14. 心灰

 テロリストは不思議な音ともに現れる──パーティーで隣にいた医師が、そんな話を僕にふってきた。


「知っていますか? 先日、レリウスタワーで起きたテロのこと。私の同僚がたまたま、そちらのパーティーに出席していましてね。今日のように、数十名の立食パーティーだったんですが……現れたんですよ。例のテロリストが」


 僕は微笑んだ。手にしたシャンパンを含むと、すっきりした爽やかさが口に広がった。血なまぐさい話とアルコール。こうしたスパイシーなひとコマが、僕らの日常には必要とされている。医師の声は軽快に続けた。


「友人から聞いたんですよ。テロのとき、不思議な音がしたと。会場に響きわたる、それは美しい音だったそうです。しかし、それが何だったかわからないというのです。都市では聞いたことのない音だったと。当局に伝えても無視されたそうで。まあ、それどころではなかったのかもしれませんが」


 僕は同意のため頷く。レリウスタワーの事故は、壊滅的な被害だったと聞いている。ニュースでその混乱ぶりを僕も目にした。タワーにいた全員が遠くない未来に死ぬだろう。報道では、八割が大きく寿命を失ったと伝えていた。実際はもっとだと思う。テロリストのせいで都市は大きく混乱している。爆弾や銃、毒は使われていないのに、彼らは何らかの方法で都市の住人を大量虐殺していた。詳細な手口については規制がかかり、なにも知らされていない。医師はため息をついた。彼の顔上半分は、メタリックなゴーグルで覆われている。都市の住人が装着を義務づけられるゴーグルで、僕も同じものをつけていた。景色や音を調整するためのゴーグルだが、こうして直接話すにはいささか不便だ。相手が何を考えているか読み取りづらく、会話に慎重になってしまう。僕は注意して言葉を選んだ。


「ご友人は、その後いかがですか?」

「どうでしょう。数週間前、通信で顔を見たときには元気そうでした。かなり興奮していましたが。今は、通信を遮断されました。当局の規制で──彼は死ぬまで、もう家から出られないでしょう」

「お気の毒に」

「仕方ありません。起こってしまったことは、不運だとしか言えませんから。それよりも、気になるのは彼が聞いたという音のほうです……なにか、テロのやり口に関係があると思いませんか?」

「さあ……」

「どうも、気になってしまって。もし私がテロに巻きこまれたら、何が聞こえるのだろうと。そんな想像ばかりしてしまうのです」


 おや、と僕は思った。彼は感情バランスを崩している。一瞬の戸惑いを見てとり、医師の口角が上がった。


「わかっています。友人が事故に巻きこまれ、私も影響を受けました。そうおっしゃりたいのでしょう? だからこうして、今日はパーティーに参加しました。けれど今となっては、そのパーティーもいかがなものでしょうなぁ。テロはいずれもパーティー会場で起きています。他の場所では一度も起こっていません」

「たしかに……大勢の人間が集まるのは、今ではパーティーくらいですから」

「ここへ来たのはリスクが大きい。そう思いませんか?」

「考えすぎでは?」


 あまり考えると、ここへ来た意味がなくなってしまう。心を見透かしたように医師は笑う。


「その通り。感情バランスを保つために来たのに、パーティーでバランスを崩しそうです。世の中どうかしている」


 僕は首をかしげた。この人から離れたほうがいい。彼はパーティーに参加できる感情レベルではない。今すぐ自宅へ帰り、投薬とあらゆる治療を受けるべきだ。会釈し離れようとしたとき、彼のはずんだ声が投げられた。


「お気をつけて。ここももう安全ではない!」



 жжжж



 医師から離れ、僕は周囲を見回した。およそ百名のゴーグルをつけた男女が、穏やかに談笑している。会場はメルゼルホテルの百階で、人と見まがうヒューマノイドたちが静かに給仕していた。今日の参加者は五百歳以上の高齢者ばかりだ。高齢者といっても、おとぎ話に出てくる「おじいさん・おばあさん」のような皺くちゃの人はいない。全員が十代から三十代の若々しい見た目を保っている。ここにいるのは、僕を含め都市の要職者ばかりだった。医師、政治家、システム管理者に研究者──労働がほぼ必要なくなった現代において、あえてリスキーな職につく変わり者たちといえるだろう。そうした職業にはストレスも多いから、パーティーでこうして感情バランスを整える必要があるのだ。どこか品格の漂う会場を眺めながら、医師の話について考えた。テロリストの動きが活発になったのは、ここ数年のことだ。人々が忘れかけていた「死」も、そのせいで注目を集めている。


 「死」とは、最近まで消えかけていた概念だ。二千年前、人類は死を克服した。感情をフラットに保てば、若さと健康を永久に保てることが明らかになったのだ。研究をもとに、世界中で「都市」が建造された。人々は特殊なゴーグルをつけ、感情を損ねる要因を避けるようになった。不快な景色や音、色彩を消し、ストレスを遠ざけることが必須とされた。生活には様々な制約が設けられ、人との接触は厳しく制限された。すべての社会活動は自宅で行うようになり、屋外への外出は許可制になった。もちろん、社会との交わりが完全に絶たれたわけじゃない。通信で外部と話すことはできるし、ヴァーチャルで会合もできる。望めば結婚もできるだろう。誰かと一緒に住むのだって不可能じゃない。けれど、過度な人との交わりは感情を害し、寿命を縮める原因になる。都市を統括する当局は推奨しないし、ほとんどの人はひとりでいたがった。ある学者は、これを「ゴーグルの功罪」だと述べた。感情をフラットに保てば心は灰色になる。人はあらゆる関心を失い、社会はやがて衰退するだろうと。そんな警句は、永遠の命に魅了された群衆を前にして無力だった。こうして、都市の平均寿命は三百歳を越えるようになった。僕らはほとんどの時をひとりで過ごしている。たまにこうしてパーティーへ足を運ぶのは、感情バランスを整えるためだ。研究によると、長期的に人と会わなければ、感情バランスはしだいに崩れていくという。不思議なものだ。バランスを崩すのも人だが、バランスの維持にも人は欠かせない。穏やかな灰色の世界で、僕はもう五百二十九年も生きている。暮らしは優雅で便利なものだ。けれど、どこか刺激に欠けてもいる。システム管理者なんて面倒な仕事をしているのは、そのせいかもしれない。


 からになったシャンパンの代わりに、冷えた白ワインをもらった。口をつけようとして躊躇する。パーティーで供される食べ物には、すべてフォグ・ドラッグが仕込まれている。パーティー参加者の脳を鈍化させ、感情を灰色に保たせるためだ。こうした場ではストレスが多いから、必要措置として入れられている。僕はドラッグがあまり好きじゃない。取りすぎると馬鹿になる気がする。他の参加者たちが気にせず飲み食いしているのは、ドラッグが入っていることを知らされていないからだ。知っているのは、僕のような仕事につく者くらいだろう。ちょうど目があった同僚が、遠くからグラスを掲げてみせる。彼の食指もあまり動いていない。僕も微笑みグラスをあげた。彼のほうへ歩こうとして、足が止まった。

 耳をつんざくハウリング音が視界を揺らした。頭がキンとして、とっさに耳のあたりを抑える。不快な音はしばらく続いた。耳を抑えても無駄だった。耳はゴーグルの下だ。不快な音を取り除くはずのゴーグルが、不快な音を出している。あり得ないことだった。ぐらつく視界で会場を見ると、全員が耳のあたりを抑えている。


 ──ゴーグルシステムをハッキングされた。


 いち早く気づいた同僚が、ゴーグルを脱ごうとしている。かなりのリスクを伴うが、仕方ない。僕もゴーグルに手をかけようとして、できなかった。四方にある巨大な天窓が一斉に割れ、僕は衝撃で凍りついた。会場にガラス片が降りそそぎ、真下にいた人たちがガラスを浴びて倒れる。

 数秒後、不快な音は消えた。みんな恐る恐るあたりを見回している。ほっとした空気を破ったのは、割れた窓から流れこんできた大量の水だ。水流はものの三秒で会場を満たした。現実的にありえない速さと物量だった。ここはメルゼルホテルの百階だ。外には薄い大気しかないのに、この水はどこから現れたのか。頭のてっぺんからつま先まで水に浸かり、僕はパニックになりかけた。ごぽごぽと、薄暗くなった視界で濁った音がする。けれど濡れた感覚はないし、呼吸もできる。息苦しくはない。引きつった悲鳴が水中でくぐもり聞こえた。ゴーグルシステムに詳しくない他の参加者は、泳ぐように動いたり、近くのテーブルにぶつかったりしている。僕は呼吸を整え、いち早く事態を理解した。これはテロだ。ゴーグルシステムが乗っ取られ、限りなくリアルな偽映像を見せられている。先ほどの医師との会話がよみがえった。テロに遭った者の末路は悲惨だ。わかっていても、現実のほうがずっとはやい。


 怯えた空気をなだめるよう、女性の声が聞こえてきた。声には抑揚があり、言葉の意味は詩的だった。聞こえてきたのは、スピーチでもテロの声明文でもない。音の高低を自然界のどこにもない空気で操っている。祈りや言祝ぎに似て、不思議と心地よい響きだった。全員が透明な水中世界で茫然としている。天井近くの水面から光が入り、足元に光の網目を作りあげた。水中が明るくなり、誰かが上から降りてくるのが見えた。クラシカルな紫のドレスを、ふんわりと羽のようになびかせている。白い仮面をつけ、長い黒髪をアップにまとめた女性だった。口元が音にあわせて動くので、彼女がこの音を出しているとわかる。白い腕がしなやかに広がった瞬間、足元にカラフルな花が咲き出した。赤、緑、黄、オレンジ。悲鳴ともつかない誰かの声がした。驚きと恐怖が反射的にこみ上げてくる。視界はゴーグルで灰色に調整されているはずだった。明るい灰色、暗い灰色──わずかに識別できる差を、僕らは色と認識する。それが、今は目につき刺さるほど世界が色でまぶしい。生ける原色が剝き出しになっていて、僕はめまいがした。理性は見るなとわめいていた。感情バランスが大きく崩されている。フラットだった心が乱れ、生々しい光景に揺り動かされる。ヴィヴィッドな花の色は、あっという間に本能的な感嘆を呼びおこした。つめていた息をゆるめると、どこか恍惚とした響きになっている。生まれてから、こんなに明確な美しさを見たことがない。花は増え、膝あたりまでを埋めつくした。みずみずしく鮮烈な香りも漂ってくる。匂いもゴーグルの作用によるものだ。僕は赤い花に触れようとした。赤色は見たことがある。日常生活にも赤はあるが、これはまったく別次元だ。目の前の赤は、これでもかとクリアに輝いている。神経がしびれるほど主張が強く、目を離すことができない。こんなにも鮮やかな物体が、世界にあるなんて──。


 花びらが上から落ちてきた。多くの人が手を出し、花をつかまえようとした。落ちてきた花が本当に手に触れ、何人かが驚いて手をひっこめる。降ってくる花は本物だった。頭上でテロリストが音を紡ぎ続けている。満足そうな艶笑が会場中にそそがれるのを見て、僕はハッとした。たおやかな笑みで、彼女は僕ら全員を殺そうとしている。パーティーの参加者は一歩も動けなかった。五感のうち三つを支配され、脳がすっかり麻痺したせいだ。あちこちで恍惚のため息がもれている。誰も彼も呑まれてしまっている。夢より幻想的で、どんな想像をも超えた光景に包まれた現状に──僕はぼんやりしていた。世界を揺るがす鮮やかさと、みずみずしい花の香り。空間を満たすテロリストの甘美な声。鮮烈なイメージは理性を酔わせ、灰色で埋めつくされた心を満足させた。このままずっと、ここにいられたら──……。


 パパパパ、と乾いた音がした。テロリストの体が硬直し、真っ赤な血しぶきが上がる。その身が勢いよく落下した。食器が割れ、甲高い悲鳴がまどろんでいた空気を叩き壊した。参加者たちは夢からさめ、いっせいに出口へと走り出す。治安部隊が入ってきて、参加者たちへホールに留まるよう、喚きながら押し戻している。ゴーグルの映像は元に戻っていた。会場を満たす水も、咲きほこる花もない。鮮やかな色は消え、世界はまた灰色になった。けれど足元に、落ちてきた花びらが散乱していた。色を補正された花はすべて灰色になっている。また銃声がして入り口付近で紳士が倒れた。恐慌をきたした参加者に圧倒され、治安部隊が混乱して発砲したのだ。動かなくなった紳士を見て、あたりは阿鼻叫喚に包まれた。僕は後ろから誰かに押された。滑り、花びらまみれの床に手をつく。踏まれそうになって呻き声がもれた。逃げなければ。発砲音がたて続けに鳴る。治安部隊は参加者を撃っている。ここにいてはいけない──立ち上がる寸前、灰色の花をひとつ拾った。そっと胸元へ忍ばせて、急いで虐殺の場を後にした。


 жжжж


 外へ出るまでにかなりの時間を要した。二時間か、三時間か。あちこちに治安部隊がいて、全員が銃を手にしていたせいだ。隠れる必要はなかったが、あんな場面を見てしまえばもう信用できない。目の前で人が撃たれたのだ。誰かが物理的に殺されるなんて、数百年ぶりじゃないだろうか。僕は避難先として、自分の仕事場を選んだ。会場から近いし、都市のどこよりも安全な場所だ。システム管理者の僕には、特殊な仕事場が与えられている。見た目は普通の家にそっくりだが、外部との通信を自在に操作できる設備があった。

 ドアに内から鍵をかけてゴーグルを外した。眠るとき以外にゴーグルを外すことは禁じられている。あまり長く外していると当局に通知がいき、あらゆる罰則を科せられてしまう。僕はセーフティハウスの通信を遮断し、深く息をついた。これでゴーグルを外してもしばらくは大丈夫だ。やっと日常に帰ってこられた──……そのとき、あり得ないものが視界に入ってきた。床に点々と落ちた赤い血。灰色に塗られたタイルの上を、奥の部屋に向かって続いている。反射的に、誘われるように奥の部屋へ向かっていた。ドアを開けると、青ざめた少女が銃を構えていた。暗がりで力強い目が爛々と光っている。銃口と同じくらい冷たい声がした。


「動かないで」

「なんで、ここに……」


 あのテロリストだ。視線をずらすと、向かいの窓が割れている。彼女はひと足はやくここへ逃げこんだらしい。間近で見ると少女と呼べるくらいの外見だ。陽の差しこむ窓際のベッドに座りこんでいる。古めかしい紫のドレスは血まみれで、仮面は外されていた。長く艶やかな黒髪は乱れ、顔は死人のようだ。両目だけがいやに輝き、濡れ光ってみえる。彼女は何か言おうとして、大きく血を吐いた。ゴーグルを外した僕にはすべてが鮮やかに見えた。窓から差しこむ木陰の緑光。震える銃の真っ暗なつやめき。毒々しく赤い血。床やベッドに、おびただしく赤色が散らばっている。


「動かないで! 下がって」


 一歩踏み出しかけていた僕は足を止めた。自分の声は哀れなほど困惑していた。


「でも、手当てしないと」

「手当て? あんたには関係ない。ここから出てって」

「けど──」

「あんたを今すぐ、撃ち殺すこともできる。だから……ッ」


 彼女は溺れるような咳をした。僕は胸元からパーティー会場で拾ってきた花びらを取り出した。ゴーグルを外せば、花は驚くほど赤かった。そっと手のひらにのせるのを、彼女は怪訝そうに眺めていた。


「あの場にいたんだ。僕は君のせいで……僕の寿命は大きく縮まっただろう。だから関係なくはない。教えてほしい」

「なにを……?」

「理由を」


 なぜあんなことをしたのか。平穏に生きる人の寿命を縮めるのは、ただ殺すより惨いことだ。僕らにいったいどんな恨みがあるのか。当然のことを聞いただけなのに、彼女はなぜか噴き出した。


「おかしい。わたしも、……あんたたちも……馬鹿、みたい……」


 血混じりの咳とともに、彼女はベッドへ仰向けに倒れこむ。ぐったりと目を閉じ、動かなくなった。おそるおそる近づき、息があることを確認する。彼女の体からは信じられないくらい真っ赤な液体があふれ出していた。傷の塞ぎかたなんて知らないし、ここには誰もいない。彼女を助けられる人は誰も──僕がなにもしなければ彼女は死ぬ。自分の呼吸が浅くなってくる。彼女の死は僕の責任か? 少女の顔から血の気がうせていく。耳の奥で鼓動がうるさくなる。目の前で人が死にかけているのに、どうすることもできない。急いでリビングへ戻り、震える指で通信システムをオンにした。


『ああ、よかった! 無事だったんですね!』

「ええ、なんとか」


 パーティーで話した医師を探し出し、通話をかけた。パーティーの参加者リストは広く公開されている。混乱のせいで通信は遮断されていたが、システム管理者の権限で回線を繋げた。


『なぜ、画面をオフに?』

「実は、すこし怪我をしまして」

『それは大変だ。なにかお手伝いできることは?』

「ええ、できれば応急キットを。至急送って頂きたいのです」

『もちろん構いません。ですが、なぜ私に? 当局に助けを求めたほうがよくはありませんか?』

「通信が混乱していて。繋がらないんです。痛みがひどくなってきたので、とりあえずあなたに」

『わかりました。いくつか手続きが必要ですが、後で構わないでしょう。五分で届けさせます。他になにか?』

「いえ。助かります」

『お気をたしかに』


 通信が切れ、僕は深く息を吐き出した。当局に助けを求めることはできない。たとえ仕事場であっても、申請のない外出は認められない。自宅にいないことがばれれば、より多くのことを追求されてしまう。僕は手早くその場でシステムをいじり、自分が自宅にいるように工作しておいた。その間に、医師が用意してくれた応急キットが輸送ロボで届けられた。中身を確認すると、患部に貼るだけで傷が塞がる簡易キットだ。これで治るかわからないが、やってみるしかない。彼女の元へ戻り、紫のドレスに手をかけようとして躊躇した。他人に触れるのは数百年ぶりだ。子供の頃は、大勢の大人や友達に触れていた気がする。今やその記憶も曖昧だ。傷口が見えるよう手早く布をはぐと、腹部に銃創が見えた。清潔な布で拭い、手順通り応急パッチを貼る。汚れた服を脱がせて上かけをかければ、後はできることがない。飛び散った窓ガラスを掃除し、ぼんやり考えていた。なぜこんなことをしているのか。僕はたくさんの違法行為を犯した。テロリストを見つけて保護し、治安部隊に連絡しなかった。通信システムを自分のために利用し、居場所をごまかすために手を加えた。テロリストは見つかれば殺される。僕の一報で彼女は死ぬことになる。そう考えると、どうしても治安部隊に知らせる気にはなれなかった。

 数時間たっても彼女は目覚めなかった。生きているか不安で様子をうかがうと、悪夢にうなされている。何度か水を飲ませたとき、名前を聞いた。夢の中にいる表情で彼女は答えた。


「ララ……」

「ララ? それが君の名前?」

 彼女は答えない。目は虚ろで、今にもまぶたが落ちそうだ。

「僕は376(ミナム)。376番目に産まれたから。ララだと、何番目になるのかな……?」

「ここどこ?」


 思ったよりしっかりした声が返ってきて、嬉しくなる。


「僕の仕事場だよ。パーティー会場に近い場所にある。君がここにいるのは、誰も知らない」


 彼女はもう聞いていなかった。目を閉じている。一瞬ひやりとしたが、胸の上下で眠ったことがわかった。夜が去り、日が昇って、また夕方になった。医師が送ってくれた応急キットは役に立った。血は止まって患部は癒え始めている。ララは意識を取り戻した。まだ夢うつつの表情で、かいがいしく世話する僕を虚ろに見て言う。


「ゴーグルは……」

「え? ああ、取ったんだ」


 応急パッドを取りかえた僕は頷いた。これだけ長くゴーグルを外すのは初めてかもしれない。システムをいじったので、僕のゴーグルは通常状態で自宅にあることになっていた。


「無駄なこと、させたよね……わたし、もうすぐ死ぬのに」


 びっくりして顔を上げると、ララは窓の外を眺めていた。彼女がゆっくりと息を吸い、言葉をつむぐ。


「……なんであんなことって。知りたい? ……理由は、……わたしが死ぬから……怪我のせいじゃなくて。……元々……この体、もうもたないんだ」

「それは──自分が死ぬから、他人を道連れにしたってこと?」


 自らの死の腹いせに、大勢を巻きこもうとしたのか。思い通りにならない世界に憤り、誰が死んでも構わないと、怒りを吐き散らして──?


「違う。……死ぬのは、たいしたことじゃない……外じゃ、……みんな死んでる」

「外?」


 ララは血の気の失せた顔で微笑んでいる。今にも死にそうなのにひどく満足げだ。僕はその表情を見て、正体不明の恐怖をおぼえた。


「わたしは、もうすぐ死ぬ。……でも、可哀想だから……あんたたちは。だって、ずっと死んでるから」


 жжжж



 夕方、ララが寝ているのを確認し、僕は部屋のドアを閉めた。ドアに背を預け、そのまま廊下に座りこむ。窓から力強いオレンジの夕陽が入ってきていた。ララは、あれから何を聞いても答えてくれなかった。彼女はただじっと窓の外を見つめていた。

 ララは死ぬ。傷は塞がったのに、顔色はどんどん悪くなっている。血が足りないのか、それ以外の理由があるのか。医者にみせないと助からないだろうが、それはできない。テロリストを助ければ同罪になるから、誰も直接は助けてくれないだろう。仮に助けてもらえたとしても、いずれララは死ぬ。それが一週間後か、十年後かはわからない。彼女は感情バランスを整えていない。彼女の命は僕らのように永遠ではない。

 目の前で失われる命がある。扉の向こうで彼女は今を生きていて、静かに夕陽を眺めている。あの静謐な横顔。彼女がとっくに死を受け入れていることを、僕は理解していた。なんでそうあっさりと諦められるのだろう。たかが数十年の寿命でどうして満足できる? 数百年以上を生きた僕にとって、文字通り瞬きの刹那でしかない。彼女が見たことのないものや、知らないことがたくさんある。それらに触れる時間すら与えられずに、ララはこの世を去る。

 扉越しにララの声が聞こえてきた。抑揚をつけた高低のある音だ。パーティー会場で聞いたあの音。声はか細く頼りない。今にも途切れてしまいそうな声を、僕は愛おしく思った。刹那を手のひらに閉じこめておけたらいいのに。窓からの夕陽が世界を焼いていた。肌にじりりとオレンジの熱を感じる。僕の目はかってに涙を流していた。永遠に失われる命がひどく間近に思えた。ララと自分だ。ゴーグルを外したせいか、テロのせいかはわからないが、僕の感情バランスは著しく悪化した。数百年ぶりに流した涙は新鮮だった。鼻の奥がつんとして苦しい。手のひらで拭いなめると、涙はしょっぱかった。──もう後戻りできない。パーティーで拾った赤い花びらを取り出してみる。水分が失われ、しおれかけている。この花に近いスピードで死ぬのだろうか。朽ちつつあるのに花の赤さは変わらない。誇らしげに、最期まで己の命を見せびらかしている。僕はこの花を手放せずにいる。拾ってからずっと、ゴーグルもつけずに時々眺めている。寿命を守るのとは真逆の行為だ。すこしでも長く生きたいなら、持ち帰った花はすぐに焼やすべきだった。ゴーグルをつけて、フォグ・ドラッグを大量服用すべきだったのだ。もう一度涙を拭い、ララのいる部屋のドアを開けた。ララは窓の外を見ていた。


「僕にどうしてほしい?」


 ララは落ちかけていた頭をかくっと持ち上げた。失血で意識が飛びかけていたらしい。


「なに……?」

「君が最期にやりたいことを教えて」


 ぼうっとした顔でララは頷く。


 жжжж



 夕暮れの街を、ララを背負い走る。人影はないが、大通りはできるだけ避けた。目的地は歩いていける距離にあった。


「ここに……?」


 町外れにある自然公園だ。手入れされていない林を進むと、白塗りの壁が見えてくる。白壁はビルの五階くらいの高さで、上からリフトロープが垂れていた。ロープの端は地上にあり、木の板でできた即席の乗り物が落ちている。ララはこれで外から入ってきたらしい。リフトロープの装置を操作すると、板ごと体が持ち上げられていく。テロリストは都市の外からきている。都市がこれほど無防備な理由に、僕はそのときようやく思い至った。感情バランスを整える薬やゴーグルのせいかもしれない。ゴーグルを外すと意識がクリアになり、物事をだんだんと深く考えられるようになる。ゴーグルによって制御されていた思考や興味が自由になるからだ。都市の人間の危機感の薄さは、そのせいかもしれない。


「ララ、着いたよ」


 壁を越え、リフトから地面に降りると外だった。舗装されていない土と草原、木の匂いがする。ララの体はずいぶんと軽かった。半分まどろんだ状態で、ララは森の奥を示した。もう喋る気力もないのだろう、青い唇がかすかに震えている。鬱蒼うっそうとしたやぶ道を進むと、木々の切れ間が見え、一気に視界が開けた。赤、黄、ピンク。カラフルな花畑に僕は目を細める。パーティー会場で使われた花は、ここから運んできたらしい。崖の上だった。眼下は夕暮れの海で、空は紫から青へと染まりつつある。見はるかすと、遠くの丘陵に人工の町が見えた。原始的で粗削りな建物が銀色のともしびに光っている。おそらく旧式の電球だ。都市ではとっくに使われなくなったローテクノロジー。都市の外では生きられないと教えられてきた僕は、そう信じこんできた。けれど何百もの人々が、原始の技術で築き上げた町がこんなにも近くにあったのだ。彼らの寿命は蟻のように短い。感情調整を止めてしまった僕の寿命も、今や彼らに近い。永遠の命を失った自分が、あとどれだけ生きられるかはわからない。


「ララ、見て。あんなに……」


 ララは花畑の上で動かなくなっていた。ただ眠っているみたいだ。僕はもう一度、彼女の声が聞きたかった。この景色について話したかった。けれどどんなに願っても、もうそんなことはできない。彼女を助けてあげたかったけれど、無理だった。テロリストでも、僕が直接会って話した数少ない人間だったのに。彼女の死はあっけないものだった。何の音もなく、断末魔の悲鳴すらない。風が吹くように消えてしまった。死とは呼吸のように自然なものであるらしい。涙に濡れた視界で、僕はありのままの世界を見る。夜に侵され始めた空と海。まどろみはじめた花畑と、遠く暗闇に抵抗する人々の光。この世界は、祈りや希望を平気で踏みにじる。強く願うことも、虐げることも万人に許されている。喜びは怒りに変わり、救いは慟哭を招くかもしれない。もう守られてはいない。剥き出しでさらされた僕の感情は脆く、恐怖に震えている。転ばないよう気をつけてゆっくりと立ち上がった。迫りくる闇を前に、原始的な希望の光が僕を呼んでいる。

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