第8話 東都女子・1


 翌朝、目を覚ますと既にリーナの姿は部屋にはなかった。

 着替えを済ませて下に降りると菜々海とリーナは食事を済ませた後だった。

「菜々海、おはよう。リーナは?」

「着・替・え・中~」

 何故か菜々海の機嫌が僅かに悪い。

 心当たりが全くないので『いただきます』と手を合わせて食事をすることにした。

 カフェオーレが入ったマグカップを口にする。

 リーナを気遣ってここ数日は洋風の朝食になっている。

 寝起きに暖かいカフェオーレのカフェインとミルクが頭を起こしていく。

「菜々海、着替えたよ」

「ぶっ! げふぉ、げふぉ」

 思わずカフェオーレを噴出してテーブルの上をカフェオーレの海にする所だった。

 風呂場の方から現れたリーナは白い半そでのブラウスに青いチェックのスカートを穿いて胸元には青いリボンが揺れている。

 それは菜々海が通っている東都女子高の制服だった。

「ちょっと、小さいかも」

「うわぁ、私と同じくらいの身長だから大丈夫だと思ったのに胸の発育までは考えてなかったっていうか、女の子として負けた感が満載なんですけど」

「恥ずかしいよ」

 リーナが胸を抱えるようにしている。

 確かにきつそうだってそんな事を感心している場合じゃない。

「パパはリーナの制服姿どう思う?」

「どう思うって凄く可愛いけどって、そういう問題じゃないでしょ」

「萌えちゃう?」

「なんだかコスプレみたいだけどね」

「うわぁ、スケベ」

「あのね」

 僕が突っ込もうとすると菜々海が一枚の書類を目の前に突き出した。

『入校許可証』……頭の上に?マークが大量生産される。

「えへへ、早苗さんに頼んじゃった」

「ええ!」

 そこで事態を飲み込めたが…… 良く見るとリーナと僕の名前まで記載されていて冷や汗が溢れだした。

「ぼ、僕も行くの?」

「当然でしょ、誰が案内するの? 私達はテスト中なんだから」

 全身から力が抜けていく。2度と足を踏み込みたくない場所ナンバーワンだった。

 女の子の巣窟とも言うべき場所で菜々海の入学式の時に女の子に取り囲まれて逃げ出すのに一苦労した場所だ。

 それ以上にあの人がいると思うと……

「行かなくても良いけれど、その場合は早苗さんに報告しちゃうから」

「え? 何を? 僕は報告されるような事はしてないよ」

「それじゃなんで一つの布団で2人が寝ていたの?」

「…………」

 それで菜々海の機嫌が悪かったんだ。でもそれは不可抗力で言い訳は男らしくない。

 そんな事を頭の中で駆け巡らせているとリーナが言い訳をした。

「ごめんなさい、夜中に目が覚めて心細くってつい」

「はぁ、リーナが潜り込んでいたんだ。まぁしょうがないか」

「でしょ、僕は」

「パパ、今日からベッドで一緒に寝てあげなさい」

「へぇ? な、菜々海は何を言っているの。とんでもない事を言っている自覚はあるの?」

「仕方がないでしょ。リーナだってその方が落ち着いて寝られるだろうし」

「僕が寝むれないよ!」

「却下、返事は?」

「了承って待ってよ」

 菜々海に力技で押し切られてしまった、女の子に口では敵わないのをつくづく実感する。

 流石にリーナに菜々海のブラウスは合わなくて、去年の忘年会で半ば強引に婦人警官のコスプレをさせられた時のブラウスをリーナに渡して着てみるように言った。

 そのブラウスは男の僕には小さく笑い者になったけれど、それが狙いだったのだろう。無理やり着せた張本人の菜々海に変態扱いされるけれど忘年会の席で僕の姿を見てお腹を抱えて笑っていた人に言われたくない。

 着替えて来たリーナは嬉しそうに体をくるんと回転させて僕と菜々海に制服姿をみせた。

「リーナ、一言だっけ。あんまりはしゃぐとパンツが見えちゃうからね」

「うん、ちょっとだけなら」

「駄目です!」

 スカートの裾を持ち上げている。

 この令嬢はおちゃめな面も持ち合わせているらしい。

 僕もスーツに着替えて3人で学校に向かう。


 リーナが居るのでタクシーを呼び、途中のバス停で待っている可奈ちゃんをピックアップする。

「おはようございます、パパさん」

「おはよう、ゴメンね。遅くなって」

「とんでもないですよ。パパさんと一緒に登校できるのだし。それにしてもリーナさんって綺麗な人ですね」

 リーナの事を昨日のうちに菜々海から聞いているのが可奈ちゃんの口ぶりから分かった。

 可奈ちゃんに顔をまじまじと見られリーナが恥ずかしがっている。

「でも、こんな女子高生が居たら私はショックだなぁ。ただでさえ菜々海は学校でも人気があって有名なのにツートップになられたら他の皆が霞んじゃうよね」

「もう、可奈は変な事をパパに言うのは止めてよ」

「そうかな、僕も菜々海は空に似て綺麗で可愛らしいと思うけどな」

「パパの馬鹿!」

 菜々海の頭から湯気が噴出しそうなくらいに顔が真っ赤になっている。

 自転車に乗っていたら危ない所だったかもしれない。


 20分ほどで東都女子高の正門前に着いた。

 僕は助手席に乗っていたけれど降りるのを止めてこのまま帰りたい気分だが後ろの3人が許してくれそうになかった。

 都内でも有名な女子高だけあって校門に門番が立っている。

 生徒達が挨拶をしながら大きな門をくぐり抜けていく。

「それじゃ、パパ後からね。リーナの事をよろしくね」

「了承」

「可奈、行こう」

「うん、それじゃパパさん」

「可奈ちゃん、試験がんばってね」

「やったー。パパさんに応援してもらっちゃった、これで怖いものはないぞ!」

 可奈ちゃんが飛び跳ねて嬉しそうに菜々海の腕を掴んで校内に消えていった。

「こほん」

 門番の咳ばらいが聞こえる。

「ご苦労様です」

 許可証を提示すると門番の顔つきが変わって穏やかになり会釈をして手でどうぞと案内してくれた。

 登校する女子高生に塗れて校内に入ると菜々海にしてやられた感じが満々だ。

 リーナは制服姿だし僕には相変わらず好奇と冷たい視線が突き刺さる。

「あの子って転校生なの?」

「あ、あの男の人って確か……」

 中には菜々海の同級生で僕の事を知っている生徒が嬉しそうに手を振ってくれるけれど、僕には引き攣った愛想笑いをして手を振り返すのが精いっぱいだった。

 とりあえず来てしまったのだから、手薬煉を引いて待っているであろうあそこに顔を出さない訳にはいかないだろう。

 校内の事務所に寄ってから向かう。


 都内でも名の知れた女子高だけあって校内は冷房が効いている。

 夏場のクーラーの無い男子校には一歩たりとも踏み込みたくないが対極にある女子高にも近寄り難いものがある。

 東都女子の校舎は職員室や保健室に会議室や進路指導室などがある管理棟。

 通常の授業をする普通教室棟。

 化学室や美術室に講義室などがある特別教室棟に分れている。

 事務所がある玄関ホールの左手奥には保健室があり、反対の一番奥の部屋が校長室になっていた。

 リーナは腕を体の後ろに回して嬉しそうに後をついてきた。

「失礼します」

「どうぞ」

 校長室のドアをノックをして声を掛けドアを開ける。

「ご無沙汰しております。神谷校長」

「そろそろだと思い、お待ちしていました」

 出迎えてくれたのは40代前半にしか見えない女性で髪を綺麗に引きつめ後ろでひとまとめにしている。

 縁がワインレッドのメガネから覗く瞳は優しく朗らかだ。

 大きな木製の机の横には真紅の校旗が立てかけられている。

 綺麗にアイロン掛けされた白いシャツにグレーのスーツが人となりを表している。

 机の前にあるソファーに座る様に促されて会釈をしてから座るとリーナも畏まって僕の横に腰掛けた。

「直ぐに、お茶でも用意させるわね」

「お構いなく、無理を言って訪ねたのはこちらです。それに入校許可証の件有難う御座います」

「はぁ~ どうして八雲君はそんなに堅苦しいのかしら。それでは隣の御嬢さんが緊張してしまうでしょうに」

「すいません」

 校長が困った顔を直ぐに緩めて机から立ち上がり僕とリーナの前に座った。

「美咲さんの頼みだもの、無下に断れないじゃない。それに八雲君の大切な娘の菜々海さんの要望じゃなおさらでしょうに」

「有難い限りです」

 神谷校長の後ろの壁には歴代の校長の写真が飾られ。

 僕等の後ろにある壁には賞状が沢山飾られている、そしてその下の棚には盾が棚の上にはトロフィーが所狭しと並べられていた。

 この高校では文化部系の演劇部や吹奏楽部が特に有名で、体育系ならバスケットやバレーなどが活躍しインターハイの常連になっている。

「でも、何故リーナさんが制服姿なのかしら? 八雲君の趣味なんて事は断じてないわよね」

「菜々海ですよ。僕をからかうのが趣味みたいな娘ですから」

「あらあら、仲が良いのね。で、リーナさんは八雲君の彼女さんかしら?」

「あの、美咲から聞いている筈ですよね、校長。変な煙が立ちますから火をつけて回らないでくださいね」

「いい事。私は断じて放火魔じゃありません」

「なら構いませんが」

 リーナは綺麗に背筋を伸ばし、足を斜めにそろえて座っている。

 育ちの良さが見て取れ、こんな場にも慣れているのだろう微笑みながら僕と校長の話に耳を傾けていた。

「それから、あの話は考えて頂けたかしら」

「その話は無かった事になったんじゃないですか?」

「あら、そんな話は聞いたことが無いわ。だって本人の口から聞いた訳じゃないもの」

「では改めてお断りさせて頂きます。それに校長は僕が一応公務員だと言う事をご存知ですよね。一般の会社でもそうですが副業は禁じられていますので」

「あら、副業じゃなく公務員なんて辞めてしまって、本業として来てもらえると嬉しいわ。給金も弾むわよ」

「申し訳ございません」

「つれないのね」

 とりあえず頭を下げお断りする。

 給料面では満足かもしれないけれど女の子だらけのこの場所で働くなんて考えただけで寒気がする。

 まぁ、これが共学でも即答で断っている。

 理由は何かに縛られるなんてまっぴら御免だから、美咲には縛られている気がするがそれは縁と言うもので仕方がない事だと思っている。

 その後も他愛のない話をしているとチャイムが鳴りだした。

「あらあら、いけないわ。ついお話が楽しくて。それじゃ八雲君、しっかりリーナさんを案内差し上げてね」

「了承いたしました。それでは失礼します」


 校長室を後にすると休み時間になっていて普通教室棟からは生徒の笑い声が聞こえてくる。

 廊下に出て友達と試験の話でもしているのだろう。

 なるべく生徒と絡むことは避けたいので特別教室棟に向かいたいが、向かう為には普通教室棟を通り抜けなければならない。

 因みに普通教室棟は下から1年生・2年生・3年生の順になっていて1階にはもちろん菜々海や可奈ちゃんが学んでいる教室がある。

 一旦、時計を確認して渡り廊下に向かう。

「リーナ、手を」

「えっ?」

 僕が左手を差し出すとリーナが驚いたような顔をして赤くなっている。

 それでも僕は構わず手を突き出したままにしていると恥ずかしそうに僕の小指を掴んだ。

 短い休み時間が半分を過ぎたところで歩きだし一点突破を狙う。

 渡り廊下の半ばを過ぎたところで目敏い生徒が僕達に気付き声を上げている。

 構わずに前だけを見て歩き続け普通教室棟に突入する。

「ああ、菜々美のパパだ!」

「きゃー 初々しい」

「だ、誰? パパさんの彼女ぉ?」

「ええ! ライバル登場なの?」

 気になる言葉が聞こえて来たけど急いで正面に見える渡り廊下に飛び込む。

 数人が後を追おうとしたがチャイムが鳴り悔しげに諦めて教室に吸い込まれていく。


 管理棟と普通教室棟は3階建だが特別教室棟だけが4階建てになっている。

 三階までは普通教室と繋がっているのでとりあえず上に向かう。

 誤解を招きたくないので取り敢えず。

「リーナ、ゴメンね。もう離していいよ」

「…………」

「ね、もう大丈夫だから」

 僕の声が聞こえていないはずはないのに返事はなく、俯いて顔を上げようともしない。

 仕方なく小指を掴まれたまま階段を上る。

 傍から見ると古い恋愛小説の一場面みたいでくすぐったい。

 階段脇の壁には各階に何があるか表示がきちんとされている。

 4階に上がると右手奥には図書室が左手には視聴覚室やL.L.教室があり奥には音楽室があるようだ。

 思案する間もなく自然に音楽室の方に歩き始めていた。


 音楽室を覗くと当然の様に誰も居ない、校長にきちんと許可をもらっているので中に入ってみる。

 菜々海がリーナを学校に案内したのは日本の学校と言う場所を知ってもらいたいからだろう。

 そして制服に着替えさせたのは高校生を疑似体験させてあげたかったに違いない。

 そんな事を考えているとリーナは音楽室の一角にあるグランドピアノに目を奪われていた。

「リーナ、弾いてみたら」

「ええ、ベーゼンドルファーのグランドピアノだよ」

「それって凄いの?」

「あのね、ヤクモ。世界三大ピアノの一つでベビシュタイン・スタインウエィと並んで有名なピアノなの。私の憧れだもん」

「それじゃ、何か弾いて聴かせてよ。ここは防音がきちんとされているから外には音はもれないし、弾いてみたいでしょ」

「うん」

 リーナがピアノの前に座り鍵盤蓋を開け鍵盤を爪弾くと澄んだ音色が響き渡った。

「やっぱり凄いなぁ」

「ふふふ、そう」

「ヤクモは何が可笑しいの?」

「いや、リーナと話していると日本のお嬢様と話しているみたいだなって。凄く日本語がうまいしね」

「あのね、私が幼い頃に1人のお侍さんに出会ったの。凄く優しくって沈み込んでいた私を癒してくれたの。そんなお侍さんが大好きで日本が好きになったの。もう一度、お侍さんと日本語でお喋りしたくって」

「そうだったんだ。また出会えるといいね」

「うん」

 すると聞き覚えのある曲をリーナが弾きはじめた、僕は近くにあった椅子を持ち出してピアノから少し離れたところに腰を掛けた。

「エリーゼのためにだね。日本ではおなじみの曲だ、確かベートーベンだったかな」

「うん」

「それじゃ、ベートーベンの曲で初期の代表作の3大ピアノソナタの中でも私の一番お気に入りを聴かせてあげる」

 その曲は幻想的で聴き入ってしまった。

 リーナの顔つきは真剣そのもので集中しているのが良く判る。

 不思議な女の子だ。

 令嬢としての風格を持ちながら少女の様な時もあり、そうかと思うと大人びた行動をしてみたりする。

「ヤクモ、聴いていた?」

「もちろん聞いていたよ。ルツェルン湖の月光に揺らぐ小舟の様にだよね」

「なんだ、知っていたの」

「スイスのルツェン湖は綺麗で本当に幻想的な所だからね、旅先で聴いたから印象に残っているんだよ」

「や、ヤクモはスイスに行った事があるの?」

「スイスと言うか世界中を歩き回っていたからね」

「そうなんだ、この曲はベートーベンが31歳の時に弟子であり恋人だった14歳も年下のジュリエッタに贈られた曲なんだよ。何だか素敵だよね」

「そうだね」

 このまま話していたら話がおかしな方に進んで行ってしまう気がする。

 リーナも同じ事を思ったのが少しだけはにかんで別の曲を奏ではじめた。

 クラッシックを聴くなんて言う高尚な趣味を僕は持ち合わせていない。

 でも、リーナが弾く曲を聴いていると眠くもならないどころか飽きない。

 そしてそれはリーナを見ていて気付いた。

 時に激しく時には爽やかな風の様に。

 軽やかに力強く。幸せそうにピアノを弾いているリーナを見ているから飽きないのだと。

 僕の視線に気づいたリーナの頬がピンク色に染まり恥ずかしそうにしている。

 気づいてしまった気持ちを隠すように僕は拍手をして誤魔化した。

 するとポケットのスマートフォンが振動している。

 取り出すと菜々海からの着信だった。

「もしもし」

「パパ、何処に居るの?」

「音楽室だよ」

「それじゃ、美術室に大至急来てね」

「な……」

 そこで一方的に切れた。

「ヤクモ、どうしたの?」

「菜々海が美術室に来いって。行こう」

「うん」

 リーナの演奏とリーナに見蕩れてしまっていてチャイムが鳴った事に気付かなかったようだ。

 それくらいリーナの演奏は素晴らしかった。

 美術室は一つ下の3階の音楽室と反対側の突き当りにあったはずだ。

 頭の中で案内板を思い浮かべながら歩き出す。





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