13. 眠春

「なんだって? もう一度言ってみなさい」


 眠春みんしゅん、と呼ばれて少年はまごついた。常に穏やかな兄の目はいつになく険しく、問う声は尋問じみて聞こえた。言わなければよかった、そう思っても遅い。十歳の眠春は怖くなり、床板の模様を見つめた。


「……心邪しんじゃが、話しかけてくるのです」


 兄が黙ると、庭の春の気配が強まる。開け放たれた道場の戸から、午後の陽光が入りこんでくる。生ぬるい風が雲雀ひばりの声と、うすべにの花弁を運んできた。四月、高家こうけの春は思考を奪われるほどに美しい。ひらひら飛んでいく青い蝶や、石庭の小川のつめたさ、暖かな土と陽だまりの匂い。水辺に休む雀の上で、木漏れ日がきらきらと光り輝く。満開の桜のひとひらが眠春の膝近くへ飛んできた。ほたりと落ちた花弁に、反射的に指がのびる。


「眠春」


 兄に見咎められ、伸ばしかけていた手が止まった。


「幼いお前は知らないか。邪が語ることはない」

「でも」

「聞きなさい。邪に意思や考えはない。ただ心を惑わせるだけの、忌むべき存在だ」

「……はい」


 眠春のいる高家は、常に邪と闘ってきた。眠春も、物心つく前から基礎知識を叩きこまれている。だから驚いたのだ。邪は語らない。そう聞かされてきたが、眠春の心にいるそれは語りかけてきた。夜の静謐せいひつさを笑い飛ばした、あの艶やかな声。思い出しても恐ろしかった。


「怖がることはない」

 兄の声は和らかくなる。

「己の心に邪がいるのは、不気味かもしれない。けれど、高家の人間はみな同じだ。私の身にも、お前の身にも。ずっと歳下の赤ん坊の弟にだって、心邪は存在している」


 産まれ落ちた瞬間に、高家の人間は家族の手で心に邪を植えつけられる。邪祓じゃばらいの特別な武器を作るため、心に邪を抱く必要があるからだ。心に縛りつけた邪を殺すことで、己だけの強力な武器が得られる。兄は腰に下げた巨扇きょせんをそっと床に置いた。黒漆で塗られた艶やかな持ち手を、長く節くれだった指が愛おしげになぞっている。


「お前も、十三になれば心邪をしいし、己だけの武器に変えられる。私のこの武扇ぶせんのように――どのような武器にするか、もう考えたか?」

「いいえ」

「考えておくといい。身に邪を抱えるは武器にするため。それ以外のことを気に病む必要はない」


 兄は高家の教えをそらんじた。邪は語らずして人を惑わせる。情を抱いてはいけないと。眠春はふと、高家の教えに疑問をもった。自分に起きていることと、あまりにかけ離れている。兄のやさしい目はそっと漆塗りの扇へ向けられている。そこに懐かしむだけの思い出が込められているのではと思った。眠春の直観は口からこぼれていた。


「……兄さまの扇、たしか名前がついていましたね」

 ひくりと、扇をなぞる指が止まった。

「これは『望海ぼうはい』という」

「心邪は海の話を?」

「眠春」


 邪は語らず。鋭い兄の視線は家訓に染まっていた。けれど記憶の影が、兄の弱いところへ苦痛をもたらしたらしい。兄の強張った表情からそれがわかった。眠春はこくりと頷き、一礼して場を辞した。


(きっと語った)


 兄の心邪は海を見たいと告げただろうか。願いを斬り捨て、兄は十三の歳に心邪を殺した。黒く輝く巨扇という、邪祓いの武器を手に入れるために。



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『高家の庭は血まみれだ。特に春は』


 蔵書室で書をひも解いていた眠春は顔をあげる。心邪の明らかな嘲笑がきこえたせいだ。快活な声は、窓の外を見るよう促した。丸窓で切られた庭が春に染まっている。桜、菜の花、すみれ、咲けるだけの花々がいっせいにほころんでいる。とても穏やかな昼だった。午睡ごすいにもちょうどよい時刻であるし――その平穏がどうやら崩れていた。庭先に数名の男たちが、慌ただしくひつぎを運びいれている。家の中から親族が庭へ出て、運ばれてきた遺体が誰かを確認していた。


『お前の師父しふが死んだか』

「まさか」


 立ちあがった拍子に机から筆や水がこぼれ落ちたが、眠春はそのままふらふらと窓辺へ歩み寄っていった。窓枠にもたれると、遠くからでも師父の亡骸にすがりつく異母兄らの泣き顔が見えた。


『報いを受けたのさ。身から出た錆だ』


 心邪の声は毒々しく艶がある。からすの濡れに似た黒さと、こびりつくような甘さを含んでいる。眠春はうららかな春の庭先をぼんやりと眺めていた。


(庭は血まみれ、か)


 邪祓いは危険な生業なりわいだ。高家の人間はとくに短命で、その儚さは庭の美しさが証明している。春にこれほどの花が咲くのは、その時期に亡くなった邪祓いが大勢いるということだ。故人を思い出せるように、亡くなった日に咲く植物を、高家ではひとつずつ植えている。創始者が始めた手慰みが続き、庭は年々華やかになった。眠春には、狂気が咲き乱れているようにみえる。ひとつ花開けば死者の叫びが聞こえるようだ。忘れるな、邪への恨みを晴らせ。奴らを殲滅せんめつしろ、と――。狂い咲く桜花の前を通りすぎるたび、死者に見張られている気さえした。高家の庭は春に美しく、怨嗟と死がむわりと香る。


『美景じゃないか。俺の仲間はよくやっている』


 心邪はいやに上機嫌だった。眠春の視線はつま先へ落ちる。不愉快な心邪の声にはだいぶ慣れたが、今日のようにひとりになりたい時にはこたえるものがある。静かに師父の死を悼むこともできない。


『お前もああなるぞ。高家の行いは間違っているからな』

「違う。私たちは正しい」


 眠春は固く目をつぶった。念じれば心邪を追い出せるかもしれない。老獪ろうかいな声は無駄なあがきと愛おしげに嘲笑った。


『眠春。お前はまだ選ぶことができる。俺を殺さなければいい』


 考えのすべてが心邪に伝わっていく。相手は己の心にいるのだから、感情のひとつも隠しきれない。眠春の恐れも哀しみも、未来への迷いも見抜かれている。耐えがたくなり、母屋のほうへ足を進めた。運ばれてきた遺骸を確かめようと、家の者が続々と庭に集まり始めている。


「眠春の心邪は危険です」


 暗い回廊を進んでいたとき、兄と実父が立ち話をしているのが見えた。眠春は曲がり角の陰にそっと身をかくした。


「あれは強すぎます。心邪と頻繁に話しているようです」


 兄の深刻な声が、先日相談した件を父に伝えていた。父の口調は淡々としていた。


「邪は語らず。そう繰り返し言い聞かせなさい」

「それで抑えこめるものでしょうか。私や弟とは明らかに違います。心邪は普通、そう何度も語らない。声が聞こえてもぼんやりしたものなのに。眠春には――」

「才能がある。わかっている」


 兄の焦燥を父のため息が払いのけた。見えなくても父がどんな顔をしているのか、眠春には簡単に想像できた。眉間に深くしわを刻み、目を冷たく光らせているのだろう。よその町から邪の討伐依頼がきた時、父はいつもそんな風に考えこむ。誰を危険な死地へ向かわせてどう戦わせるか。期待と犠牲を天秤にかけ、針の傾きを無表情に眺めている。叡夏えいふぁ、と事務的に兄を呼ぶ父の声も冷たかった。


「心邪が危険なのではない。あの子が危険なのだ。いずれ強力な邪祓いになれるが、今は繊細な時期だ。そばで見てやって、必要があれば正してやりなさい」

「お言葉ですが、あの子には心邪の声がよく聴こえているのです。それを聴こえないものと言い聞かせるのですか?」

「邪は語らず。高家ではそう教えている」


 ぴしゃりと父は切りすてた。


「よいか。高家の教えに背くは、すべからく邪と同義である。あの子とて例外ではない。お前がそんなことでどうする? さとして理解できねば、あの子を殺すことになるのだぞ」

「――はい」


 邪は必滅。高家の決まりが世界から色と酸素を奪いとっていく。父はやるといえばやる人だ。いざとなれば、邪に対するように我が子を眺めるだろう。路傍ろぼうの石を見るより冷ややかに、汚泥に触れるより忌避をこめた目で。浅くなる呼吸を押さえようと、片手で口もとを覆った。どこか遠いところで父の声は続いている。


「――なに、子どもの時分に空想と話すことはままある。眠春は心で、己自身と語らっているのだ。邪が語ることは、けしてないのだから。そうだな?」


 兄の声は見えない空気に押しつぶされた。絶大で歴史ある高家の教えが、空気ごと世界を歪めている。父の声だけが変わらず落ちついていた。


「戦場へ連れていくべきやもしれんな。邪の行いを見せれば、どう行動すべきか眠春もわきまえるだろう」


 去っていく足音は眠春を少しも安心させなかった。父は自分がここにいると気づいていたかもしれない。そうでなければ恐ろしすぎた。選べとつきつけられている。高家の教えに従うか、邪と語らい続けて断罪されるか。


『眠春、お前は殺されそうだな』

 憎らしい心邪がこれ以上なく的確に心を抉りとった。

「お前は、私の心の声だ……」

 はぁん? と心邪は笑う。

『俺はお前なんかじゃない。自分でもよく分かってるだろ? さっき書物で確認したばかりじゃないか』


 眠春は唇をかんだ。その通りだった。蔵書室で、読んだことのない書を紐解いていたとき、膨大な書の知識をひけらかしたのは心邪だ。一冊のみならず何十冊も、眠春が知らない内容を読む前につらつらと教えられた。どうして知っているのかと問えば、『お前の心へ入る前に読んだ』という。眠春は認めるしかなかった。高家の教えは間違っている。邪は語らず、なんて大嘘だ。程度の差こそあれ、実際に邪は人のように語る。美醜にケチもつけるし、現実に対し意見を述べる。ただ邪祓いの資質によっては、その声が聞こえやすいかそうでないかというだけだ。聞こえない者の耳元でも邪は語っているが、眠春のようにくっきりと何度も聞こえるわけではないらしい。


『正しくないことをすれば、報いを受ける。俺はお前が心配なんだ』

「うるさい」


 眠春の一番もろいところで心邪は少年のように語った。馴れ馴れしい物言いで、気さくにずけずけと真実を言い当てる。ときに自分ですら気づかない繊細な部分に言及されるのは厄介だった。


『俺はなにも自分が武器にされるから言ってるわけじゃない。お前の師父を見ろ。このままじゃお前もああなっちまう』

「お前たちに殺されたんだ。私が仇をとる」

『お前の師父にも、俺たちの声は聴こえていただろうさ』


 眠春はぞっとした。改めてその可能性に思い至る。師父は一族の中でも、父や兄より邪祓いの素質があった。


『俺たちに人格があり、感情があるのを奴は知っていた。知ってて殺したんだ。人殺しと同じさ。だから報いを受けたんだ』

「それは……お前たちが人じゃ、ないから」

『殺していいと?』

「っ、お前たちも、たくさんの人を殺したじゃないか!」

『どちらが先かという話だ』


 眠春は叫び出したくなった。頭がおかしくなりそうだ。高家の教えは嘘を含んでいる。兄も父も師父も、それを良しとしてきた。世界のどこにも頼るべき指針がない。悩みを誰にも打ち明けられず、ひとり考えこめば心邪だけがはばからず声をかけてくる。つめたい回廊の暗がりでたたずんでいると、うららかな日よりに似つかわしくない慟哭どうこくの声がきこえた。日陰にいると春の空気は身にしみて冷え、足先から影の暗さと無力感が這いのぼってくる。いつもはうるさくて仕方ない心邪は、その日の午後は珍しく口を閉ざしていた。声だけの心邪のやさしさはいつも、静けさにそっとしのばされていた。



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 十一歳から十二歳まで、眠春は兄に連れられて戦場へ出向いた。

 小さな町からすさんだ野畑へと、広き国土のあらゆる箇所で人と邪の諍いは起きていた。高家は常にそこにあった。争いの地はあまりに血なまぐさく、人の手足、臓器がばら撒かれ、命が簡単に刈り取られていた。武器を持たない眠春は、闘いが収まるまで安全な後方に下がっていて、落ちついたら怪我人の回収に降りていく。ぱしゃりと、踏みおろした足が血溜まりで重くなるのにも慣れた。空気は赤い霧でいつも煙っており、怪我と苦痛の声はあっという間に静かになってしまう。人と邪、どちらが勝ったかわからない殺しあいが、もう何年も続けられていた。朧月がしんと冷えた死骸の山を照らす夜、眠春はひとり戦場の跡地を歩くようになっていた。邪は死ぬと灰燼かいじんになる。残されるのは人の死体ばかりで、戦いは心底無益に思えた。つま先にあたった死体が、今朝挨拶をかわした親戚だったとき、眠春は己の無力さを噛みしめた。自分に武器があれば助けられたかもしれない。


『馬鹿が。そんなことしてみろ。お前も死体の仲間入りだ』


 冷えきった夜にぽそりと心邪の声が落ちる。戦場をめぐる間、目に見えない心邪とのやり取りは温かなまゆとなり、眠春の柔らかい心を支えていた。できるだけ、人前では心邪との会話を隠しすごしている。人を殺す戦場の邪は苛烈で、眠春の心にいる邪と同族だとはとても思えなかった。皮肉めいた少年の声は、気鬱の気配を感じるとすぐに会話で紛らわせてくれるのに。


「なぜ、こんなことが続くのだろう」

『誰もやめないからだ。近しいものが殺されれば復讐する。人間も、俺たちもそうだ』


 月夜げつや白々しらじらと死骸が転がっている。乾くことのない血溜まり、怨嗟の顔で死んでいった者、はらわれてしまった邪たち、それらすべてが不要な犠牲だ。「正しく生きよ」と高家は教えるが、いさかいを止めることこそ正しいのではないか。


『やめておけ。俺たちを見逃せば高家に殺されるぞ』

「……」

『第一、どうやって止める?』

「己の武器を手に入れればいい。私が強くなれば、邪に正しく生きよと伝えることもできる」

『眠春。お前に正しさなんてわからないさ。一生』


 嘲り笑いの響きに落胆の気配を感じた。理由を問おうとして、眠春は口を閉ざした。遠くから兄が近づいてきている。


「眠春。夜更けに戦場をうろついてはいけない。帰ろう」

「……はい」


 有無をいわさず手を引かれ、天幕の方へ連れ戻された。兄の手のひらは汗ばみ強張っていた。何かあったかと思ったが、きゅっと握りしめられた手からは保護者然としたいつもの優しさが感じられた。兄は振り返らずに前を見ている。


「眠春、心邪と話してはいけない。これは最後の忠告だよ」


 黙していると歩みが止まった。そっと覗き見た兄の顔はうすく笑んでいる。疲弊と諦めがないまぜの瞳で、遠く夜空を睨みつけている。


「父上からそろそろ帰ってくるようにとふみが届いた。お前もようやく生誕祭を受ける歳になった」


 眠春の誕生日は来週だった。心邪と別れるのを以前は心待ちにしていたが、今は漠然とした恐怖しかない。兄は「明日ここを発つ」という。


「お前は別行動で、赤河せきがから船で帰りなさい」

「なぜです?」

「遠回りだが、船のほうが安全だ。一週間あれば生誕祭の頃にはちょうど着く。それまでに覚悟を決めておくといい」

「覚悟……?」


 心邪を武器にする覚悟ならとうにあった。辛いことだが仕方ない。己の武器がなければ何もできないのだから。戦場に来てからは、武器が必要だと痛いほど身につまされた。誰も守ることすらできない無力な傍観者、それが今の眠春だ。兄のやさしい手が微笑みとともに頭を撫ぜていく。


「どのような武器にするかは、もう決めたか?」

「それは……」

「生誕祭で、お前は心邪鏡しんじゃきょうの前に立たされる。一族全員の見ている前で、鏡に映る心邪を即座に殺さねばならない。あらかじめ武具の形を決めておいたほうがいい」


 よく考えなさいと、兄はやさしく告げ渡した。


「眠春、お前を信じている」


 翌日の早朝は静かで、川べりには霧が出ていた。船に乗りこむ眠春を、兄はずっと見送ってくれた。家には兄のほうが先に着く。父から「目を離すな」と言われただろうに、兄は眠春をひとりにした。この船旅が、心邪とゆっくり話せる最後の機会になるだろう。船の中に寝転び仰ぎみれば、流れは静かで心地よかった。後は身をまかせるだけでいい。


「そろそろお別れだな。思えば十三年間も」

『やめろ。胸糞悪い』


心邪と生きてきたのだ。人生のほぼすべての時を、ともに。


「お前がいなくなったら、私は誰と話せばいいんだろう」

『今なら逃げられるぞ。兄貴が猶予をくれたろ』

「……無理だ」


 自分が消えれば兄は罰を受ける。最悪の場合、邪を見逃したとして殺されかねない。


『愚かだな。鎖でぐるぐる巻きの俺とは違って、自由に生きられるのに』

「鎖?」

『俺はお前の心に鎖で繋がれてる。だから身動きが取れないんだ』

「それを切れば自由になれると?」

『興味本位はやめろ』


 その気がないのを心邪もよくわかっている。兄が罰されるくらいなら、眠春はどうあってもこのまま船で家に帰る。「自由」という言葉が所在なく宙を舞った。高家の生き方しか知らないのに、それ以外を選べるはずもない。


『お前みたいのはすぐ死ぬさ』

 向いてない、と心邪は吐き捨てた。

「では、私には何が向いている?」

『知るかよ。その辺の畑でも耕しとけ』

「畑……?」

『血を見るのも嫌なくせに』

「……私のことをよく知っている」


 十三年間、心邪のことを「お前」と呼んできた。呼び名をつければ愛着がわいてしまう。あえて名を尋ねることもしなかった。知りたいと思う気持ちを知りながら、心邪もひと言も触れはしなかった。友ではないのだという明確な境界が、越えがたい厚みでそこにあった。船旅の夜、頭上の月に手をかざすと、つかめない光の輪郭は惨たらしくしたたってみえる。心邪と離れがたくなっている心を眠春は認めた。鬱陶しいくらいに親密な声なのだ。悩みがあれば相談する前に問いかけられて、いつも気ままに憂いを解決していく。家族よりも近しく、唯一の心の支えでもあった。友ではない何かだ。


『もう考えるな。お前は正しく生きればいい』


 投げやりな響きだった。『お前に正しさなど一生わからない』と、以前は非難したくせに、ため息まじりに『もう考えるな』と慰めてくる。水音に耳をすますと、心邪に言われたあれこれ、過ごした時間が思い出される。高家の教えの誤りをまたひとつ見つけた。心邪に指摘された事柄は、大体いつも正しかった。


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 異変にいち早く気づいたのは心邪だった。

 船旅が終わった夜、水辺に降り立つと煙の匂いがした。いぶされた鉄と木と、惨劇の風――この二年、めぐってきた戦場と同じ匂いだ。心邪の静止を受け流し、眠春は帰路にある町へ急いだ。真夜中でも賑わう明るい広場は、野戦病院のようになっていた。町人たちが広場の隅で何かを取り囲んでいる。人垣の隙間から眠春はそれを見た。土の上に並べられた死体だ――みな高家の紋章のついた衣を着ている。


「本家の人間はどこにいる!?」

「わからない。屋敷のほうは邪が多すぎて……見つかったのは、生誕祭に来た門弟の死体だけだ」

「誰がここの邪を祓うんだ?」

「ここも危険だ。はやく逃げないと」

『止まれ馬鹿!』


 わめく心邪の声は遠く聞こえた。家までの道に邪の気配は多く、遠回りしなければならなかった。いつもの倍ほどの時間をかけ、ようやく見慣れた家まで帰ってくる。門扉は開いていた。明かりもついている。腹底からの震えが喉から出そうで、眠春はわななく唇をかみしめた。


『無駄だ。生きている者の気配はない』


 眠春、そう引き止められても聞かなかった。一歩踏み入ると鉄さびの匂いがむんと鼻をつく。荒らされた庭の木々や板戸、部屋のすみに戦闘の跡がみえる。誰かの左手が転がっていた。眠春は立ち止まり、震える息をそっと吐いた。思っていたよりも犠牲者はすくない。本家の者は全員逃げたのだろうか。庭であたりを見回して、ふと思い出した。生誕祭だ。親族は大広間へ集い、明日の前祝をしていたはず。宴席ならそこに全員いただろう。ふらふらと足が大広間のほうへ吸い寄せられていく。ひときわ異臭が強くなる。


『眠春』


 心邪の声は落ちついていた。止まれとも戻れとも言わず、ただ呼びかけてくる。

 大広間で真っ先に目に入ったのは、巨大な心邪鏡だった。最奥にある漆黒の丸鏡は、明日の儀式へ向けてじっと控えていた。そこへ至るまでの床板に、これでもかと血が撒き散らされている。鏡のある上座かみざを挟み向かい合う形で、三十余名の親族が集っていたらしい。宴席の卓の名残が散らかされていた。天井の一部が崩れ、月の光が静かに零れ落ちてきている。転がる遺体が誰なのかを、震えながらひとりずつ確かめていった。叔父、叔母、師兄、師姉――血濡れたつま先が固く小さいものに当たった。兄の巨扇だ。拾って遺体を探したが、姿はどこにも見当たらなかった。四肢が部屋中に散乱し、どれが兄なのかもわからない。


『邪が近づいてきてる。外に大勢集まってるぞ。もう行かないと……』

「なぜ」


 心邪鏡のほうへ歩みよる。今年三歳になったばかりの弟が、鏡のそばでくったりと打ち捨てられ死んでいた。横で実父が己の剣に貫かれ、目を開いたたま息絶えている。


『……報いを受けたのさ』

「報い……?」 


 真っ黒な感情が頭のてっぺんから一瞬で駆けのぼった。灼熱の怒りが目の奥や頭頂部を灼く。わずか三歳の弟に何の罪があった。父も兄も殺されるほどのことをしたか。この有りさまを作り出したのが邪なら、やはり高家の教えは正しかった。邪を生かしておくから人が死ぬのではないか?


 眼前で黒光りする心邪鏡を睨みすえた。拭えない闇を湛えた鏡面は、眠春の動きをじっと観察している。父の身体から苦労して眠春が剣を抜きとるのも、鏡は冷静に眺めていた。高家の武器は、持ち主だけが本来の力をふるえる。父の体から抜きとった剣はただの剣だが、身動きの取れない心邪を殺すのには十分だろう。


 心邪鏡と向きあうと、途方にくれた己の姿がみえた。血で汚れた衣を着た少年が、華奢な肩を震わせている。青ざめた顔でぎらぎらと、目だけが憎悪に濡れている。怒りにきらめく目からつと、抑えきれなかった涙が零れた――水滴が落ちた瞬間に、黒いもやが鏡の中に映し出された。眠春の心臓から太い鎖が伸びていて、鏡の中の黒いもやを縛りつけている。己に封じられた心邪の姿だった。握る剣の硬さをひときわ強く感じる。この黒いもやを斬りふせば、自分だけの邪祓いの武器が手に入る。自分も父や兄のような邪祓いになれる――……。


『やれよ』


 高らかな嘲笑が聞こえた。


『そして一生後悔すればいい。お前ひとり、何ができる? 高家は終わりだ。復讐するか? お前にできるとでも?』


 十三年間だと、心邪は哄笑した。


『お前を見てきてよくわかった。臆病で騙されやすい。邪を相手にひと時も持ちこたえられない。終わりだな、眠春!』


「ッ……!」


 笑い続けていた鏡の中の心邪に、剣の切っ先を振り下ろした。

 心邪の嘲笑が凍りつく。

 斬られた鎖。

 月光を浴びてゆっくりと、足元へ落ちていく。

 黒いもやが、鏡の中で実体を結びはじめた。

 肌色の痩躯そうく、尖った耳、鋭く赤い爪。黒髪を逆立たせた少年の姿で、心邪は金色の瞳を驚愕に見開いていた。自由になった心邪の手足が、戸惑いがちに鏡からぬっとつき出てくる。


「なんで……お前」


 払いおろした剣先に、溢れ落ちた涙が滴った。息がしゃくりあげ、眠春の感情はなかなか音にならない。心邪のほうが高らかに激怒していた。


「気でも触れたか!? さっきまで俺を殺す気だったろう。こんなことして、もう武器は得られないぞ!」


「私は――正しく生きたいんだ」


 高家には高家の正しさがあった。けれど、それに従うのも間違っている。じゃあどうすればいいのか。眠春にできるのは縋りつくことだけだった。ひとりではできない。なら、頼るしかない。目の前の心邪を――。

 心邪の節くれだった手が、力強く首をわしづかんできた。


「愚かな。俺がお前を殺さないとでも思ったか」


 足が宙に浮くと生理的な涙がこぼれた。心邪との繋がりはすでに切れている。眠春の心の内は相手に伝わっていない。息苦しさに目を閉じれば、そっと床へ足が降ろされた。


「――何を考えている?」


 金色の窺うような瞳に、今度は眠春の口から涙まじりの嘲笑がもれた。知りたいのだ。これまで嫌でも伝わっていた心の機微が、突然わからなくなったのだ。心邪は心底戸惑い、好奇心に負けている。


「私で終わりにしたい。邪祓いの高家も、お前たちとの諍いも。だから……助けてくれないか」


 あんぐりと、少年の姿の心邪は今度こそ固まった。あきれてものも言えないといった顔だ。どの道同じことだと眠春は耳を澄ませていた。近づいてくる邪の気配を感じる。武器のない状態でまみえれば、今の自分ではそう長くもたない。


「私はお前に賭けることにした。どうか、私を生かしてくれ」


 涙まじりに差し出した手を、心邪は途方にくれた目で眺めていた。この手は握られも振り払われもしないだろう。不思議だった。離れてみて初めて、相手の考えが手にとるようにわかる。皮肉な金色の瞳が警戒をのせて細められる。


「それでお前は。俺に何をくれる?」

「すべてを」


 眠春が持つもののすべてを。血も肉も魂も、これからの余生さえも供物として捧げる。願いを叶えるために尽力し、ともに生きてくれるというなら――。

 ほたほた濡れ落ちていく眠春の涙を、困ったように真っ赤な爪指がそっとかすめていく。血と哀しみと、決意をんだ銀月の夜、眠春は己だけの武器を手に入れた。それはひとつの盟約を伴った。人と邪と、邪よりも後ろ暗い一部の邪祓いたちとの諍いにある、ひとりの少年――それが後世に伝わる調停者・眠春戮みんしゅんりくの誕生の瞬間だった。


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