10. プネウマと夜-3

「どうして助けなかったの!」


 プネウマから遠ざかると私はマケリを突き飛ばした。回廊の壁に当たった彼は、そのまま力なくずり落ちていく。


「無理だよ。助けられる、わけがない……」

「助けられた! あんたが止めてなきゃ」

「止めなきゃ、君も死んでた!」


 空気を裂く大声に息がつまった。マケリが怒鳴っているのをはじめて見た。壁に手をつき立ち上がろうとして、マケリはそのまま諦め、廊下に腰をおろした。ぐったりと土色の顔に脂汗を滲ませている。


「オルニスは、僕らの中で一番戦闘向きだった。彼が敵わないなら、僕らが何をしても、無駄だ」

「でも、……」


 助けられたかもしれない、そう思うと声が震えてしまう。マケリは先ほどの様子を思い出したのか、ぶるりと震えた。暗く沈む瞳で床を見つめている。


「プネウマが何をするか、オルニスは僕らに見せてくれた。たぶんA組とB組のみんなにも、同じことをしたんだ」


 私は震えを飲みこもうとしたが無駄だった。混乱と恐怖、わけのわからない不安があふれてくるのだ。


「ファイ、考えるんだ。考えて」


 マケリが宥めるように肩をさすってくれた。彼の指もまた震えている。こんな状況で何をどう考えろというのだ。卒業試験の一環だと思っていたプネウマとの面会は恐ろしい殺戮の場だった。プネウマは試験を受けた生徒をすべて殺す気だ。現にウォルシュもオルニスも殺された。そういえば、回廊や中庭ですれ違う同級生たちの姿が少ないのも、すでに殺されてしまったのかもしれない。震える静寂のなかでマケリがふと呻いた。


「そうか、だから……」

「なに?」


 私はさぞみっともない顔をしていたのだろう、マケリは微笑んだ。


「気づいたんだ。プネウマが僕らにさせようとしていることに」


 マケリは三つの金のオブジェを手のひらに転がした。彼が見つけた本と星、子どものモチーフ。


「何かおかしいと思った。プネウマは『何度間違えてもいい』と言った。僕らに答えを探せと言っておいて、まるで正解することに何の意味もないみたいだ」


 マケリの顔色は悪くなっている。息をするのも苦しそうで、長距離を全力疾走した後のようだ。


「それに、オルニスのさっきの戦いを見てわかったよ。彼がへばるにしては早すぎるって。この場所は、この夜はまるで――僕らの魔法を吸い取っているみたいだ。いや、きっとそうなんだよ」


 魔法とは肉体に通じるもの、使えば使うほど体力を消耗する。オルニスがあれだけの風魔法で体力切れになったのも、言われてみればおかしい。マケリにしたって、消耗の仕方が尋常ではない。この夜の暗がりに絶え間ない不安を感じるのも、そこに何らかの術者の意図が含まれているとすればおかしくはない。マケリが大きく嫌な感じにせきこんだ。かすれた風に似た呼吸、瞳はかなりぼうとしてきている。体力の限界が近いのだ。


「マケリ」

「大丈夫。でも僕は、急がないと」


 立ち上がろうとするのを支えると、彼は月を見上げていた。天高くその角度はかなり変わって、鐘楼のすぐそばへ近づいてきている。


「ファイも、急いだほうがいい」

「でも、どうすれば」

「プネウマの言うとおりに、するんだ。忘れちゃいけない」


 これは卒業試験なのだとマケリは繰り返した。彼はオルニスが生きていると信じている。それどころか、プネウマが誰も殺していないと考えているようだった。根拠を聞き出すにはマケリは疲れすぎていたし、その身を支えて言われるままに歩いているうちにプネウマのいる中庭まで辿りついてしまった。はじめの宣言どおり、プネウマは同じ場所にとどまっていた。彫像のように動かなかった首が私たちに気づくや、フクロウのように動く。鳥仮面の奥とまともに目があった気がして、一瞬にして震えが走った。


「ありがとう。ここまででいいよ」

「待って、本気? 見たでしょう、だってオルニスが――」

「ファイ、これは試験なんだ。自分で確信した道を、行くしかない」


 マケリはプネウマのそばへ近づく気だ。思慮深い友の目には爛々とした意思が光り、やけになっているのではないとわかった。なにか考えがあるのだ。それでも行ってほしくなかった。


「答えをまだ見つけてないでしょ。あんたの問いは」

「『この世で一番青い色は、どこにある?』――僕には、これで十分さ」


 マケリは握りしめていた本のオブジェを指先でつまんでみせた。残るふたつのオブジェを私に押しつけてくる。


「君ならできる。プネウマの言うとおりに、この試験に全力で、取り組んでみるんだ」


 そうすれば活路が開ける、そうマケリは心の底から信じきっていた。柔らかな月光をかきわけ、プネウマの元へよろつき歩く姿を私は立ちすくみ見守った。


「ミスタ・マケリ。君の答えは?」


 マケリは静かに本のオブジェを差し出した。


「この世で一番の青は、書の中に。物語に紡がれる、僕の想像の中に」

「素晴らしい。そして君は勇敢でもある。この試験の意味に気がついている、そうだね?」


 びくりと、マケリが身をすくませた。プネウマが両手をゆっくりと伸ばしていく。

穏やかに脈でもとるように、マケリの首筋に白手袋の両手を添えた――次の刹那、糸の切れた操り人形のようにマケリはその場にくずおれた。脱力し意思の消えた死体を、プネウマが倒れる寸前に受け止める。地に横たわる姿に腕をひと振りすると、マケリはかき消えた。オルニスと同じく外に出されたのだ。どうすることもできずにたたずんでいると、プネウマと目が合った。友がまたひとり死んだ、殺された。ああも簡単に人の意思を奪ってしまえる存在を私は知らない。プネウマのような大量殺人鬼が学校の中にいるなんて。


「混乱してるね、ミス・ファイエル」


 プネウマは天を見上げて告げた。


「じきに時間切れだ。君も覚悟を決めなさい」





 私は逃げ出した。

 走って走って、ただひたすらにプネウマから遠ざかろうとした。吸いこむ夜の空気がもったりと重く、すぐに息切れしてしまう。滴り落ちる汗が不快だった。血を吐くような息苦しさのなか、私はあたりの静けさに愕然としていた。誰もいない。ここに来るまでに誰にも出会わなかった。頭上ではクリーム色の丸月が、いよいよ鐘楼の影に重なろうとしている。もうみんなプネウマに殺されてしまったのだろうか。思い出した光景に背筋が凍った。あいつはオルニスやマケリから意思を奪ったのだ。人の身から意思が消えること――それは死だ。

 人は死んだらどこへ行くのだろう。ここに思考する「私」という存在がある。その意識が消えたら、物事を考えられなくなる。そうすると消えた私はどこに行くのだろう。死んだらどうなる。むかし一度だけ、私は人の死に触れたことがあった。魔術学校へ入る前、祖母が死んだときだ。祖母の意思の灯がふっと消え、肉体から力が抜けていくのがよく分かる出来事だった。穏やかな顔で目を閉じ、祖母はそれから二度と動かなかった。まるでそっくりそのまま、先ほどのオルニスやマケリのように。

人は死んだらどうなるのだろう。そんな問いに真剣に取り組むのは、もっと歳をとってからだと思っていた。死はそう簡単に訪れるものではないし、突発的な事故や病気でもなければ老齢になるまで出くわさないものだ。ここにいる「私」が消えたら――。


 私は無意識にプネウマの元へ戻りはじめていた。走り体力を消耗したせいで体が重く、息苦しい。もうこんな真っ暗な世界は御免だ。いつもの明るい世界へ戻りたい――あふれる太陽の光、目につき刺さる色彩艶やかな私の世界に。私はようやく普段の世界の明るさを知った。光で満ちる世界にいる限り、その恩恵を感じることはなかっただろう。霞む思考に鳥仮面の影がちらついていた。プネウマは「覚悟を決めろ」と言っていた。いったい何の覚悟か。死ぬ覚悟なんてまっぴらだ。


「生き延びる……!」


 私ひとりでも。もしも避けられない死があるとするなら、プネウマも道連れだ。




「遅かったね。君が最後だ」


 私はプネウマとの距離を測った。手の届かないぎりぎりのところで立ち止まり、じっと待つ。もはやこの身を立たせているのも辛いほど消耗し、疲れきっている。


「来ないで」

「ふむ。――それで、君の答えは?」


 片手を差し出すプネウマに心底腹が立った。考えていた芝居ではなく本気で金のオブジェを芝生へ投げつけていた。


「こんなもの!」


 きらきらと金色が光る。猫、星、子どもの精巧なモチーフ。散らばったそれらへプネウマがそっと手を伸ばす。手の届くところまで距離が縮まって、心臓が飛び出すかと思った。プネウマがオブジェを拾おうと屈んだその瞬間、ひと息に術を発動させた。炎を。

 金のオブジェからたちのぼる火柱が、芝生を蛇のようになめプネウマを囲う炎壁となった。試験管を逆さにした形の火壁に閉じこめられ、プネウマは首をかしげた。


「大がかりな術だ。これが君の答えかな?」

「あんたは、ここで死ぬ……!」


 私は歯を食いしばった。すこしでも気を抜けば炎壁が消えてしまう。このまま炎を燃やし続ければ、プネウマの周囲にわずかに残された酸素は燃え尽きるだろう。それなのに相手は動揺すらみせなかった。


「ミスタ・マケリから聞かなかったのかね。これは卒業試験だと」


 炎壁へと白手袋の指が伸ばされた。プネウマが静かに触れた箇所から火が消えていく。炎が吸い取られているのだ。私は火勢を強めようとして、できなかった。すでに体力が底をついている。炎を完璧に飲みこんでしまったプネウマが近づいてくる。


「毎年、君のような生徒がいるものだ。ミスタ・オルニスといい、C組は活きがいい」


 プネウマは仮面の奥で笑っていた。息も絶え絶えの私を見下ろす黒の両瞳はきらきらと光っている。嘲られているのか。罵ろうとして唾を飲んだ。


「ひと、ごろ、し……」

「そうかもしれない。でも、そうではないのかも。――ところで、君は魔力を使い切った人間がどうなるか、知っているかね?」


 プネウマの片手が伸びてくる。私は気力で目を見開き、憎い鳥仮面を睨みつけた。殺される瞬間まで抵抗する意志を見せつけてやる。

プネウマの背後に丸い月が見えていた。柔らかな光だ。首もとに触れてくる忌まわしい白手袋の感触。


「怖がらなくていい。未知はおそろしいものだが、すべてに害があるわけではない。ミス・ファイエル、君の試験は――」


 プネウマの姿が霞み出す。思考が溶けはじめ、私は死の感触を味わった。それは意外にも穏やかで安心のできる何かだ。暖かな陽だまりや、うつくしく輝く緑の葉陰。あるいは川のせせらぎや、透きとおる青空に深呼吸する瞬間に似ている。心地よい脱力感、これが死の――……。




うるさい笑い声が耳につき、私は目をひらいた。眩しい。白光が目に刺さり、片手で昼の陽光を遮った。


「お前はひどい奴だ。こういう試験だってわかったなら教えてくれよ」

「気づいたときにはもう君が飛び出してたんじゃないか。オルニスが無鉄砲すぎるんだ」


大きな窓際に腰かけていたオルニスと目があった。


「ファイ?」


 ベッド脇に座っていたらしいマケリが顔を覗きこんでくる。咳きこむと、オルニスが冷たい水入りのコップを持たせてくれた。それを飲み干してあたりを見る。

 学校で一番広いホールだった。奥までずらりと簡易ベッドが並べられ、まばらに人が談笑している。私は一番奥の窓際に寝ころんでいた。寒くないように体の上にうす布が置かれている。


「どういうこと?」

「……まあ、そう思うよな」


 オルニスとマケリはいわく言い難そうに視線をかわした。私が口を開く前に、オルニスがぎょっとホールの奥を見やった。


「やあ、最後のひとりも目覚めたようだね」


 プネウマがこちらへ歩いてきていた。身構える私とオルニスの横で、マケリが淡々と質問した。


「ちょうどよかった。試験のこと、説明してくれませんか」

「ふむ。ミスタ・マケリ、君は分かっているんだろう?」

「僕らが先生から聞かされたのは、卒業試験に合格したってことだけです」


 プネウマは明るい部屋で見ると余計に滑稽に見えた。真っ白な装いの中で一点だけ毒々しい色合いの異様な鳥仮面が浮いている。


「いいだろう。まずはミス・ファイエル、合格おめでとう。今日から君は正式な魔術師だ」


 無言でプネウマを見上げると、彼は困惑したように間を置き、続けた。


「脅かすような真似をして悪かった。でも仕方なかったのだ。君たちに魔力と体力を使い切ってもらうために、必死になってもらう必要があった」

「使い切る……?」


 マケリが言っていたことを思い出した。卒業試験の行われたあの場は魔力を少しずつ奪っているのだと。そして意識が途切れる寸前にプネウマが言っていたことも。

――魔力を使い切った人間がどうなるか、君は知っているか?


「君たちは一度あの場で死に、甦った。意識を失っても甦る、それが魔術師に必要となる素質だ。君たちにはそれがあると確認された」


 プネウマは誰かの死を見たことがあるかと、続いて私たちに尋ねた。私とオルニスが頷き、マケリは首を振る。


「通常、我々は意識がなくなった状態を死と呼ぶ。誰かの死に立ち会ったことがあれば、人は死ぬと二度と目を醒まさないとわかるだろう。意識は消えたまま、肉体は朽ち果てる。通常、昼の子らが意識を失うのは人生最期のとき、一度きりだが、魔術師は違うのだ。君たちも体験したように、我々は一度死んでもまた甦ることができる。それを『眠り』という」

「ネムリ?」


 オルニスが困惑していた。私もだ。マケリだけが落ち着きはらって話を聞いている。


「魔術師は死んでも甦る。術を使い体力を消費しつくして『眠り』、そしてまた意識を取り戻す。それができない人間は魔術師にはなれない。そう法律で定められている」


 だから私たちに「夜の間」で魔力と体力を使い果たさせ、眠りに入らせたのか。目覚めることができるかを試されたのだ。私は身震いした。もし意識を取り戻せなかったら、本当にあの場で死んでいた。白い顔で黙りこむオルニスも同じことを考えたのだろう。マケリが静かに聞いた。


「誰か、不合格だった人はいますか?」

「いない。勘違いしないでもらいたい。試験で分けるのは眠れる人間と眠れない人間だけだ。魔術を扱える者でもまれに、とことん眠れない人間がいる。数年に一度の割合だが、そういった者を振り分けるための試験だ」


 全員がほっと息をつく。C組の同級生も、その他の組の子もみんな合格したようだ。


「君たちは眠りを経験した。一度眠りを覚えた身は眠りやすくなるものだ。これからは疲れるたびに死に、そのたびに甦るだろう。それが魔術師の特権であり、もっとも不可思議な部分なのだ。精進したまえ」


 そのまま立ち去ろうとするプネウマを私は慌てて呼び止めた。


「死んでも甦るなら、甦れなくなるのは――いつ?」


 私たちはこれから何度も意識を失い、そのたびに生還するという。通常の人々は意識を失うことはまずないし、死を経験するのは人生の本当に最期の瞬間だけだ。けれど私たちは「眠る」と知っていて生き続ける――それはなんとおそろしく先の読めないことだろう。今日意識を手放せば、明日には目覚めないかもしれない。終わる先がいつかもわからないのに安穏と『眠る』ことなどできない。オルニスは黙りこみ、マケリは遠くを眺めていた。プネウマは答えてくれた。


「終わりがいつくるか、それは誰にもわからない。魔術師でなくとも同じことだ。君は明日死に目覚めないかもしれない。人より命が短いと思って生きればいい」


 繰り返す死と生、プネウマの残した言葉と諦めの境地。死を知った私たちはもう元には戻れない。常に太陽光で照らされるこの国において、人は夜の暗闇を知らない。死の恐怖も――けれど私たちは知ってしまった。そしてそれを何度も越える。


「ファイ、考えるだけ馬鹿馬鹿しいよ。時間の無駄だ」


 マケリは早々に諦めていた。オルニスは最初から考えることを放棄している。

 その通りかもしれないと私も諦めた。たとえば死ぬ前と今の私、どうして同じ人間だといえるだろう。誰にも判定できない、私たちは一度意識を手放し死んでしまったのだから。それについてばかり考えていては気がふれてしまう。あまりにも大きな恐怖には蓋をして昼の明るさだけを見るしかないのだ。きっとプネウマも、他の魔術師たちもそうしている。しびれて麻痺した生死感は歪んでいるのかもしれないが、生物としてはしごく当然のことだろう。

 死に気づき、莫大な恐怖に打ちのめされ、生き返った私たちはその恐怖をきれいさっぱり消し去るしかなかった。生きるとは本来、そういうことなのかもしれない。

 こうして私たちは正式に魔術師となった。新たな終わりがまたやってくることは、その瞬間までは意識せずに忘れていられる。

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