年寄りのコールドウォーター

楠樹 暖

 

 定年退職して日がな一日ぼぅっとしていた。仕事が生き甲斐だった私はこれと言って趣味もなく無駄な時間を過ごしていた。

 このままではまずいと一念発起した。何かを始めなければ。そこで考えたのが水泳を習うこと。子供の頃は二十五メートル泳ぐのが精いっぱいで、水泳の授業が苦手だった。自分の弱点を克服することで残りの人生が輝くものとなるだろう。

 若者に交じって水泳教室に通うのは恥ずかしかった。しかも、先生は自分の息子程の若造だ。最初の頃は抵抗があったが、息継ぎも覚え、泳げる距離も伸びていくにつれ、泳げるようになる快感の方が勝り、今では水泳教室の日が来るのが楽しみになっている。

 遠泳も出来るほど力をつけたところで水泳の先生が話を持ちかけてきた。

「大会に出てみませんか?」

 正直、この年で大会に出るなんて考えてもいなかった。しかし、今の自分の実力も試してみたい気持ちも確かにある。少し考えたうえこう答えた。

「やりましょう。やるからには勝ちに行きます」

 それからの私は更に水泳に打ち込んだ。距離を泳ぐだけでなく、速さも鍛えるようにした。何度吐きそうになったことか。しかし、大会参加のモチベーションが私を支えた。今では水泳教室の中で、どの小学生よりも速く泳げるようにまでなった。

「よく頑張りましたね。今度の大会は、いいところまで行くんじゃないですか?」

「いいところじゃ満足できません。目指すのは表彰台のど真ん中です」

 水泳の先生は苦笑いをしている。勝てないと思っているな。私の闘争心に火が付いた。いいさ、見ていろ。表彰状をその鼻先に突き付けてやる。

 大会当日、天気は上々。それなり大きな大会らしく、AED完備、医者も待機しているという念の入れよう。これなら安心して全力を出し切れる。

 大会開始の合図が鳴り渡る。スタートで出遅れた私は集団の後方から海へと飛び込んでいった。

「うひゃあ、冷たい」

 心臓がきゅうっと締め付けられるような気がした。しかし、会社勤め時代、飛び込みの営業で見ず知らずの会社へ商品を売り込みに行った時の緊張感に比べれば大したことはない。当時は、それを一日何回もやった挙句、一件も契約を取れずに会社へ戻らなければならなかったのだ。まだ最初の一回ではないか。まだだ、まだ大丈夫。構わず泳ぎ始める。

 折り返しポイントを通過し、あと少しで海岸というところで右脚がつり始めた。もう少しなのに。右脚を庇っていたら今度は左脚も。頼む、もう少し持ってくれ。あと少し。

 何とか脚を誤魔化しつつゴール。

 しかし、まだ三分の一が終わっただけだ。言い忘れていたが、この大会はミニ・トライアスロン大会なのだ。水泳が終わった後には自転車が、最後にはマラソンが控えている。

 水泳で後れを取ってしまったがここからは得意の自転車だ。会社現役時代は毎日自転車通勤で脚を鍛えていた。まだまだ若い者には負けん。前を走る選手をゴボウ抜き。順調に順位を上げていき、鼻歌交じりにコーナーを曲がると、その先で落車が発生した。

「あわわわわ」

 体が思うように動かない。会社現役時代は携帯で話をしつつすれ違う歩行者を避けて歩くくらいは平気でこなしていたのに。

 結局、落車の自転車に突っ込んで自分も落車した。自転車は大丈夫か? サドルがちょっと破れただけだ。朝一で大事な会議があるのにパンクした日の事を考えればなんということはない。再び自転車に跨り走り出した。

 いよいよ最後のマラソンパート。営業は足で稼げという言葉通り、靴の踵が擦り切れるほど走り回っていた私には造作もないこと。

 へばっている若造を追い抜き黙々と走る。給水ポイントだ。水を貰おう。

「あっ!」

 取り損ねた。戻るか? いや、このまま進もう。うぅ、水が飲めないとなると余計に喉が渇いてくる。思い出せ。炎天下の中、背広を着て灼熱のアスファルトの上を歩いた日の事を。あれに比べればなんということはない。

 喉がカラカラになってゴール。頑張った甲斐もあり、年代別で一位になった。さぁ、宿へ帰ってビールを飲もう。でもその前に水を一杯。飲み込んだ水が胃袋の形に広がる。

ゴロゴロ、ギュルギュル……。

 冷たい水を一気に飲んでしまってお腹が壊れてしまい、トイレから出られない状態に。

あぁ、若い頃は浴びるほどビールを飲んでもお腹が壊れるなんてなかったのに……。

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年寄りのコールドウォーター 楠樹 暖 @kusunokidan

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