12. ペンギンテトラに恋して
「ほら、うちの熱帯魚。可愛いだろ?」
親友の
「か、かわいい……!」
「マジかよ。うける」
親友の智樹は爆笑していたが、横で水槽を眺めていた同級生の
「飼いやすくていいよ。餌は人工のやつでいいしさ」
「あっ、違う! 智樹、さっきの
「娘って。オスかもだけど」
「茂みの影に隠れた、そうその娘!」
「……どれも同じだろ? たくさんいるし」
「なに言ってんだ! 俺が……そ、そばにいたいのはっ――彼女なんだ!」
智樹は半眼で、指定された「その娘」を取り分けてくれた。水から移動するとき、彼女が苦しくないか俺はハラハラしたが、長年熱帯魚を飼っている智樹の手さばきはたしかだった。ぱちゃりと、水の入った小さな水槽に彼女が移る。なにもない透明な水中を悠々と泳いでいる。さらに何匹かすくい足そうとした智樹を、俺はびっくりして止めた。
「なにしてんだよ!?」
「え? だって、数匹いたほうがいいだろ?」
「他の奴はいらない、彼女だけにしてくれ!」
「…………はい」
口をあんぐり開けた智樹から水槽と、分けてもらった飼育キットを受け取って、俺は挨拶もそこそこに家に帰った。水を揺らさないよう、腕の中の彼女を気づかい慎重に歩く。家に帰りすぐ、彼女が快適に暮らせるように水槽をセットした。すっかり陽が暮れた部屋の真ん中で、彼女はぴるぴると優雅に泳いでいる。足りないものを買いに出ようとして、俺は挨拶がまだだったことを思い出した。
「初めまして。俺、
電撃のようにとりこになってしまったのだ。間違いない、これは恋だ。全身が燃えさかる熱情に沸きたっている。彼女と一緒にいられるなら、他になにもいらない。運命的な日曜日の夕暮れに、俺はどうしようもなく愛しい相手を見つけた。小さくて愛らしい、水のなかの熱帯魚の彼女だ。
жжж
ペンギンテトラ。
恋した相手の名前を、俺は自室で切なく何度も噛みしめた。
銀の体に一本の黒線が尾まで入っている。泳ぐときにピョコピョコ跳ねるから「ペンギン」の名がついたという。環境が良くストレスがなければ、しだいに金色っぽく体の色が変わってくるらしい。
智樹の家から彼女を引き取ってきた日の夜、スマホで「ペンギンテトラの飼い方」を調べて俺はにんまりしていた。自室の勉強机の上には、急いで買ってきた巨大水槽が鎮座している。水草や砂利など、考えうるかぎりベストな成育環境を整えた水槽だ。ヒーターの温度は二十六度から二十八度にばっちり整えてある。ろ過装置は「外掛けフィルター」にしたが、もっとろ過力のあるフィルターが他にあったことを、俺はたったいまスマホで調べて知った。
「ごめん。次の小遣いで、もっと素敵なろ過装置を買ってくるから」
そこで俺は気づく。まだ彼女の名前も知らない。「ペンギンテトラ」は種類名であって、言うなれば「関西人」みたいなものだ。俺は智樹にすぐにメッセージを送った。
『彼女の名前、なんていうの?』
すぐに智樹から電話がかかってきた。
「なに?」
『いや、お前がなに。どういう意味?』
「さっき彼女を預かったろ? 水槽と一緒に」
『あー、熱帯魚……』
「名前、なんていうのかと思って」
『えっと、ペンギンテトラ。言わなかった?』
「それは聞いた。じゃなくて、彼女の名前!」
『どゆこと?』
「だから! 俺なら真人、お前は智樹。そういう個別の……まさかお前、何もつけてない?」
俺は愕然としてしまった。あんなに愛らしいフォルムとつぶらな瞳をもつ彼女に、智樹は今までどうやって接していたのだろう。まさか群生している内のいち魚類として扱ってきたとでもいうのか。
『お前さー。いい加減そうゆうの止めにしない?』
智樹の声がふと真剣味を帯びてくる。
「なに?」
『俺が悪かった。もうこの辺にしとこう』
「なんの話? じゃあ、とりあえず彼女の名前は俺、考えちゃっていいのかな。呼び方かぁ――なんか、ラブラブみたいで緊張する」
『お前さぁ。明日ちゃんと佐曽利に会っとけよ』
しんと冷えた智樹の声に、俺はなにかあったのかと耳を澄ませる。智樹は疲れた口調になっている。
『俺、明日は用事あって学校行けねんだわ』
「あ、そうなんだ」
『そう。で、佐曽利にちゃんと話したほうがいいよ』
「何を? 明日、どうせ会うけど」
俺と佐曽利、智樹は同じクラスだ。なにか家の用事で休むらしい智樹とは違って、俺と佐曽利は登校すればふつうに顔を合わせる。俺たちはとくに仲も悪くないし、喧嘩したわけでもない。今日だって、仲良く三人で智樹の家で遊んでいた。
『もしお前があの魚を本気で――恋愛対象で好きとか言ってるなら。それ、かなりヤバイから』
「やばいってなに?」
『おかしいだろ普通に。お前、変だよ。やっぱりさ、――……』
通話をぶつ切りにしてやった。こっちは真剣なのに。熱帯魚に恋したことがおかしい? そりゃ、そうかもしれない。普通の人とはかなり嗜好が違っている。でもこれはたしかに恋だ。ふつうに「魚が好き」という以上の情熱を、俺はペンギンテトラの彼女に抱いてしまっている。彼女のことを考えると胸が熱くなる。ドキドキして切なくなる。もっとわかりやすくいえば、俺は彼女にチューしたいと思っている。今だって触れたいし、もっとディープなこともしてみたい。……できないけど。
ベッドに寝転び彼女を遠巻きに眺めていると、熱視線に耐えかねた彼女は、水草の影に隠れてしまった。
「ごめん。君の呼び名、もうちょっと考えさせて」
銀色だからシルバ? 瞳が美しいから、ヒトミっていうのもありだと思う。
(俺のことはなんて呼んでくれるかな。真人くん? まーくん?)
魚類だから、彼女の言葉は当然わからない。気まぐれに、小さな口から吐き出される泡を見て推測することしかできない。彼女が俺をどう思っているのかは永遠に謎のままだった。それでもいいと、水槽をぼんやり眺めているうちに俺は寝こけてしまった。
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翌朝、俺は学校を休んだ。起き抜けにスマホでこんな一文を見たからだ。
『ペンギンテトラの寿命は三から五年』
一気に血の気が引いていった。三から五年。つまり、千九百十五日から千八百二十五日の間――彼女の寿命は二千日もないという。熱帯魚オタクの智樹は「これ、一年前に買ってけっこう気に入ってる」と彼女を紹介した。一緒に過ごせる時間の短さをつきつけられ、俺は息がつまりそうになる。
明日には死んでしまうかもしれない。
そう考えたら、胸がぎゅっと絞まり苦しくなる。水槽のそばを離れがたくなってしまったのだ。俺は彼女が朝食を愛らしくついばむのを、ぼんやり眺めていた。家族や学校には「体調が悪い」と、半分ほど本当の嘘でごまかした。彼女の人生の儚さを考えると、足先から冷えていくみたいな心地がする。つめたい水槽のガラスに癒されたくて、そっと指先で触れてみる。
(俺より先に死んでしまうなんて)
考えたくもない事実だった。悲恋ものの映画では、恋人が不治の病で余命いくばくもないというストーリーがある。テレビでなら「ふうん」としか思わなかった主人公の気持ちを、俺は実感するはめになってしまった。
いま存在しているものが、明日には容赦なく消えてしまう。俺が大好きで、ずっと離れないでいてほしいと、たとえどれだけ想っていても無駄なのだろう。ある日、すべてを打ち砕く絶望はやってくるのかもしれない。別れの日が明確にわかってしまったとき、人はどうすればいいのか。ひとりにしないでと泣き叫ぶべきか、一緒に同じところへ向かえばいいのか。別れの瞬間を想像すると耐えがたく、俺はぼろぼろと涙を零していた。すべてを打ち砕く現実から逃れる術はない。つめたいガラスの数センチ向こうで、彼女はぴるぴると泳いでいる。つぶらな黒瞳がまったり周りを見て、つましやかな口が笑うようにひくりと動く。素早いその銀の体に、人よりもずっと速い鼓動を刻む心臓がある。彼女の見る世界と、俺の世界とでは時間の速さも違うのだ。永遠に埋められない溝は深く、残された時は短い。
自室がノックされる音で現実に引き戻された。母さんが「佐曽利くん、来てくれてるけど」とドアの向こうから言ってくる。控えめなノックとともに、佐曽利がドア前で待っている気配がした。陽は落ち、すっかり夕方になっている。ドアを開けると、佐曽利がぎょっとした顔になる。
「――大丈夫か?」
泣き腫らした目を見られたかもしれない。考えたら恥ずかしくて、佐曽利を招き入れ、俺は窓を開けた。
「なに? 今日塾じゃなかった?」
佐曽利は医者になるために、進学校に行く準備をしている。平日のこの時間はほぼ塾漬けで、たまに遊べるのは日曜日くらいだった。今日は月曜日だから、珍しくこいつは塾をさぼったことになる。
「いいんだ。それより、智樹から聞いた。例の熱帯魚に入れこんでるって」
部屋に入った佐曽利は、勉強机に鎮座する巨大水槽に目をとめた。ていねいに設置されたライトやろ過装置、飼育キットをひとくさり眺め、思わずといった風につぶやく。
「それ、可愛がってる?」
「それ言うな。人の彼女にむかって」
「彼女? ……ペットだろ」
「は!? 違うから。俺、こんな風に誰かを好きになったの、はじめてなんだ」
言っているうちに恥ずかしくなってきた。佐曽利はなぜかぶるりと震え、心なしか青ざめる。
「真人。俺さ、悪ふざけは止めろって、お前に言うつもりできたんだけど」
俺の責任だから、と佐曽利は学校指定のショルダーバッグから五円玉を取り出した。穴に赤い紐が通されていて、紐を持つと振り子のように揺れる。
「これ見て」
佐曽利が目の前に掲げた紐の先で、五円玉がゆらゆら揺れている。
「五円? なにそれ」
佐曽利は静かに、低めた声で話し始めた。目つきも口調も嫌に真剣で、なにがなんだかわからない。
「俺、すこし前から催眠術の練習してたろ。昨日、話したと思うけど」
「え、そうだっけ?」
がっくり脱力した佐曽利は、淡々と教えてくれた。
昨日、熱帯魚オタクの智樹の家に遊びにいった俺と佐曽利は、奴のコレクションをこれでもかと見せつけられた。佐曽利はうんざりしながらも、割と真面目に智樹の話につきあっていたが、俺は露骨に本心を伝えていたという。
「『こんな熱帯魚のどこがいいのかわからない。刺身にもならない』ってけなしてさ。智樹のやつ、すごく怒ってたよ」
「知らない。ってか俺、そんなこと言ってないけど?」
「憶えてないんだよ」
智樹は噴飯ものだったらしい。俺たちがあまりにも険悪に言い合いはじめたので、見かねた佐曽利が冗談まじりに催眠術の話を持ち出した。
「この五円で、『その熱帯魚に恋せよ~』ってやったんだ。そしたら、なんか……あの。かかると思わなくて」
ごめん、と神妙に謝られても困る。
「いや、そんなこと知らねぇし」
「そういう風にかけたんだよ。催眠術のこと、忘れなさいって」
「はぁぁあ? ありえないだろ」
「俺もそう思う。だから、悪ノリしてるなら止めろって言いにきたんだ。でも昨日智樹が、電話であんまり心配してたからさ」
佐曽利は昨晩、智樹から電話を受けたという。「催眠術を解いてくれ」と、智樹は電話口で泣きそうな声を出したらしい。
「智樹、半泣きだったよ。『真人がおかしくなった』って」
「俺はおかしくないけど」
「十分おかしいって。魚が恋愛対象とか、ガチでヤバイよ。申し訳ないけど――」
「いやちょっと、待って」
俺は片手で佐曽利の言葉を遮った。
(つまり俺の恋は、──偽物?)
催眠術によって造られた感情なのか。確かめる術はない。俺は清潔な水槽で泳ぐ彼女を眺める。銀色の身を優雅にひるがえし、悠々と泳いでいる。俊敏な流れ星のように、水銀が転がるのに似て実に美しい。水槽をいったりきたりする銀色を眺めていると、佐曽利は嫌そうな声を出した。
「ほら、おかしいよ。俺だって、お前が智樹の家で言ってたことに賛成なんだ。熱帯魚なんて可愛くもなんともないし、食うにも小さすぎる。飼うなら犬猫のほうがいい」
「はあ? すんげー可愛いだろ!」
「どこが?」
俺は怒涛のごとく彼女の魅力をまくしたてた。銀色のボディ、一本潔く引かれた黒線の凛々しさ。つぶらな黒瞳はきゅるんと丸く、控えめな口の動きも愛らしい。佐曽利は露骨に嫌悪を滲ませたが、黙って俺の話を聞いていた。俺が口をつぐむと、こらえきれなかったらしい意見を述べてくる。
「やっぱりないって。魚は食用。それにしたって小さいし、死んだら俺はトイレに流すかも、ッ。うっ」
「出てけよ」
俺に突き飛ばされた佐曽利は、ベッドに座りこみ茫然としていた。
「なに……」
「帰れ!」
一喝すると、佐曽利は血の気の引いた顔になる。
「あの、ちがくて」
「出てけって!」
無理やり佐曽利を追い出すと、俺はドアに鍵をかけた。控えめなノックと呼び声が何度かしたが、無視する。俺は水槽の前にがっくりとしゃがみこんだ。
「なんなんだよ……」
俺の恋心はたしかに存在する。作られたものかどうかはともかく、それを「おかしい」と全否定されたことは悲しい。たしかに俺は変なのかもしれないが、確固たる自分の感情を変えることなんてできない。彼女の余命がすくないことだけで手いっぱいなのに、これ以上追いつめないでほしい。
「くそっ」
未来のすべてがいきなり暗闇になったみたいだ。恋した相手とは添い遂げられないし、俺の恋心は「偽物だ」と否定される。俺は悲しくて孤独で、涙が止まらなくなってしまった。水槽のなかで、彼女が心配そうにじっと俺を見つめている。
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悲しみが一定量を越えると、人は誰しも開き直る。俺は考えを改めることにした。彼女と過ごす残り時間が少ないなら、有意義に使うしかない。
(彼女がより快適に過ごせるようにしよう)
餌を最高級のものに変えた。栄養たっぷりのご飯を贅沢にあげると、彼女はおいしそうに飛びついていたが、水槽にひとりきりなのでかなりの量を残していた。俺としてはもっと食べて頑丈になってほしかったので、それからも多めにご飯を与えるようにした。
水槽の水を頻繁に変えるようにした。彼女が暮らす環境を、つねに清潔に整えておく必要がある。水を変えるたびに彼女は元気に跳ね回り、水槽の端から端まで弾丸みたいに勢いよく移動した。喜んでくれていると思うとうれしくて、俺は一日に三回は水槽を掃除した。
さらに、一緒に遊園地デートもした。水槽の前に印刷した遊園地のミニ風景をたてかけ、BGMを流してみた。俺は架空のデートでも十分に満足だったが、彼女にもちゃんと喜んでもらいたかった。そこで、公園で見つけたおしゃれな木切れや石を水槽に入れてみた。パクパク口を動かす彼女は、水面に何度も浮き上がってきて、踊るみたいに縦泳ぎを披露してくれた。垂直のローリングスイミング。
彼女と過ごす時間は最高に幸せだったが、三日も学校を休めばさすがに親に叱られる。元気いっぱいの俺は水槽仕事にかまけてばかりいる。ずる休みも大概にしろと、今朝ついに家から叩き出されてしまった。登校中、俺はため息ばかりついていた。学校に行く気なんてさらさらおきない。ずっと彼女のそばで彼女だけを見て過ごしたい。予鈴ぎりぎりにクラスに入ると、智樹が真っ先に飛んできた。
「真人、大丈夫か!? 佐曽利と揉めたって」
「んー」
「あ、あのさ! 俺、熱帯魚のこと詳しいし。なんかあるなら……聞くよ?」
智樹はなぜか怯えていた。「もうあんまり聞きたくない」と顔に書いてあるのに、ぐいぐい話を聞いてくる。
「実は、さ」
「う、うん」
「彼女、あんまりご飯食べてくれなくて」
「ご飯?」
遠巻きに佐曽利の視線を感じたが、俺は無視することにした。学校を休んでいた間の彼女との睦まじい日々を、智樹に話してきかせた。仮想の遊園地デートや、彼女の住環境を整えたこと、彼女の求愛のような縦ローリングダンス。神妙に話を聞いた智樹は、言うべきか言うまいか葛藤の滲む目で「あのさあ」と、結局は口を開く。
「縦泳ぎしたって、水面近くで? 空気食べるみたいに上に泳いでくる? それは」
「なんだよ」
喉に何かつっかえたみたいに、智樹はひと呼吸おいて息を吐き出した。
「いや……ペンギンテトラは元々、斜めに群泳するけど。さすがにお前がやってきたことを考えると」
次の瞬間、俺は教室を飛び出していた。
『まず間違いなく、死にかけてる』
俺は家まで全力で走った。麻痺した頭に、智樹の冷静な声がハウリングする。
『原因は、たぶん住環境。餌が多すぎなのもそうだし、外で拾ってきた木や石を入れたのも良くない。加えて、日に何度も水替えを? それじゃストレスが溜まる一方だろ。大体、ペンギンテトラは群れてないとストレスになるのに』
(俺が余計なことしたから――?)
荒い息と自分の鼓動の音が聞こえる。智樹の声がしつこく、何度も何度もよみがえってくる。
『餌が多すぎなのも』『外で拾ってきた木や石を入れたのも良くない』『ペンギンテトラは群れてないとストレスになるのに』
彼女を引き受けるとき、智樹は他の個体も一緒に入れようとしていた。俺がそれを断ったのだ。
(彼女と同じ水槽に、一緒に泳ぐ奴がいるのが許せなくて)
全部俺のわがままだった。彼女のことを考えたつもりで、寿命を縮めていたのは俺自身。
帰宅すると、家族は全員出払っていた。勢いよく自室のドアを開ける。震える足と呼吸で、ふらふらと俺は水槽に近づいていった。
彼女は死んでいた。水面に力なく浮かび、真っ白な腹をさらしている。もう動くことのない小さな口と目が、虚ろに俺へ向けられている。
「ッ……!」
全身の力が抜け、俺はその場に尻もちをついた。視界が黒く明滅し、頭の奥がずきずきと痛む。彼女のそばに行かなければ。けれどこれ以上、体を動かせそうにない。薄暗い視界の真ん中で、頼りなく彼女の身が揺れている。水槽の表面張力になされるがまま、腹をさらして、エアーの流れに身を任せ動いている。力の抜けた彼女の死体が――。
「ぅ、おぇっ」
俺は吐き気がして、うずくまったまま深く呼吸を繰り返した。何度も何度も。落ちつこうとしたが、逆にパニックになりそうだった。
(殺した、殺した殺した。俺が殺した!)
そのままどれくらいの時間が経っただろう。荒い足音がドタドタと床に響き、肩を無理やりに起こされた。
「おい! 大丈夫か!?」
「きゅ、救急車呼ぶ?」
「待て。智樹。水もってきて」
「っ、わかった……!」
慌てて台所へ向かう足音が廊下で派手に転ぶ。智樹? 冷静に俺の顔色を確かめているのは佐曽利だ。
「真人。分かるか? どこか痛い? 苦しい?」
俺は力なく視線で水槽を示した。つられて佐曽利が彼女の死体を確認する。床が抜けそうなほどのため息が聞こえた。コップに水を入れて戻ってきた智樹も、水槽を見て固まっている。
「俺が、殺した……」
「やめろって。智樹、水飲ませてあげて」
「あ、うん。ほら」
つめたいガラスコップの水が口に入ると、えずきそうになる。咳きこんだ拍子に涙が出て、彼女との日々がよみがえってくる。ずっと一緒にいられないのはわかりきっていた。少しでも長くそばにいられれば、そう願っていた矢先のことだ。彼女は俺を恨んだろうか。俺のやってきたことは結局、どこまでも自分本位な行為でしかなかった。きっと水槽に木や石ころなんていらなかっただろうし、水も替えてほしくなかったんだろう。仲間と一緒に泳ぎたいと思っていたのを、勝手なわがままでひとりぼっちにした。彼女はなにも言わなかった。当然だ。言語を介さない彼女とは、コミュニケーションのとりようもない――どっと疲労が押し寄せた。俺が全部察してあげるべきだったのに。
「もう嫌だ。なんで。こんな……」
「うん」
佐曽利が深刻に頷いている。智樹は他にどうすべきか分からないようで、コップを手におろおろしている。
「ご、ごめん真人。俺があんなこと言ったから。佐曽利と一緒に、休み時間に学校抜け出してきたんだ。俺、お前のせいみたいに言っちゃったけど、そうじゃなくて――」
「智樹。黙って」
佐曽利が俺をベッドに座らせて、ポケットからなにかを取り出した。赤紐のついた五円玉だ。茫然とそれを見て、俺の口から絶望がこぼれる。
「俺、もう死んだほうがいいのかも」
「勘弁しろ。いいか」
佐曽利がじぃっと俺の目を見て言う。目の前にぴんと垂らされた赤紐と五円玉。
「死ぬのはこれを終わらせてからにしろ。元に戻ったら、俺のこと好きなだけ殴ってくれていいから――」
同意を求められ、俺は頷く。佐曽利が紐を揺らし始める。俺はそれをぼんやり眺めている。悪夢に染まりきった現実の一部が、そうしてゆっくりと溶かされていく。
……――目を開けて。その低い声で、涙でかぴかぴになった目を俺は開けた。
半泣きの智樹と、余命を告げる医者みたいな、おっかない顔の佐曽利がみえる。佐曽利がすっと水槽を指さし、低く問う。
「あれはなに?」
「……魚。死んでる」
「お前の彼女じゃなくて?」
「熱帯魚だろ。ッ、っ、あぁもう――!」
急激に恥ずかしくなってきた。俺が頭をかきむしると、佐曽利はほっと力を抜く。智樹がなにか喚いていたが、思考がぐちゃぐちゃの俺には届かない。
ぽっかりと、胸の奥に空いた穴がある。俺はすべてを憶えていたけれど、そこにあったはずの感情だけ見当たらなくなっている。強烈な違和感があった――俺が夢中になり、すべてのことに最優先し求めてきたそれ。消えてしまった何かが、奥深い心を隅々まで全焼させていったのは分かる。焼け野原の全身にまだ、ひりつく痛みが確かに残されている。致死の火傷に見舞われた俺を、佐曽利は迷いなく手術した。壊死した心は取り除かれ、激しい熱情はほろ苦い思い出に変えられている。佐曽利は俺の大切な感情を殺してしまった。
(あぁ……)
ぽろりと、ひと筋涙がこぼれ落ちた。
あれはたしかに、恋だったのに。
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