第9話 東都女子・2

 美術室のドアを開けるとそこには菜々海と可奈ちゃんが待ち受けていた。

「もう、遅いよ。授業が始まっちゃうじゃん」

「何の用なの?」

「はい、これ」

 大判の木炭紙に鉛筆と練消しを渡された。

 リーナも不思議そうな顔をしながら可奈ちゃんから受け取っている。

 嫌な予感がするが逃げ出すことも不可能だし逃げ出す口実が見つからない。

「リーナ、美術の授業です。何でもいいから好きなものをデッサンして提出する事」

「はーい」

「ほら、パパも」

「とりあえず、了承。何でもいいから描けばいいんでしょ」

「まぁね。それと校長先生には会ったの?」

「もちろんだよ、会いに行かないと何をされるか判らないじゃない」

「そうだね。リーナ、ちょっと良い?」

 菜々海がリーナに何か耳打ちをしている。

 リーナの視線が泳ぎ戸惑い気味に僕から視線を外した。

 美術室は独特の匂いがする。

 絵の具の匂いと言えば良いのか、それとも木の匂いとも言うべきか。

 防音設備がきちんとしている音楽室とは対照的に教室の中は昔の教室とでも言えばいいのか、木材が多く使われていて落ち着いた空間になっている。

 そんな空間に石膏像やイーゼルが置かれている。

 何をデッサンしようか考える。出来れば静物で簡単なものが良い。

 果物なんて最高なのだけれど今はそんな物は望めない、ならばグラスやワインのボトルか。

「ヤクモを描きたい」

「……えっ?」

 リーナのあまりにもストレートな物言いに驚いてしまう。

 ここはとりあえず流されておくべき所なのだろう。

 クラスメイト同士で相手の顔をデッサンしたり粘土で造形したりする、美術の授業で良くあるあれだ。

 リーナが描きたいと言うなら仕方がない事で、正面を向くとイーゼルと木炭紙で相手の顔が見えないので90度の角度で座りデッサンを始める。

「ヤクモ、メガネを取ったら見えない?」

「いや、大丈夫だけど」

 あまり普段は外さないメガネをリーナの要望で外して髪の毛を掻き上げる。

 リーナの表情が緩み首を少し傾げてどうデッサンするかを考えているようだった。

 描き始めると直ぐにリーナは集中し始め視線が僕と木炭紙を行き交っている。

 僕も鉛筆で木炭紙に線を走らせる。

 子どもの頃は好きで良く絵を描いていた。

 そんな事を思いだしているといつの間にか僕も集中していたようだ。

 美術室を静寂が支配した。

 因みに僕はリーナをデッサンしている、静物でも構わないと思ったが流れ的にこの方が良いと思ったから。


 リーナと僕は特別教室棟の屋上に居た。

 東都女子高は都内では珍しく緑に囲まれている、それは赤坂離宮が近いからかもしれない。

 日差しは強いけど吹き抜ける風が心地良い。

 チャイムが鳴ると直ぐに美術室に菜々海が可奈ちゃんの手を引いて、息を切らしながら飛び込んできてタイムアップになってしまった。

 1時間と言う時間の縛りがあったので納得がいくまでには至らないかもしれないけれどそれなりに描けていたと思う。

 菜々海と可奈ちゃんは掃除当番らしく一緒に帰りたいから待っていてねと念を押され時間つぶしに屋上に来てみた。

「ヤクモは校長先生とも仲が良いの?」

「仲が良いはちょっと違うかな。美咲と空は校長の教え子だからね」

「ソラ?」

「ああ、空は菜々海の母親の名前だよ。つまり僕の妻だった人」

 妻だった人なんて菜々海に聞かれたらもの凄い剣幕で怒られるだろう。

 でも、それが僕の正直な所だった。

 空と一緒に過ごした時間はほんの僅かで一緒に暮らした時間は皆無だったのだから。

「そっか、ヤクモの奥さんの名前なんだ」

「菜々海に聞いたかもしれないけれど菜々海が幼い頃に死んでしまったからね」

「ごめんなさい」

「リーナが謝る事じゃないよ。知らなかったんだね」

「うん」

「気にしなくていいよ。僕は菜々海が傍に居てくれるから幸せだし」

「ソラってcieloの事?」

「そうだよ」

「だから、ヤクモは時々空を見ているの?」

「空と言うより雲かな、僕の名前は八重の雲つまり重なり合う雲と言う意味があるんだよ。それに僕は自由気ままに流れる雲が好きなんだ」

 リーナには気づかれていたみたいだ。

 僕が時々無意識に空を見上げているのを、昔は意識して見上げていたけれど今は癖の様になってしまっている。

「ヤクモ、八雲!」

 急にリーナが僕の名前を大きな声で叫んだ。

 カタカナから漢字に変換された気がする、それより気になるのは何故だかより一層親しみが篭っている様な気がした。

「八雲は絵がうまいんだね」

「そうかな、子どもの頃は絵を描くのが好きだったけど」

「どうして絵描きにならなかったの?」

「絵描きになれるほど上手いかなんて自分自身じゃ判らないけど僕の家は余計な事は一切しちゃいけない家だったんだ」

「八雲の家?」

「リーナは僕が裏社会の人間だって知っているよね」

「う、うん」

「実は僕の家は代々武道を伝える家でね。僕も幼い頃から武道を叩き込まれたんだ。武道以外は邪道で武道がすべてだった。今じゃ裏でしか使わないけれどね」

 子どもの頃の記憶がよみがえり苦笑いしかできない。

「八雲は優しい、だからそんな顔はしないで」

「ありがとう、この事は菜々海には話していないから内緒にしていてほしい。それと僕が裏社会の人間だって言う事もお願いできるかな」

「うん、誰にも言わない。それじゃ指切り」

「指切りか、そんな事もリーナは知っているんだね」

 リーナと小指を絡めて指切りをする、頬を撫でる風がくすぐったい。

 押し殺していた物が顔を出しそうになる。

 向いの校舎から菜々海の声が聞こえて慌ててリーナと距離を取った。


 菜々海と可奈ちゃんのクラスに行くと他の生徒は殆ど居なかった。

 試験が終わり解放されてあっという間に下校したらしい。

 リーナは窓際の菜々海の席に座って教室を眺めている。

 プロジェクターやモニターまであって最近の学校の設備は凄いと思ってしまう。

「パパさん、これからの予定は?」

「別に決めてないけど、皆でご飯でも食べに行こうか」

「やった!」

 可奈ちゃんに聞かれ答えると嬉しそうに飛び跳ねている。

 何が食べたいか聞こうとするより早く菜々海が口火を切った。

「『陣』に行こう」

「でもあそこは予約が」

「大丈夫だから行くよ、ほらリーナも」

「えっ、うん」

「菜々海、もしかして」

「問答無用、お腹が空いてるの」

『陣』は創作居酒屋で昼はランチ営業をしている昼夜共かなり人気のお店だ。

 恐らく菜々海が前もって予約を入れておいたのだろう。

 判っているからこそ、そこは突っ込まないでおこう。

 菜々海と可奈ちゃんに腕を引っ張られリーナに背中を押されるようにして学校を後にした。


 お店は大通りから少し外れた路地にあり目立たない場所にある。

 それでも連日予約で一杯の日の方が多い。

 暖簾をくぐり引き戸を開けると威勢のいい声が聞こえる。

「らっしゃい。あ、八雲さん」

「よ、ご無沙汰」

「ああ、八雲さんに菜々海ちゃん。予約有難うね」

 真っ黒に日焼けして藍染の作務衣を着た陣と小柄な奈央ちゃんが嬉しそうにしている。

『陣』は大将の名前で今の奥さんと付き合い始めた頃に美咲に依頼を受けて問題を解決した事がある。

 なるべく問題解決後は僕なんかに係わらない方が良いのに何度となく店に招待され付き合いが始まってしまった。

 元依頼人は数知れないが何故だか表の『皇 八雲』と何も変わらず付き合ってくれる人は少なくない。

 まぁ時々相談に乗ってもらえると言う事があるからかもしれない。

「うわぁ、今日は高校生に囲まれて。この幸せ者」

「菜々海の友達の可奈ちゃんとホームスティしているリーナだよ」

「しかし、八雲さんの周りは綺麗どころばかりだね」

「そうかなぁ」

 確かに綺麗な人は多いかもしれない。

 が、灰汁と言うかクセが強すぎると思うのは僕だけだろうか。

 奈央ちゃんと陣に一頻り弄られて案内されたテーブルに座る。

「菜々海、ここは何が美味しいの」

「あのね、おうどんだよ。この時期は冷やしに限るけどね」

 菜々海が可奈ちゃんに教えている通りここのランチはうどんがお勧めで、僕なんかは暑い夏でも温かいうどんを食べる事も多い。

 リーナがあまり食べない事を考えて菜々海がチョイスしたのだろう。

「今日はどうする」

「冷やしでさっぱり系! おまかせで」

「あいよ」

 菜々海が取り仕切っていると言う事は予約をした時に話をしてあるのだろう。

 カウンターの中では陣がうどんを茹ではじめた。

 この店はお客の注文を受けてから麺を湯がきはじめるので時間がかかる。

 時間がかかっても食べたいから予約が途切れる事が無いのだろう。

 奥さんの奈央ちゃんは忙しそうに他のお客さんの給仕をしていた。

 店内は古き日本家屋を模したような黒を基調にした柱や梁があり壁は珪藻土の塗り壁になっていて、それほど広くない店内だがとても落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「そう言えば。リーナも校長に会ったんだよね」

「うん、若々しくて素敵な女の人だったよ」

「うふふ、やっぱりね」

「どうしたの」

 菜々海が笑いだしリーナが不思議な顔をしている。

「リーナ。僕が教えたでしょ。美咲と空は教え子だったって」

「あ、ええ!」

 リーナが愕然としている。

 確かに40代くらいにしか見えないけれど美咲は空の同級生で36歳、その先生と言う事になるとどう考えても40代前半では計算が合わなくなる。

 まぁ40代と言っても49までは一応40代だけど。

「東都女子の七不思議の一つなんだよ」

「校長先生って何歳なの?」

「リーナ。誰も知らないから七不思議なんだよ。それに早苗さんが教わっていた時にはもう既に東都の名物ベテラン教師だったって言ってたもん」

「そう言えば東都女子の七不思議には美術室でどうのって言うのがあったよね、菜々美」

「うわぁ。パパ知ってたの?」

「まぁね」

「うわぁ、知っていて策に嵌まった振りをしてたんだ」

 菜々海が美術室で耳打ちしたのはその七不思議の話だろう。

 確かに女子高だけあってそんな七不思議があっても不思議はないが、女子高だけにそんな七不思議がある方が不思議なのかもしれない。

 何故って女子高に居る男と言えば教師しかいないのだから。

 それこそ禁断の愛だ。

「でも、パパがあんなに絵が上手だったなんて知らなかった」

「ええ、菜々海にも知らないパパさんの事があるんだね。リーナさんは何だか芸術系は得意そうだからね。あんな素敵な絵を描けるんなら今度私も描いてもらおうかな」

「そうだなぁ、知らない事の方が多いかも。ママとの事も教えてくれないし」

「でも、それが普通じゃない。私だってパパとママが若かった時の事なんて知らないもん」

「そうなんだ」

 顔では微笑んでいるけどちょっとドキッとした。

 菜々海も空の事をやはり知りたいのだろうか、そろそろ話すべきことかもしれないけれどまだ時期尚早だと感じている。

 そんな事を考えていると奈央ちゃんがおうどんを運んできてくれた。

「お待たせしました」

「わぁ、美味しそう」

「本当だ」

「八雲……」

 リーナが僕を見て説明を待っている。

 見た目はサラダが乗っている冷やしうどんと言えば良いだろうか。

 アスパラに胡瓜やオニオンスライスにコーンやレタスが盛られていて、そしてメインは湯向きしてキンキンに冷やした完熟トマトが主役を務めていて可愛らしく大葉の千切りが乗っている。

 うどんはさっぱり系と言う事で少し細めの様だ。

 付け合せに温玉と自家製の豆腐が付いている。

 口で説明するより食べてみた方が早いかもしれない。

 トマトは隠し包丁が入れられていて見た目は全く切れていないけれど簡単に割る事が出来る。

 出汁にもトマトの甘みが利いていてさっぱりとしている。

「リーナ。トマトの冷製パスタみたいな感じだよ」

 僕の言葉にリーナがうどんを初めて口にして綺麗なグリーンの瞳が一段と大きくなった。

「美味しい!」

「良かった」

 菜々海も一抹の不安を抱えていたけれど、無用の心配だったようだ。

 それに僕には思い当たる節があるけどそれを今は口にしなかった。

 お腹も満たされ陣と奈央ちゃんに弄られながら一休みして街に繰り出す。


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