第3話 馬鹿
彼女に手を引かれ半ば引き摺られる様に俺は江戸時代の関所の門みたいな前に連れて来られていた。
なんでも各地方にある宿場にはこのような門と壁が設けられていて、低級で知能の低い人外などから厳重に守られ安全が確保されていると教えてもらった。
裏を返せば野宿などしたらどれだけ危険かと言う事を言っている様な物だ。
それともう一つ疑問が俺の世界では宿に泊まるにしてもお金が必要不可欠だ、俺は俺の世界のお金を少ししか持っておらずここで通用するかと言えば恐らく否である。
それに彼女もあの場から離れる事は出来ないと言っていたくらいだからお金なんて持っていないだろう事が伺える。
それにお詫びの印に差し出したのが例のあれである。
そんな事を彼女はいとも簡単に解決してしまった。
門をくぐると小さな小屋がありそこから野太い声がした。
「これに名と滞在期間を」
「えっと滞在期間って絶対なの?」
「目安だ、目安」
「あっ、そう」
紫苑が台帳みたいな物に何かを記入している。
恐らく自分の名前と俺の名前、そして大体の滞在期間を書いているんだと思う。
気になって覗き込むとそこには見た事も無い様な文字が羅列されていた。一体『カズキ』とはどの部分なんだろうと言う感じだった。
そして彼女は野太い声の主に話しかけた。
「換金もお願いね」
「何だそっちか」
野太い声の主が小さな窓口から手形の様な跡が付いた石版か何かを差し出すと、その手形に彼女が掌を当てた。
「な、何だ?」
「早くしな。さもないと」
慌てて椅子か何かを倒す音が聞こえてくるが紫苑は至って冷静だった。
「わ、判ったから。ちょっと待て。慌てるな」
「サッサとしな。連れが待ちくたびれている。連れが換金したらこの宿場は潰れるよ」
あのオドオドしていた彼女は何処に行ったのだろう。
俺の目の前に居るのは冷徹で冷血な1人の非礼な女にしか見えない。
悲鳴のような引き攣る男の声が聞こえ小さな窓口から震える手でお金の様な物が差し出された。
みるとそれはまるで江戸時代に通用していた貨幣の様だった。
小判25両の包みと1分銀の様な物数枚と小銭と言った所だろうか。
彼女が自分の胸元から出した巾着にお金を入れるとペロっと舌を出しこちらを見ている。
呆れて何も言えなかった。
積年の恨みを嫌味で返したと言う事なのだろう事が容易に想像つく。
なんでもこの世界では人外はその力をお金に換えて、人は労働力をお金に換えて生活しているとの事だった。
資本主義の日本そのものだと痛感する。
人外は力が強いほど換金能力も高く人も労働力や頭の良い奴ほど儲けが高い。
まぁ、日本国内ではそれがまかり通るかと言えば哀しいかなそれも否だった。
そして宿場町の建物はどれも時代劇に出てきたそれに良く似ていたがとても活気があって、時代劇に出てくるそれとは明らかに違う雰囲気を醸し出していた。
それは人と人外が共存している為なのかもしれない。
「カズキも換金してみたら」
「丁重にお断りします。それとあんな事を2度とするなよ。トラブルはなるべく避けたいし大金や大きな力を持っている奴ほど狙われるからな」
「変なの。あんな凄い力を持っている人なんて稀なのに」
そんな事を言われても俺は人間だと何度も言っているのにあんな大見得を切って、換金能力が皆無だったら穴があったら入りたいどころじゃなくその場で腹を切りたくなるわ。
それにあの後、驚いた様に野太い声の門番が小屋から出てきた所を見るとどんな輩か目に納めておきたかったのだろう。
「カズキ、宿は何処にする?」
「一番安い方から2番目」
「ええ、もっと贅沢しようよ」
「贅沢は敵です。これから物入りかもしれないのに余力を蓄える事が先決だから」
「ケチ」
紫苑になんと言われてもここは譲れない。
この世界では何が起こるか判らないのはもう既に体験済みだし、紫苑ですら紫苑と出会った場所以外の事に付いて知っているかも知れないがそれは経験した訳ではないからで。
全力なんて良い言葉かもしれないけれど全力を出し切った後にトラブルに巻きこまれれば助かる確率はゼロに限りなく近くなる。
『常にペース配分を考え余力を残せ』が格闘家であった母方の教えだった気がする。
今思い起こせば俺をしごき飛ばしたあの人たちのポテンシャルは底なしで怖い。
紫苑に任せておくとこの先トラブルだらけになりそうなので俺が宿を探す事にした。
まず手始めに見るからに高そうな宿の前に立つ。
すると手薬煉を引いて待ったましたとばかりに店の者が出迎えに来た。
「おや、見かけない格好だね」
「まぁ、遠い国からの旅だからね」
「宿をお探しで? お目が高い。当宿場で一番の宿へようこそ」
「ん、未だ日も高いしもう少し宿場を見てからだな。聞いていいかな、一番安い宿とその次の宿はどんなところだい」
鼻高々なその男はせせら笑いを浮かべながら自慢げに教えてくれた。
また、後からと言い残してその宿を後にする。
「泊まらないのですか?」
「言った筈だ。2番目に安い宿だって」
「本気で言ってるのですか?」
「本気だよ」
紫苑が口を尖らせてブツブツと何かを呟いている。
元々この力は私の者じゃないからとか。お金だってそうだしetc
聞こえない振りをして教えられた2番目に安い宿に向かう。
教えられた2番目に安い宿は豪華絢爛さなど微塵も無いけれど質素で落ち着いた感じのする宿だった。
迷わずに宿に足を踏み入れると番頭らしき人が慌てて飛び出してきた。
「いらっしやいませ」
「部屋は開いているかな?」
「一部屋だけなら」
一度決めた事に躊躇うことなくその部屋を借りる事にする。
拗ねている紫苑を宥め賺して宿帳に記帳させ番頭に風呂の場所を確認する。
すると宿場町では共同浴場つまり銭湯の様な所があると教えてくれた。
どうやら番頭は俺達の身なりを見て驚いていたが言葉が通じる事で安堵したようだ。
これは俺の主観だけど異人と令嬢と言った所だろうか。
いけ好かない宿場一の宿の者も遠い国と言ったら妙に納得していたし、身なりの良い紫苑の方をしきりに気にしていたのがあからさまだった。
とりあえず部屋に向かうとその部屋には本当に2組の布団しかない部屋だった。
浴衣やタオルなど期待していた訳じゃないがここまで裏切られると気持ちが良い。
まして世界中を連れ回された俺にとって日本の常識が非常識だと言う事を痛いほど体感してきた。
そんな俺だからこそ知らない世界にでも直ぐになれる事が出来るのだと思う。
番頭に着替ええるものは無いかと尋ねると宿の作業着で良ければと作務衣の様な物を貸してくれた。
それに湯に行くならとゴワゴワだがタオルの様な物まで貸してくれた。
かなり当たりの宿かもしれない。
紫苑と連れだって俺は一日、紫苑にとっては……考えたくないので止めよう。
風呂屋に向かう道すがら紫苑が不思議な事を聞いてきた。
「あの人は人ですか?」
「人だ」
「じゃ、あっち」
「人外だ」
そして1人で納得してウンウン唸っている。
風呂屋は宿場の中心にありその周りには飲食店が立ち並び温泉街の様な感じになっていて、風呂屋の大きさや真ん中に位置していることからメインはやはり風呂の様だった。
そんな事より俺の心を捉えていたのは紫苑のボサボサの髪の毛だった。
「なぁ、紫苑。紫苑って女の子だよな」
「失礼です。非常に失礼な言葉です。私の心が傷つきました。繊細な心がボロボロです。カズキは鬼か何かですか?」
「ゴメンって。その髪の毛が気になってさ」
「仕方がないじゃないですか。生き延びるだけで精一杯だったんですから髪の毛なんて気にしている暇なんて微塵もあるはずが無いじゃないですか!」
盛大に頬を膨らませ口を尖らせ怒っている。
理由は判るけれどこれは湯に入るまでに決着を付けろと俺の心が叫んでいる。
「小さい頃は母が梳いてくれましたけどね」
「それじゃ俺が髪を切ってやる」
「はぁ? カズキがですか?」
「俺を信用しているのなら風呂屋から桶一杯のお湯と椅子を借りて来てくれないかな」
紫苑は頬を膨らませながら渋々と風呂屋に入っていき、しばらく待つとリクエストした物を違いなく借りて来てくれた。
「髪を切るのは良いですけど失敗した時はどう責任を取りますか? 女の子の髪は神に通じてとても大切な物です」
「そんな大切な物だからこそ大事にしないとね。座って」
「は、はい」
本来なら洗髪してからがベストだけど紫苑に2度も風呂に入れる事になるのは忍びないので、後から手直しと言う保険も兼ねて少し長めにカットする事にする。
バックからシザーケースを取り出して腰に巻きつけ、湯を手につけて紫苑の髪を濡らしていく。
周りでは何事かと人だかりができ始めるが気持ちが集中し始める。
何度も髪を濡らし出来るだけ汚れを取り除く、紫苑の首には簡易的なカット用のクロスを巻きつけてあるので服が汚れる事は無い。
クリップで髪の毛を止めながら手早く仕上げていく。
いくら安全が確保されていると言ってもここは異世界には違いなく、できるだけ目立つことは避けたいが俺の抑えきれない衝動がそれを超えてしまっていた。
母親と同じ何かにのめり込むと周りが見えなくなる気質が俺にも備わっているらしい。
因みにシザーケースは色々なタイプがあり個性が出る。
俺は母親譲りのシンプルなキャメル色の革製で通常とドライ用のシザーとすきバサミにレザーにコームが2種類とクリップが収められている。
大学の教科書や他の物が無くなっても困らないが、母から譲り受けたシザーケースと一式は別次元の話で常に身に付けて置きたい物だった。
それはままならない話なので常に自分の傍にないと落ち着かず宿に置いて来ると言う選択肢は無かったのも事実だ。
ロングとミディアムの中間くらいの長さに仕上げる事が出来た。
毛が多いのでかなり梳く事になったがこれでしばらくはボサボサになる事は無いだろう。
「終わったよ。後は風呂でさっぱりしたら少し手直しするからね」
「う、うん。何だか頭が軽くなった気がします」
周りには想像を超える人垣が出来ていて紫苑と2人で逃げ込むように風呂屋に飛び込んだ。
暖簾をくぐるとそこには男湯・女湯の区別は無く訳が判らないまま個室に案内された。
すると紫苑が慌てる様に飛び出して行った。
恐らく女湯の方に向かったのだろう。ドジっ娘か? なんて思いながら服を脱いで風呂場に向かう。
そこはさほど広くは無く家庭用の2倍くらい広さだろうか、掛け流しの湯船はまるで温泉の様だった。
とりあえず掛け湯をしてから湯船に浸かり体を温める。
しばらくすると誰かが裸で入ってきた個室だと思っていたがそうではなかったようだ。
「って、し、紫苑?」
「はい、何か? 洗い水と洗い粉を貰ってきました」
見てはいけない物を見たような気がして思わず後ろを向いてしまった。
「ここって混浴なの?」
「混浴って何ですか?」
「あの、男と女が一緒にお風呂に入れるところ」
「それはどうか知らないけれどこれが普通ですよ。それにカズキは人で私は人外ですから問題ないです」
そう言う問題を言っているんじゃなく…… どうもあり得ない事にこの世界ではそう言う事らしい。
上を仰ぐと個室の様に仕切られているが、天井まで仕切られている訳ではなく隣近所の声が筒抜けでまるで銭湯の様な有様だった。
そこかしこから男と女の他愛無い会話が聞こえてくる。
「ねぇ、どうしたの?」
紫苑の声が真後ろから聞こえ背中には何か柔らかい物が当たっている。
のぼせる前に湯船を血の池地獄にしてしまいそうで体を洗うために先に湯船から出た。
心臓が爆発しそうなくらいの動きをしている。
落ち着け俺。
彼女は人外だ。
母と姉から受けた仕打ちで女の子が苦手になった。
それでも当たり障りの無い女の子との普通の会話程度なら何となく免疫が出来たけど、この状況はどう考えてもヤバすぎる。
「やっぱり鬼子なんてカズキも嫌ですよね」
紫苑の言葉に沸騰しかけていた物が一気に冷めた。
「嫌じゃないよ、ゴメン。俺の居た世界では男と女は別に風呂に入る習慣があったから驚いただけだよ」
「じゃ、洗いこしましょう!」
今、なんて?
思考が停止した俺の背中を粉石けんの様な物を溶かしながら紫苑が嬉しそうに洗ってお湯で流している。
「こっち向いてください。今度は前です」
「背中だけで」
「駄目!」
哀しい性か女性に命令口調で言われると体が無意識に反応してしまう。
紫苑がまじまじと俺の体を見ている。
俺ってそんなに貧相に見えますか?
これでも腹筋は割れている方だと思いますが……
そんな事を考えていると紫苑が俺の頬に両手を当てて瞳を見つめている。
ま、まだ。心の準備がってあれ? ちょっと何かが違う。
紫苑の琥珀色の瞳はまるで何かを探しているみたいでフンフンと微妙に頷いている気がする。
「それじゃ。今度はカズキが私の髪の毛を洗って下さい」
その言葉で我に返った。紫苑は一体何を探していたのだろう。
「判った、髪の毛ね」
「はい、だって私だって男の人に体を洗って貰うなんて恥ずかしくて嫌ですから」
思わず体が硬直しそうになる。
母や姉のみならずここの世界にも確信犯が目の前に居ました。
それでも紫苑が差し出したシャンプーの様な小瓶を手に取り、紫苑の髪の毛を洗い始めると体が自然に動き出した。
体に叩き込まれると言う事を今日ほど思い知らされた事は無い。
上がる前に体を湯船で温める頃には男として大事な物まで持って行かれた気がしていた。
因みに俺と肩が触れる距離には紫苑がいて湯船に浸かっている。
「カズキは人と人外の違いって何だか判りますか?」
「それはあれだろ、異形の者かって事じゃないのか」
「違います。不思議な力の有無ですよ」
「それじゃ中途半端な俺も人外だと?」
紫苑は言うべきか躊躇っている様なそぶりを見せる。
「素直で行こうぜ。言いたい事は言い合わないと伝わらないぞ」
「は、はい。あのですね。鬼子には人外である親の特徴が顕著に出るですけど人外にも稀にそうじゃない子がいるって聞いた事があるのです。カズキには不思議な力があるけど見た目は人にしか見えない。体中を見たけどどこにも人と変わった所は無いですから。でもカズキの瞳の奥には何かが隠れている気がします。それがカズキの不思議な力の根源だと思うのです」
「それって悪い物なのか?」
「力に悪いも良いもありません。使う者によって悪しき力にもなるという事です」
紫苑が何を探していたのかがハッキリ判った。
人と人外の違いが不思議な力だと言うのなら俺は人外の部類だろうと言う事が容易に考えつく。
人には不思議な力が備わっていないから作物を作ったり商売をしたりして労働力を対価に、それなりの報酬を受け取って生活しているのだろう。
でも、自分自身の力がそれほど強い物だとは到底信じられる事ではなかった。
「俺が人外だろうが人だろうがそんなに強い力がある訳じゃないだろ」
「それは間違った認識だよ。だってカズキには私がどう言う風に見えますか?」
「普通の女の子に……」
「気付いたみたいですね。私は犬神の末裔だから少しでも力がある者が見れば直ぐに人外だって判ります。でもそうは見えないでしょ。これは私の推測だけどカズキが大きな力をくれたからだと。力が強い者は人に限りなく変化できるのです」
そんな事を言われてもピンとこないと言うのが正直な気持ちだった。
それに俺に人外の力があるとすればどんな人外なのだろう。
「俺が人外だとしたら一体その正体は何なんだ?」
「う~ん」
紫苑が唸りながら俺の前に体を乗り出した。
ち、近い。近すぎて大変な事になりそうだ。
俺の瞳をまじまじと紫苑がみつめている、そして結構色白で柔らかそうな物が……
臨界点に達する寸前に紫苑が体を離した。
「死ぬかと思った」
「カズキはエロエロですか?」
「俺は至って健全で普通の男子だぞ」
「普通じゃないです」
無邪気と言えば可愛いのかもしれないが、これが確信犯なら無邪気とは対極の物だ。
一刀両断で大事な何かを切り捨てられた気がする。
「出るぞ」
「ええ、もっと」
「じゃ、先に出る」
「待ってください」
これ以上は俺の心身が破綻しそうなので早急に離脱を開始する。
風呂屋から出ると何の騒ぎなのか、まるでアイドルコンサートの出待ちの様な状態になっていた。
風呂上がりでさっぱりしたのに嫌な汗が吹き出しそうになる。
すると見るからに宿場町の女の子がモジモジしながら声を掛けてきた。
それはまるで大学で初めて俺にカットを頼みに来た時の女の子そのものだった。
「あの、突然で申し訳ないす。髪の毛を」
「駄目です!」
湯上りでピンク色になった頬を盛大に膨らませながら俺と女の子の前にいきなり紫苑が割り込んできた。
「絶対に駄目です! カズキは私のですから」
突拍子もない事を紫苑が口走ると町娘と紫苑の間に火花が散り始めた。
何時から俺は紫苑の所有物になったんだ?
確かに生まれたままの姿を晒したのは事実だけど、それは一緒に風呂に入ったって言うだけで。
だけなのか?
そんな事を考え巡らせていると紫苑と町娘が何か勝負をし始めた。
「エスで勝負す」
「上等です、受けて立ちます。私に勝てたらカズキをお貸しします」
「チッ チッ エス!」
「エス! エス!」
どうやらじゃんけんの様な物で勝敗を決め、いつの間にか紫苑に勝てば俺が髪を切る事になっているようだ。
勝敗は紫苑の全敗に終わった。
お蔭で俺は数人の女の子のカットを連続で行う羽目になった。
美容院の様にお喋りをしながらなんて事をしていたら終わりが見えない。
母親に問答無用で叩き込まれたスピードカットを施していく。
みんな同じ様な髪形をしているので同じ場所で切っているのだろう。
女の子にどんな髪型にすると聞いても返答に困ると思うので、俺の独断と偏見で一番似合いそうな髪型に仕上げていく。
とはいってもブローやアイロンがある訳じゃないのでそれなりに。
それに彼女達の髪の毛は紫苑ほどボサボサじゃないので扱いやすかった。
「はい、終わりだよ」
「ありがとうす」
最後の女の子に声を掛けると周りから拍手と歓声が上がった。
まるで大道芸でもしているかのような気分にさせてくれる。
湯冷めはしないだろうけどいい加減お腹もすいてきた。
食事前の一運動と言った所だろうか。
「紫苑、行くよ」
「う、うん」
紫苑は勝負に全敗して脱力しきって申し訳なさそうに返事をした。
バックにシザーケースを仕舞おうとするとカットしたばかりの町娘達が駆け寄ってきた。
「これ、お礼と言うより見物料す。見ている人から集めたす」
「それじゃ遠慮なく頂こうかな」
「ありがとうす」
俺に小銭の詰まった巾着を渡すと嬉しそうに各々の髪型を自慢しながら嬉しそうに走り去って行った。
見物料って町娘の商魂逞しさを垣間見た気がする。
お互い身に付いた物に助けられていると言う事なのだろう。
「一度宿に戻って食事にしよう」
「ご飯ですか?」
「腹が減っただろ」
「はい、ご飯。ご飯!」
俺が手を差し出すと嬉しそうに手を繋いで宿に戻る。
宿に戻り番頭に安くて美味い店を教えてもらうとそこはやはり風呂屋を中心とした温泉街の一角の大衆食堂的な場所だった。
店に入ると活気があって熱気が篭っている。
食事をしている人は少数で大半が酒を飲みながら摘みを食べていて居酒屋的な感じになっていた。
店の壁に掛けられたメニューには見た事も無い様な文字と数字の様な物が羅列されていて紫苑は嬉しそうにメニューを見ている。
一応何と書いてあるか紫苑に聞いてみたが聞いた事も無い様な料理名でそれが肉なのか魚なのかさえ理解できない。
何となく判るのは塩焼きやら煮込みやらの調理法のみだった。
仕方なく辺りを見て周りで食べているものを指さして何とかご飯とおかずを注文する事が出来て、直ぐに注文した物がテーブルにやってきた。
俺はご飯と魚の様な形をした何かの塩焼きで紫苑はご飯と何かの煮込みの様だった。
手を合わせ食べ物に感謝する。
「いただきます」
恐る恐る魚の様な物に箸をつけ口に運ぶと僅かに甘みがあってそれが塩とマッチして口の中に広がる。
「美味いじゃんか」
「普通です」
「ん?」
紫苑の機嫌が少しだけ悪い気がする。
宿も安い処、食事も安く美味い処だからなのだろうか?
「どうした? 紫苑」
「カズキは……」
何かを言おうとした紫苑の言葉が周りの酔っぱらいの雄叫びにかき消された。
「うぉ! リンその髪どうしたんだ?」
「えへへ、切ってもらったす。旅の人に」
「似合ってるじゃねぇか」
「嫌っすよ、美人だなんて。サービスするす」
どうやら盛り上がっているのは常連客の様でリンと呼ばれた女の子はこの店の看板娘なのだろう。
で、リンと呼ばれている彼女は俺が髪の毛を切った町娘の1人だった。
思わず目が合ってしまい条件反射の様に愛想笑いをして手を振ってしまった。
「ああ、あの人す。私の髪を切ってくれた旅の人!」
「良かったね」
「ありがとうす。それにうちのお店に来てくれたんすね。嬉しいす」
そう言って俺に抱き着いてきた。
そこから先は大騒ぎだった。
常連客には酒を勧められ断るのに一苦労した。
未成年と言う盾もこの世界では通用せず、飲めない訳ではないけど何故だか飲まない方が良い様な気がした。
そして俺達のテーブルは食べきれないほどの見た事もない料理で埋め尽くされ盛大な宴会に成り代わっている。
紫苑は相変わらず無愛想に料理に箸を運び、酔っ払いには鉄拳制裁を加えてあしらっている。
そして酔っ払いが例の如く酔い潰れる事でやっとお開きになった。
「カズキさ~ん。また宜しくす」
「機会があればね。ご馳走様」
「おやすみす。奥さんにも宜しくす」
「へぇ? ああ、おやすみ」
微妙な挨拶をかわしてから食事処もとい居酒屋を後にする。
奥さんね、恋人ですらないし今日出会った……
そこでどれだけ濃厚な一日を過ごしてきたのかに改めて気が付いた。
満腹な事もあり疲れがどっと出てきた気がする。
これだけ満腹になって手土産まで頂いたのにも拘らず懐は少しも減っていない。
何だかんだと常連さんや看板娘の両親である店主が気前のいい事を言ってくれたからだ。
で、紫苑はと言うと俺の少し前を何も言わずに歩いている。
何か大事な事を忘れている様な気がしないでもない。
「奥さん、何が不機嫌なんだ?」
「私はカズキの奥さんでもカズキの物でもないです」
俺の事は私のと言う癖に、今はそんな事はどうでも良い。
「紫苑、何を怒っているんだ?」
「怒っていません。カズキが誰にでも優しいからです」
そう言い切って歩く速度を速めた。
怒ってるじゃん?
宿に戻っても紫苑の雲行きは怪しいままだった。
それでも疲れからか布団に入ると直ぐに寝息を立て始めた。
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