9 逸れた矛先

 いったん屋敷を出て裏手に回ると、すぐにネリカが言っていた裏庭が見えてきた。同時に屋敷の裏口も見つけて、ロイは今来た道が遠回りだったことに気づいた。

 裏庭には元気のいい掛け声や軽い剣声が響いている。ロイが近寄ると、柵に囲まれた広場に数人の少年たちがいるのが見えた。

 ちょうど、のっぽでそばかすのある少年と、ずんぐりとした背の低い少年が、木製の剣で手合わせをしていた。周りには何人かの少年たちが並び、二人に野次か声援かわからない声を送っている。

 ロイがひょっこり顔を出すと、何人かの少年は気が付いたようだったが、手合せは続いていたので、少しだけ傍で観戦することにした。どちらかというとのっぽな少年の方に分があるように見えた。まずリーチの差において有利で、さらにずんぐりとした少年の方があまりにどんくさいので、のっぽな少年が素早く見えるほどだった。しかしレッサーニイルのロイからすると、どちらの少年もたいして強そうには見えなかった。

 間もなくして、のっぽの少年の勝利で手合わせは終わった。すると待ちかねたように、のっぽの少年が剣をぶらぶらさせながら、ロイを振り返った。

「おい、お前。何、見てんだよ。」

 ロイは予想外の敵意に虚を突かれた。やはり、先ほどのネリカのような人間は特殊な部類だったのかもしれないと考えた。

 ロイが黙っていると、野次を飛ばしていた少年たちも次々と同じような声を上げた。これはまずいと思い、ロイはひとまず退散することにした。

 しかし彼らに背を向けた瞬間、背中に軽い衝撃があり、冷たい感触が肌を伝った。振り返ると、直後に顔面に衝撃があり、やはり冷たい感触を覚えた。両手で拭ってみると、それは泥だった。少年たちがどっと笑い声をあげる。そうして初めて、彼らに泥をぶつけられたのだと覚った。

 人間たちに好き勝手されるのは慣れているので、特に怒りは湧かなかった。ひとまず部屋に戻ろうと考えた。少年たちがまた投げてくる泥を、今度は避けて、柵から離れた。彼らの神経を逆なでしないためには、おとなしく泥を受けようかとも思ったが、借りた服をあまり汚したくない。しかし少年たちは次の瞬間、ぴたりと動きを止めた。

 いったいどうしたのだろうと考えた直後、後ろから近づいてくる人の足音を聞いた。

「何をしてるんだ?」

 振り向かずとも、アルフレドの声だとわかった。声は怒りをにじませていた。少年たちは目を泳がせ、顔を見合わせた。

「け…稽古です。」

 誰だかわからないが、そう答えがかえってきた。するとアルフレドは歩いて来て、ロイの隣に並んだ。

「なるほど。敵の攻撃を避ける稽古ってわけか。」

 アルフレドはそう言うと、その場にしゃがんで泥を掴んだ。ロイは、アルフレドも少年たちと同じ白い練習着を着ているのを見て、不思議に思いながらその行動を見つめた。

 その直後、アルフレドは思い切り振りかぶり、勢いよく少年たちに泥を投げつけた。泥は、真ん中に立っていたのっぽな少年の顔面に見事に当たった。少年たちは呆然と立ち尽くし、なすすべなく固まっているばかりだ。アルフレドは構わず、二度、三度と泥をぶつけた。少年たちはようやく泥を避けようと逃げ惑った。しかしアルフレドの狙いが的確なのか、少年たちがどんくさいのか、泥は全て誰かの白い練習着を汚した。

「どうした、もっと避けろ!あははっ、稽古が必要なのは、ロイよりもお前たちの方じゃないか!」

 ロイはアルフレドを制止しようか迷ったが、アルフレドの楽しげな笑い声を聞いて思いとどまった。そればかりかアルフレドは、掴んだ泥をロイにも持たせて言った。

「ほら、君もやるんだ。いいか、ぼくとロイ、それからお前たちのチームで勝負だ!」

 アルフレドがそう言うと、少年たちの目の色が変わった。それまで躊躇っていた少年も、意を決してアルフレドに泥を投げ返し始めた。

「ロイ!君は向こうから狙えよ。」

「うん!」

 少年たちが稽古場の丸い柵の中にいることをいいことに、ロイとアルフレドで二つの出入り口に立ち、挟み撃ちをして泥を投げる作戦をとった。こうしてみると、ロイはやはり人間ののろまさを再確認した。これで全力で走っているつもりなのか、と考えながら、泥を投げ続ける。泥を当てることも、避けることも、容易かった。


 日が暮れる頃、すっかり勝敗は決していた。少年たちの練習着は真っ黒に汚れ、反してアルフレドとロイの服はまだ白い布地が見える箇所があった。

「ぼくたちの勝ちだな?」

 アルフレドが言うと、のっぽな少年が、はい、と頷いた。少年たちががっくりとうなだれているのを見て、アルフレドはいたずらが成功した子供のような笑顔をロイに向けた。

「それから、今日の復習だ。いいか、復唱しろよ。」

 アルフレドは少年たちを横一列に並ばせ、向かい合って立った。

「真騎書、第九十二章、百十三節。騎士たる者、弱き者を虐げてはならない。人を陥れる卑怯な行いは、自らの精神を汚すものと思え。」

 少年たちは、ぐっと息をのんで、アルフレドの言葉を復唱した。

「よし、じゃあ、屋敷に戻ろう。夕食の時間だ。」

 アルフレドの声で、少年たちはぞろぞろと屋敷に戻って行った。

「ぼくたちも戻ろう。夕食の前に着替えないとな。」

 そう言って歩き出すアルフレドの隣を歩きながら、ロイは、彼にお礼を言うべきかどうか迷った。しかし結局その言葉は口にできず、代わりにアルフレドの肩を小突いた。

「おれは、弱き者じゃないぞ。」

 するとアルフレドは、ちらりとロイを見て笑った。

「そうだな、すまない。」

 アルフレドは謝罪を口にしたが、声色は全く悪びれた様子がなかった。

「さっきの……真騎書、とかいうのは何なんだ?」

「真騎書ってのは騎士にとっての経典なんだ。騎士なら全部暗唱できて当然のものだ。」

 アルフレドが軽い調子で言ってのけたので、ロイは目を丸くして尋ねた。

「じゃあさっきの言葉も?」

「まさか。そんなに都合のいい騎句があるもんか。」

 アルフレドは憮然とそう言った。屋敷の裏口から屋内に入ると、ちょうど廊下の向こうから、地味なワンピースを着た女たちが三人連れ立ってやって来た。その中にネリカを見つけて、ロイは心なしか安堵した。

「リシュー、着替えの用意を頼む。」

 アルフレドが手を挙げて、女のうちの一人を呼んだ。リシューと呼ばれたのは、くすんだ茶色の髪を頭の後ろでまとめた、落ち着きのある風貌の女性だった。

「はい、すぐにお部屋にお持ちします。」

 リシューは恭しく頷き、後ろの二人の女に視線を送って下がった。女たちが立ち去るのを待たずに、アルフレドとロイは廊下を歩き始めた。

「それに、きちんと騎句を暗記していないあいつらが悪いのさ。」

 そう言ってアルフレドは片方の口角を上げ、肩を竦めた。彼にこんな一面があるとは驚いたが、ロイは笑って同意した。

 廊下の分かれ道でアルフレドと別れ、ロイは自室に戻った。するとロイが部屋の扉を閉めたすぐ後に、扉がノックされた。扉を開けると、ネリカが真新しい着替えを持って立っていた。

「着替えを持って来たわ。」

「あ…ありがとう。」

 ネリカが用意してくれたことに驚きと安堵を覚えながら、ロイは着替えを受け取った。それから一瞬沈黙が下りた。ネリカは眉を上げて尋ねた。

「手伝いが必要かしら?」

 ロイは、とんでもない、と両手と頭を振った。

「いらない。」

「そうよね、良かった。じゃ、失礼します。」

 カツカツと踵を鳴らして廊下を戻っていくネリカをちらりと見送って、ロイは扉を閉じた。


 着替えを終えて部屋を出ると、ふと、ロイは食事をとる部屋がどこなのかわからないことを思い出した。仕方がないので、人の気配を探しながら廊下を歩きはじめる。と言っても気配は屋敷中にあるので、一番近い気配を追ってロイは進んだ。

 耳を澄ませると、軽いゆったりとした規則正しい足音、とても静かな高音の呼吸音を感じた。それから大きな布が揺れて擦れる音。ドレスに違いない。つまり、この気配は女だと思った。そしてこの、日なたと水気をいっぱいに含んだ水蒸気のにおい。かすかに混ざっているのは甘いハーブのかおり。このにおいにもどこか覚えがあった。

 廊下の角を曲がると、すぐにその人物を見つけた。その後姿はやはり、思った通りの人物だった。ついさっき、アルフレドが呼び止めた女、リシューだ。

 リシューはロイに気が付いていないのか、汚れた衣類を抱えたまま慣れた足取りで廊下を歩いていく。ロイはその後を追った。

 リシューはゆったりとした足取りのわりに素早く歩いていくので、ロイは早歩きで後を追う羽目になった。リシューが廊下の角を曲がり、簡素な扉を開けて部屋に入り、軽い物音を立てたのち、何も持たずに部屋を出てきたところでようやくロイと鉢合わせた。リシューは目を丸くして胸に手を当て、ほんの少し飛び跳ねた。心底驚いた様子だった。

「ごめんなさい。」

 ロイは条件反射で謝罪した。

「いえ、私の方こそ失礼いたしました。気付けずに…」

 リシューは心から申し訳なさそうに頭を下げた。

「何か御用ですか?」

 そう問うリシューの背後にある扉の金のプレートを、ロイは何気なく見上げた。何か文字が書いてあるが、ロイには読めなかった。城下町にいた頃は、町のいたるところに人間の祈りの言葉が掲げられており、人間たちが毎日それを読み上げていたので、それだけは嫌でも読むことができたものだった。

 リシューはロイの視線の先をたどって、金のプレートを見上げた。

「洗濯室に何か?」

 リシューがそう尋ねたので、ロイはそこが洗濯室だと理解した。そして頭を振り、今度はきちんとリシューに向き直った。

「アルフレドはどこにいるの?」

「アルフレド様は、食堂でお食事をとられています。」

「食堂ってどこにあるの?」

 ロイが首をかしげると、リシューは恭しく体の前で手を重ねた。

「申し訳ありませんが、食堂への立ち入りは、ご家族の方と正式な騎士階級である方以外認められておりませんので、ご案内できません。」

 ロイはわけが分からず閉口した。リシューは構わず言葉を続けた。

「ロイ様のお食事は騎士見習いの者と同様、広間でご用意するよう承っておりますので、広間へご案内します。」

 こちらへどうぞ、とリシューが歩き始めたので、ロイはつられるようにして彼女の後に続いた。


 広間は、この屋敷に着いて最初に案内された、あの部屋だった。大きな暖炉が壁にあり、広いテーブルが部屋の中央に置かれ、いくつもの椅子がそれを取り囲んでいる部屋だ。部屋に近づくにつれて、少年たちの騒ぐ声がロイの耳に届いた。

 リシューは扉の前に立つと、ロイの方を振り返り、丁寧に扉を開けた。

「どうぞ、お入りください。」

 おそるおそる部屋に入ると、その騒がしさで耳が破けてしまいそうだった。ロイが席に着くと、目の前にパンとスープとスプーンが置かれた。

 ロイは困惑した。スプーンなど使ったことがなかったのだ。周りを窺うと、少年たちはぺちゃくちゃと口を動かしながらも器用にスプーンを使ってスープを飲んでいる。その動作を見よう見まねで、ロイもスプーンを握ってみた。どうもしっくりといかず、何度も持ち方を変えてみたり、ひっくり返してみたりしていると、横からひょっこりと手が伸びてきたので、ロイは慌てて皿を取り上げた。

 ロイのパンを狙って手を出してきたのは、あのずんぐりとした少年だった。少年はチッと舌を打ち、ロイを嫌な目で睨んだ。

「もたもたしてるなよ。食う気がないなら、俺がもらってやるぞ。」

 とんでもない、ものすごい空腹なんだぞと怒鳴りたくなるのをこらえて、ロイはスープをかきこんだ。でたらめなスプーンの使い方でも構わず、早く食べてしまわないと誰かにとられてしまうと思ったのだ。

 するとそれを見た少年たちが、また嫌な笑い声をあげた。ロイはそんなことは慣れているので、むかつきはしなかった。全く気にしていないロイの態度が面白くなかったのか、今度はロイの頭に軽い塊がポスンとぶつかってきた。テーブルに落ちたそれを見ると食べかけのパンだった。ロイはそれも拾って口の中に押し込んだ。少年たちの中から信じがたいといいたげな悲鳴が起こって、同時に弾けるような笑い声が上がった。

 次々投げつけられるパンを、ロイは構わず口の中に押し込んだ。ずっと食べ物に困る生活を続けてきたから、こんなにパンを食べられるのはむしろ有難かった。そうして満腹感を覚え始めた頃、ロイはその初めての感覚に驚きと感動を覚えながら、それでもパンをかきこんだ。パンは固く、水気のない生地で、美味いとは言い難かったが、ロイにとっては申し分のないごちそうだった。

 そのとき突然、ガラスが割れるけたたましい音が響いた。さすがにロイも驚いて、音のした方を振り返った。そこにはネリカが顔を真っ赤にして、わなわなと震えて立っていた。その細い足元には砕け散ったグラスが散らばっている。

 何人かの少年が、ごくり、と生唾を飲み込む音がロイの耳に聞こえた。それから、動揺して早くなる心音、ハッと息をのむ音、肩の力が抜けて椅子の背もたれに寄りかかる音。それらがはっきりと聞こえるほどに、広間は一瞬にして静まり返った。

 ネリカは黙ったまま、床に落ちたパンのかけらを拾い上げた。

「酷い!」

 ネリカは一言、そう叫んだ。そして、少年たちを順番に睨み付けた。

「一生懸命、作ったのに!」

 その言葉で、少年たちはネリカがこのパンを作ったことを知って、ばつがわるそうに俯いた。

 ネリカはそれでも気がおさまらず、端の席ののっぽの少年につかつかと歩み寄り、思い切り頬を打った。それから振り返って、ロイの顔を見てまた手を振り上げたが、ロイの口いっぱいにパンが詰め込まれているのを見て目を丸くし、震える手を下ろした。

 するとネリカの大きな目に、みるみるうちに涙が溜まって、今にも零れ落ちそうに揺れた。その時広間の扉が開いて、トレーを持ったリシューが入ってきた。リシューは広間の惨状に気づいて入り口で立ち止まり、ネリカに駆け寄って、責めるように言った。

「ネリカ、いったいどうしたの。これは何事?」

 ネリカは口を引き結んで黙り込んでいた。ロイはやっとの思いでパンを飲み込んで、おそるおそる口を開いた。

「あの……僕たちが悪いんです。」

 その言葉を皮切りに、ネリカは広間を飛び出して行った。リシューはロイとネリカを交互に見て、一瞬迷った後、ネリカの後を追いかけて行った。

 その後の食事は静かなものだった。もうロイがおかしなスプーンの使い方をしても、笑う者は一人もいなかった。ただ食器がぶつかる音だけが、むなしく広間に響き続けた。

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