意味するところを理解するのは難しい。だけど、何となくは分かる。きっと不便なんだろうな。

 食卓を囲んだことで、だいぶノリくんにも慣れてきた。ぼくはずっと言いたかったことを口にしてみる。

「ね、ねえノリくん」

「ん? 何?」

「これから、さ。ここら辺案内してくれないかな」

 ノリくんはすぐに口元を緩めて、「そうだね」と了承してくれた。


 昼ご飯を食べ終えたぼくたちは支度をして家を出た。熱中症には気を付けた方がいいということで、帽子をかぶっていく。

「よし、準備オッケー?」

「うん、オッケー!」

「んじゃ、行くかー」

 セミの鳴き声に包まれた町を歩く。

「しっかし今日も暑いなー」

「帽子かぶってきてよかった」

「だろ?」

「うん」

 正午を過ぎて真上に昇った太陽は、容赦なくぼくたちに襲いかかってくる。すぐに汗が滲む。隣を歩くノリくんも暑さに顔をしかめていた。ぼくに帽子をかぶっておいた方がいいと言っておきながら、ノリくんはその黒い髪を日にさらしている。こめかみから汗が流れた。

 大丈夫なんだろうか。ぼくは細いノリくんを心配した。

 日差しを浴びるノリくんは、今にもその暑さに負けそうな気配をぼくにちらつかせていた。

 そんなノリくんが、突然足をとめた。

「……ジュース、買おっか」

 ぼくを見下ろすその顔から、また汗が落ちた。声に変化はなく、自動販売機へと向かう足取りもしっかりしている。

 ただ暑さに弱いだけなんだな。そう結論づけてぼくはノリくんについて行った。

 ここに来てからというもの、細かいところで都会との違いを発見してきたんだから、ここでも何か変わったものが見つけられるかもしれない。そんなわずかな期待を胸に、自動販売機の前に立つ。

 ……しかし内容は、家の近所のものとさほど変わらなかった。

「ねえノリくん」

「何?」

 ぼくたちはジュースを買うと、すぐに歩みを再開した。ちなみに、ノリくんはロカリスエットを、ぼくは四ツ矢サイダーを奢ってもらった。

「ノリくんは田舎が嫌いなの?」

「え?」ぼくの突飛な質問に、ノリくんは少し驚いたようだった。「急にどうした?」

「特に深い意味はないんだけど。都会のこと、とっても気にしてるみたいだから」

「ああ、なるほどね」と言ってノリくんはロカリを一口啜り、空を見上げた。「別に嫌いじゃないよ。でもさ、何て言うか、狭いんだよな」

「狭い?」

 ぼくにはその意味が伝わらなかった。狭い? どういうことだろう。いろいろ探検すれば、いい遊び場所がたくさん見つかるような気もするけど……。

「うん。ユウキくんも俺くらいの年になれば分かると思うけどさ、ここは、狭いよ」

 そう話すノリくんの目は夏の空に向けられていて、でもそれを眺めているわけじゃなくて。どこか遠くを見つめるような目をしていた。

 狭い。それって窮屈だってことじゃないのかな。だったらやっぱり、居心地が悪いんじゃないのかな。

 そんなぼくの心の内を見透かしたように、ノリくんは付け加える。

「まあでも、好きなところもあるよ。ゲームセンターとか映画館とかはマチに出ないとないけどさ、その代り自然にあふれてるだろ?」

 空からぼくへと目を移したノリくんの顔は、ロカリのおかげか涼やかだった。

 確かに、ここは自然にあふれている。ぼくからすると、あふれすぎている、といっても大丈夫なくらい自然だ。

 そうしてぼくたちが向かった先は、神社だった。途中で森の中に足を踏み入れた時はどこに向かっているのか疑問に思ったけど、着いた場所を見ると納得できた。

 でも、何で神社?

「ふう、暑かった」

 ぼくが尋ねようと思ったのと同時に、ノリくんはそう言ってベンチに腰掛けた。それが答えだろう。

 暑いから日差しを遮る場所に向かった。うん、ここは木々のおかげで日の光が届きにくくなっている。木の間を縫って吹き込んでくるそよ風も気持ちよくて、火照った体を冷ましてくれる。それはそれでいいんだけど、ぼくの感じた通りノリくんは暑さに弱いみたいだ。ふう、と息を吐いて脱力したように顔を上に向けて風を感じていた。

「ユウキくんも座りなよ」

 と、隣の空いているところに手を置いてノリくんは言った。ぼくは素直に従ってノリくんの隣に腰を下ろした。そして手に持っていたボトルのキャップを開けてサイダーを飲む。

 相変わらずセミはうるさい。森の中にいるのだからなおさらうるさい。シャワシャワと鳴くクマゼミ、名前の通りミンミンと鳴くミンミンゼミ、ジージーと鳴くアブラゼミ。他にも何種類かの音を聞き分けられたけど、名前が分からなかった。

「夏だなあ」微風を気持ちよさそうに受けながらノリくんは言う。

「夏、好きなの?」

「んーどうだろ」

 ノリくんは考えながらも、その笑顔を崩そうとはしなかった。表情からは好きなように見えるんだけどな。

「まあ好きっちゃ好きだけど、暑いのは嫌い」

 まだ会って数時間しか経っていないけど、その答えは本当にノリくんらしいなと思った。

「ユウキくんは? 夏、好き?」

「ぼく? んー……」

 考えたことなかったなぁ。ちょっと考えてみる。

 毎年夏が来ると、夏休みになると、学校のプールに行って、昼ご飯を食べて、クーラーで冷えた友達の家でゲームをする。飽きれば外で野球とか、鬼ごっこをする。

 それらは楽しいことだ。間違いなく。他にも、八月には夏祭りや花火大会もある。お祭りの屋台で友達と勝負して、勝った時に奢ってもらうかき氷は絶品だ。そう考えると、ぼくは夏が好きだ。

「好きだよ。でも、宿題は嫌い」

 はははと笑ってノリくんは「確かに」と頷いてくれた。誰だって宿題は嫌いなものだ。

 残っていたサイダーを全部飲み干すと、ノリくんは無言で手を差し出してきた。自分の分と一緒に捨ててきてくれるつもりらしい。でもぼくは首を横に振った。かと言ってノリくんの厚意をただ断るのも違うなと思って、「一緒に行くよ」と言った。ノリくんはくすりと笑うとゴミ箱まで向かい始めた。

 ノリくんの後について境内を歩く。その間辺りを見回して思ったのは、ぼくが初詣に訪れる神社とは規模が小さいなということだ。灯篭や狛犬はあるけど、手を合わせる場所は一つしかないみたいだ。手水舎も、申し訳程度に置かれていて何だかかわいそうだ。

 ゴミ箱にペットボトルを落としたところで、電子音が聞こえた。どうやらノリくんの携帯に着信が入ったらしい。

「もしもし、母さん? ……うん、うん。いや、外だけど。……うん、わかった」

 携帯を折りたたんでからノリくんは小さく息を吐き出した。

「ごめんユウキくん。宅急便が来るからって母さんに留守番頼まれた。帰ろっか」

 ノリくんに促されたけど、ぼくとしてはもうちょっと探検してみたかった。そんな思いが顔に出ていたのか、ノリくんは尋ねてきた。

「あーユウキくんはもうちょっとそこら辺見て回りたいかな。俺、先帰るけど家まで一人で戻って来れる?」

「うん、大丈夫」

 少し不安もあったけど、そんなに多く方向転換してここまで来たわけじゃない。途中に目印となる自販機もあるし、大丈夫だろう。

「よし、じゃあ日が暮れる前には帰っておいでね。あと森の中移動するならハチとかマムシに気をつけること。オッケー?」

「うん、オッケー」

「それじゃ、先に戻ってるな」

 そう言い残してノリくんは神社を後にした。ぼくはそのまま残って周囲をうろうろする。

 別にノリくんほど暑さに弱いわけではないけど、優しく木々の枝葉を揺らす風が心地よくて、森の外に出るのが躊躇われた。もう少しここにいたい。

 それに加えて探検したい気持ちもあった。でも、ここには目立ったものが見当たらないからそれはできそうにない。

 それならば、神社から離れるしかない。ぼくは拝殿の横に階段があるのを見つけたので、そこを下ることにした。

 ノリくんの言葉通り、ハチやマムシに注意しながら獣道を進んで行く。伸びきった草木がむき出しの手足にかすれてかゆい。神社にいた時よりも射し込んでくる日差しの量が増え、歩いていることもあって段々暑くなってきた。収まっていた汗が再び滲み出す。

 こんな森の中を歩いたことなんて今まで一度もなかったな。ふとそんなことを考える。ぼくが住む街の最北端には山が見えるけど、行ったことはない。学校行事や家族と遠いところへ遊びに行くにしても、せいぜい自然公園くらい。圧迫感を覚えるほどの自然はこれが初めてだ。

 無駄にも思えるくらいの濃い植物の匂いが鼻を刺激する。それは同時に、ここに生育する全ての植物が「生きているんだぞ」という声をぼくにかけているようにも感じられた。

 そうして歩き続けること十数分。目の前の木々の隙間に、一つの建物が見え隠れしていることに気づいた。それに向かって木々の間を進んで行くと、途中から木と木の間隔が広がり始め、最終的には切り株へとその姿を縮めていった。ぼくはその場所で一度足をとめる。ちょうど、削った鉛筆の先っちょみたいな形の小屋を中心にして円形に木が伐採されているようだ。そのため、小屋とその周囲は日差しを直接受けることになっている。

 遠目からでも古く見える小屋に近づいてみると、扉には『秘密基地』という木製のプレートが下がっていた。

 秘密基地って仲間内だけで秘密にしておくから秘密基地なのに、書いちゃったら秘密じゃなくなるじゃん……。

 というツッコミを心の中でしておいて、小窓に近寄る。小屋が古ければその窓も古い。くすんだガラスの奥には木のテーブルや虫かご、昆虫図鑑などがどうにか見えた。

 男子の秘密基地っぽいな。目に映ったものを見てぼくはそう感じた。でも、次の瞬間には、その予想は見事に裏切られることになる。

「てっちゃーん! もう着いて――」

 背後でした声に肩をびくつかせて、急いで振り向く。

 ぼくが振り向いたのと同時に、その子は小さく、でも確かに聞こえるくらいの声量で「あ」とつぶやいた。

 年上だ。そう直感した。

 その理由を考えてみると、背の高さかなと思い当たった。ぼくは背の順で並ぶ時、真ん中より少し後ろの方に並ぶから、クラスの中では平均よりも少し背が高いということになる。でも、目の前にいる女の子はぼくよりも普通に背が高かった。背の順でいうと一番後ろくらい。一五〇センチは超えているだろう。

 そういう女子って、たまにいる。何だかやけに大きいやつ。そいつらのことは同級生だと知っているから普段は何も感じないけど、隣に並んだり、立って話したり、その背の高さを意識する時に大人っぽいなって思うことがある。

 ただ、彼女に関してはそれだけじゃないような気がする。背が高いから大人っぽい、だけじゃ不十分な気がする。他に何かあるはずだ。……分からないけど。

 ぼくはその分からないことを突き止めようとした。心がモヤっとするのは嫌だ。

 肩の少し先まで伸びた黒髪。その髪と対比するように白いワンピース。大切に抱えた望遠鏡。

 どれが大人っぽさを与えているんだろう。……やっぱり分からない。

 いや、分からないというか、そもそも上手く考えられなかった。その大きな瞳と目があったことによって、ぼくは彼女から目を離すことができなくなっていた。

 木々の隙間から射し込む昼下がりの日差しのせいか、彼女の目は濡れたビー玉みたいにキラキラしていた。きれいな瞳だった。

 ぼくがじっと彼女の目を見つめているのに夢中になっていたせいで、聞こえた声にすぐに反応できなかった。

「ね、名前何て言うの?」

「え」

 急なことだったので、本当に何を言っていたか聞き取れなかった。

「名前」と彼女は一歩こちらに近づいた。

「あ、ユウキ……」

「ユウキくんか」いきなりのくん付けでドキッとしてしまう。クラスの女子には名字で呼び捨てだから、名前にくん付けという今までにない組み合わせに嬉しさが込み上げてくる。(名前に関しては苗字を言わなかったから名前で呼ぶしかないんだけど。)

 その嬉しさを顔に出さないように努めていると、その子は続けて聞いてきた。「引っ越してきたの?」

「ううん、親戚の家に遊びに来たんだ」

 ぼくがそう言うと、その子は「なるほどねぇ」と頷いてぼくの方に近づいてきた。そして目の前で立ち止まると、ニコッと笑って、

「私ナツキ。ナツキちゃんでも、なっちゃんでも好きに呼んでいいよ」

 ナツキ。それが彼女の名前。

 さっきぼくはクラスの女子からは名字で呼ばれていると言った。その話に付け加えることがあるとすれば、ぼくも同じように女子のことを名字で呼び捨てにして呼んでいるということだ。

 正直、どんなに仲がよくても女子のことを名前で呼ぶなんてことはしたくない。だって、恥ずかしいから。幼馴染みとかなら話は別だろうけど、友達とかもみんな女子のことは名字で呼び捨てだ。誰かがそのようにするって決めたわけではないのに、みんなそろってそうしている。

 だから名乗るなら名字もちゃんと言ってほしかった。まあ名前だけしか言わなかったぼくが言える立場じゃないんだけど……。

 今から名字も言おうかな。そんなことを考えていると、ナツキはいつの間にか目の前からいなくなっていて、「ユウキくんも入んなよ」と「秘密基地」のプレートが下がった小屋の扉を開けてぼくを待っていた。

 出会ったばかりの彼女についていけなくて、ぼくは戸惑う。

 出会ったばかり。ううん、違う。それだけじゃない。

 何だろう。さっきからモヤモヤするこの気持ちは。いつか似たような感情を覚えた気もするけど、これほどまでにはっきりと、しかも意識的に感じたことはなかった。心臓を直接かきたくなるようなこの気持ちは一体……。

 考えれば考えるほど、混乱した。わけが分からなくなって、そして暑くって叫び出しそうになった。

「ユウキくん?」

 いよいよナツキの声にぼくを訝しむ色が宿る。ぼくは平静を装って返事をし、扉の前に立った。

 そこから見た秘密基地は、ちょっと埃っぽかった。

 ぼくは秘密基地というものをこれまで作ったことがなかった。別に作りたくなかったというわけじゃない。ただ、優先度が低かった。ぼくの中では。友達はどうだか分からないけど、一度もそういう話をしたことがなかったからぼくと似たような感じなんだと思う。

 秘密基地を作ったことのないぼくが想像する秘密基地は、何かもっと原始的なものだった。段ボールとかを組み合わせたり、はたまた草木で作ったり。そんな感じ。

 でも目の前に広がる秘密基地は、秘密ではないからかぼくのイメージとは大きくかけ離れていた。

 それが小屋であることもそうだけど、まず目を引いたのは、正面の壁際に置かれた二段ベッドだった。

 ぼくは一人っ子だからベッドは一段しかない。友達の中には兄弟のいるところもあって、二段ベッドを使っているやつもいる。その友達の家に行くと、ぼくは真っ先に上のベッドを占領する。

 二段ベッドはぼくにとって、それだけでわくわくしてしまう秘境だ。あの短い梯子を上るのも楽しくて、そうして上った場所からの眺めは最高だ。

 でも今ここで感じることは、秘密基地に二段ベッドという組み合わせに対する驚きだった。わくわくは、訪れていない。

 そしてこのベッドは一体どうやってここに持ってきたのだろうという疑問。ここに来るためには狭い獣道を使わなくちゃいけないから、こんな大きなものを運ぶのは困難なはず。大人が手伝ったのだろうか。……どうなんだろう。

 いや、たとえそうだとしても感じた引っかかりは外れそうになかった。何か別に違和感が……ああ、そうだ。わかった。あのベッド自体にぼくは違和感を覚えていたんだ。この秘密基地に置かれているベッドはフレームの部分が黒く汚れていて、とても新品には見えない。もしかすると、あのベッドはずっとここに置いてあったんじゃないかな。

 古いベッドのそばには本棚があって、上段は『TWO PIECE』とか『NARUTA』とか、ジュンズ漫画がきれいに並べられていて、その下の段は昆虫や鳥類などの図鑑系だった。そしてこの本棚もあのベッドと同じくらい薄汚れていた。

 一方基地の中心に配置されたテーブルには大した汚れもなく、白色のテーブルクロスが真新しさを印象づけていた。そんなテーブルの上には赤色と黒色の大きいコップが二つ、黄色と緑色の小さなコップが二つの計四つが置かれていた。

 壁には虫網と虫かごが引っかけてあって、その他には窓辺にガラス片みたいなものが並べられていたり、電池式の虫よけアイテムが扉付近に置いてあったりするくらいだ。

 秘密基地じゃない秘密基地にあるものは大体これくらいだ。

 そうやってぼくがナツキに勧められたにもかかわらず、扉の前で突っ立っているものだから、ついにナツキは不安げな表情を浮かべた。

「大丈夫? 熱でもあるの?」

 ぼくは周りに目を配るのをやめて、近づいてくるナツキに対応する。

「だ、大丈夫だよ」

「ほんと? 顔赤いよ」

「えっ。そ、それは……だって、暑いから」

「やっぱり。ちょっとじっとしてて」

「え……あ、ナ……ナツ……」

 戸惑うぼくをよそに、ナツキはぼくの目と鼻の先まで顔を近づけてきた。その時点でぼくの心臓はかなりのスピードで脈を打っていたのに、ナツキは前かがみになってさらに顔を近づけてきて……。

 その拍子にワンピースの胸元部分に少し隙間ができて、ぼくの目はナツキの顔から下に下がってしまう。

 だめだ。見ちゃいけない。反射的に目を逸らした。すると、いきなりナツキに手をとられた。不意を突かれたせいで、ぼくはその手を引っ込めることもできずに、ナツキに誘導されるがままに自分の手を動かしていく。

 添えられた手は柔らかくて、温かかった。

 そうして向かった場所は、自分のおでこだった。そのまま前髪を上げて――

 コツン……。

 お互いのおでこが触れ合った。ナツキも自分の前髪を手で押し上げて、ぼくの体温がよく伝わるようにしていた。

 ナツキは目を閉じてぼくの体温を測っていた。ぼくは至近距離にあるナツキの顔に釘付けになっていて、そこから目が離せなくなっていた。

 夏だというのに日焼けを知らない白い肌。眉毛はすっと薄くて、まつ毛の方は長い。頬っぺたから顎にかけてのラインがちょっぴり丸くて何となく赤ちゃんみたいな柔らかい肌を連想した。小さくて紅い唇は、口紅をつけているわけではないのに艶めいていた。

 ああ、そっか。ようやく理解できた。ぼくは遠目に見た時、そういうことをぼんやりと認識していたんだ。

 ナツキが醸し出す大人っぽい雰囲気は、その背の高さと、そして顔立ちが合わさって出来上がったもの。やっとモヤモヤが晴れていく……。

 でも、モヤモヤが解消されたからといって、この現状の解決とは何の関係もない。相変わらずぼくはナツキに驚かされっぱなしだし、それに上手く対応できない。一体いつまでこうしているのかと、こめかみから冷や汗が流れ出した頃、ようやくナツキはぼくから離れてくれた。

「うん、大丈夫みたい。ちょっと熱っぽいけど、今日は暑いからね」

 違う。そうじゃないよ、ナツキ……。

 もしかしてナツキはあんまりそういうことを気にしないタイプなのかな。スキンシップが好きというか、平気で異性の体に触れちゃう人なのかな。屈託なく笑うナツキの顔を見て、ぼくは思う。

「……お前ら、一体何やってんの」

 やっとのことで落ち着きを取り戻して、ナツキのせいで上がってしまった体温も下がりつつあったのに、突然聞こえてきた声にぼくは嫌な予感を覚える。

 振り向くと、そこには一人の少年がいた。

「あ、てっちゃん」

 この少年がてっちゃんか。ナツキと会った時、彼女が言っていた人物だ。

 ツンツンした髪の毛に、白いタンクトップと短パン。背はぼくとさほど変わらない。ナツキとは違ってその肌は夏の太陽にこんがりと焼けている。いかにも野山を駆け回るわんぱく少年、という感じの見た目だ。友達の中にはいないタイプなので、ついつい観察してしまう。

 ぼくがじろじろ見ていたからか、てっちゃんは顔をしかめ、嫌悪感を滲ませた声で言い放った。

「誰、こいつ」

「ユウキくん。親戚のお家に遊びに来たんだって」

 ナツキの言葉に、てっちゃんは一度ナツキを見たけど、すぐにその視線をぼくに向ける。

「ナツキがここに連れてきたのか」

「んーまあそんな感じ、かな」

 今度はナツキが答えてもてっちゃんはぼくから目を離さなかった。じっと見合ったまま、時間が流れる。でも、それも少しの間だけだった。

「お前、何年」

「五年生、だけど」

「……っち。オレと一緒かよ」

 心から残念そうに、てっちゃんは舌打ちした。

「おい、お前。同い年だからって、オレと対等の関係にあると思うな。いや、オレだけじゃなくて、お前は新入りなんだから他のやつらにも『さん』とか『くん』とかつけるなりして敬え。それから――」

「てっちゃん」腕組みをして話すてっちゃんを、ナツキは遮った。「そういうのは、なしって話でしょ?」

 ナツキの言葉を受けて、てっちゃんはきまりが悪そうに開けていた口を一度閉じる。どうやら閉じた口の中ではぼくに言いたい言葉が押し合いへし合いをしているらしい。そして耐え切れなくなったてっちゃんは口を開いたけど、ナツキが気になったらしく、目をナツキの方に移動させる。ナツキは無言の笑みを返すだけだったけど、それでこと足りたらしい。てっちゃんはまた口を閉じ、今度はぼくへの言葉を何とか飲み下して、盛大にため息をついた。そして代わりに一言。

「どけ! 邪魔だ」

 てっちゃんはぼくを押しのけるようにして秘密基地へと入っていった。

 この秘密基地には他にもメンバーがいるみたいだけど、たぶんきっと、リーダーはナツキに間違いない。ぼくはそう確信した。


「天体観測?」

 ぼくは二段ベッドの下からナツキに問いかける。上にはてっちゃんが横になっている。ちなみにベッドマットは座蒲団がその役割を果たしていた。きっとみんなの家からこっそり持ち出してきたんだろうな。そう考えると、自分がそれをしたわけじゃないのに、どういうわけかそわそわとわくわくを同時に感じた。

「うん。最近ね、テレビでやってたの。ペルセウス座流星群が見れるんだって」

「へえ。いつ頃?」とてっちゃん。

「もう見れるみたいだよ。でも極大っていうのになるのは、来月の中旬辺りなんだって」

「まだ二週間も先じゃん」

「二週間なんてあっという間だよ。ね、ユウキくん」

「え、あ、うん」ナツキに笑いかけられて、ぼくは思わず顔を逸らした。ナツキの顔を見ると、さっきのことが頭によぎって仕方ない。

「とは言ってもさすがに準備するの早すぎだろ」

 ぼくは小屋の隅に置かれた望遠鏡を見やる。今日、ナツキが持ってきたものだ。少し高そうに見えるけど、誰のものだろう。そう思ってぼくはナツキに尋ねようとした。

「その望遠鏡って、ナ……誰のもの?」

 一瞬ナツキの名前を言いそうになって焦った。

「さあ、誰のものなんだろう。倉庫に置いてあったから持ってきたんだ」

 それじゃああれはナツキのものじゃないのか。いいのかな、勝手に持ってきたりして……。

「あのさあ……」上から降ってきた声に、顔を上げる。視界に広がる汚れた板の先には、てっちゃんがいる。「何でナツキ、こいつのことくん付けしてんだよ」

「え?」とナツキは意外そうな顔をして小首をかしげる。「何でって、だってユウキくんはユウキくんだもん」

 ね、ってまた笑顔を向けられそうになったからぼくは咄嗟に目を別の場所に彷徨わせる。

「そうじゃなくてさ……。んん……ああ、もう! 知らね、何でもねえ!」

 グシャグシャと頭をかきむしる音が聞こえてくる。ぼくは思わずナツキを見てしまった。すると向こうもぼくに目を合わせてきた。困ったように笑う彼女に笑みを返そうとしたけど、とてもぎこちなくなってしまった。

 上手く笑顔を作れていないことを意識したぼくは、てっちゃんに話しかけようとしてその場から動いた。フレームに足をのっけて上のベッドを覗き込む。

 てっちゃんは壁の方を向いて横になっていた。正面だけじゃなく、ちゃんと後ろも日に焼けている。その背中に向かって声をかけた。

「あのさ、てっちゃん――」

 その瞬間、てっちゃんは勢いよくこちらに振り向いた。ぼくに向けられた表情は決して友好的なものじゃなくて、何か悪いことを言ってしまったのかなと気になった。

「お前、オレのことてっちゃんって呼ぶな」

 てっちゃんの不機嫌は、ぼくが『てっちゃん』と呼ぶことに原因があるみたいだ。

「こらてっちゃん! ユウキくんにそんなこと言わないの」

 するとてっちゃんは一気に起き上がり、ナツキを見下ろした。また、口の中で言葉が溢れてきているようだ。必死に飲み込んで、でもちょこっとだけ零れ出た。「うっせえバカナツキ」

 言うだけ言って、てっちゃんはまた壁を向いて横になった。

 どうしたらいいのか分からなくてじっとしていたけど、急にてっちゃんは小さな声でぼくに言った。

「お前は、オレのこと、テツロウって呼べ」

 てっちゃんの名前ってテツロウだったんだ。次からはそう呼ぼう。

 ナツキはバカ呼ばわりされたのに全然気にする素振りを見せなかった。まるでいつものことだから慣れっこだとでも言いたげに苦笑していた。

 その時、扉が開いた。

「ミナミさんじょー! はっはっはー!」

「こらミナミその笑い方やめろ。もっと女の子らしくできないのかよ」

「うっさいぞ兄貴。ミナミはミナミがいいと思ったことを貫くのだ! ふっふっふ」

「はあ……だめだこりゃ。……って、おや? ナツキちゃん、あの子は誰なんです? 初めて見る顔ですけど」

「ほんとだあ。新顔だあ!」

 兄妹だ。ぼくは二人を見てすぐに気づいた。女の子の言葉もそうだけど、全体的に顔が似ている。

 丸メガネをかけたお兄ちゃんの方はぼくよりも下に見える。手に持った学習雑誌と相まって勉強が好きそうな印象を与えている。……あとメガネを直す動作も。

 妹の方は五、六歳くらいかな。ツインテールの髪型と無邪気に笑うその表情から活発な印象を受ける。ちょっと苦手なタイプかもしれない。

 そう考えるとナツキも妹と似ているかもしれない。ただ違うのは、何を考えているのか分からない、掴みどころがないという点だ。

 確かに、二人とも会ったばかりなんだから知らないことだらけだけど、何ていうか、それでも妹の方は行動パターンが読みやすい気がする。何も考えずにただ真っ直ぐ突っ走るって言った方がいいのかな、そんな感じ。

 でもナツキの方は、違う。突っ走るにしてもただ闇雲にそうするんじゃなくて、ちゃんと考えて行動している感じ。年上の余裕みたいなものなのかな? 分からないけど。どちらにしても、ナツキは何かを考えていて、でもぼくにはそれが読めない。きっとそれも大人っぽいと感じる要因なんだと思う。

 兄の言葉に返答したのは、テツロウだった。

「モンキー」

「モンキー?」

 モンキー? キしか合ってないけど……。

「そ、ユウキ。ユウッキー。ウッキー。ウッキッキー。モンキー」

 なるほど、と納得してしまう自分がいること気づいて、いやいやいや、と心の中で突っ込む。

「あはははは! ウッキーだウッキーだ!」と妹はぼくを指差して大声で笑う。

「お猿は目を合わせると襲ってくると聞いたことがあります。みんな、目を逸らして」と兄の方は妹の目を隠す。

 そんな二人のやり取りを聞いて、テツロウは「ヒヒヒ」と殺したように笑っていた。

「ちょっと!」とナツキが待ったをかけた。「ユウキくんはウッキーでもお猿でもない! ユウキくんだもん!」

 するとまたテツロウが体を起こしてぼくたちを見下ろしてきた。何か言いたそうなテツロウは、やっぱり前の時と同じく「バカナツキ」とだけ言って再び横になった。

 ナツキのおかげでぼくをからかう空気はなくなったけど、役目を果たしたナツキは心底疲れているようだった。いつも周りをまとめるのは彼女の仕事なのかな。……大変だ。

「それで、彼がユウキくんというのは分かりましたけど、どうしてここに?」

「ナツキが連れてきたんだと」

「なるほど」

「別にいいでしょ?」

 とナツキは兄妹に尋ねる。これまでのやり取りや行動からナツキがここでの絶対権力だと思っていたけど、どうやらそうでもないみたいだ。テツロウがぼくに対してくん付けしろと命令した時に、ナツキがそういうのはなしだと言ったことを思い出す。

 その途端、ぼくの中に少し緊張が生まれた。もし二人にここにはもう来るなと言われたらどうしよう。二人が声をそろえてだめだと言ったら、反対よりの中立的な立場のテツロウは完全に反対の立場に回るだろう。そうなると三対一でぼくはここを追い出されてしまう。

 それでもナツキはぼくにこの秘密基地の出入りを許してくれるだろうか。

 気づけばぼくは流れ出した汗を拭っていた。扉の前に立つ兄妹から目が離せない。

「いいですよ。あ、自己紹介がまだでしたね。僕の名前はケンイチ。小三です。それでこいつが妹の――」

「この秋で六歳になるミナミよ。よろしくね、ユウキ」

「え、あ、よろしく?」

 ……い、いいの?

 恐れていたよりもあっけなく許可が下りたので、ぼくは変な受け答えをしてしまう。

「お前ら甘すぎ」と頭上から声が降ってきた。「裏切ったらゼッコーな」

 一応、テツロウもぼくを認めてくれたみたいだ。嬉しくて思わずナツキを見ると、やったねとピースサインを向けられた。恥ずかしかったけど、ぼくも慎まし気にピースサインをナツキに送った。


「天体観測、ですか」

「テンタイカンソク? 何それー」

 ぼくとナツキとテツロウとでした話を、ナツキは兄妹にも話した。

「この望遠鏡で星を見るんですね。それは分かりましたけど……」

「けど?」

「ホタルはどうなったんです?」

 ホタル。その話は初耳だった。ケンイチの口振りからすると以前からその話が持ち上がっていたようだ。

「……あ、忘れてた」

 ナツキはてへへと苦笑した。

「まあ、そんな気はしていました。急に星の図鑑を持ってきてほしいだなんて、もしかしたら忘れているんじゃないかなって思ったんです」

 その星の図鑑というのは、テーブルの上にあって、今日ケンイチが持ってきたものだ。青く光る星々が表紙を飾っている。

 ナツキはそのまま舌をちょこっと出した。

「忘れていたのは仕方がないとして、どうします? 星を優先しますか?」

「ミナミお星さま見たい!」

「んーそうだなあ。ホタルっていつまで飛んでるっけ」

「七月下旬、今ですね」

「そっかあ。それじゃあホタル見た方がいいね。流星群は八月中旬がベストみたいだし」

「えーお星さま見ようよー!」

「ごめんねミナちゃん。先にホタル見よ? ね?」とナツキは駄々をこねるミナミに申し訳なさそうに手を合わせる。

「むー。ナツ姉がどうしてもっていうなら、ミナミ考えてあげなくもなくなくないかも」

 ミナミが言いたかったのは、『考えてあげなくもない』だろうけど、自分で言っててこんがらがったんだろうな。それにしてもミナミはナツキのことをナツ姉って呼ぶのかぁ。ミナミっぽいな、なんて出会ったばかりだけど思ってしまう。

「お願い! ミナちゃん! この通り!」

 とナツキは仏さまにするみたいにミナミにお願いした。それで満足したのか、ミナミは「うん、いいよ! あたちもホタル見たい」と笑った。

 こうしてホタルを見に行くという計画が立ったわけだけど……。

「ね、ねえ。どこでホタル見れるの? ぼく、今日ここに来たばかりだから何も知らなくて……」

「今日!?」とナツキは驚いた。親戚の家に遊びに来たとは言ったけど、それが今日だということは言っていなかったので、当然の反応といえば当然の反応だ。

「ユウキはどこから来たの?」

 ミナミが目を輝かせて聞いてきた。

「あ、それ私も知りたい!」とナツキ。

「僕もいろいろと興味があります。ぜひおもしろい話をしてください」とケンイチ。

 三方向から好奇の眼差しで見つめられて、ぼくはたじろいだ。

「えーっと……」何とかしてぼくから注意を逸らそうとしたけど、三人に圧倒されて、できそうになかった。諦めてぼくはここに来る経緯を説明した。

「大変だったんだね、ユウキくん」と同情してくれたのがナツキで、

「悪の組織が逃げていったんだ! やったじゃん! 遊び放題じゃん!」と少しズレた観点からの感想がミナミのもので、

「もう少し都会について教えていただけませんか」とノリくんみたいな発言をケンイチはした。

「……なあ」

 と、さっきからずっと黙りこくっていたテツロウが突然呼びかけてきた。

「なあに、てっちゃん?」

「……んない」

「え?」

「……だからさ、案内! この町の案内、してやったら?」

 ぼくたちは顔を見合わせてくすくす笑った。するとテツロウは起き上がってきて「笑ってんじゃねーよ!」と口をへの字に曲げた。「勘違いするな。別にお前のために言ったんじゃねーからな。そろそろ外に出たいから言っただけだ。要するについでだ。つ、い、で!」

 そう言ってテツロウはベッドから下りて一人秘密基地から出ていった。ぼくたちも遅れまいとテツロウの後を追った。

 先頭にテツロウ、次に兄妹、そして最後尾にぼくとナツキという列で森の中を進む。秘密基地に辿り着いた時とは反対側の方向へ進んでいた。

「どこ案内しようか」とナツキが宙に視線を彷徨わせる。

「まず川だろ。すぐそばだし、そこでホタル見んだし」テツロウは振り返ることなく言った。

「そうだね。川だね」

 テツロウについてしばらく森の中を進んで行くと、いつ頃からかセミや葉擦れの音に混じって川のせせらぎが聞こえてくることに気づいた。心なしか、辺りの空気が冷たくなった気もする。

「到着だ」

 そうして辿り着いた川は、今までに見たことがないくらい透き通っていた。本当にこんなにきれいな川があるんだってびっくりした。日差しが川の流れに反射してまぶしい。

 ぼくの通う小学校のそばにも川があって、橋の上から見下ろすときれいに見えるんだけど、実際降りてみると結構濁っている。公害の問題などで川がどんどん汚れていっているとは聞くけど、ここはその影響を全然受けていないようだ。

 川岸まで近づいて水の中を覗き込むと、小さな魚が群れをなして泳いでいるのがはっきりと見えた。

「ここでホタルが見れるんだよ」気づけばナツキが隣にいて、ぼくと同じようにしゃがんで水面を覗き込んでいた。右手を水につけて「冷たい」と笑っている。「ユウキくんもやってみなよ」

「うん」ぼくは頷いて言われた通り手を水の中に入れてみた。冷たい。痛いほど冷たいというわけじゃなくて、適度に冷たい感じ。

 そう感じたのはあくまで自分で確認したからだ。だから思いもよらぬところから、そう、たとえば不意に背中に水をかけられたりしたらそれは通じない。

「うわっ!」

 ぼくは驚いてその場から飛び跳ねた。

「あははは! ユウキくんおもしろい」

 ナツキはしてやったりという笑みを浮かべた。ぼくはナツキを精いっぱい睨んだけど、ナツキにとっては全然怖くないみたいでへらへらしていた。

 そんなナツキの元にテツロウが駆け寄った。ぼくのことを気にしながらナツキに耳打ちをしている。

 するとナツキは何を思ったのか、今度はテツロウに水をかけた。

「うひゃっ!」と声を上げてテツロウは肩を竦める。「何すんだよナツキ! 裏切ったな!」

「えー私まだ『うん』なんて言ってないよー」

「何だとぉ……」

「ユウキくんをいじめる人は私が許さないわよ」

「っく……こうなったらしょうがねぇ。お前ら全員敵だ! 食らええええ‼」

 テツロウの叫び声を皮切りに、水のかけ合い合戦が始まった。兄妹は二人でチームを組んで、ぼくとナツキはお互いに水をかけ合ったりもしたけど、テツロウにもかけたりと、どっちつかずの関係で戦った。

 テツロウはナツキに水をかけられても嬉しそうにしていたけど、ぼくに水をかけられるとその笑顔を引っ込めて猛攻撃を仕かけてきた。まあナツキにかけられても悪い気はしないという点では同じだけど、何もそこまで反撃してこなくたって……。

 そんな風にしてはしゃぎまくっていると、あっという間に服は水を吸って重くなってしまった。ふう、と一息ついて河原に座り込む。毛先から水が滴ってきたので、手で拭う。

「ユウキくーん! こっちおいでよー」

 声のする方を振り向くと日差しの射し込む場所にナツキたちが揃っていた。なるほど、あそこなら乾くのが早そうだ。立ち上がってナツキたちのところへ移動する。

「服、びしょびしょになっちゃったね」

 ナツキの隣に座ると、彼女は苦笑交じりにそう言った。

「うん、張りついて気持ち悪い……」

「えへへ、私も」

 なんてナツキが言うからぼくは思わず目を下に移動させてしまった。ナツキの言葉通り、水を吸った白いワンピースはナツキの体に張りついていた。だから当然、その下に着ているものが透けて見えるわけで……。

 ぼくは気づかれないうちに目を逸らしたつもりだった。でもそれがあまりにも不審な動きだったのか、ナツキは目を細めて顔を近づけてきた。

「ユウキくん? 今明らかに目を逸らしたよね?」

「えっ。そ、そんなことないよ……」

「アヤシイ。目を見て言ってみなよ」

 …………見れない。ナツキの顔が見れない。

「ユーウーキーくーん?」

 詰め寄られて、仕方なく目を合わす。するとナツキの顔が間近にあって、だから慌てたぼくは視線を下にずらしてしまった。そう、下に。上でも、右でも、左でもなく、下に。慌てていたんだから仕方がない……。

 ナツキはそこで気がついたらしい。はっとして両腕を胸の前で抱え込む。顔がちょっぴり紅い。

「……見た?」

「み、見てない。見てないよ……」

「……エッチ」

 ……ぼくは否定する言葉を見つけることができなかった。


 河原である程度服を乾かしたあと、ぼくたちは森を出た。やはり自然乾燥だけじゃ時間がかかる。髪もまだ濡れている。一度家に戻って服を変えた方がいいんじゃないかなと提案したけど、テツロウは首を横に振った。

「駄菓子屋行くぞ」

「駄菓子屋?」

「お菓子とか売ってるところ。基本十円」

「それは知ってるけど」

「駄菓子屋のばあちゃん、超優しいから、頼んだらタオルとか貸してくれる」

 それが駄菓子屋に行く理由らしい。

 駄菓子屋に着くと、本当におばあちゃんはタオルを貸してくれた。白髪の髪を後ろで一つにまとめたおばあちゃんは、ぼくの顔を見ると柔和な笑みを浮かべて尋ねてきた。

「ぼく、見かけない顔だねぇ。お名前は?」

「あ、ユウキです」

「そうかい、ユウキくんかい」

「親戚の家に遊びに来たんだって」とナツキが付け加える。

「そうかいそうかい。なーんもねぇけど、ゆっくりしていきなぁ」

「はい、ありがとうございます」

「あぁ、そうだ。アイス、一本好きなの選んでええよぅ。今日だけ特別なぁ」

「いいんですか⁉」

 ぼくは驚きのあまり、頭を拭いていた手をとめた。

「ええよぅ。ほら、他のみんなも選びんさい」

「まじ!? やった! サンキューなばあちゃん!」

「では、お言葉に甘えて」

「あたちイチゴ味が欲しい!」

「ほんとにいいの? おばあちゃん」

「ええんよええんよ。せっかくここに来たんだから、少しでも楽しんでいってもらわんとなあ。ほら、なっちゃんも好きなの選び」

 ナツキはおばあちゃんに促されても渋っていたけど、とうとうぼくたちのところにやって来た。

 店先のベンチに座ってアイスを食べる。

 目の前には古い民家しかなかったので、何となく空に視線を投げる。

 視界を夏雲がのんびりとたゆっていく。駄菓子屋の軒下に吊るされた風鈴がチリンチリンと鳴っている。午後の穏やかなひととき。あまりにも穏やかで、そして遊び疲れて、ぼくたちは一言もしゃべらずにアイスを食べた。

 アイスを食べ終わったぼくは後ろのドアにもたれかかって目を閉じていた。すると突然ナツキが「あ」と声を上げた。

 どうしたのかとナツキの視線を追うと、そこには一人の少年がいた。目深に帽子をかぶって、夏なのにポケットに手を突っ込んで、ちらちらとこっちを見ながら前の道を歩いている。ぼくと目が合った瞬間、ふいっと顔をそむけられた。……何なんだろう。

「ねえ!」

 ぼくが不思議に思っていると、ナツキが立ち上がってその少年に声をかけた。でも、同時に少年はぼくたちから逃げるように走り去っていった。

「はあ、だめか……」

 がっくりとうなだれるナツキに、ぼくは「誰?」と聞いた。

「それがね、私もよく分からないの。ユウキくんがここに来る少し前から見かけるようになったんだけど、今みたいな感じで逃げられてばっかりなの」

 ぼくのせいじゃなかったんだ。安心したけど、その一方で謎は深まるばかりだ。

「オレは放っておいた方がいいと思うぜ。って、これ言うの何回目だよ」

「そんなこと言わないの。一人で寂しがってるかもしれないじゃん」

「ナツキは人がよすぎるんだよ。もっと相手のことちゃんと判断してから行動に移せよ」

「それじゃあ、てっちゃんももっとユウキくんと仲良くしたら?」

「はあっ!? 何でそうなんだよ!」

「ユウキくん、いい子だよ」

「そんなこと分かんねーだろ。まだ会ったばっかだってのに」

「分かるよ」

「……っち。バカナツキ」

 テツロウは吐き捨てるように言うと、手に持っていたアイスの棒をゴミ箱に投げ入れた。

「日が暮れるまでもう少し時間あるから、次は学校に行こっか」

 ナツキの声を合図に、ぼくたちは駄菓子屋を去ることにした。

 駄菓子屋から学校へは十分くらいで着いた。校舎を見上げてノリくんの言葉を思い出す。

「うわあ……ほんとに木造なんだ」

「え」と反応したのはケンイチだった。

「それ、どういうことですか? 都会には木造校舎はないのですか?」

「ないよ」

「……なんですと」ケンイチの驚きに呼応するかのように丸メガネがずれた。

「お兄、メガネ」

「あ、ああ」

「いつもはここで誰かがボール遊びしてるんだけどなあ」

 というナツキの言葉に反してグラウンドに人の姿は見当たらない。ただ太陽の光を受けて白っぽく見えるだけだ。

「貸し切り状態ですね」ケンイチが言った。

「あたちブランコ! ブランコに乗りたい!」

 とミナミが言ったときには、彼女はすでに駆け出していた。

「あっ、こらミナミ。待って」

 そのあとを兄のケンイチが追いかける。

「私たちも行こっか」とナツキが微笑みかけてくる。

「ま、ここに突っ立っててもしゃーねぇーからな」

 両手を頭の後ろで組ませてテツロウは歩き出した。僕もその後に続く。

 ブランコは二つしかなくて、うち一つはすでにミナミが使っていたから残り一つしかなかった。僕とテツロウが使わない旨を伝えると、ナツキがブランコの上に乗った。

 ギィー……、ギィ……と音を立ててブランコが揺れる。

「もう夕方かー」立ち漕ぎしながらナツキが言う。

「まだ日、暮れてないだろ」とテツロウが突っ込んだ。

「もうじき沈むよ」そう返したナツキに、テツロウはそれ以上何も言わなかった。少し間を空けて、ナツキは続けた。「夜ご飯何だろ」

 ……夜ご飯。昼は特盛の冷しゃぶだった。夜は何だろう。

 そう考えた途端、あれだけ食べたのにお腹が空いてきた。

「なあ、ホタルいつ見に行く?」

 地面にドラゴン(?)の絵を描いていたテツロウが顔を上げて尋ねた。

「あーどうしよっかホタル。早い方がいいよね。今晩?」

「今晩はダメだ。アニメ見る」とテツロウ。

「じゃあいつにする?」

「明日でいいんじゃね?」

「他のみんなは?」

 ナツキの声に、ぼくと兄妹は大丈夫だと頷いた。

「それじゃ明日にしよっか、ホタル」

「うん」

 日程が決まり、それからぼくたちは日が暮れるまで時間をつぶした。別におじさん家に帰りたくなかったわけでも、そうするタイミングがなかったわけでもない。ただ、別れることに気が進まなかったというだけ。友達と遊んでいると、そういうことはよくある。ほとんどの場合、大人の一声で強制的に解散させられるんだけど……。

 本当に、それはよくあること。でも、この時はこれまでに全然なかったことが起きた。ホタルを見る計画を立てた後、ぼくはジャングルジムや雲梯で遊んだ。普段のぼくなら何かで遊んでいる時によそ見なんてしないのに、ふと気づけばぼくはナツキを目で追っていた。どういうわけか気になって仕方がなかった。

 だから、日が暮れてナツキが「そろそろ帰ろっか」と言い出した時には何だか言いようのない感情を覚えた。物足りなさのような、寂しさのような……。

 それからのぼくはどうもおかしかった。いや、ナツキに会ってからどこかヘンだったけど、帰ることになってから一層ヘンになった。

 前を行くナツキの後ろ姿から目が離せない。隣のテツロウと話す横顔に夕日が当たって、頬っぺたが紅くなって、目がキラキラして。その大きな目がこっちに移動して目が合ってしまった時、ぼくの胸は一際強く飛び跳ねた。

 結構慌てて目を逸らしたけど、ナツキは疑う様子を見せなかった。代わりに次の質問を受けた。

「ユウキくんはホタル見たことあるの?」

「ううん、ない」

 そう、ぼくは今までにホタルを見たことがなかった。テレビとかで見たことはあるものの、実際にこの目で見たことはなかった。

 ホタルはきれいな川に生息すると聞いたことがある。学校付近の川は汚れているからいないのも当然だ。でも、あの森の中を流れる川なら……。

 いっぱい見られるかもしれない。

 ぼくのその考えを読んだかのように、ナツキは言った。

「そっかぁ。ふふっ、期待しときなよ。すごいから」

 うん、と頷くと、ナツキは「あ、そうだ」と何か思いついたように声を上げる。「ついでに星も見ようよ。あの望遠鏡、使ったことないから試しに使っときたいんだ」

「まあ、いいんじゃねぇの。星見たいって言ったのナツキだし」

「むー。何それつれない。てっちゃんは星見たくないの?」

「別にどっちでも」テツロウはナツキから顔を逸らして空に向ける。

「ユウキくんは見たいよね?」

「う、うん。見たいかも」

 少しテツロウのことが気になって見てみると、彼はぼくのことなんか気にしていないという素振りで空を眺め続けていた。

 そして、十字路に差しかかった。ノリくんの家は、多分真っ直ぐだ。右に曲がるみんなに向かって言う。

「ぼく、こっちだから」

「そっか。じゃあここでお別れだね。私たちこっちだから。また明日、秘密基地でね」

「うん。バイバイ」

「また明日会いましょう、ユウキくん」

「またな、ユウキ」

 兄妹ともお別れの挨拶を交わす。でも、テツロウだけは一人先に進んでいた。どんどん離れていくその後ろ姿に向かって、ぼくは叫んだ。

「テ、テツロウ! 今日はありがとう! また明日!」

 ……反応は、なかった。テツロウはぼくに何か不満でもあるのだろうか。ぼくが都会の子だから……?

 そんなことを考えていると、さっきよりも小さくなったテツロウが右手を上げていたことに気づいた。それが素直に嬉しくて、口元が緩むのを抑えることができなかった。

 明日はもう少し仲良くなれたらいいな。

 家に戻るぼくの足取りは、結構軽やかだった。


 迷うことなく家に着くことができた。門をくぐると、リビングの窓からテレビの音と光が漏れていた。

 扉の前に立って、インターホンを鳴らす。

 直後、「はぁーい」というおばさんの声がした。足音が聞こえてきて、すぐに引き戸が開かれる。

「おかえりなさい、ユウキくん」

「た、ただいま」

 おばさんは満面の笑みでぼくを迎えてくれた。嬉しかったけど、やっぱりまだ慣れない。

 ぼくのそんな思いとは関係なく、おばさんは言った。

「もうご飯の準備できてるよ」

 おばさんに促されてぼくは家の中に入った。その瞬間、今日の晩ご飯がなんなのか分かった。

「カレーだ」

「大正解!」おばさんはピンポン! と親指と人差し指で輪っかを作った。

 早くカレーを食べたいという気持ちを抑えて靴を脱ごうとした時、大きな靴があることに気づいた。最初来た時にはなかった靴だ。

「この靴……」

「ああ、シゲオさんのよ。先に挨拶しに行こっか」

 シゲオさん、つまり、おじさんの靴というわけだ。仕事から帰ってきたんだろう。

 そうと分かった途端、急に緊張してきた。いよいよおじさんに挨拶する時が来てしまった。ここに来る前に、何度も父さんに言われたことを思い出す。

 おじさんに迷惑をかけるな。

 おじさんに迷惑をかけちゃいけない。そう言い聞かせながら、ぼくはおばさんの後ろをなるべく縮こまって歩いた。

 リビングに行くと、おじさんはすでに席についていた。ノリくんもいる。

 少し白髪は混じっているけど、おばさん同様目立ったしわはなく、若く見えた。そして、垂れた目と上向きの口角が優しそうな印象を与えた。

 想像とは正反対だった。

 そもそも、おじさんの弟であるぼくの父さんは顔に感情をあまり出さないからか、友達にはよく怖いと思われている。そういうことがあったから、ぼくはどこかでおじさんも似たような感じなのかなと思っていた。

「おおー! ユウキくんかー! 大きくなったなあ!」おじさんはそう言うと、より一層穏やかな表情になった。

「お、お邪魔してます」

「なあに、遠慮することはないよ。ここにいる間は、自分の家だと思ってくれていい」

「はい。お世話になります」

 おじさんは優しげな目でぼくのことを見ていた。何だかそれが恥ずかしくって、「手、洗いに行ってきます」と言ってリビングを出ることにした。

 リビングを出た瞬間、一気に体から力が抜けた。自然とため息がこぼれる。

 緊張したなあ……。

 おばさんの時も緊張したけど、やっぱりおじさんの方が緊張する。いくら優しそうな顔をしていても、両親以外の大人は苦手だ。

 慣れるのには時間がかかりそうだなぁと思った。おじさんのこととか、この家のこととか。

 おじさんやおばさん、ノリくんもみんなこの家を自分の家だと思ってくれていいと言ってくれた。だけど、やっぱりこの家はぼくにとっておじさんの家だ。みんなには申し訳ないけど、今すぐに自分の家だと思うことは難しい。

 できるだけ早く慣れるように頑張ろう。

 そう決心して、ぼくは洗面所を後にしてリビングに戻った。

 晩ご飯のカレーは相変わらず大盛だった。いつもよりも多いのだろう、おじさんは笑っていたし、ノリくんも昼の時と同じように嬉しさと戸惑いがない交ぜになった顔をしていた。

「それじゃあみんなそろったし、食べようか」おじさんがぼくたちを見回す。

「そうね」とおばさん

「それじゃあ」とノリくん。

「いただきまぁーす!」全員で声をそろえて、ぼくたちはカレーを食べ始めた。

「ユウキくん、この町はどうだい?」

 早速おじさんが尋ねてきた。

「えっと、大自然だと思います」

「ははっ、確かにその通りだ」おじさんは嬉しそうだ。

「あ、そうだ。お昼、どうだった? お口にあったかしら」

 次はおばさんの番だ。

「とっても美味しかったです! このカレーも!」

「よかったわぁ。あ、おかわりいる? まだまだあるから遠慮しないでね」

 おじさんとおばさんは手厚く歓迎してくれて、質問も次から次へと飛んできた。

 一方ノリくんはというと、昼間にたくさん質問をしたからか、それとも両親の勢いに圧されたのか、質問の数がかなり減った。

「あの後、どこ探検したの?」

「えーっと……」

 神社を抜けた先にある全然秘密じゃない秘密基地が頭に浮かんだ。秘密じゃないけど、一応秘密基地なんだからバラしちゃいけないなと思って、ぼくは別のことを言った。

「あ、そうだ! ぼく、友達ができたんだ!」

「おお、すごいじゃん!」

「うん!」

「同級生?」

「えーっと一人はそうで、二人は年下。それからもう一人は――」

 多分、年上。

 そう言うとノリくんは「へえーいっぱい友達できたんだな!」と笑った。最後の曖昧な答え方は気にならなかったみたいだ。

 ……結局、ナツキは何歳なんだろう。

 ぼくはカレーを口に運びながらナツキのことを考えた。彼女が何歳なのか聞きそびれてしまった。

 いや、よく女の人に年齢を聞いちゃいけないというから、聞かなくてよかったのかもしれない。……とは思うものの、本当に年上なのか気になって仕方がなかった。

 ヘンだった。一度ナツキのことを考え出すと、やめるタイミングを見つけられない。延々とそれを続けてしまう自分がいた。答えなんて本人に聞かない限り見つけられないのに、なぜだか考えてしまう。

 その後の行動はあやふやだった。おじさんやおばさんの質問に答え続けたこと、少しピリッとするカレーを食べ終えてごちそうさまを言ったこと、そしてノリくんに一番風呂を譲ってもらったことも全部覚えている。覚えているけど、何となくという程度ではっきりとしない。

 それもこれも、頭がナツキのことでいっぱいだったからだ。ナツキが離れなかったからだ。

 特にひどかったのは、お風呂の時。熱いお湯に浸かっていると頭がぼうっとしてきて、頭の中のナツキが艶っぽく微笑みかけてきた。ナツキのその紅くなった顔がかわいくて、もっとはっきりイメージしたくてぼくは目を閉じようとした。でも、ちょうどその時。扉がノックされた。

「ユウキくん大丈夫? のぼせてない?」というノリくんの声でぼくは何とか正気に戻った。もしノリくんのその言葉がなかったら、ぼくは本当にのぼせていたかもしれない。

 ナツキの呪縛から解放されたのは、その後のことだった。縁側が涼しいよとおばさんに勧められて、そこで涼んでいた。

 軒先に吊るされた風鈴のささやかな音と夏の夜の風は、ぼくの頭を冷やすのに十分だった。おかげで虫の鳴き声を聞く余裕も出てきた。

 もうすぐ一日が終わる。いろいろあって疲れた……。熱冷ましの役割を担っていた風鈴と微風が、今度は溜まった疲れを癒してくれる。

 次第に目が重くなってきて、少し横になろうと仰向けに寝転んだ。視界には濃紺色の空があって、そこには数えきれない量の星が浮かんでいた。これだけあれば、一つくらい流れないかなって。そんなことを考えていると本当に流れたから、ぼくは飛び跳ねるようにして起き上がった。

「わっ、流れた!」

 流れ星なんて見たことない。それどころか、こんな数の星空さえ見たことがなかった。

 田舎の星空って、すごい。ぼくはもう一度仰向けに倒れ込む。

 ペルセウス座流星群が極大になる時は、もっとたくさんの星があって、流れる数も増えるんだろうな。早く見てみたい……。

 流れ星が空を横切った時、何をお願いしようか。目を閉じて考えてみる。

 ……新しいゲーム? お小遣いが増えますように? 応募したプレゼント企画の商品が当たりますように?

 ……ナツキは、何をお願いするんだろう。何か叶えたいこととかあるのかな。大人っぽく見えるし、アクセサリーとかお願いするのかな。それとも、服。それとも……。

 好きな人、とか。

 いるのかな、好きな人。考えたことなかった。

 そういえばクラスの女子が言っていたっけ。女の子は恋をするとかわいくなる、みたいなことを。ということはつまり、ナツキは恋をしているからかわいいのかな。それじゃあ相手は誰なんだろう……。

 ぼくだったらいいな、って考えたけど、初めて会った時にはすでにかわいかったから、ぼくではないんだろうな……。

 ってなると、テツロウ? 違っていてほしい。別にテツロウが嫌いなわけじゃないけど、何だか嫌だ。

 ……たとえテツロウじゃなかったとしても、他に仲良くしている男子がいるのかもしれない。そっちの方も、願わくばいてほしくない……。

 ……っていうか、何でまたナツキのことを考えているんだろう。眠いから……? どうなんだろう、それすらも考えられなくなってきた……。

 すぅーっと意識が遠ざかっていく……。……部屋に戻らなくちゃ……いけないんだけど……な……。

 リン……という風鈴の音がどこか遠くで聞こえた。優しい音だった。

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